第七話 思考停止は死を意味するもの
「……あった」
図書館の奥。
駐輪場より先の――――監視カメラが死角となっている場所。
隠すように置いたからか、警備員の人に見つからなかったのは運が良かったと思えた。
重すぎるわけではないが、一つだけでも俺が手に持つには大きすぎるから台車をと言ったんだろう。
早く戻らないと容赦なく化け物が襲い掛かってくるかもしれない。猶予は数分。
一番早い段階で、大体約三分後にやってくるだろうから。
でもその前にと、後ろを振り返った。
「……隠れてないで出ておいで」
「ふぇ」
隠れているというよりは、半分だけ隠れてこちらをじーっと見つめているという状態だったが。
なんかこう、人間に懐きそうだけどまだ素直になれない白猫っぽいな。名前は兎なのに。
「……昨日ぶり、です。秋音ちゃん」
「うん、昨日ぶり」
「あの、その大きな荷物は……?」
「ああこれ? 鏡夜が化け物について検証するための一つ。演劇部から借りてきたんだ」
「そ、そうなんですか……」
荷台に積み込んだうちの一つを指先でつつく白兎は昨日と同じく可愛らしい女の子だ。
いろいろと鏡夜が考えて、神社に行って綺麗にしたけれど――――それは失敗だったのかなって思った。
でもゲームでの白兎とは違って、序盤だというのに鏡夜以外の他人に話しかけられても逃げることはないから、何かしらの変化はあったかもしれない。
そろそろ行かなくちゃと歩き出した俺についてくる白兎は少しだけ楽しそうだった。
「あの……ありがとうございます、秋音ちゃん」
「えっ、何が?」
「
「あーえっと、そのお礼は鏡夜に言ってあげて。ほとんどあいつが考えて行動に移した結果だから」
「……それでも、です」
あのボロボロの神社はこの子にとってお家か……。
照れたように真っ赤に染まった彼女の頭をつい撫でたくなる病に侵されそうになりながらも、彼女をじっと観察する。
姿は何も変わらない。真っ白の髪の毛。兎のような赤い瞳。
白と青を基調とした制服も、雰囲気でさえも……。
ゲームで見た、堕ちた白兎の見せた本来の神格も何もないように見える。
ただの女の子にしか――――。
あれっと、何か違和感を感じたような気がしたが……でもそれはすぐになくなった。
多分気のせいだろう。うん、たぶん。
俺は首を傾けながらも、口を開いた。
「青組の皆は白兎ちゃんのことを神様だって思うようになった。信仰も強くなったけれど……何か白兎ちゃんに変化とかはない、かな?」
「……ごめんなさい」
あーなるほどな。
つまり、元の神様としての神格を得るわけでもなく、強くなることもあり得ないと。
まあたった一日だし仕方がないかなと、これから先で何か変わることを祈った。
「……人は怖いです」
「うん?」
不意に思いつめた表情で白兎は言う。
「利を得るために人は簡単に手の平を返します。善が悪に、悪が善になる。私はそれを……ずっとずっと見てきました。
人間の汚い部分もいっぱい見ましたし、それを何とかしようと足掻いたこともあった」
「……うん」
「私は神様失格なんです。だからああも簡単に人に裏切られた。福の神ではないと否定された」
知っている。
ゲームの中で、鏡夜に向かって自分の正体を教えていたのだから。
でも彼女はゲームとは違う。
現実にいて、それでとても複雑な思いに葛藤している。
人間を愛している。人間を憎んでいる。
怖くて、でも離れているには惜しいような存在だと……。
「本当は鏡夜君も怖いんです。でも不思議と、怖いという感情を消してしまうほどにあの子なら大丈夫だと思える時もあるんです」
「そっか」
無自覚の鏡夜に対する執着。
初めて白兎が感じた、誰かを欲しいというたった一つの己自身に対する願い。
知ってはいるけれど、こうして直接教えてくれるとは思わなかったな。
「青組の皆は怖い?」
「……はい。でも、鏡夜君がいるから大丈夫なんだって思うんです。秋音ちゃんは鏡夜君みたいな……いいえ、鏡夜君の私物ですから、人であっても鏡夜君の物だと思うなら怖くもなんともないですよ」
「アッ……そういう……」
「秋音ちゃん?」
「ううんなんでもないのー。あはは……」
やっぱり鏡夜に対する執着心は強い。
その認識さえ間違ってないまま白兎と接しないよう、気を付けよう。
「……じゃあそろそろ青組たちがいる場所へ着くから、覚悟を決めてね」
「は、はい」
台車を動かし、なんとか時間内に図書館へと戻ってくることが出来たようだ。もしかしたら今回の戦いの準備を行う時間は三分以上あるのかもしれない。
「はいはーい。秋音ちゃんの郵便配達でーす」
「お帰り紅葉さん。そして初めまして? ……いやお久しぶりになるのかな、冬野さん」
「う、うん……大きくなったね、鏡夜君……」
瞳が揺らぎ、泣きそうな顔で鏡夜を見た白兎。
鏡夜はただ笑って……でも、黒歴史となった過去を知っている白兎についてはいろいろと思うことはあるのかもしれない。
「そうだ。紹介はしなくちゃいけないね」
白兎の傍へ移動して、その背中を押すように鏡夜は言う。
「皆説明はしなくても分かるとは思うけれど、この彼女が僕達の神様フユノ神社の白兎という────」
途端に上がるのは異様な歓声だった。
「神様来たー!!」
「なるほど、教えてくれた彼女って神様のことか!」
「すごいわ。あの噂は本当だったのね!」
「昨日俺達を守ってくれてありがとう神様!」
「神様がいるんだ! 俺達は死なない!」
(……また何やらかしたんだ、鏡夜のやつ)
口元が引き攣るが、それを鏡夜に見られないよう必死に真顔になるよう努力した。
誰が調教したのか、というか何をそこまで鏡夜はしたのか。
目を輝かせたほとんどの生徒が白兎に向けて手を合わせたのだ。
それに目を丸くさせた白兎が、鏡夜を見た。
しかし鏡夜はただ笑っているだけだった。
「あ、う……うううぅ……」
事の状況を理解したのだろう。
白兎は林檎のようにじわじわとその頬を赤く染めていく。
必死に助けを求めるようにチラチラと鏡夜を見た彼女は、ニコニコ顔の彼の背後へ身を隠すことに決めたようだった。
「可愛い」
「神様ってか、可愛い子だな?」
「いやでもあの妖精も意外と可愛かったんだぞ。神様だってもしかしたら……なぁ?」
神様とは思えないただの少女のような態度に、生徒たちは少しばかり疑心暗鬼になっているようだった。
そんな彼らに不機嫌顔で近づいたのは、昨日神社を掃除するのに手伝わされた春臣だった。
「随分と恥ずかしがり屋な神様だな。ってか本当に神様かよ────」
喧嘩でも売っているのか、白兎の人間不信を更に煽るような言動に慌てて俺は彼らに近づいた。
「こらこら桜坂くん。そんな失礼なことを言わないであげて」
「あぁ? 失礼って何だテメー」
「ひぇっ怖い。神無月くん、桜坂君がその綺麗な顔に似合わず鬼みたいに睨んでくるんですが!」
「喧嘩売ってんのか紅葉ィ!!」
「落ち着きなよ二人とも。それと時間がないんだからやるべきことはしっかりやらないとね、紅葉さん?」
「アッハイ」
「ああ? やるべきことならもうとっくに終わっただろうが」
問いかけた春臣に対して、彼は頷く。
そうして笑うのだ。
「このあと出てくる化け物の攻略法は彼女のおかげで分かっている。だから皆には協力してほしいんだ」
「……
そう、演劇部が衣装展示用に大量に持っていたアイテムのひとつ。
昨日鏡夜が隠せといってきた物の一つだ。
「ああ。これは必要なアイテムだよ」
・・・
空間が裂けて出てきた化け物が探すのは生き物の匂い。
犬のような四足歩行に、顔は目がなく鼻と口が大きいのが特徴の化け物だった。
その化け物には視覚はない。姿を見て追いかけることはできないが、匂いで追い詰めることはできた。
「グォ……ォオオオオ……」
その化け物が目指したのは、匂いのする方向。
本棚を避けて動くのは、本棚を倒すことによってばらまかれる本の匂いが嫌だからなのか。本棚から異様な香りを感じて嫌がっているのか否か……。
全体的にするハーブのような香りと異なるものを探し求めて、化け物は歩き続ける。
そうして、ふんふんとその大きな鼻を使ってやって来た先に見つけた生き物にむけて駆け出し、器用にがぶりと噛みついた。
「オオ……?」
しかし化け物は、それが無機物であることに気がついた。
匂いはするのに、噛みつくことによって得られる生命力はあるというのに、何故か新鮮な血肉の匂いがしないことに対して身体を硬直させる。
その刹那――――。
「今だ!」
左右の本棚が化け物側へと倒れていく。
重くのし掛かるそれに唸り声をあげてジタバタと身体を動かすが、その上に乗っかる形で生徒が本棚の上に移動していく。
しかし化け物はそれを理解していない。
なんせ生徒達も本棚から発せられる匂いと同じく────ハーブのような香りに包まれているのだから。
「やれ」
無情な声と共に、勇気ある生徒が化け物の顔面を。
主に鼻に向かってある液体を流した。
それはツンとした刺激臭と、身体中に襲いかかるであろう痛み。
生徒が持っていた水筒の中身は、唐辛子と山葵をふんだんに使って茹でたとんでもない液体だった。
「ギィ、オオアアアアアアアッッ!!!!」
化け物の異様な声が図書館に響き渡る。
ジタバタと激しく身体を動かして抵抗するが、もはや鼻が利くようには思えない。
可哀想とも思える状況に、鏡夜は笑った。
カメラを手にして、化け物の様子を撮り続けていたのだ。
「えげつねぇ……」
ものすごく引いた目で鏡夜を見つめる俺と、その少し離れた所に立つ同じく引き攣った顔をした春臣。
「これ誰が考えたんだ。やっぱ神無月か。あいつしかいねえよな」
春臣の言う通り、これは鏡夜が考えた罠だった。
人間の匂いがこびりついた服を着せたマネキン数体を指定の個所に設置した鏡夜は、生命力の匂いもあるのだろうかと考えマネキン一体だけを使って幸運の瓶の中身をぶちまけ奥へ置いた。
これは、嗅覚を騙すための検証だ。
そうして国立図書館というだけあって広大なその地形を活かし、化け物を誘き寄せたのち左右から本棚で挟み込み動けなくなったところに顔面を唐辛子や山葵などの劇薬かつ臭いがきつい納豆などを詰め込む作戦である。
人でも倒せるかどうか。化け物は痛覚を感じるのか否か。
(ゲームとは違って、マジで撃退してやがる……)
恐るべきは鏡夜の頭脳といったところか。
あれだよな。ぶっちゃけ今回の化け物だけでなく次からのことも考えて実験しているからな……。
どうにもこの世界は呼び出される一秒前の状態をコピーして強制移動するようだというのが、鏡夜の考え導きだした答えだった。
ちなみに世界線設定としてゲーム的に合っていると頷いておく。
それと同じく、鏡夜は考えたのだ。
昨日白兎救出作戦にて使用し席に置いていたはずの携帯が、アラームの履歴がきちんと残された状態でポケットの中に戻ってきたのだ。
そのことを踏まえて、妖精に呼び出される時に鞄など何かアイテムを持っていた場合はある程度元に戻ると推測。
検証のために唐辛子等の消耗品と、周囲の状況を探るために外にカメラを設置。
カメラなどに映し出された映像は何か残すのか。化け物の顔面に流される消耗品は防衛戦が終わったら消えるのか。
そういうどうなるのかを見極めるというのが、鏡夜の考えた今後の作戦である。
「……鏡夜君は凄いですね。精一杯生きようと、前を向いて歩いてる」
遠くから眺める白兎は、独り言のように呟いた。
そして何かを決意したような顔で――――鏡夜を見てから、俺の方へ顔を向けたのだ。
「鏡夜君に伝言をお願いしてもいいですか?」
「えっ」
まさかどこかへ行くのかと慌てて白兎の腕を掴もうとして。
でもそれが出来なかった。
「なんで、透明に……なって……」
「お家に帰って力を溜めようと思いまして」
白兎は寂しそうに微笑む。
「私はまだ、力が弱い。このままの状態であの妖精に会うわけにはいきません。アレが私に気づいたら、絶対に鏡夜君たちに手を出すと思っていますから」
そういわれた言葉に衝撃が走る。
だって、ゲームでは白兎が実際に妖精に会ったのは第一話が終わった後だった。会うわけにはいかないなどということは言わなかった。
ただ鏡夜に会いたいがために、そのあとは彼を守りたいと思っているからこそずっとこの境界線の世界に居たんじゃないのか?
ただ……ああ、そうだ。
白兎が妖精と出会った後に、難易度が急上昇したような――――。
「気を付けてくださいね。秋音ちゃん。私はまだまだ力が戻ったわけじゃありませんから……。鏡夜君にも絶対に妖精に隙を見せないよう、気を付けて」
ただ、白兎は言葉を紡ぐ。
それが当然だというかのように、俺が知らないことを言う。
「妖精は私の全権限を奪った元凶。管理人なんて自称しているだけで何もしていない。私を騙し人を騙し、そうしてあの神々を怒らせた……。
アレのせいで夕日丘高等学校の生徒達が被害に遭っているといっても過言じゃありませんよ」
「なっ……」
俺そんな前世知識何も知らないんですがあああああああああっっ!!?
・・・
《境界線断絶オーケー! 空間補強開始しまーす! 終了まであと二十分です!》
(ニ十分か……長いな……)
終わりが伸びていることに何か意味があるのだろうか。紅葉の言うように難易度が上がったという証拠か?
いや、今は目の前の化け物について考えよう。
激痛にのたうち回る本棚の下敷きになった化け物を一瞥し、肉片か何かは採取できたらしておこうかと考えていた時だった。
キリキリキリと、音がする。
空間を切り裂くもの。そして、何かが這うような音が聞こえてくる。
(次が来たか)
生徒に向かって離れるように指示をする。
この図書館では体育館の時のように安全な場所など一切ない。
本棚の裏に隠れるか、建物の外側に出ていくか。
クリスタルは図書館の中央――――本棚を器用に避けた場所にて天井に突き刺さるような形で出来ていた。今回はそれを守る必要はない。
生徒たちの安全さえ守ればいい。
……ふと、冬野白兎の姿が見えないことに首を傾けた。
「紅葉さん、冬野さんはどうしたの?」
「……帰ったよ」
「帰った?」
どういうことだという目で問い詰める。
しかし紅葉は何か混乱しているのか。いつもとは違った様子でただ首を振って「力を溜めるために家に帰るって……」と言うだけだ。
「後でまた聞くけど、いいよね?」
「…………うん」
つまりここで言わないということは、周囲の目がある状況では駄目な内容。すなわち前世の記憶か何かが絡んできているということだろう。
……様子がおかしいのは、冬野白兎がいないからか?
まあ後で聞けばわかることだろうが。
「来るよ!」
出入口を監視していたクラスメイトから言われた言葉に全員が警戒をとる。
あの化け物が鼻で匂いを嗅いで、囮となったマネキンに引き寄せられたところを狙えばいい。
幸運の瓶のマネキンに引き寄せられたのなら、準備しているときに集めた青組全員分のうち一つを使ってみれば――――。
「オオオオオォォォォッ!!!!」
不意に、新しく来た化け物が奇妙な声で叫んだ。
「えっ」
それは地面を揺らしているのかと錯覚するような低い音。
匂いを嗅いでいるわけでもないのに真っ直ぐ化け物へと向かう。
その勢いは止まらず。人間に襲い掛からずに。
――――本棚に倒れた化け物を喰らい始めたのだ。
「ギィィッ!」
痛みを訴える化け物に向かって、その巨大な牙が襲い掛かる。
悲鳴はすぐに止んだ。聞こえてくるのは生徒たちの絶句した空気と、絶望。
「っ――――全員散らばって動け! 化け物は目が見えていない。 奴の挙動が分かる位置に動け! 一つには固まらないようにしてくれ。匂いが一手に集中するとまずい!」
化け物のありえない状況を理解し混乱する前にと、生徒たちへ向けて叫んだ。
それにほぼ無意識のうちに頷き、昨日と同じで大丈夫だろうという信頼のもと彼らは動き出す。
しかし恐怖で怯えていた。理解できない惨劇に、何かを言う気すらなかった。
「何が……どういうことなんだ……」
化け物が増えたのは構わない。それはどうにか出来ると紅葉の情報だけならば確実だった。
でもこれは違う。
これだけは、別問題。予想を裏切る結果だ。
紅葉からは聞いていない情報。予測不可能な状況。
何故化け物を喰らう?
何故共食いをし始める!?
このまま突っ立っているわけにはいかない。
知らないと言うことは探らなくてはならない。
しかし、そう悠長に考えている暇はない。
こうしている間にも、確実に犠牲者が出るのだから――――。
「なんで、夕赤のシーンなんて……」
ぽつりと、そう呟くように聞こえてきた紅葉の声に飛び付いた。
彼女の両肩を掴み、何度も揺さぶりながら問い詰める。
「これを知っているな? これは何だ!? 夕赤とは何だ!?」
「ゆ、夕赤は……唯一まともに戦うことが出来る、ユウヒシリーズの一つなの」
いまだに混乱しているようで、必死に説明しようとしているがなかなか言葉が出てこない様子だった。
ただその目には、化け物に対する絶望の色が浮かんでいるように見えた。
「化け物は弱まると共食いをする。え、獲物を捕らえるために、体力を回復するために。……あの、それで力をつけるんだ……嗅覚が鋭ければ、もっと強力に……」
「つまり匂いが判断しやすくなるということか……っ、紅葉?」
「むりだ」
ああ、彼女は初めて泣き言を呟いた。
怯えた顔で俺を見た。
諦めたように瞳に光を無くしたまま、このまま死んでしまうかと思えるほどに……。
「無理だよ鏡夜。だってあれは―――――クリスタルを目指すだろうから」
「なに?」
自嘲するように、笑う。
「共食いをした化け物は真っ先にクリスタルを狙うようになるんだ。それが生命力の結晶だって知っているから。確実に奪うために動くから……守るためには、戦わないといけない」
だから無理だと、そう言った紅葉に言葉が詰まってしまった。
何か言わなくてはならないのは分かっている。彼女はその心が思うがままを口にしているから、その心を立ち直らせる何かを考えなくてはならない。
本棚に倒れた化け物を喰っている今がチャンスなんだろう。
しかし、思考を回す前に彼女は口を開いた。
「赤組だったら……夕赤の主人公だったら、絶対に倒せたのに……」
それは断定的な言葉だった。
ああ、それをお前が言うのか。
この俺に向かって、赤組なら助かると――――。
「赤組だったら負けないと、お前はそういうのか?」
「だってそうだろう。こんな……夕青は、青組は戦いより逃げることを、防衛を優先としたクラスで……戦う場面になったら、もう負けは確定しているのに……」
パチンッ――――という、軽い音が響く。
ただ衝動的に、平手打ちをした。
「いい加減にしろ!! 目の前にいるここは、お前にとってのゲーム世界じゃない!!」
女を叩くことなんて、初めてだったのに。
「っ」
赤くなった頬を、手で押さえる。
呆然とした顔で彼女は俺の目を見てきた。
「今やるべきことを全て諦めるというのか!? 何も手立てがないと勝手に考えて、死ぬつもりだとそう言いたいのか!? 赤組ならばと考えるな、今ここにいるのは……お前は青組の一人だろう! 死にたくないのならそれを青組のせいにするな。言い訳なんてするな!」
茶色のポニーテールが揺れ動く。栗色の瞳が大きく見開く。
ゆらゆらと揺れていた瞳が、一滴の涙を零す。
言葉を噛みしめているのだろう。
ただ拳を握りしめて叫ぶのだ。
「そ、んなことねえよ! 俺だってちゃんと生きたい!! まだ諦めたくない!」
「なら生きるために足掻け! この世界についての情報はお前しか知らないのだからな!! それと知恵を回す役割を俺だけに押し付けるな! 分からないなら考えろ!
お前にはちゃんと考えるための脳がついているだろう!!」
ぐるぐると吐きそうになっているような顔で。
悲鳴と化け物の声と、本棚がぐちゃぐちゃに崩れる騒音を聞いていないかのように。
「海里、夏なら……」
たった一人の少女の名を呟いた。
それが妥当だと、無意識のうちに導き出した答えのようだった。
しかしそれでもなお、彼女は不安そうに顔を俯かせていた。
「でも夏は、あれは……そう簡単に味方には……」
何かを知っている。
ノートには記載していない何かを、紅葉は覚えているのだろう。
俺のように、暴かれたくない過去を――――。
「……よし、ならばお前が海里を説得しろ」
「んなっ!?」
「紅葉、どうして海里を名指ししたのかその理由について俺は知らない。人ではない者だと、それしか教えてくれなかっただろう」
何か理由があるのかもしれない。
海里夏について、ノートで記載してあっただけで、それ以外は問い詰めても頑なに口を閉ざすか他の話題へ流そうとしていたのだから。
きっと、俺に向かって言いたくないような何かがあるんだろう。
いつかは問い詰めてやるつもりだ。こいつが胸の内に隠した全てを。
「過去を知るということは、その者が誰なのか。その生き物はどういう性根をしているのか知っているということだ」
地雷があればそれを踏まず、受け流す。
逆に興味を持たれるようにするためにどう行動すればいいのかを知っている。
何をどうすればいいのかを、紅葉はよく理解しているはずだ。
「お前が俺に向かって話しかけたように、あのときの――――馬鹿にされてでも生き残りたいと願ったあの感情のまま話してみろ!」
「っ……」
たとえ頭がおかしいのだと言われてしまっても仕方がないかと諦めた時のように。
ああ、これは矛盾だと思う。
ゲーム世界ではないと言いながらも、ゲーム世界の知識に救われる。
こいつが勘違いするのだって頷ける状況だ。
でもそれは、いつか瓦解するだろう。
「お前ならばできる。俺はそれを信じる。――――海里を説得してみせろ!」
「わ、かった……」
ぎゅっと胸に手を当てて、
引き攣った口元と不安と恐怖を押し隠して、俺を真っ直ぐ見た。
それに俺はただ頷いた。
ただ、こいつにだけ全てを背負わせるつもりはない。
もしも海里が味方にならず、それと同じく戦っても負けてしまう場合を考えてしまわなくてはならない。
考え続けなくては――――。
俺も動こう。
時間稼ぎをしよう。
しかし、紅葉が無理だった場合の一手となる協力者が必要だった。
「――――桜坂! ちょっと来い!」
「あぁ!? んだよ急に!」
生徒を守ろうとしているのか、化け物からクラスメイトを遠くへと誘導している彼が苛立ちと共にこちらを向いた。
「あの化け物を止める。お前の力が必要だ、俺と共に来い!」
「偉そうに言ってんじゃねえよ。ってかやっぱそれが素かよテメー!!」
「来るのか来ないのかどっちなんだ! 死にたいのか桜坂は!?」
「んなわけあるか! 上等だ行ってやるわ!」
俺の近くへ来た桜坂を横目に、鞄に入れていた青組全員分の幸運の瓶を一つまた一つと開けては頭からその液体を被った。
「はぁ!?」
身体中がずぶ濡れになる。制服も濡れて気持ち悪い感触が伝わる。
しかし躊躇している時間はない。
「おい何してやがる神無月! 化け物を止めるんじゃなかったのか!?」
「止めるよ。でもそのためにはまずあの化け物の興味を惹かないといけない」
「興味だぁ? それがなんでそのよくわかんねー瓶の中身を被ることに繋がる?」
「マネキンの囮を使ったとき、化け物はまっすぐ奥の―――あの瓶の中身を浴びた一体へ向かった。つまり人間の匂いで追うのではなく、あのクリスタルと同じ原料……生命力を嗅ぐのだと判断したからだ」
「なんだそりゃ……瓶が生命力だぁ?」
理解はしていなくともいい。
考えをまとめる意味で口を開いて言う。それで正しいのだと己に言い聞かせるように……。
「しかし生命力だけではない。生きた血肉を喰らう習性があるようだ。化け物が共食いをしているのはそういう理由だろう。だからクリスタルと同等の力を持った生き物がいれば――――奴らは確実にこちらを狙う……はずだ。
ああくそ。本当はクリスタルも瓶の中身も……すべてが何なのか科学的に解析してみたかったんだがな!」
「ああ? 待てよ。じゃあそれを浴びた神無月、てめえは……」
ごくりと息を呑んだ桜坂に向かって頷いた。
食われていく化け物の肉は残り少ない。すべて食い終われば、次はクリスタルへと向かうだろう。
それか紅葉の知識とは違って人に向かうかもしれない。
しかしそれならばこれでいい。幸運の瓶の液体をかぶった俺は、極上の餌に見えるだろうから。
桜坂に対してこれからいう言葉に、後悔はなかった。
「お前がやるべきことは、囮となった俺を背負い逃げることだ」
「なっ――――」
「体力が一番多く、運動神経に優れたお前なら出来ると判断した。生き残るために必要なことなんだ。言っておくが拒否権はないからな!」
「はぁぁ!?」
入学式に起きたあの惨事について調べたのと同じように、クラスメイトについても一通り調べてはいた。
それゆえに理解できる。
この中で一番生き残るのに長けているのは、桜坂春臣なのだと。
でも命をかけて青組を守れとは言えない。
万が一の時に備えて、俺だけが犠牲になればいい。
「この液体をかぶった俺は奴らに狙われる対象だ。もしもの時は俺を投げ捨ててしまえば――――」
ばしゃりと、派手に水しぶきが飛び散る音が聞こえた。
「ああそうかよ。ようやく理解が出来たぜ」
よく見れば桜坂は俺と同じく瓶の中身を頭から浴びていた。
金色の髪の毛を濡らし、俺と同じく濡れネズミのようにまた新しく瓶を開けようとする。
それを呆然と見ていた。
リスクがあると言ったはずだ。俺の言葉はちゃんと伝わったはずだ。
それでもなお、彼は――――。
「てめえを背負って運ぶだけじゃねえ、俺もお前と同じく囮役を背負ってやるよ」
「っ……そうか!」
その覚悟があるのなら信じよう。
この戦いにおいては、信じてみせよう。
「俺たちの命二つで青組全員を生き残らせる――――絶対に足を止めるなよ」
「ハッ、誰に向かって言ってやがる」
ボリボリと、食べ終えた化け物が鼻を鳴らす。
そうして二方向に顔をゆらゆらと揺らした。
最後の一つである幸運の瓶を頭からかぶって、万が一のためにと刺激臭のする水筒をふたを開けたままクリスタル方向へと投げ飛ばした。
匂いは充満し、しかし嗅ぎ分けるのに特化した化け物は――――生きた俺たちを標的にした。
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