僕と君の死生観

側臥暇人

僕と君の死生観


「幸せになってほしいから」


君がそう言ったのは今から3ヶ月前のことだった。





静かに心の音だけが鳴る空間で、僕と君は黙して時が過ぎるのを聴いていた。

夕焼けが頬を紅く照らす。

不意に、君が口を開いた。


「ねえ」


幻聴のように聞こえるほど小さくか細い声だった。

僕が顔をあげると、君は少し顔を柔らかくして


「わかったの。質問の、こたえ」


質問の答え…?

なんの話だかさっぱりわからない僕は、続く言葉を待った。


「きっと…会えない」


会えない。

目の前のか弱い少女はそう言ったのだ。


「会えないから…君に託す」


「託す、って…?」


「私の、未来」


息を呑んだ。

少女の言いたいことはわかった。

死を目前にした人の言う、「私の分まで生きてくれ」…彼女はそう言っているのだ。


「夜の公園…憶えてる?」


当たり前だ。

忘れるわけがない。

僕が少女の関係が始まったのはまさに夜の公園だったのだ。


「当たり前だよ…忘れるわけないだろ」


「よかった…」


少女はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。


「あのとき、私が言った質問…」


僕は頭を高速回転させ、記憶を辿った。


「…あぁ、たしか…死後の世界はあるかないか、っていう」


「そう。その質問に君は…」


世徨病(よまよいびょう)。

記憶が混濁し、患者はまるであの世を彷徨い歩いているように見えるという理由でそう呼ばれるようになった病気。

原因不明の難病で、今日元気にしていても、次の日突然死んでしまうこともある。その予測は現代医学の範疇を凌駕していた。

少女はこの変わった病気を患っていた。


『きっとあるさ。昔死んだ猫の声を聞いたことがあるんだ』


「そう、答えた」


「うん…そうだね」


「でも…私は見た」


「見たって…何を?」


イフェイオンの花が花瓶から様子を伺うように伸びていた。


「あの世」


驚いた。

少女はこんな時に限って冗談を言うような性格には見えなかったからだ。


「そんなわけ…」


「そんなわけ?」


「ない、だろ…?」


病気の進行が、少女を蝕んでいるのだろうか。


「あの世はね、すぐ近くにあって…とても遠い場所にある」


「…どういうこと?」


「君が猫の声を聴いたのも…あの世が近くにあるから」


とんでもないことを言われた。

そんなわけあるはずないのに。


「冗談だよね…?」


その質問に、少女は答えない。


「でも、限りなく遠い」


「だって、死んでしまった人は二度とこの世に戻ってこられないから」


それはそうだ。

一度死んだ命が生き返ることはないのだから。


少女は至って真剣な面持ちで言う。


「あの世は、この世の生き物がいくらいなくなっても空いているほど広いから」


「だから、もう…会えない」


少女の言葉の意味を理解した。

もう私は助からない。だけど悲しまないでほしい。私の想いを胸に生きてほしい。

少女は自分の死期を悟ったのだ。


「そんなこと、言うなよ」


涙目になりながら言った。

鼻をすすりながら少女の顔を見つめた。


「うん…ごめんね」


「また、会えるからさ」


「どうして?」


「あの世で会えないなら、この世で会えばいい」


「変なことを言うね」


少女はくすりと笑った。

その顔を見て僕も何故だか笑顔になる。


「確かに君はもうすぐ僕の目の前からいなくなるのかもしれない」


「でも…」


少女は僕の目をまじまじと見つめていた。


「君の声は聴こえる」


「僕の猫が僕を探し出したように。君もまた僕と話せるよ」


頷きながら少女は泣いていた。


「それに、あの世が嫌なら、この世に逃げてくればいい」


「別人としてなら、この世に戻ってこられるかもしれない」


少女は何も言わなかった。

僕はただ、目の前の少女と再び会える予感がしていたのだ。

直感任せの強引な理論。

でも、そんなことはどうでもよかった。


「だから…またね」


そう言って病室を出る。

少女は最後まで何も言わなかった。

扉の閉まる音は決して僕らの絆が断絶された音ではなかった。


月明かりが僕の帰路を照らしていた。

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僕と君の死生観 側臥暇人 @sokuga_himajin

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