第22話 情報が足り無さ過ぎる。
「TEARは、FAVが何処までは自分に言えて、何処からは自分に言えないか知ってるんです。で、FAVさんの方も、それをTEARが心得ていることを知ってる。だから、お互い勝手なこと言ってる割には、結局上手くいくんです。遠慮なんかしなくとも上手くいく」
「へえ。それは羨ましい」
それは実に同感だ。HISAKAは時々ひどく鈍感だ。そしてあたしは時々必要以上に敏感だ。
「タイセイさん、そういう人いなかったんですか?」
「無くはなかったけどね」
まあそうだろう。そういう歳なのだ。だけど彼は現在独りである。
「まあいつまでも、を望むのは結構難しいものでしょ?」
「そりゃあまあ」
彼はくるくるくる、と器用にスプーンを使ってカルボナーラのスパゲティをフォークに巻き付ける。ベーコンが逃げないのが不思議なくらいだった。
「こうやってスパゲティにスプーンを使うのは田舎者っていう意見もあるんだけどね」
「へえ…」
それは初耳だった。
「だけどま、綺麗にできるならそれに越したことはないっていうの。結局食べ方なんて、一緒に居る相手に不快感起こさせなければ自由だと思うし」
「…へえ…」
何を言いたいんだろう。
「でも、それまで全てが上手く行っていたと思っていた相手でもさ、そういうの一つ、ひどく細かいことでずれて行ってしまうことってあるんだよね」
「ああ、それはそうですね」
そういうことか。彼もフォークを置いてコーヒーを含んだ。
しばらく二人とも自分の前の食べ物を黙々と片付けだす。沈黙を最初に切ったのはあたしの方だった。
「そう言えば、あたし、男の人とこうやって食事に行ったことってあまりなかったな」
「そお?」
「うん。だって…」
確かにそうである。
いや、なくはない。だがその相手がどうなったか、を考えることはあたしの中で禁忌だった。忘れた訳ではない。だけど積極的に思い出したくないことではあった。
自分にいつでも優しく笑って、ドライヴに連れ出してくれて、食事に連れていってくれて、そして自分を殺した男。彼の意志でないにせよ。彼を可哀そうだと思っても。
「あまりそういう機会なかったから…」
「MAVOちゃん可愛いんだから、結構君を誘いたいと思う奴は居ると思うけどな」
「そうですか?」
あたしはやや意地悪な笑みを浮かべる。
「まあでも、HISAKAの怒りは誰も買いたくはないだろうから、そうしないんだろうけど」
「あたしって可愛いですか?」
「可愛いよ? 何、君自分をそう思ったことない?」
「自分で自分のことそういうような女の子って見苦しいですよ」
「そうかなあ」
「そうですよ」
「でも、とりあえず君は可愛いと思うよ」
「口が上手いですね」
「いや本当」
それは、知っている。あたしはタイセイが自分をそう見ていることは知っていた。
「でも言われ慣れない言葉って、結構くすぐったいですよね。何かむずむずしてくる」
「ああ、そういうものなんだ」
「ああそうか。だから、よく考えてみたら、あたし、処女だってことなんですよね」
「へえ」
とタイセイはあいづちを打つ。一瞬彼は硬直したが、それはかろうじてすぐに解除できたらしい。
「でも君、HISAKAとは」
「でも彼女は彼女でしょ? 女でしょ?」
そうだね、と彼はうなづく。何やら冷や汗かいているらしい。そばのナプキンを一枚取って、額に当てる。あたしはそれに構わず続けた。
「考えてみたら、何か不思議だな。だってね、普通の常識の人からしてみたら、そうゆうあたしって、まだ処女ってことだよね」
「何を指して常識とかそういうのかは、僕だって判らないけどね」
「世間一般は、ですよ。別にあたしにはどーだっていいんだけど」
どうだっていい割にはこだわっている自分が居るのをあたしは気付いていた。
「別にいいんじゃない? 好きな人とそうできるんなら、別に何も、男だ女だどーだって…」
「そうは思うんだけど…」
その根底が、自分は揺らいでいるのだ。何せHISAKAにとって自分は一番ではない。それが判りすぎるほど判ってしまうから、余計に。
HISAKAが好きなのは、音楽と、妹のマホだ。あたしは知っている。彼女は妹に、そうしたかったのだ。彼女自身、妹がいなくなるまで気がつかなかったのかもしれないけれど、確かに。
どちらも、強敵だ。あたしに勝ち目はない。音楽に関しては、生きてく上の必須条件だし、既にこの世にいない相手に戦いを申し込んでも、殴り付けた手がただ空を切るだけ、ということは容易に想像がつく。
あたしは。HISAKAのことは好きだった。すごく好きだった。TEARがFAVに感じた、ときめきだの、心の浮き立つような感情は何処にもない。そういう感情を持つには、あたし達の関係の始まりは歪んでいすぎる。
それでもあたしは彼女のことが好きだった。彼女と居ると、ひどく安心する。そして不安になる。
だけど、HISAKAを好きだと思っているのが、時々錯覚なのかもしれないと思うことがある。
もしかしたら、ただ彼女と寝るのが好きなだけなのかもしれない。ただ寝ることが気持ちいいだけなのかもしれない。彼女と寝ていると安心するだけなのかもしれない。寝る相手としての彼女を好きなのかもしれない。
もしかしたら、ただあたしは単にその行為が好きなだけなのかもしれない。そして彼女が、現在自分の身体を好きにしているから、一番気持ちよくする方法を知っているから、それだけなのかも知れない。
全く判らない。情報が足り無さ過ぎる。
「たぶん一度でも、別の誰かと寝ていれば、そんなこと考えずに済むんでしょうにね」
「だったら試してみる?」
彼は半ば笑いながら言う。冗談のつもりだったらしい。
「…そうですね…」
彼と似た、人の悪い笑いを浮かべながらあたしはつぶやく。
「それも、悪くないかも」
ちらり、とあたしは彼の方を見た。タイセイはびっくりしたように顔になる。この人は、昔からそうだった。出会った最初の頃から、あたしがこういう目を向けると、こんな反応を見せていた。
誰かが誰かを好きという感情は、そんなところから見えてくるものだ。
「それは、どういう意味?」
彼は訊ねる。いつもなら決して彼はそんなことをあたしに聞かないだろう。だが、この時は別だった。何かがいつもと違っている。そんな気がしたのだ。何がと言われれば困る。だが、確かに何かが違っていた。
彼は明らかに、あたしがそう答えないことを望んでいたに違いない。予想できる答。
「タイセイさんの考えているようなことじゃないの?」
「僕が? 僕はじゃあ何をどうしたいと思っていると思う?」
「だってタイセイさん、あたしと寝たいんでしょ?」
「…ああ」
あたしはさりげなく言葉に力を加えていた。彼は思わずうなづいていた。知っていた。あたしがそう答えたなら、彼はうなづくしかないということを。
「だったら、そうしましょ。そうしてみましょ。あたしがそう思うことなんて滅多にないよ。滅多にないチャンスなら、タイセイさん、利用してみたら?」
「MAVOちゃん」
「だってあたし知ってたもん。あなた、あたしを好きでしょう?」
彼は答えなかった。
あたしは言うが速いが、隣の椅子に掛けてあった上着を取る。彼もまた、反射的に自分の上着を取った。長く伸ばした後ろの髪がざっと揺れた。
あたしは自分がどうしてそんなことを言ってしまったのか、判らなかった。だが、それでもいい、とその時考えたのは本当だった。別に彼のことは、好きとか嫌いとかそういう目で見たことはない。
あたしを突き落とす寸前までの「サカイ」と同じだ。決して恋とか愛とかじゃない。兄みたいなものだ、と考えていた。今も考えている。自分の言うことならよく聞いてくれる「優しいお兄さん」。とはいえ優しい「お兄さん」は妹を抱こうなどと考えはしないと思うが。
自棄になっているのかもしれない、とは思う。当てつけなのかもしれない。決してHISAKAに言う気はなくとも。
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