第5話 囁き×褒め言葉

お姉ちゃんから解放され、真面目で真っ当な学校を楽しんでいられたのも束の間。

授業に出で、友達と遊んで、家で勉強をして。

そんな毎日を繰り返していると、一瞬で土曜日が来てしまった。

そして今日が土曜日という事は、つまりそういうことで。


「じゃあ今日はお姉ちゃんの言うこと聞いて貰えるんだよね? 」


清々しい快晴。この空を見ていると、こっちまで晴れ晴れとした気持ちになる。

——目の前にお姉ちゃんがいない、静かな休日ならば。

嬉しそうに至福そうに僕にそう聞いてくる。恩着せがましく聞いてくるので僕はため息混じりに頷いた。


時刻は午前十一時半。お姉ちゃんのお願いを聞く時間だ。

一体どんな事をされるのかと、内心浮かないでいると、お姉ちゃんが僕に手招きをした。

「何?まねきねこのモノマネ?」

「違うよ〜!ほらほら、こっちに来て〜!」

どうやらお姉ちゃんの横に座って、という事らしい。

何を考えているのかさっぱり分からないけれど、先週はお姉ちゃんのおかげで勉強も捗ったし、お姉ちゃんの教え方が上手いのもまた確かだ。


——これは勉強の為、勉強の為……!!


僕は従順にそれに従い、お姉ちゃんの横で正座をした。お姉ちゃんの方が座高も高い。

一応女の子であるお姉ちゃんを見上げる自分に、少しだけ情けなくなる。

どうやっても埋まらない身長の差に僕は少し嫉妬した。

いつか絶対身長追い抜いてやる、と心の中で決心してからお姉ちゃんに問うてみる。

「で、何するの、今日は。」

お姉ちゃんはその質問を待っていたと言わんばかりの顔で「今日はね……」と話し始める。


「お姉ちゃんに囁かせて欲しいの! 」


——出たよ、意味のわからないお願いが。

というか、この人に真っ当な考え方というのはできるのだろうか。

もしも学校でもこんな感じならば、僕は少しだけこの人の人生そのものを心配してしまう。

僕だけでは無く、他にも被害者がいるのかもしれないと考えるだけで、この人を社会に解き放ってはならない気がしてきた。

で、そんな僕の心配をよそにお姉ちゃんはこの前と同じく説明を始めた。

ふん、と自慢げにお姉ちゃんは僕に告げる。


「お姉ちゃんね、優くんに『頑張ったね』とか『偉いね』とか褒めたいの。でもね、ただ褒めるだけじゃなくて耳元で囁きたいの! 」


どんなに説明を聞こうとも、この人の性癖にはやっぱり理解できない。

いや、この世界にこの人の事を理解出来る人類なんているのだろうか。

きっとお姉ちゃんの前世は宇宙人とかなんだろう。そうでも無いと、この突拍子の無い発言の数々に説明がつかない。

というか、冷静に考えて褒めたい、とか囁きたい、とか一体どんな心情だよ!

国語の問題で、『その人物の心情を書け』なんて言われても、無理難題すぎて答えられる自信が無い。

急に、人を褒めたくなる衝動に駆られる人間なんて、他にいるのだろうか。


——いや、それよりも何故耳元で!?


あれやこれやと言いたい事は山のようにあったけれど、その全てを口から吐いてもこの人を止めることは出来ないと、早々に諦める事にした。

もちろん、お姉ちゃんのその気持ちの悪いお願い事をまるっと受け入れる事は出来ない。

けれどこれも僕の仕事だと、今日も今日とて割り切る事にした。「分かったよ。」と了承してからお姉ちゃんの顔の近くに耳を持っていく。

そしてあのセリフを口にするのだった。


「お、お姉ちゃん……僕、を……甘やかして……!」


お姉ちゃんは「うん! 」と満面の笑みで答える。それからお姉ちゃんの口は僕の耳元に近づいた。

「それじゃあ、始めるね」

はぁ、とお姉ちゃんの吐息が漏れて僕の耳をくすぐる。体を全身に電流が走るような感じがして、なんだか恥ずかしくなってきた。

「優くんは、いつも頑張ってて偉いね。いっぱい勉強して、お家でも家事とか手伝ってて。」

お姉ちゃんの息が耳にかかる。心做しか顔が熱くなってきた。

そんな僕の事など、知る由もなくお姉ちゃんは耳元で囁き続ける。

「辛い事も苦しい事も、いつも一人で頑張ろうとして。お姉ちゃんはたまに心配になっちゃうけど。でもそんな優くんもお姉ちゃんは大好きだよ。」

な、なんでこの人、そんな事言って……それじゃあまるでこ、告白……みたいな!

心臓がどくん、どくんと大きく脈を打って今にも破裂しそうだ。

出来ることなら今すぐにでも逃げ出したい!!

ぎゅっと握る手に力が入る。

「でもお姉ちゃんにいっぱい頼って良いんだよ? お姉ちゃん甘やかしてあげるからね。 偉いねって頭撫でてあげるからね。優くんはあんまり辛い事抱えすぎないようにね。」

や、ヤバい。なんか良く分からないけれど、何かがヤバい!

お姉ちゃんの話し方とか、息の漏れ方とか……全部が僕の全身に襲いかかってくる。

全身がビリビリして、背中が汗ばむ。

足先が落ち着かない。こんなの拷問じゃないか……っ!!!!

「お姉ちゃん、優くんの味方だから。いつでも相談してね。お姉ちゃん、優くんの事……」

その続きに、どんな言葉が待っていたのか僕には分からない。

けれど、何かもうこれ以上は無理!!!


「うわあー! お、おしまい! もう終わりだから! 」


お姉ちゃんの言葉遮って僕は立ち上がった。体から滝のように汗が溢れ出してて、お姉ちゃんの顔をまともに見られない。

「えー、まだ囁きたぁーい! 」

と子供みたいにへそ曲げるお姉ちゃんに僕は「ダメ! 」と断固拒否した。

このままじゃあ僕の心臓とか持たないし……!っていうか今にも心臓麻痺で死にそうだしっ……!!

「優くんの意地悪ぅ。今日はお姉ちゃんのお願いを聞いてくれる日でしょー?」

「じ、十分聞いたでしょ!!これ以上やるんならお金とるよ!!」

と、お姉ちゃんを止める為にそんな事を口走る。

これでお姉ちゃんも諦めてくれる……と思った僕が浅はかだった。

「ええー。今、幾ら持ってたかなぁ?ちょっと待ってね、今確認するから!」

「……馬鹿なの?——馬鹿なの!?」

ゴソゴソと自分の鞄を漁るお姉ちゃんの背中に思わず本音が漏れる。

何とかして、このバーサーカーを止めなければという危機感に襲われながら辺りを見渡す。

ふと目に止まった時計を見てみると、お昼ご飯にするにはいい時間になっていた。僕は部屋のドアを開けて「お、お昼にしよう! 」と提案を持ちかける。

「ありゃ、もうそんな時間?あ、でも待ってね今所持金の確認を——」

「はい!お昼にしようね!!今すぐにとっとと!!!」

ほぼ強行突破で、僕はお姉ちゃんの背中を押す。

無理やり階段を降りてもらって、僕達はリビングに向かった。

もしあのままお姉ちゃんに、囁きを続行されたら絶対倒れちゃうと思ったからだ。

僕は冷蔵庫にあったカレーを取り出してレンジで温めると、お姉ちゃんは律儀に椅子に座って僕を待っていた。

「もう。お姉ちゃんはまだ満足してないからね? ご飯食べ終わったらもう一回、お願い聞いてもらいます。」

「拒否するっ!!」

コトン、と温め終わったカレーをお姉ちゃんの前に置いて、僕は自ら固めた意志をお姉ちゃんに告げる。

「それじゃあやっぱりお金で解決するしか……」

「それだけは本当に辞めて!!なんて言うか、もっといかがわしくなるっ!!」

お昼ご飯を食べ終わったら、僕は一体どうなるのだろうか。

どうやら本当の地獄はここかららしい。


何故なら僕は、同じクラスの女子がこれから僕の家を尋ねてくるなど知るよしもなかったからなのだ。

何も知らないまま、目の前のお姉ちゃんの事でいっぱいいっぱいになっていた僕は、いつもより熱いカレーを口に入れたのだった。

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