第185話 1月―きっと大丈夫

 校長室での話が終わると、今日のところは学校に用はないので、さっさと下校することにした。授業の途中で抜けた形になるが、どういう扱いになるのだろう。

 

 どうでもいいか、一日くらい。

 今はもう何かを考えるのも億劫だった。


 校長室にいたのは、ほんの30分くらいだったはずだが、数時間ぶっ通しで受験勉強をした直後くらい、精神的に疲れていた。思考力がにぶり、脳が糖分を求めているのを感じる。今ならオレオレ詐欺にも余裕で引っかかるだろう。


「お疲れさまでした」


 学校の敷地を出てしばらく歩いた辺りで、乙姫がねぎらいの言葉をかけてくる。

 おっといけない、疲れた素振りなんて見せられない。


「あれくらいぜんぜんたいしたことはないよ、疲れてもいない」

「えいっ」


 乙姫がとつぜん僕の腕につかまり、身体ごとあずけるようにもたれかかってくる。精神的にも肉体的にもくたびれきっていた僕は、体重を支えきれずジェンガのごとくその場に崩れ落ちてしまう。


「え、ちょ、乙姫?」

「――たいしたこと、ありますよ」


 乙姫は僕に覆いかぶさった状態で、身体を起こさずじっと目を見つめてくる。

 垂れ下がった長い黒髪が頬をくすぐる。


「大人3人に囲まれたあんな状況で、堂々と自分の意見を通したじゃないですか。それって、とてもすごいことですよ」


「押し流されそうな状況に、なんとか抵抗してただけだよ」


「あんなひどい教育的指導・・・・・に、鏡一朗さんは真っ向から立ち向かって、渡り合っていました。挑発にも応じず、脅迫にも怯まず、揺さぶりにも動じなかった。先生方はずっとあなたを子供扱いしていましたけど、少なくとも精神的には対等でした。胸を張ってください」


 乙姫は人さし指で僕の胸部――心臓のあたりに触れてくる。白く細い指先と、まっすぐな視線を通じて、何かが僕の身体を流れているイメージがあった。回路をめぐる電流のようなそれは、たぶん、自信と呼ばれる感情だろう。


 乙姫が隣にいてくれるなら、僕はもっと強くなれる。守るべき相手がいるから、なんて格好いい理由ももちろんあるが、情けないところは見せたくないと格好をつけた結果であるのも否めない。


 目を逸らすタイミングを逃してしまい、なんとなく倒れ込んだまま見つめ合う。お互いしばし、ここが天下の往来であるのを忘れていた。


 反対側の歩道を歩く親子連れの、小さな子供がこちらを指さす。


「ママー、あれ何してるの? ふーふげんか?」


 僕たちは我に返った。

 乙姫がそそくさと立ち上がり、続けて僕も身体を起こす。


「違うわ。あれは青春の輝き。つたない感情を不器用な言葉で伝えあっているの」


 母親が子供に語り掛けている。


「よくわかんない……。あっ、パパとママが夜中にやってるのと同じやつ?」

「な……、何を言っているのかしらまったく、夜更かしをして、悪い子ね」


 親子連れは足早に去っていった。


「……精神的には強くなったかもしれませんが、肉体的にはまだまだですね。わたしの身体も支えられないようでは困ります」


 ズレた眼鏡と乱れた黒髪を整えると、乙姫はさっさと歩き始める。

 その背中を追いながら僕は言い訳を語った。


「さっきのは、ちょっと不意打ちだったから」

「鏡一朗さんは筋トレをするべきです」

「貧弱な坊やだって自覚はあるよ」

「元が貧弱でも、正しく鍛えればある程度は成果が得られますよ」

「……乙姫ってもしかして、たくましい男が好み?」


 恐るおそる問いかける。


 僕たちがこういう関係になるまでには紆余曲折があったわけだが、いちばん最初のきっかけは、乙姫の横恋慕だった。


 かつての――そう、かつて、昔の話だ――想い人だった直路なおみちは、野球部のエースなだけあって体格がいい。9回を投げ抜くスタミナもあり体力は十分といえるだろう。


 ……そんなことを考えているとだんだん嫌な汗がにじんできた。まずい。乙姫が筋骨隆々のマッチョを好みというのなら、今日からさっそく筋トレに励まなければならない。


「おかしなことを考えているみたいですが」

 乙姫はため息をつく。

「わたしはただ、『身体が資本』という言葉の正しさを実感しているだけです」


 身体が弱れば、心も引きずられる。

 その理屈は、ここ最近の乙姫を見ていると特に実感できる。


 いつも気を張っている彼女が、ぼんやりと散漫に時間を過ごすことが多くなった。ときどき明らかな弱音を吐くこともあった。両方の家の両親や、さきほどの先生方など――大人たちと対峙しているときも、負けず嫌いの乙姫にしては不自然なくらいに静かだった。それは、やはり妊娠による体調の変化が影響しているのだろう。


「少年野球でキャッチャーをやってたとき、上級生から、お前は身体が小さいからボールを後ろに逸らしそうだな、ってバカにされたことがあるんだよ」


「それで、鏡一朗さんはどうしたんですか」


「猛練習して、上級生からレギュラーの座を奪った」


「意外と男の子らしい負けず嫌いなところがあったんですね」


「その上級生っていうのが、ジャイ〇ンみたいに立派な体格をしてたから、確かにぱっと見の安心感はあったんだよね。でもボールのキャッチが上手じゃなかったから、僕はそこを磨いて、相手を上回ったわけ」


 つまり、見た目だけではなく技術でも安心感は与えられる。


 そういう話をしていたはずなのに、隣の彼女には見抜かれていたらしい。試すような視線でこちらを見上げてくる。


「……まだ、不安ですか?」


 乙姫の主語は、いつの間にか、僕たちへと切り替わっていた。


 校長室でのやり取りを思い出すと、とてもじゃないが安心できない。堂上は僕たちを罰する気まんまんだったし、校長や担任の口から僕たちを気づかう言葉はなかった。3人の教師はみんな敵――とまでは言わないが、少なくとも味方ではない。


「どういう処分になるかわからないし」

「きっと大丈夫ですよ」


 こちらの不安をよそに、乙姫は晴れやかな表情で言い切った。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 職員会議の結果、僕たちに下された処分は『説諭せつゆ』というものだった。

 耳慣れない言葉だけど、要は口頭による厳重注意だ。

 両親の同席すら不要の、最も軽い処分である。


 心配無用という乙姫は正しかったわけだ。


 後日、国沢先生と話をする機会があった。生徒会の顧問であり、乙姫とも懇意だった先生だ。会議内容はあまり口外してはいけないんだが、と前置きしつつも、言葉を選んで教えてくれた。


「堂上先生は何も発言しなかったな」

「何も、ですか」

「ああ。……あんなに脅しをかけたくせに、って顔だな」

「そんな顔してますか」

「あの人もいろいろあるんだろう」

「……いろいろで済ませたくないですけど」


 こちらの反抗的な言葉に、国沢先生は苦笑いを浮かべる。


「進路指導担当にとって、どの大学にどれだけの生徒が受かったかというのは、わかりやすい手柄だ。予備校ほどじゃないにしてもな。せっかくの当たりくじが無駄になったんで、腹が立ったんだろう」


「でも、どうあがいても損失を回収できそうにないから、職員会議では大人しくしていたってわけですか」


「もっとも、堂上先生が何を言おうが、処分が重くなることはなかっただろうがな」


「……そうなんですか?」


「校長室でのやり取りは――私もはっきり聞いたわけじゃないが、あれは極端にすぎる。そもそも女性の先生が同席してなかった時点で不公平だろう。世間が嫌う密室での話だ。気にしなくてもよかったんだよ」


「そう言われてみれば……」


 あの場ではとてもそんな余裕はなかったが、確かに先生の言うとおりだ。こちらの冷静さを失わせて、まともな判断力を奪う、そのために用意された状況だったのだと、振り返ってみて思う。


「ひと昔前ならいざ知らず、今は妊娠した生徒の処遇というのは、文科省から特別な配慮をするよう通達が来るくらい、お偉いさんもナーバスになっている」


「あっという間に拡散するご時世ですもんね……」


「少子化やら何やらで、時代が変わった、と言ってしまえばそれまでだが……。お前たちの選んだ道を、応援する人もいれば批判する人もいるだろう。しかし、トータルで見れば、昔に比べて風当たりは弱まっているはずだ」


「はい。それは本当に感じます」


 近しい人たちの反応を思い出しながら言う。

 それに、今までは気にかけたこともなかったが、出産や育児にかかわる社会保障制度などは、昔と比べてずいぶんと充実しているらしい。自分の事情が変わったことで、関わりのある情報を意識するようになっり、初めて気づく――そんな変化はたくさんある。


「とはいえ、険しい道には違いない。その歩き方はわかっているな?」


「困ったら周りに頼る、ですか」


「ほう」国沢先生はまじまじと僕を見つめる。「そのとおりだ。繭墨はなんでも一人でやろうとするし、それができてしまう生徒だった。他人の手を借りたがらない性質は、すぐに変わるものじゃない」


「そう……、ですかね」


 乙姫にそういうところがあるのは否定しない。自立が過ぎて、孤立まで行ってしまう女の子だった。だけど、任期の後半では、生徒会長らしく人を使うのにも慣れていたように思える。


 心の中で理屈をこねていると、先生はこちらをからかうように付け加えた。


「人を使うのと、人に頼るのは、似ているようで違うだろう。ずっとあの子に頼られてきたお前には、実感が薄いのかもしれんが」


〝使う〟と〝頼る〟の違い。

 突きつけられた、二つの関係性について考えてみる。


 人を使う場合、そこには指示する者とされる者という明確な上下関係があり、それゆえ仕事での関係にとどまることが多い。


 それに対して、人に頼るというのは、いかにも対等で、距離も近い関係に思える。頼った本人にそのつもりはなくとも、頼られた者は親しみを感じて、勘違いしてしまうのではないか。同性なら何も問題はないが、男は絶対に駄目だ。


「確かに、先生の言うとおりかもしれません」でも乙姫が僕以外の男を頼りにするのを想像しただけで落ち着かなくなるので、「周りに頼るのが苦手な乙姫の代わりに、その役目は僕がやりますよ」


「ん? おお……、前向き? なのか?」

「はい。僕にしては珍しいくらいです」

「それにしては何かどろりと澱んだものを感じるが……、まあ、わかっているならいい。じゃんじゃん頼りなさい」

「それはちょっと気安すぎなんじゃ」


 じゃんじゃん、という軽いノリに、つい反射的に否定してしまう。それに、両方の親に対して大見得を切った手前、そう簡単には頼れないプライドの問題もあった。


 国沢先生は首を振って、僕の肩にそっと手を置いた。


「大人というのはお前たちが思っているよりも寂しがりでな、案外、頼られるのを待っているものだ。……言わせるんじゃない」


 実感のこもったセリフだった。娘さんが反抗期なのだろうか。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 3学期はおだやかに過ぎていった。


 一月は乙姫の体調に合わせて登校はほどほどに留めて、そのぶん僕はバイトや勉強にいそしんだ。


 二月になると、つわりの症状もだいぶ和らいできたので、これからの生活の準備のために二人で出かけることが増えた。

 市役所でいくつかの書類をもらい、それに記入をして提出したり。

 病院で先生と話をして、妊娠の経過を確認してもらったり。

 新しいアパートの下見に行ったり。

 いろいろなことを、ひとつずつ片付けていった。


 そして、三月。

 桜の花はまだ咲かないが、そんな風情などお構いなしに、卒業式はやってくる。

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