【短編】日本むかし話

金屋かつひさ

日本むかし話

 あるとき、ひとりの若者が川のほとりを歩いていると、上流から大きな桃がひとつ、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。


 若者は桃を抱えて家に帰ると、家族のだれにも気づかれないようにこっそりと自分の部屋に戻り、桃を切ろうとしました。


 すると突然、桃の中から光があふれ出してきたのです。若者がびっくりして見つめていると、桃はぱかりとふたつに割れて、中から何ともかわいらしい女の赤ん坊が現れました。


「これは……」


 驚く若者が言い終わる間もなく、赤ん坊は見る間にぐんぐんと成長し、さらには割れた桃が美しい着物に変化へんげして、あっという間に赤ん坊は若者と同じくらいの年格好の、それはそれは見目麗みめうるわしい美少女となっていました。色は白く、たいそう良い香りがしました。


 美少女が深々とお辞儀をして言いました。

「ありがとうございます」


 しかし若者はキョトンとしたまま。なぜお礼を言われるのかさっぱりわかりません。


 少女が続けます。

「私は海の底の竜宮城に住む竜王の娘、乙姫おとひめ。訳あってあの桃に閉じ込められていたのですが、あなたのおかげで出ることができました」

「はあ……」


 若者にはいったい何が起こっているのか、まだよくわからないままです。


「つきましてはあなたを竜宮城にお招きしてお礼がしたいのです」


 乙姫と名のる少女は若者の手を引くと、ふたりでドアをくぐり部屋の外に出ました。するとなんということでしょうか。そこには見たことも聞いたこともないような豪華な屋敷が広がっていたのです。


 若者はあわてて後ろを振り返ってみました。けれどもそこにも豪華な屋敷が広がっているばかりで、元いた部屋、家、町並みなんかはほんのわずかな痕跡さえ見つけることができませんでした。


 竜宮城の大広間で若者を歓迎する大宴会が開かれました。豪勢な料理に美味しいお酒、タイやヒラメの舞い踊り。そしてもちろん若者のすぐ脇にはぴったりと寄り添うように座る美しい乙姫の姿が。


 宴会は三日三晩続きました。


 すっかりいい気分に酔っ払った若者は、中座した乙姫を追いかけようとして大きな屋敷の中で迷子になってしまいました。乙姫の姿はどこにも見当たりませんし、元いた大広間への戻り方ももちろんわかりません。


 ふと、あるひとつの部屋から美しい歌声が聞こえてきました。その声が乙姫のもののような気がした若者は、部屋の戸をわずかに開けて中をのぞいてみました。


 するとどうでしょう。部屋の中にいたのは乙姫ではなく、大きな一羽の鶴だったのです。


 鶴は機織り機に向かい、自分の羽を一枚、また一枚と抜いてまことに美しい布を織っていました。そして機織り歌を口ずさむその声は、間違いなくあの乙姫のものだったのです。


「あっ」


 若者は思わず声を漏らしました。しまったと思ったときはもう遅く、鶴は機織りの手をぴたりと止めて若者の方に悲しげに振り向きました。


「なぜ見てしまったのです」


 乙姫の声が悲しそうに響きました。そしてみるみるうちに鶴は乙姫に姿を変えていったのです。


「見られてしまったからにはもうおしまいです。私は月に帰らなければなりません」


 乙姫が手をぽんぽんとふたつ叩くとふたりの侍女が現れました。それぞれがひとつずつ、大きいのと小さい箱のようなものを持っています。


「ここに大きなつづらと小さなつづらがあります。私との思い出にこのうちのどちらかお好きな方を差し上げましょう」


 思ってもいなかった事態に混乱した若者は、とっさに浮かんだ「大きいのは持って帰るのが大変そう」という理由で小さいつづらを選びました。それはつづらというよりも「玉手箱」といった方がふさわしいような姿形をしていました。


 乙姫が若者の耳元に口を寄せてそっとささやきました。

「この中に私の300年の想いを込めました。これをどうか私だと思って、どうぞいつまでもおそばに置いてください。そして……」


 乙姫は少し言いよどむような素振りを見せましたが、意を決したように続けました。

「決してふたを開けてはなりません」


 それは若者が乙姫から聞いたことがないような強い口調でした。若者はただ首を縦に振ることしかできませんでした。


 乙姫にうながされた若者は小さなつづらを手に部屋の外に出ました。するとなんということでしょうか。目の前に広がる光景は見間違えようもないあの自分の部屋だったのです。


 若者は急いで部屋から飛び出しました。しかしもはやそこには竜宮城の姿は影も形もなく、見慣れた家の廊下が左右に伸びているだけでした。


「自分は夢か幻を見ていたのだろうか……」


 若者はしばらく呆然ぼうぜんとしていました。しかし自分の手の中に小さなつづらがあるのに気づいてはっとしました。あれは夢や幻ではなかったのです。


 部屋に戻った若者が最初にしたのは「いまは何年何月何日か」を確認することでした。若者の記憶では竜宮城で過ごしたのは三日三晩。しかし時の過ぎるのを忘れてしまうような楽しい日々だったので、実はもっと長かったのかもしれません。さらにはもしかするとあの夢のような竜宮城とこの現実の自分の部屋とでは、時間の進み方が違っているかもしれません。ひょっとすると三日どころか三年、いやもっとかもと思ったのです。しかし何度時計やカレンダーを確認しても、竜宮城に向かって部屋を出たときからたったの三分ほどしか経っていませんでした。


 若者はこの話をいろいろな人にしました。家族、親しい友人。さらにはSNSにまでも。しかし返ってきた反応はみな同じで「おもしろい作り話だね」といったものでした。小さなつづらこと玉手箱を見せてもそれは変わりませんでした。玉手箱を開けさせようとした人もいましたが、若者はがんとしてそれだけは許しませんでした。どうやってもだれも信じてくれないので、やがて若者はこの話をだれにもしなくなりました。


 時は流れ、若者は何度か引っ越しをしました。しかし玉手箱はいつも若者のそばにありました。実はもう捨ててしまおうと思ったことも一度や二度ではなかったのですが、夜の空に浮かぶ月を見ると、乙姫があそこから見ているような気がして、乙姫を悲しませるような気がして、どうしても捨てることができませんでした。


 乙姫のかわいらしさ、美しさにすっかり魅せられてしまった若者は結婚することもありませんでした。あの美しい思い出をだれにも話すことなく、ひとりで暮らし続けました。


 ある夜、玉手箱の蓋がかたんという小さな音を立ててひとりでにずれました。わずかに開いた隙間すきまから緑の茎が若者の方へ向かって伸びてきました。茎はぐんぐん高さを増して、やがて若者の胸のあたりまで伸びて止まりました。茎の先にはいつの間にか白く柔らかそうに膨らんだつぼみが、うつむき加減についていました。つぼみがその顔をもたげたかと思うと、まるで閉じたまぶたをゆっくりと開くかのように花びらが開きました。真っ白な五弁の美しい花でした。たいそうかぐわしい香りが、若者の鼻から頭の先へと抜けていきました。夜露よつゆがひとつぶ、花びらの上を伝って床にこぼれ落ちました。若者は思わず首を前に出して、夜露の冷たさの残るその輝くばかりの花びらに口づけしました。ふと顔を上げると、窓から照らす明るい十五夜の光が、花をゆらゆらと揺り動かしました。


「300年はもう来ていたんだな」とこのとき初めて若者は気がついたのです。

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【短編】日本むかし話 金屋かつひさ @kanaya9th

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