第八話 海里少女は呪われている




 人間とは、どこまでいっても人の枠から外れた大きな力を手に入れることは難しい。

 世界は広いから約77億人もの人口の中から数人程度ならば、何処かに何かしらの力を持った人間はいるかもしれない。


 でも全員がなれるわけじゃない。

 人は身体全体を鍛え上げたとしても――――敵わないものだって確かにあるのだから。



(あの化け物に敵うわけはない……だから……)



 人より数倍は大きい身体をした四足歩行の化け物。

 見た目も醜く、獣のように獰猛。


 それをどうにかできるのは、彼女しかいなかった。


 海里夏かいりなつ

 青組のクラスメイトにして、中性的な見た目が特徴の少女。

 スカートよりは短パンが似合いそうな彼女は――――実は、面倒事を嫌う死にたがりなだけではない。


 理由があるのだ。ノートに書けなかったゲームでのイベントが。

 死んでもいいと思えるようなことが。


(俺の知識はあいまいだから、まだ彼女について詳しいことは分からないけれど……!)


 ただ生きることを諦める意味も、何故生きるのに足掻こうとしないのかも。

 鏡夜に叱られる前の俺と同じように絶望しているからというわけではない。


 ただ、彼女は生きるより死ぬ方を選んだ。

 生きていることにメリットがないだけだった。


 ゲームの中で彼女は死ぬ理由についての設定で「呪われているから」としか言わない。それだけしか、なぜ生きることを諦めるのかの理由を俺は知らない。


 だからノートに書くことが出来なかった。

 俺はそれを、知らないから。



「……はぁ……はぁ……」



 図書館の奥へと探す。

 鏡夜の指示を聞いていたからだろう。


 クラスメイトは全員ばらばらに逃げており、化け物へ近づかないよう注意して動いていた。


 その中でずっと動いていない少女がいた。立ち止まったまま化け物を見て、今は殺されそうになっていないだけで、そのまま直線上に化け物が来たら逃げ出さずに食われてしまいそうな冷めた態度で。


 藍色の髪の毛をした海里夏がそこにいたのだ。



「海里さん、ちょっといいかな」


「……なんです?」


「何ですじゃないよ。分かっているでしょう」


「ああ大変そうですね。あの化け物なら痛みなく死ねそうですし別にどうでもいいですが」



 敬語は警戒の合図。

 目を細め、少年っぽい声が響く。



「急にこんなことを言ってなんだけれど、どうか私たちを助けてほしい」


「はぁ? 何を言っているのですか。私にそんなことできるわけが――――」


「いいえ、貴方ならできるでしょ。私は……俺は、それを知っているから」



 鏡夜と初めて会った時のように、心臓をバクバクと言わせながらも。

 このまま死ぬわけにはいかないからこそ必死になって説得する。

 

 彼女は俺を見て、ただ気怠そうに目を逸らした。



「私に何ができるというのです? 私は見ての通りただの人間……あの神無月君がどうにかしてくれるとして、私にできることなんて何もないはずですよね」


「そんなことはない。だって君が人ではない生き物だっていうことを、俺は知っているから」



 刹那―――――。

 彼女の目が一変する。


 何故それを知っているのかという反射的な敵意。それと同時に、はったりかという疑心。

 正確にその感情の起伏を察することが出来るのは鏡夜ぐらいだろう。でもゲームで何度も出会って、彼女の全てを知ろうとしたプレイヤーである俺は知っている。


 現実の彼女がそう思っているのだろうと思い、冷や汗をかいた。



「何を言っているのです?」


「助けてほしい、それだけだよ。あの化け物を倒してこの防衛戦を無事に終わらせたいだけだ」



 お願いしますと、ただただ深く頭を下げる。

 それを馬鹿にしたように見られても、鼻で嗤われてもなお。


 ただ、生き残りたいがために。


 ここで無理やりにでも従えようとすれば殺されることを知っている。

 彼女に頼み込むという形以外を使ってはならないことを、海里夏ルートを何度もリトライし続けて何度もゲームの中の神無月鏡夜を殺した俺なら知っているから。


 彼女は怒らせてはならないと分かっているから。

 それに――――。



?」


「なっ…………」


「俺が冗談を言ったのだと思っているかもだけど、本当にそう……それを知っているんだ」


「……何故?」


「知っているからとしか言えないよ。そうとしか説明ができないから」



 夕青で、鏡夜を殺しにはかからないが見殺しにはするキャラクター。

 この子が何故サブヒロインなんだろうかと、ゲームの紅葉秋音と同じく疑問に思ったプレイヤーが多数存在するほどの危険人物。


 プレイヤーの中で鏡夜の魂を狙う死神説が唱えられたことがあったが、彼女自身がとあるイベントの台詞で「神様じゃない」と言っていたため、別の何かだということだけは明らかになっている。


 たったそれだけの情報。

 ただ人外で化け物とは違って理性があって――――神でもなく人を襲うわけでもない。


 でも何故か、鏡夜が死ぬことを望んでいる。


 それを悟らせず、夏ルートのイベントでも好意的に接してくれはするが鏡夜を救済することはせず。

 ただ夏ルートでもそれ以外でも――――鏡夜が夏の目の前で死んだ瞬間とても嬉しそうな顔でフェードアウトし、真っ暗な画面の中聞こえてきたとても楽しげな「アハッ、ようやく死んだね!」というセリフを吐くのだ。


 それに恐怖し泣いたプレイヤーがいた。

 夕青が完結したというのにまだまだ謎の――――未発見な選択肢やルートの中に隠された情報が載っているのではと四苦八苦する夕青プレイヤーを生み出した元凶の一人だ。


 そんな彼女が初めて戦おうとするのは、鏡夜が死なずに裏ボスルートの妖精戦へ移行した時。

 妖精が悪ふざけで《人間がどこまで無様に足掻くのか私の手で確認させていただきますねー!》というセリフを吐いて始まったクリスタル防衛戦。


 妖精が悪ふざけでわざと化け物を呼び出すその時だけ彼女は力を貸してくれた。


 気まぐれだと言って、夕青で逃げるか命を使ってクリスタルを守るかの犠牲が前提の戦いの中で、彼女だけが化け物を殲滅することが出来た。

 桜坂のように運動神経が優秀というわけじゃない。


 明らかに化け物寄りで、自らを「人間じゃない」といったから。



(鏡夜の覚悟を、俺は託されたから)



 鏡夜は俺を信じてくれた。

 俺はその信頼を――――あの人を信じなかったはずの鏡夜が俺を信じると言ってくれた覚悟をきちんと果たさないといけない。


 これは、そのための覚悟だ。



「鏡夜の命はあげられないけれど、代わりに何か……命と魂以外であげられるものを渡そう」



 その代価が幸福の瓶だとしても、それ以外の……最悪なものだとしても。

 ゲームで鏡夜が彼女に好意を持たせた理由は、後々にちょっとしたイベントで賭けをしたのが理由だった。冗談のようなことを言って、「神無月君が死んだら私のものにしてもいい?」と言って約束をして、そうして素の彼女が垣間見えたのだ。


 その約束はまだない。

 だから自力で彼女にやる気を出してもらうしかない。


 例え鏡夜に嫌がらせ的な何かをされたとしてもだ。


 それでも――――鏡夜がいれば彼女に好意を持たせてしまうなど、何とかなるかもしれないと。

 ただ今ここで化け物をどうにかするために、



「お願い海里さ――――がっ!」



 不意に夏の手が伸びて、俺の首を掴み上げる。

 それが、偽りの仮面を脱いだ瞬間だった。



「うざいよ、アンタ」


「あ、ぐっ――――」


「生きたいからなに? 死にたくないからなに? 何かを渡すからその条件に戦ってほしい? 何で上から目線なわけ?」



 首をギリギリと絞められ続けて、両手で抵抗しているのになにも出来ない。

 そのうち夏の手が俺を持ち上げて本気で殺しにかかってくるのが分かった。



「神無月の死と魂を条件にしないのが前提の取引なんて成り立つわけないだろう。馬鹿じゃないの?」


「な、なら…………どう?」



 ただ無意識に。

 必死になってその言葉を吐いた。


 それが何を意味するのかも知らずに。



「……ハッ、いい度胸じゃん。紅葉秋音」



 首を絞める手が緩まり、地面へと倒れ込んだ、



「がはッ。ゲホゲホっ!」



 目を細め、睨み付けるように見下ろしてきた彼女がしゃがみ込む。

 そうして俺の顔を真正面から見て――――あの妖精のように、意地悪に微笑むのだ。


、秋音ちゃん」


 痛みは一瞬だった。そうして意識がかき消えそうになって――――。


(ああ、天の言っていた直感ってこれのことか……)


 そう思う頃には、もう手遅れだった。



・・・





 以前読んだ本に、こんなことが書かれていた。

 例えば、喧嘩をしたことのない素人が不意に人肉を喰らう獣相手に戦えと言われたらどんな結果を起こすのか。

 恐怖で体を動かすこともできずにそのまま食われそうになってしまう者。獣相手に逃げようとする者。

 怯えて必死に誰かに助けを求める者。


 しかしその本の中では誰も、獣相手に立ち向かおうとする無謀な勇気はなかった。


 襲い掛かってくる獣に対して、冷静になれるものなどいない。そう書かれてはいたが、俺はそう思わなかった。

 戦えと言われてそう行動できる者は――――頭のぶっ飛んだごく一部のみであると理解しているからだ。



(ああ、おかしいことを考えてしまうな……)



 まるで過去読んだ本のような事態だと、今更ながらに気づいた。



「はぁ……はぁ……」


「次は右! そのまま真っ直ぐ駆けろ!」


「うおらああああああああっっ!!」



 背負われた俺を落とさぬようにと、学ランで俺ごと結んだ桜坂は化け物から確実に逃げることに成功していた。


 息が荒く、しかし走り続ける速度は一定を保っている。

 それを見るにどうやらあの共食いをした化け物は、嗅覚の方を強化していたのだろう。四足歩行は変わらず、そして共食いをされた化け物と同じ程度にしかスピードは出ないようだった。


 しかしそれでも、自転車が勢いよく駆ける程度のもの。速すぎてすぐ追い付かれるといった速度ではないが、それでも桜坂にとってはつらいものがあった。

 人間がずっと逃げ続けるには速すぎる速度だ。


 永遠に走り続けることは無謀。

 体力がクラスメイトの中で一番あるといっても、人外のような体力を持っているというわけではない。


 だから、俺はただどうすればいいのかを考えた。


 周囲を観察し、桜坂の状態を確認しながらも――――。

 桜坂はただ、化け物が暴れその衝撃で倒れた本棚の上を器用に駆けていく。

 敵はぶつかった本棚によって一時的に減速し、そうしてまた匂いを嗅いで俺たちを追いかける。


 どこかで何かにぶつかれば、若干のロスが生じるらしい。そこを狙えると俺は考えていた。

 化け物の速度が落ちる時間を使って、短いながらも桜坂の体力回復と化け物との距離を稼ぐことに成功させていた。


 しかしそれでもジリ貧だった。



「次は右だ! そのまま壁沿いに進め!」


「おおお!」



 駆けていく先に生徒が逃げようとする姿が見えたため、反射的に叫んだ。



「壁へ向かって走るな! 窓側にいる生徒たちはみんな正門側へ走れ!」


「わ、わかった!」


「わかったよ神無月君!」



 俺の指示に素直に従う生徒たちでよかった。

 ここで誰かが死んだら桜坂の行動に予測がつかなくなる。



(次だ、次は何処へ行けばいい……)



 桜坂は逃げることに集中しているため、他の生徒たちに対する配慮をする暇はないのだろう。

 必要以上の気を遣う前にと俺が指示を出し、周囲を確認しつつ次は何処を向かうかを考える。



「ぐっ……おらああああああっっ!!」



 不意に、桜坂が倒れた本棚からばらばらに崩れ落ちた分厚い本に足元をとられる。

 しかし意地で彼は踏ん張り、そのまま大きな一歩を持って駆けていく。



(……限界か)



 クリスタルに見立てて俺たちは追いかけられているような状況だ。

 もしもこれで俺たちが捕まれば、確実にクリスタルは奪われるだろう。破壊され、敗北が確定してしまうだろう。


 ああそれならばと――――改めて考えてみたのだ。


 奴の目標はクリスタルで、俺たちはその偽造をしているというのなら。

 あの化け物に理性も知性も何もない、ただの獣であるのならば……。




「桜坂、もしも辛いならば俺を――――」


「アァ!? てめえを犠牲にするつもりはねーよ!」


「いやそうじゃなく」



 俺の言葉を無視して、掠れた声で叫んできた。



「俺の目の前で誰かが死ぬのはもう見たくねえんだよ! それにテメーが言ったんだろうが! 俺とお前の命二つで生徒全員を生き残らせるってな!! 言ったからにはそれを守れや!!!」



 ……それが、お前の本音か。

 限界まで体力を消耗したというのに、危険に直面しているというのに最後まで足掻こうとするそれが、お前の考えか。



「ふふっ」


「何笑ってやがる!?」


「いいや、お前も頭のぶっ飛んだ馬鹿だと思わなかっただけだ……いや、最初から頭はぶっ飛んでいたな」


「あぁ!?」



「いいから俺の話を最後まで聞け。俺をどこかへ離すというのは、一時的にでも体力を回復するために俺とお前が別れて行動するということだ。

 ――――奴の目的がクリスタルならば、それでクリスタルの方向へと向かうまでの間に時間を稼げる」



 刺激物が入った液体をクリスタルに向けたから、異臭を放つアレに気づくのは時間がかかるかもしれない。

 嗅覚に特化しているならばすぐ見つけてしまう可能性があったが、他の生徒に指示も出して奴の進行方向に本棚を倒し移動速度を最低にまで落とせば何とかなるかもしれない。


 ……まだまだ予測範囲だが、それでもなおやる価値はあるだろう。



「理解はできたか?」


「お前がとんでもなく馬鹿にしながら説明したのは理解できたよこの野郎! 要するにクリスタル自体を囮にして、危なくなったらまた再開ってことだな!」


「ああそうだよ。さあ、俺が指示したらそれぞれ別方向へ離れるぞ!」


「チッ、仕方ねえなっ!!」



 駆けた先にて、クリスタルより最も離れた場所で壁沿いに左右それぞれ別方向へと逃げる。

 そういう作戦だった。


 それをやろうとした、瞬間だった。



「っ――――!!」



 桜坂は気づいていなかったが――――化け物に向かって人差し指を向けた海里夏を発見してしまった。

 それはある意味、紅葉がやり遂げたという意味を持つ。



「アアアアアアアアアッッ!!!!!!!!!」



 不意に巻き起こるのは化け物の悲鳴。

 思わず足を止めた桜坂が振り返った。その異様な光景に思わず目を丸くし、思考が停止した。



「な、なんだっ!?」



 化け物の身体が一気に溶け出したのだ。

 まるで二倍速にして化け物の肉が腐っていく様子を見ているようだった。

 化け物のうめき声はなく、死んだかのように見えた。


 腐臭を放ち、肉体が水のように流れ床に沈んでいく。周囲にある本は無事だというのに、化け物だけが腐っていく。腐敗して肉がボロボロに溶けてなくなっていく。



「な、何が起きたの?」


「これも、あの神様がやってくれたことなのか……?」


「そういえば神様がいないわ」


「じゃあやっぱり、本当に?」



 ――――戸惑いと困惑が周囲に襲い掛かった。

 そうして残ったのは静寂と、桜坂の荒い息だった。


 あの空間を裂く音は聞こえない。

 先ほど妖精が示した終了時刻も間近だった。



「ッ――――みんな、時間内にまた化け物が来る可能性が高い! 警戒を怠らないでくれ!」



 俺の言葉にハッと我に返ったのだろう。

 先ほど新しい化け物が出てきた正門前を警戒する者。周囲を確認する者といて。



「おいもういいだろ。降りろ!」


「ああそうだな。助かったよ桜坂君」


「……いやてめえ猫かぶるんじゃねえよ気持ち悪いな」


「酷いなぁ」


「気持ち悪い」



 ニコニコとわざと笑って桜坂をからかいつつ、俺も周辺を確認した。

 海里夏はとても面倒そうに他の生徒と一緒に窓を確認していた。その態度は普通の人間のようで、殺意も何もなく、今は危険がないのだと判断する。

 

 あと一分かそこらだろうから、今のうちに紅葉と話をしなくては……。



「きゃあああああああっっ!!」



 聞こえてきた悲鳴は、すぐそこだった。

 女子生徒が尻餅をついて、何かを見て恐怖で怯えている。


 化け物が新しく出たのかと警戒し、誰もが視線を送った――――。




「……紅葉?」




 首元を切り裂かれ、血で真っ赤に染まり死んでいた紅葉の姿があった。







《空間補強完了! 境界線切除しまーす! 新入生のインプットが完了したので、次は七日周期となりまーす! 皆さん七日後にお会いしましょー!》




 視界が不意に、明るくなった。




・・・





 海里夏の笑みを見たその後のことを思い出したくはない。

 痛みは一瞬。死の感情以外は何も分からなかった。



「ッ―――――」



 

 俺はあのまま、死んだはずだった。

 指先から冷たくなって意識がなくなった。

 その時の様々な感情を、今も鮮明に覚えている。


 孤独と恐怖と鏡夜のことと。

 ――――このまま死にたくないと思えたこと。

 

 あのままもう二度と目が覚めないんじゃないかと。

 首元に手を当てる、しかしそこに傷はない。当然ながら頬をつねっても痛みがあった。

 夢ではない現実だ。俺は確かに生きている。


 でもそれでも、あの時確かに俺は死んだはずだったんだ。


 ああ、生き残るためならあの境界線の世界で俺が犠牲になっても仕方ないと思っていたのに。

 白兎について見知らぬ情報があって、クリスタルを奪われるかもしれないという状況で混乱していただけで――――あのまま敗北したとしてもきちんと生き残ると分かっていた。


 ただ、それは最善ではなかった。

 俺の知らない情報で死ぬかもしれないと初めて恐怖した。

 だからクリスタルを守り勝たなくてはと。防衛に成功しなくてはと。


 周りがよく見えない。音が聞こえにくい。

 恐怖で心臓の鼓動がバクバクと大きな音を立てている。



「はぁ……はっ……」



 息が恐怖で荒く、過呼吸になるかと思えるほど浅くなる。


 覚悟を決めていたはずだった。

 分かっているはずだった。


 でも、もう無理だった。

 あのまま一人で死ぬことが耐えられなかったんだ。


 身体中が震えて、とにかく今は落ち着かなくてはと力を入れようとして――――。



「うぁ……」



 座っている椅子から落ちて、床へ転んでしまった。


 その衝撃で初めて気づいたのだ。

 ここがあの境界線の世界へ行く前の授業中の教室であったことに。


 周りの視線が不安と驚愕と――――幽霊でも見たかのような目で俺を見ていた。



「おいどうした紅葉!? 具合でも悪いのか!?」



 先生の声が遠くから聞こえてくる。でもそれに何も返事が返せない。

 耳鳴りがする。視界がぐらりと歪んで……。


 誰かによって、俺の身体が抱き上げられた。



「先生、紅葉さんは体調が悪いようなので僕が保健室に連れていきますね」



 ぼやけた視界に映し出されたのは近い距離にいる鏡夜の顔だった。

 どうやら俺は、俗に言うお姫様抱っこの状態で抱き上げられているらしい。


 揺らめく視界は――――恐怖は、少しずつ薄れていく。震えが止まっていく。


 ああ、体は正直と言えるのだろう。

 鏡夜がいれば安心だと。

 こいつだけは、絶対の自信をもって味方だと言える存在だからと……。



(ああでも、鏡夜の期待に応えられなかったな……)



 スタスタと足取りは軽く見せているが、力はあまりないはずの鏡夜が意地を張って俺を運んでいるのが分かる程度には腕が震えていて……。

 多分その震えは、他の感情のせいもあったんだろうと理解した。



「……ああちょうどいい、保健の先生はいないな」



 廊下の隅にある保健室。

 何かあって一時的に離れているのだろうと判断したらしい鏡夜が、近くにあったベッドへ俺を降ろす。


 そうして座った俺に対し、鏡夜は腕をさすっていた。



「腕がしびれた」


「……別に頑張れば歩けるから抱き上げなくてもよかったのに……それに春臣に頼めば良かっただろ」


「アレに聞かれると困る話をするというのに連れていけるか。お前もっと痩せろ」


「いや、女子の平均体重ですけど……鏡夜の力がなかったからなんじゃねえの?」


「……ふん。喧嘩を売れるぐらい体調が回復したみたいだな」


「あっ」



 そうか。鏡夜は俺の状態を見るためにわざと言ってきたのか。

 そういえば観察するような目でこちらをじっと見てきていたなと、今更ながらに気づく。


 いやそれにしてはもっと言い方があるんじゃないだろうか。まあ鏡夜だから仕方がないか。

 ああでも、俺は鏡夜の期待を裏切ったから――――。



「……ごめん、鏡夜……おれ……」


「謝るな。不確定要素である海里夏を押し付けたのは俺だ。それにお前のおかげで青組は助かった。お前が頑張ったから、クリスタルはちゃんと守れたんだ」



 気を遣ってくれているのだろう。

 眉をひそめて不機嫌な顔をしてはいるし、何を考えているのかははっきりとはわかりにくいけれど……。



「謝罪は必要ない。自分の行動とその勇気を誇れ」


「……うん」


「それで何があった?」


「えっと……」


「ああ、無理に思い出したくなければ話さなくてもいいぞ」


「いや言う。言うよ」



 言われた言葉にあの時の恐怖を思い出しつつも、気丈に振舞い口を開こうとした。

 そんな瞬間、だった。



「私が殺したんだよ。そうしないと面倒な事態になると思ったからね」


「あっ……」



 聞こえてきたのは海里夏のやる気のなさそうなあの特徴的な声。どうやら授業から抜け出してここへ来たらしい。

 保健室の扉側に立って、俺たちを見つめていた。


 それに反射的に身体が震えると――――鏡夜が自身の身体を移動させ、海里夏を俺の視界から隠した。



「何故殺した」


「あのままだと妖精が本格的に介入すると分かったからだよ。最初も二度目も全部防衛を成功させて、それと同じく死亡者がゼロの時点で駄目だったから。だから殺した」


「……何なんだ、お前は。冬野のように神か何かか?」


「呪われているから私の正体とかそういうのは言えないよ。でもこれだけは言える。……私は、神じゃない」



 夏の笑い声が聞こえてくる。

 楽しそうというよりは、馬鹿にしたような笑い声だった。



「私は――――紅葉秋音と契約を交わした。その契約内容はあの妖精を堕とすこと。そのために協力してもらう。ただそれだけしか言えない」



 そのために俺の殺しは必要だったと、言外に彼女は言ってくる。


 妖精を堕とすということは……つまり、裏ボス退治をするということか?

 でも白兎のあの最後に言い残した件もあるし……。



「ふざけるなっ!」



 不意に、鏡夜が夏に向かって怒鳴った。

 気づかなかったが、いつの間にか彼は怒りにこぶしを握り震わせていた。



「つまりクリスタル防衛を成功させたことで妖精に目を付けられるからと紅葉を殺したということだろう。命を無駄に散らして――――それも、自分ではない他人の命を殺して!

 それでお前は呪われているから正体は明かせないだと!? そんな都合のいい話があるか!!」


「仕方ないだろ。言ったら面倒なことになるんだから」


「……面倒なこと、か」



 そのまま彼は海里夏に近づく。

 しかし近距離だと危険だと判断したのか三歩ほど離れた位置に立ち、どうやら睨みつけているようで……。



「これだけははっきりさせろ。お前は敵か?」


「敵じゃない。それと味方でもない」



 断定的な中立宣言。

 その言葉に鏡夜は派手な舌打ちをした。



「あはは、神無月って素はそんな面白い感じなんだね。……ああそうだ、あとこれあげるよ」



 ポイっと鏡夜にではなく俺に向かって放り投げてきたのは昨日見たあの幸運の瓶だった。

 多分、今回のクリスタル防衛戦の報酬なのだろう。



「殺したお詫び。でもアンタを殺したことに後悔はしてないし、それが最善だったって今でもそう思っているからね」


「…………」


「……まあでも……悪かったよ」



 ポリポリと頬をかいた夏が、鏡夜を見た。



「とりあえずこれだけは忠告ね。アンタらあの妖精の作り出した世界ではいろいろとその知識とやらを喋らない方が無難だよ。妖精はいつどこで見ているのかは分からないんだからね」


「それ以外に何か言うことはあるだろう。妖精のことやあの世界のこと……化け物たちについて何か話せ」


「駄目だよ。さっきも言ったけれど、私は呪われているから」



 そのまま「じゃあねー」と言って彼女は教室へと戻っていった。

 静寂な空気が流れる。


 夏が渡した幸運の瓶を手でいじくりつつ、少しだけ気まずい心境のまま鏡夜に向かって言う。



「……とりあえず、今回の戦いで俺は幸運の瓶を貰えなかったみたいだし、夏がくれたこれ飲むけどいいか?」


「待て」



 鏡夜は俺に一気に近づいて―――手に持っていた幸運の瓶をひったくった。



「あっ」


「不用心にもほどがあるだろう……。海里夏が渡したものを使うな。俺のを使え」


「お、おう……」




 無理やり手渡されたそれに苦笑しつつも、瓶の中身を一気に飲み干す。

 味はあまり美味しいと感じられなかった。


 ただ、鏡夜の言った言葉に対して確かにその通りだと頷いた。

 殺され殺した仲たる海里夏から貰った液体を飲むことに俺だって戸惑いはあった。

 でもこのままだと俺はおそらく死ぬような目に遭うだろうからこそ、それだけは避けなければならない事態だと思えたからだった。


 まあそれは鏡夜に伝わっているらしく、ジト目で睨みつけられたけれど。



「……紅葉、今日予定は?」


「えっと……具合も良くなったし様子を見てと……」


「よし、予定はないな」


「アッハイ」



 断定かつ強引に、彼は俺に向かって言うのだ。



「今日はこのまま俺の家に来い」


「えっ」


「ちょうど仕事で両親はいない。俺の家に泊まっていけ」


「…………えっ?」



 何を言っているんだろうか。この主人公は。








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