第二章 逃避行、そして追いすがる刺客

第一話 特上の標的

 ハルメニア大陸、西の港湾大国、ダリム公国――。


 今日もその風景はいつもと変わらない。大陸屈指の貿易港から荷下ろしされる膨大な物資、それらが流通し潤う市場、行き交う裕福な人々、雑多な街路、ひたすら賑やかな喧騒……。


 昼下がりの、乾季にふさわしい焼け付くような日中。先刻街の中心部でやや大きな音、人々の怒号らしき音響が響きわたったものの、いつもよりも盛り上がる記念大会の影響だろうとしか人々の一部にしか思わせなかったその退屈な日常。



「まあ……、そうなんですの。ノスティラス製の5年もの白ワインだなんて、このご時勢どうやって手に入れましたの?」


「それは聞いてくださるまい。私の立場もありますゆえ。良いチーズも手に入りましたし、ゆるりと我が家にて楽しみましょうぞ……」



 市場から買い物を済ませ、連れ立った貴婦人と楽しくお喋りに興じる商家の男は、若干騒音は気になるものの――。コロシアムを横切った場所に建つ、瀟洒で自慢の自宅へ向かっているところだった。


 やがてコロシアム正門に差し掛かろうというところで――。

 彼らは信じがたい光景を目撃した。


 正門の巨大な鉄扉がギギッ……と軋む音とともに開いた。

 通常であれば剣闘大会に興じ、満足した貌の観客達が大挙して退場する場面に出くわすところだが――この日は全く様相が異なっていた。



 現れた人影は、一人だった。


 しかも、およそ重量1トン以上になる鉄塊の門を開けたのは、通常の数人からなる門兵たちではない。その人物がたった一人、みずからの腕力のみで力任せに開門したのだ。


 その人物は――背丈は175cm程度、体つきは細いながら逞しい。膨らんだ胸とくびれた腰、全身のシルエットから、女性であることが分かる。

 しかしそれ以外の要素は、何から何までが「異様」だった。


 光り輝く白銀の髪、褐色の肌、ボロボロで肌をあられもなく露出したベルト付きチュニック、足はサンダル一つはかぬ素足。

 そしてなによりも――貌から首、胸、手足、全身にわたって染められた真新しい返り血。

 よくみると、際立って顔立ちが整って見えなくもないが、それが目に入らぬ、まさしく修羅か悪魔かと思わせる容姿だった。



「ヒッ…………!」


 連れの貴婦人が、悲鳴を上げそうになったが、その女――レエテ・サタナエルの視線を感じ大声を喉の奥に飲み込んだ。


「何だ! ……何かあったのか、コロシアムで?」


 目を見開きながら声をころしてつぶやく商家の男の脇をすり抜け、レエテはまっすぐ大街路の中央を歩んでいった。大股なその歩みは速く、ずんずんと姿は小さくなっていく。


 商家の男がその後ろ姿を見送り、時間にして1分だろうか、立ち尽くしているところ、正門にあらたな気配を感じた。通常ここに現れているはずの観客達の気配も感じられたが、それに先んじて現れた一団。


 それは、10人、ほどになる男達だった。

 兵士ではない。また、まとまった集団でもない。1人ないし2人連れぐらいの――極めて人相劣悪な、脛に傷持つような男達が、一斉に扉より踊り出、全員が先ほどこの場所から歩みを進めていったレエテの方向をみやり駆け出していく。


 と、気づくと、10人どころではない。

 それに続き、5人、また7人、8人……。

 同じような、人相風体のよからぬ男達が続々とレエテの後を追っていく。


 この光景は、ほんの10分ほど前までに行われた――コロシアム内部における事の顛末一部始終を見た者には、得心のいく光景であったかも知れない。

 

 最初コロシアムを出てきた血まみれの女 レエテ・サタナエルは、すでに「その時、その瞬間」から、ただの人ではなくなっていたのだ。

 大陸に名を轟かす英雄と、その英雄の命を奪うはずであった極めて凶暴なる希少獣アシッド・ドラゴン、これらを「一刀」のもとに屠った一個の怪物であった。


 その怪物をどのような手段であれ、討ち取ることに成功したならば、一体どれほどの名声を得ることができるか――想像もできない。

 これほどの怪物ゆえ、単身では命を失うリスクは限りなく高いが、同じ目的の徒党で襲い掛かり、しかも自分が一番美味な成果を刈り取ることができれば――。



 じりじり、じりじり……一定の距離を開けつつならず者の徒党は、レエテの後に追いすがる。


 レエテは、極めて足早に、一直線に歩みを進め続けていた。

 その姿は、明確な目的地があり、そこへ向かうかのようだった。


 やがてしばし後、その足がついに止まった。


 そこは、あまりにも風雨にさらされ、年季を帯びた、打ち捨てられた監視所跡だった。100m四方はあると思われる敷地に、ぼろぼろの城壁跡が立ち並ぶ。


 そして、耳に入る音――大量の水の流れ墜ちる音。


 海沿いでありながら標高500mにもなる最高峰にして、デルエムの名所、レナウス瀑布のある場所であった。

 隣接する険ディべト山より流れる大量の水が川を形成し、ダリム公国へ惜しげもなく水源を提供した後――ディべト山の地底湖へ向けて、残滓の水が故郷へ還る場所、だった。

 その落差は、700mにおよぶ、という者もいる。


「レエテ・サタナエル、だったなぁ……」


 集まった男達の中で、ひときわ目立つ刺青だらけの巨漢の男が、手にした巨大な円月刀を抜き放ちながら、舌なめずりして云う。

 

「おまえがどんな出自の女か知らねえが……、あの『狂公』の反応を見る限り、大国の王族が一目おく事情があるみてぇだよな。

しかもあの強さにして、それがエストガレスの力も含めた口伝えなんやかやで、あと1週間もすりゃあ大陸一の有名人になる予定、ときてる」


 そのほかの良からぬ人相の男たち、も一斉に合図かのように己の得物をそれぞれ抜き放った。


「悪く思うなよ……俺も、貌も名前も知らねえこいつらも、誰かの手にかかる前に、自分の手にかけてえんだよな、お前の命をさ」


 レエテは、巨漢の男の言葉を感情のこもらない虚ろな表情で聞いていた。

 相変わらず構えを取ることはないが、今回はそれに加えて、先ほどのように両の手を結晶化すること――すらしていなかった。


 それに若干のプライドを刺激されたかのように、巨漢の男が顔をゆがめて刃を振りかぶった、その時。


 突如として、巨漢の男が紅蓮の炎に包まれた!


「なあ!? ぎやぁぁぁぁ!!」


「まったく……お前らのような汚物は、そろって消毒すべきだね。あたしのこの炎でね!」


「いや……今の君って、彼らを汚物とまで言い切れる立場かなぁ……?」


 男たちの後方で、仁王立ちしつつ右手を手前にかざし、その長く紅い髪を瀑布からそよぐ風になびかせた――女魔導士、ナユタ・フェレーインの姿がそこにあった。

 ぼそりとつぶやいたのは、肩に止まったリスの魔導生物、ランスロットだった。


 魔導により炎に包まれた男は、一直線に川に駆け込み、岸で転げまわって自らの体にまとった炎を消火にかかる。

 しかし、わずかな時間とはいえその炎の火力は強く、男の体を容赦なく焼き、もはや戦闘の続行は不可能だった。


「初めまして、レエテ・サタナエル!

あたしはナユタ・フェレーイン。こいつは下僕のランスロットだ。とりあえずあんたに加勢させてもらうよ!」


 叫ぶやいなや、ナユタは腰に下げた2本のダガーを両手で逆手にすらりと抜き放った。

 そして寸分の間もなく、ダガーは発火し赤黒い炎に包まれる。


陽光双円導撃カクシィプロミネント!!」


 叫び、かがんだと同時に、両のダガーを地に突き刺す。

 ダガーからは瞬時に、軌跡3mにはなろうかという放射状の紅蓮の炎の塊が数本、猛烈な勢いで、立ち尽くす男達に紅き竜のようにおそいかかる!

 

「おおおおおぉぉぉぉぉ!」


 男達は叫び声を上げ、防御の姿勢をとる者、背を向け逃げの姿勢をとるものの区別なく、赤黒い炎の中に包まれていく。


「お前らごときが世に名を為そうなんて、10年早い。さっさと退散しな――」


 その台詞を、最後まで云い終わることは、ナユタにはできなかった。


 気配も、距離も感じさせることなく――

 ナユタに息がかかるまで接近していたレエテ・サタナエルが、手刀――もちろん結晶化していない状態の手で、だが――彼女の首筋を背後から一打ちにしていたのだ。


「な、何を!?」


 失神したナユタに代わって、衝撃によろめきながらランスロットがレエテに問う。


「ランスロット、といったか、あなたは酸素を操る魔導を使うね? ほかに能力は何?」


 レエテが右手にぐったりしたナユタの体を抱きかかえつつ、表情一つ崩さず、ランスロットに短く質問を質問で返した。


 ランスロットは仰天した。

 この人間離れした女性は、今のこのごくわずかな時間でナユタの魔導士としての技の属性とその技量の高さから洞察して、強い炎を操る彼女の補助として酸素を操るサポートをランスロットが担当していることを見抜いたのだ。

 そしてもう一つの「質問」。本来魔導を繰る者、たやすく自分の能力の種を他人に明かすべきではないが……。炎に包まれていた男どもが川へと一目散に退散した後に後から後から続く追っ手の数十人からなる数を視界にとらえたランスロットは、渋々答えた。


「酸素に水素を結合し……、それを気圧変化も相乗させて急蒸発させることによる、氷結魔導、だよ」


「なら心配いらなさそうだね。『これから起こること』に、自分の身は自分で守ってほしい。

私はこの人の身を守るから」


 云うが早いか、レエテはナユタの体を胸に右手一本で抱きかかえ、残る左手でむんず、とランスロットの体を鷲掴みにした。


「わ、わ、わ~~~!!」


 恐れおののき、情けない声をあげるランスロットに構うことなく、レエテは一直線に――川、それも、まさに大瀑布の墜ち去る濁流、に向かって走っていった!

 そのまま勢い良く跳躍し、水しぶきとともに飛び込む!

 

 そして呆然と見送るしかない追っ手たちの眼前で、レエテ、ナユタ、ランスロット――2人と一匹は、レナウス瀑布の奈落へと、消えていった――。


「やだーー!! 死ぬ、絶対死ぬ!!! 墜ちて砕けて魚のエサだ、さもなきゃ化け物に握りつぶされてぺしゃんこにぃぃぃぃ!!! まだ人間の世界見たいのに!! 死にたくないぃぃぃぃぃぃ……」


 墜ちていく間も金切り声で叫び続ける魔導リスの声は瞬く間に小さく、はるか奈落の暗き地底湖に向けて、消えていった……。

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