第16話
ようやく、森を抜けたのは、幻想に追われること、どのくらいであろう。一時であろうと、寒さは時間の間隔を狂わせてしまう。
体はすっかり温まり、腰に巻いたままのシャツを解凍するまでになっていた。参謀はどうにか体温を冷やすべく、惜しみなく汗を噴出し続ける。その結果、私は喉が乾いていた。貴重な水分を参謀が汗などに変えてしまうからそのような事態になる。しかし、参謀は責められない。
何処かしらで水分を買う為にも私は先を急いだ。ただ、到底走る気にはなれず、寒さを自らの体温で弾き飛ばしながら進んだ。何だったら、暑いくらいであった。これも参謀の采配の賜である。決して、参謀を責めている訳ではないので悪しからず。
疲労なのか、喉の渇きなのか、暑さのせいなのか、どれにせよ、おぼつかない足取りで進み続けると、大きな川にかかる大きな橋が見えた。もう少し歩いた先だが、その袂。そこにようやく小さな光を見つけた。飲み物の販売がある店だと信じて、ひたすらに歩き続けた。
震えながらに小さな虫の如く光の方へ近づいて行く。しかし、光は思ったよりも橋の近くにあるようで、並んで閉まっているバーを通り過ぎた橋の側も側、下流側の欄干すぐ側で小さく輝きを放っていた。光の正体は自動販売機であったのだ。飲み物は買えるから、全く問題ない。
いざ、買おうとして、私は二度、絶望という物を味わった。
一度目は自動販売機に並ぶ、飲み物の内容を見てのことである。この自動販売機は、内部で温度管理をすることが可能で、冷たいものと暖かいもの、どちらも販売できる優れ物であった。にもかかわらず、陳列された見本の下、飲み物の温度表記をするタグには、全部が全部、『あったか~い』と書かれていたのだ。一瞬にして、飲む気を損なった。何が『あったか~い』だ。秋だからと言って、誰もが『あったか~い』を望んでいると思ったら大間違いである。今の私に、どうか『つめた~い』、どうせなら『さむ~い』ぐらいの飲み物を飲みたいものを。
二度目は仕方なく『あったか~い』飲み物を買おうとした際に訪れた。いくら願望を吐露したって、自動販売機の中身が変わるはずも無い。最悪、冷やせば良いとポケットに手を掛けた際、私は携帯電話以外、持っていないことを思い出した。昨今、携帯電話でも買うことが出来るが、私の携帯電話にそんな機能は付いていない。要するに買えないのである。
世界に見放された。余りに些細なことであるが、半ば命がかかっている事態に、そう思う程の深い絶望が私を襲う。夜の神には血も涙も無いらしい。もしくは、黒い服を脱いでしまったから嫌われたのだろうか。しかし、濡れたシャツを着る気には到底ならない。
光り輝く見本品を見るのも嫌になり、自動販売機の側面に背中を預ける形で、膝を抱え座り込んだ。目の前には土手に沿うように闇が続いている。
漠然と先を眺めていると、自分は今、何処にいて、あと、どれだけ歩かなくてはいけないのだろう。そういった疑問が湧いてきて、ポケットから携帯電話を取り出した。瞬時に見つけだした現在地は、総移動距離の約四分の一。まだ、殆ど、進んではいなかった。
まさか、ここまでとは。
見間違いではないかと、拡大して風景と照らし合わせたり、縮小して川との位置関係を今一度推し量ったりするが、どうやら、間違いはないようであった。苦労して歩いてきた道のりが、まだ、目的地の半分にも満たない。進んでも進んでも実際は進んでいない。言うなれば、逆浦島現象と言ったところであろうか。そういえば、序盤でも一度、同じ現象を経験している。きっと、この先、何度も、同じ経験をすることになるだろう。ただ、ここまで来てしまったのなら、最早、戻ることも叶わない。前に進むしかない。前に、前に。進み続けて、到着すれば、猫田さんが待っているのだ。それだけを糧にここまで来たのではないか。しかし、それすらも本当なのだろうか。本当に猫田さんが待っているのだろうか。私が彼女を逢い引きに誘い出せたというのか。例え、本当に待っていたとして、私は上手く立ち回ることが出来るのであろうか。上手くいったとして。上手くいかなかったとして。私はそこから、どうすればよいのであろうか。私は、何をすればよいのだろうか。
なんだか、酷く疲れてしまった。全身から力が抜け落ちていく。
直後、私は転がり始めた。
右手側にあった土手へと落ちてしまったのだ。横向きに転がり、縦に転がり、斜めに転がり、天が地に、地が天に、何が何だか転がっていること以外、何一つ分からぬまま、ひたすら転がり続ける。ひたすらに停止するまで耐え続けて、たどり着いたのは、天でも地でも無く、川の中であった。
幸い、底は浅く、溺れないよう、すぐに体を起こした。もし、何かの不運で私が転がっている場面を飛ばしてしまった人間が居たら、自動販売機横から瞬間移動して、ずぶ濡れになったと思うことであろう。
とりあえず、岸に上がると、全身から水が滴り落ちた。そして、携帯電話からも滴った。基本的に電化製品が水に弱いことは言われずと知れたことであろう。当然、私も知っている。
このままでは大まかな道のりしか分からなくなってしまうというのに、拭くものが一つもない。私はどうすることも出来ず、息絶える携帯電話を見つめることしか出来なかった。
弱り目に祟り目とは、正しく、このことでは無いか。ここまで不運が重なると、笑うしかない。私は誰もいないからと、声を出して笑った。もしも、誰かが通りかかったのなら、通報されること請け合いである。
喉が渇いている際に大きな声を上げて笑った為、私は更なる喉の渇きという報いを受けた。この場において渇きを潤せるものと言えば、私の全身を濡らした憎き川くらいであった。
どうして気づかなかったのだろう。お金を払わなくても飲める水分が、目の前に尽きることなく流れているではないか。先に全身で味わっているのだから、温度も保証しよう。後は飲んでも大丈夫なのかという問題である。目視で濁っていたなら、やめるが良かろう。
這うようにして川縁へ近づき、水を手に掬い取る。頭上から存分に降り注ぐ橋からの光を頼りに、真剣に水の様子を観察すると、濁っていることもさることながら、小さな鏃のような物が混じっていた。何処か見覚えのあるそれを手にとって見ると、何処からどう見ても、店で良く見るチップであった。誰かが誤って落としてしまったのだろうか。
今一度、川を見てみると、信じ難いことに、チップだけでなく、分解されたダートが、大量に流れていた。一人が落としたにしては、余りに多すぎる数である。なにゆえ、こんな環境破壊が。
遡るように視線を上流へ向けていくと、橋の影を挟んだ向こう側、街灯に照らされた川の上に動く影があった。この生物の気配一つ無い世界で初めて見た影は、小さなボートに立ち乗りしているような姿で、流れに身を任せるかのように、こちらへと向かって来る。
次第と近づいてくるその影は、時季はずれのアロハシャツと、やはり時季はずれのやや短いズボンを纏った男のものであった。小柄で細身、際だって眉目秀麗という訳でもなく、言わずと知れた悪のカリスマの特徴と完全に一致する。
「友原!」
驚きから出た私の叫びに、驚いた様子で周りを見回した友原は、こちらに気づいて再び驚く。驚きの連鎖であった。
巧みなリュック紐捌きによって、友原は私から少し下流の岸にリュックボートを着けた。私が彼の元に近づくと、地面に降り立って、「よう」と暢気に片手をあげる。
「何してるの? こんな時間にこんなところで」
友原がリュックボートを岸に上げながら尋ねた。
「猫田さんと約束があるのだ。お前こそ何をしている」
「別に? ただの遊覧川下り」
「本当か? お前みたいな全身から怪しさを滲ませる男が言うことは信じ難い」
「びしょ濡れの上裸男に言われたくない」
友原の言葉は、いつにもまして信頼に足らず、二枚舌を核に、全身に胡散臭さを纏う、不審の塊のようであった。今の彼を含む不審者を集めて、数名の国家権力の皆様にお見せしようものなら、満場一致で彼に職務質問を始めるであろうことを保証する。まるで、
「まさか、お前がダート泥棒なんじゃないだろうな」
「あれ、バレた?」
直前の状況も踏まえて叩いた私の軽口に、友原も冗談のように冗談では済まない答えを返す。思わず「え?」と聞き返すと、友原も「え?」と返し、お互いがお互いの不思議そうな顔を見合って小首を傾げた。
「ダート泥棒なの?」
「お前がそう言ったんでしょ?」
呆気にとられてしまい、二人とも半分口が開いた状態で、再度、薄暗い相手の顔を交わしあった。
「本当に?」
「本当に」
意味合いの変わるおうむ返しを聞いて、私は友原へ掴み掛かった。
「お前が!」
「悪戯にもお金が掛かるんだ」
友原は反省している姿も恥じ入る様子も見せず、それどころか平然としてすらいた。
「店を泥々の泥まみれにしやがって! 片づけ大変だったんだからな」
「そこなのか」
呆れたように友原が呟く。
「ボートの推進力の都合で泥を吐か無いといけないからさ。代金としてそれくらい置いていこうかなと」
「むしろ、洗剤とか、消毒とか、水道代とか、壊れたダーツの修理代とか、かなりお金がかかったよ」
「店の金だろ。それに、修理代は俺のせいじゃ無い。泥鰌のせいだろ」
「元はと言えば泥を運んできたから……」
私が手を離した上、文句を途中で消してしまったものだから、友原は「どうした?」と不思議そうな顔をする。
「お前、何で、そんなことを知ってるんだ?」
友原はあの時、店にいなかったはずだ。それに、雲を見ていて龍というならまだしも、泥鰌だと知っているのはどういうことか。後輩と鰻おじさん、そして私だけが知りうる真実である。
失敗したと言わんばかりに、「あ」と呟いた後、友原は洗いざらい白状し始めた。
「お前と猫田がいつまで経っても進展しないから、手助けでもしようかなって。計画は随分と狂ったけどな」
「お前なあ」
「本当は案内できずにお前が困ったところで、鰻の代わりに猫田を誘うよう先生に言ってもらう予定だったんだけど、上手くやってくれたみたいで」
「先生?」
少し悩んだ後、友原は私にも分かりやすい名称に変えてくれた。
「鰻おじさん?」
「お前は何だって、あの人を先生と呼んでいるんだ」
「先生の先生だからな」
「だから、何の先生だ」
「ああ、俺も『長屋の住人』だから」
この時の驚きには計り知れぬものがあった。悪友が実体のわからない組織の一員であったのだ。私がかつて経験してきた中でも、類を見ぬ衝撃度である。
「じゃあ、先生って言うのは、まさか、小学校の?」
「大当たり」
「だから、あの人は私のことや猫田さんのことも知っていたのか」
「それは先生が俺達の小学校にいたからじゃない? 当時の教頭とかだったかな?」
二度目の驚きには更に計り知れぬものがあった。当時の教頭が実体のわからない組織の一員であったのだ。私がかつて経験してきた中でも、類を見るのは、ほんの少し前に経験したものくらいだろう。
「猫田さんが来たのも、お前の手引きか」
「そうなるな」
「お前な……俺の喜びを糠に浸けやがって……」
「良いじゃないか。糠が付こうと喜びには変わらないだろ」
「それに私が最後のダートで案内してしまっていたらどうするつもりだったんだ?」
「ちゃんと、店長さんに圧をかけたからね。『ダート泥棒が入ったら、ダートの貸出はしないように』って。企業の社長さんは、大概、鰻が好きだから」
「抜け目ないというか、何というか」
「それだけお前の恋愛を応援してるってことさ」
「ありがたいことだね」
ひとしきりお互いに笑いあった後、私は友原の襟を再び掴んだ。
「しかし、窃盗は犯罪だろ。良くもダートを!」
「おいおい、自分を棚の上げるなよ。一緒に企画準備の資金を盗もうとした仲じゃないか。一緒に私有地に進入した仲じゃないか」
「だから私も犯罪者だと? そうだな。確かにそうだ」
「そうだろ、共犯者」
「だが、お前の問題と私の問題は全くの別物だ」
思惑が外れて舌打ちをした友原は、やむを得ないと言った顔つきで指を鳴らした。
直後、私の腕が友原から離れるように、後ろへ引っ張られる。振り向くと屈強な男が私の腕を押さえているではないか。到底、抜け出せそうにない。
「誰だ! 何をする!」
「彼は俺の仲間だよ。見張り役兼運転手」
「ボートで移動するんじゃなかったのか」
「それじゃあ、時間かかるでしょう。ある程度近くまでは車で来るんだ」
その間に屈強な男は私の腕を縛る。片手で両手首を掴まれてなお抜け出せないのは、私の力が弱いからでは無いはずだ。
「本当は友人にこんなことしたくないけど、バレちゃったから仕方ない」
「おい、何する気だ」
「連れて行け」
友原の言葉を合図に私は頭に袋状の何かを被せられ、屈強な男の肩に担がれてしまったようだった。
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