冬眠の前に

@tart_nununu

短編1 冬眠の前に

 そろそろ冬眠の準備をしなけりゃな。

 先生は湯呑みを抱えながら、突然そう言いだした。その湯呑みは確か、私が萩に行った際、お土産として送ったものだった。そう気づいて、私はどうやらちょっとばかし動揺したらしい。言葉を返さず緑茶をすすっていると、先生はあっという間に機嫌を損ねてしまった。

「おい、ひとりごとのつもりはなかったんだが」

 ひどく渋い声。おっさんだなぁと思いつつ、ここは素直に謝罪する。そうしてから、

「そういえばもうそんな時期ですね、先生がお茶を淹れてくれた時点で気づくべきでした」

「はあ?」

「先生って普段は冷水しか飲まないくせに、寒くなってくると白湯だのお茶だの気をつけはじめて」

「おかしいか」

 またむくれた。先生の書斎はいつも少し冷え冷えしている——壁を塞ぐ本棚に、床に積まれた書籍に、いつも冷ややかさが降り積もっている。ここがいつもとっ散らかっているのは、これを紛らわすためかもしれない。

 ——いや、やっぱり片付け下手なんだろうな。

 お互い向き合っているものの、先生の座っているのはダンボール箱で、私は抗議の結果、どうにか一つの揺り椅子を譲られていた。唯一の安全圏である。

「ニュースでやってたが、いいとこのホテルはもう予約でいっぱいなんだと。わからんねぇ、眠るだけなのに」

「うーん、やっぱり寝つきと寝覚めは心地いい方がいいですよね。あとやっぱり三ヶ月眠り続けるわけだから、広いベッドの方がいいでしょう」

 この部屋には時計がない。時間の進みが早いんだか遅いんだか捉えようがなく、自然会話のペースもゆっくりになるようだ。ふと会話が途切れたタイミングで、萩焼の湯呑みを本の上に置き、彼は言葉を探すように唇を舐めた。あ、乾燥しているな、と心配になる。めくれた皮から血がにじんでいた。

 ——先生には細やかさっていうものがないから。

 私は揺り椅子を揺らしながら、先生の話し出すのを待つ。どうせ外に出ても、雨交じりの木枯らしに吹かれるだけなのである。

「-お前は寝相いい方か」

「そうですねぇ、よく死んだように眠るって言われます」

 先生はどうです? 聞き返しただけなのに、彼はまた渋がった。

「俺か? …俺のことなんて聞いてどうするんだ」

「別に、どうもしませんよ」

 いつの間にか、湯呑みが空になっていた。本の山頂に重ねて置いて、そこでふと不思議に思う。

 駆け足で来た秋にも、いつしか冬が忍びよりはじめているのだ。私たちはそうすると眠らなくてはいけなくなるのだ、地球上の声という声はこの先三ヶ月ぱったりと止み、田舎も都会も静まり返るのだ——とろりとした眠気はすべてに等しく平等で、誰もそれには抗えない。

「おい」

「はい、なんですか?」

「お前は実家に帰って寝るのか」

 大真面目な顔で言うものだから、吹き出してしまった。ただ寝るだけなのに、とも思うが、ただ寝るだけのために、世界中の革命も戦争も、一時休戦なのである。

「大げさですねぇ。…ぶっちゃけ、まだ何も決めてないです。親の顔を見に帰ってもいいけど、もう私の部屋片しちゃったみたいだし……一緒に並んで眠りにつきたいほど甘えたじゃありませんし」

「そうか」

 もう一度聞き返したら、また渋るだろうか。そっと窺うと、彼は手持ち無沙汰な様子で、また唇を舐めている。ダンボール箱が彼の貧乏ゆすりで軋んでいた。

「一人で寝るのか」

 どうにか絞り出したらしい言葉に、私はまた吹き出すのをこらえた。なんだか妙な可笑しさの中で、えいやっと大きく揺り椅子を揺らし、表情を見せまいとする。

「先生、先ほどから質問ばかりですよ? 私もまいってしまいます」

 そう言うと今度は黙り込んでしまう。

「では、私も遠慮なく聞きますよ。先生もそろそろ冬眠の準備を始めているんですか? 想像もつかないですけれど、部屋を片付けたり、冬眠前の食欲に備えて、水やら食料やら買い込んだり」

「……いいや」

「でしょう?」

 私はにっこり笑ってみせた。実際のところ、あくびが連発する時期になるまでは、毎年ぴんとこないのだ。

 ——先生は誰かと眠るのだろうか。

 私のその思考にかぶせるように、先生は突然ダンボール箱から立ち上がった。その勢いで彼の足元の山がいくつか崩れたが、全く気にする様子もなく、立ったままでいる。そうしてぶるぶると震えた。

 そんなに寒いかな、と、また心配してしまう。お茶のお代わりを注いでこようか、と立ち上がろうとして—

「お前、一緒に寝ないか。俺と一緒に、ずっと、春まで眠らないか」

 どもりながら、つっかえながらのその誘いに、私はとっさに言葉が出なかった。揺り椅子に背を倒して、しばしぽかんとしてしまう。

 先生と一緒に冬眠する。

 その選択肢は全く考えていなかった。

「……先生って、寝相悪そうだしいびきもかきそうですけど」

 ぽつりとこぼれた私の言葉に、先生は黙ったまま言い返さなかった。—図星なのだろう。

「でも、そうだなぁ……」

 狭い書斎の中をぐるりと見回して、思わず笑ってしまう。この書斎から掘り出し物を探して、それを読みながら眠る。隣では同じようにページを繰る音がする。おやすみと言うと、渋い声でおやすみと返されるだろう。

 そんな冬眠もありかもしれない。

 私はにこやかに笑うつもりで、けれどちょっと照れが混じって——結局はにかみだけ、先生に返したのだった。


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