第24話 「怒りは正当な相手に返すべきだ」

「大丈夫よ」


 あたしはタイセイに手を差し出す。声に力を込める。


「ほら」


 彼は引かれるように、手を差しだした。



「ああじゃあ今は空いてるのね」

『今夜中は誰も来ないと思いますけど』


 受話器の向こうでマナミはそう言った。


『来られます?』

「気が向いたら… HISAKA、いないのね」

『ええ、誰も』


 そう、と言ってあたしは受話器を置いた。

 では何処に行っているのだろう。次第に顔の表情がなくなっていく自分が判る。夜なのに。寒いのに。冬なのに。

 つまらない、とふとつぶやいた。



 FAVは煙草を近くの灰皿にもみ消しながら、ノックもせずにドアを開けたあたしに、あああんたかとつぶやいた。


「こんな時間に」


 立ち上がるついでに彼女は、ひざに乗せていたギターを下ろす。

 FAVは最近、このギターばかりを使っているような気がする。オーバーカム社から出た、FAVモデルのギターである。

 最近PH7はあちこちの楽器メーカーのモニターをしていた。TEARもハロウ・ベースで、HISAKAもバイウェイでモニターをしている。

 形は普通のフェンダー・モデルだが、何やらPUがどうだのという中身の部分から、彼女がいつも買うたびに適当に書きなぐっていたようなペインティングまで、コピーしたものだと言う。


「やりかけのことがちょいとばかりあったんでね。そういうあんたは? あんたにしちゃずいぶん遅いじゃん」


 あんたにしちゃ、という所にアクセントがついている。気付きたくもなかったが気付いてしまう。


「詞が書けないから… 気晴らしに… それに、あたしがどんな時間に何してようと、FAVさんには関係ないでしょ」

「そーだね、あたしは別にHISAKAじゃないからね」

「何を言いたいのFAVさん」

「誰かと居たなら襟元ぐらい直せってうの」


 はっとしてあたしはジップシャツの、Vの字に開いた襟を直した。ふっと苦笑しながらFAVは嘘、とつぶやく。


「…あんた…」


 かまかけたのね、という言葉をあたしは呑み込む。


「引っかかる方が悪いよ。別に、冗談のつもりだったのにさあ。本当なの?」

「関係ないって言ってるじゃない!」


 思わず怒鳴り返していた。大きな、人形めいた目がやや意地悪そうに笑う。笑っているように見える。


「そーだよ。あたしゃあんたの私生活には関係ない。ただあんたが、下手に感情かっ飛ばして歌えなくなったりするのは困る、と非常にエゴイストなギタリストなあたしは言ってるだけさ。ただキョーミはあったけどね。下世話な部分。誰?」

「当ててみれば」


 何でそう意地悪を言うのだろう。あたしは眉をひそめ、唇をとがらせる。FAVはテーブルの上に居場所を移すとその細い足をぶらぶらさせる。


「HISAKAじゃあねーだろ? あいつだったら、あんたが隠すのも馬鹿馬鹿しい」


 そう言うと彼女は、よ、と声を立ててテーブルから降りた。

 そして不意に手を伸ばすと、あたしの身体を引き寄せた。何をするの、と言いそうになったが、FAVはあたしとは目線を会わせずに、何かを感じとろうしているようだった。


「ああ、野郎だね」


 びくん、と自分の身体が跳ねるのが判る。


「女の匂いじゃあない。あんたにしちゃ、快挙というところだけど? でもあんたが抱かれても平気、なんて野郎滅多にいないでしょうに。別にレイプでもねーでしょうに」


 そんなことをさらりと言う。


「判ったなら言えばいいのに」

「さあ」


 ひらひらとFAVは離した手を振る。


「あたしゃ、奴があんたのこと好きなのは知ってたけどさあ。さすがにあんたが応じると思わなかったわ」

「知ってた?」

「見てれば判るじゃん。特に最近さあ」

「どうして…」

「あんたが気付かないだけだよ。ちょっと仲のいい連中ならわからねー方がおかしいじゃん? それとも奴は、あんただけには気付かせないようにしていたか?」

「FAV!」

「それともあんたの目が曇っていたのかね。あなたしか見えない状態って奴? も少し賢い奴かと思っていたけど? 直接帰らねーのは、HISAKAに合わす顔がねーからだろ」


 息を呑んだ。図星だった。


 まずい。


 混乱していた。今日ここに来るまでの出来事と考えが一気に頭の中をぐるぐる回り始めた。止まらない。止まらない。

 そして不思議なもので、身体は混乱していない。火を付けられたまま、それがまだ消えていないのが、冷静に、判るのだ。

 このまま家に戻ってHISAKAに会ったら、確実に自分は彼女にすがってしまう… なかなか消えない火を鎮めて、と。

 確かにあたしは、「野郎」とは初めてだった。

 だが無垢ではない。HISAKAに会ってから、ずっと関係は続いていた。HISAKAに、とろとろと続く長い長い行為に慣れてしまっていた。


 足りない。


 そんな慣らされた身体の何処かが言っている。

 暑い夏の陽射しの中、長い長いアスファルトの一本道を歩いているような気分だった。喉が乾いて仕方がない。

 一度その喉を潤すべき水のことを考え出したら、もうおしまいだ。止まらない。頭の中は記憶の水のことで一杯になってしまう。他のことなんて考えられない。


 せめて一杯の水を。


 だけどそれを、今、HISAKAに求めてはいけない。

 少なくとも、今の自分を何とかしてほしい、などと彼女にねだってはならない。


 だって。


 あたしは内心つぶやく。


 あたしの身体には野郎の匂いが残っている。


 HISAKAが別に男嫌いではないことは知っている。自分に会う以前、付き合っていた男が居たのも知っている。でもそれは過去のことだし、彼女は…

 あたしはそこで考えを停止させる。


 彼女は?


「何かさあ」


 FAVの声にあたしは顔を上げた。



「何かあんた今凄え物欲しそうな顔してる」


 くい、とFAVはそう言うと、両手でいきなりあたしの頬を包み、壁に張り付いた姿見の方を向かせた。


「ほら判るか? 今のあんただよ」


 紅潮した頬、涙にうるんだような目、つやつやと濡れた唇。あたしは思わずつぶやいていた。


「嘘」

「嘘じゃねーよ。それが今のあんただよ」

「違う! こんなのあたしじゃない!」

「いつまで目ぇ塞いでんだよ」


 ぐい、とFAVは両肩を掴むと、あたしの向きを変えさせる。


「詞が書けないって?!」


 FAVの大きな目が極限まで見開いて、真っ直ぐ自分を見据えているのが判る。強い視線。思わずそらしたくなる。


「書けないのはとーぜんだろ。MAVOあんたは、自分に蓋をしてるからな」

「…」

「HISAKAやTEARが甘やかしたって、あたしはそーもいかないぜ。あいにくあたしは、あんたのそういう部分が、実にあたし自身に似てて憎らしいんだ。腹立たしい」


 自分に似てて? あたしはそのFAVの言葉を疑う。どうして。このFAVさんに、そんなところある訳ないじゃないの。


「詞が書けない? 言いたいことがない? そんなのは言い訳だ。MAVOあんたに、言いたいことが無い訳ねーだろ。ただあんたはそれを目ぇ見開いて見たくねーんだ」

「何が…」

「これだよ」


 FAVは掴んだ手を下に這わした。片方の手を挙げさせると、手首にはめていたブレスレットを器用に片手で外す。

 からん、と音を立ててブレスレットは床に落ちた。

 頭の中に一気に血が逆流したような気がした。


 どうして?!


 FAVは以前あたしに同じことをして、ケガさせられそうになっている。

 もちろんあれからまだ時間が経っているから、あたしはあたしで、この点を指摘されても、前よりは平気になっている。だが、こうやて露骨に指摘されるのは。

 目の前のFAVも、危険は感じていたらしい。あたしの両手をしっかり掴んでいる。勝手に自分一人でそこから逃げようなんて許さない、とでも言うように。


「誰にやられた?」


 傷跡とあたしの顔を交互に見比べながらFAVは訊ねた。綺麗な綺麗な瞳が、真剣に。

 あたしは騒ぎだす胸を必死で抑えながら、声を絞り出す。


「関係ない! あんたには関係ない!」

「だったら誰だっていい! でもそれをあたしにぶつけるなよ!あたしがやった訳じゃねーんだ! あんたの回りの、誰もそんなことした訳じゃねーんだ!」


 ちょっと聞いただけでは、無責任とも取られない言葉だ。だけどそうではない。それは、当然のことなのだ。

 あたしは瞬き一つせずに、ぶるぶると震えだす自分の身体を感じながらもFAVをにらみつけていた。じんわりと、涙腺が緩み出すのが判る。だけどそれを隠せない。手は両方とも戒められている。

 FAVは握りしめる手に力を込めた。


「怒りは正当な相手に返すべきだ」


 いつもより低い声で、一つ一つの言葉を確かめるような調子で告げた。

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