第164話 いつもみたいに、クールでいてね?

 灰谷との勉強会は、彼女の学校近くのファミレスで行うことになった。


「なんで予備校の自習室を使わないの」

「まーいいからいいから」


 質問を流されて強引に連行される。

 窓辺の席についてカバンから参考書や過去問を取り出していると、遅れてやってきた灰谷が、コップを二つテーブルに置いた。ドリンクバーだ。


「アタシのおごり」


 灰谷は対面に腰掛けて頬杖をつき、得意げな顔で顎をしゃくった。

 たぶん、彼女なりの感謝の気持ちなのだろう。しかし相手の好みを聞かずに押し付けるのはどうなんだろうと、目の前に置かれたコーラを見ながら思う。僕は炭酸飲料全般が苦手なのだ。


「どうも」

「好きなだけお代わりして」

「景気がいいね」


 適当に応じておく。とりあえず喉は乾いていないし、放置しておいても問題ないだろう。灰谷は薄緑色の見るからに甘ったるそうな飲み物を一気にあおると、さっそく空っぽにして、お代わりを取りに席を立った。忙しないやつだ。


「灰谷さんは暗記が足りてないと思う」


 勉強の準備を整えた僕は、コップ片手に戻ってきた彼女に言った。


「でも、平均点ちょい以下くらいは取れてるし」

「それは試験がマークシート方式だからだよ。まっさらの状態でも4択だし、うろ覚えでも2択に絞り込める」

「まあなぁ、運しだいってところはあるかも」

「あてずっぽうで運悪く・・・正解してしまった問題に関しては、……灰谷さん、今まで復習なんてしてなかったんじゃないの」


 先日、灰谷から過去の模試をいくつか、地学に限って見せてもらった。点数自体にあまり変動はなく、大きな穴となっている分野も見当たらない。


 人にはそれぞれ得意科目があるが、その中でもさらに、分野ごとに得手不得手が細かく分かれているものだ。地学ならたとえば、気象は得意だが地震は苦手だとか、地質は得意だが天文は苦手、といった具合に偏りが出る。


 ところが、灰谷の答案からはそういった偏りが読み取れなかった。過去の結果を平均すると、どの分野も同じような点数になっている。


 それは欠点がないという意味ではなくて、欠点と思われる分野が毎回コロコロと変わっていたのだ。つまり、そこから導かれる結果は、


「前に似たような問題をやったことがある、でも細かいところが思い出せない、仕方なく神頼みで鉛筆を転がす――ってところ?」


「うっ……」


 灰谷は気まずそうに目を逸らした。


「筆記方式だったら今の点数よりもさらに半減すると思った方がいいよ」

「で、でもセンターはマークシート方式じゃんか」

「自分の恋路を鉛筆ころがしに頼るの?」

「……アンタ、キザな言い回し多くない?」

「話を逸らさない」


 生徒の軽口を注意しつつ、僕は内心ガッタガタに動揺していた。

 今のセリフのどこがキザだったのだろう。そんなつもりは全くなかったんだけど。気に障る、と書いて気障キザと読む。僕は無自覚のうちに灰谷の気に障ることを言っていたのだろうか。出会ってほんの数日の灰谷の気に障ってしまったなら、今まで僕はいったいどれくらいの人間の気に障る発言をしてきたのだろう。でもまあ、少なくとも乙姫だけは大丈夫なはずだ。話し方が気に障る相手と付き合おうとするわけがない。よし、精神が安定してきた。


「地学はとにかく暗記だよ。記憶の精度を高めて、自信を持ってマークする。それしかないよ」

「うへぇ……、アンタ、わけわかんない石の名前とか、わけわかんない現象の名前とか、よく覚えれるよな」

「昔から興味があったから、勉強のために覚えるっていう意識はなかったかな」

「興味? 地学に?」


 ホットスポットとかプレートテクトニクスとか、ハドレー循環とかエルニーニョとか、超新星爆発とかダークマターとかブラックホールとか重力波とか超銀河団とか、グッとくるワードが目白押しで、科学図鑑をよく開いている子供でした――という話は、どうせ変な顔をされるだろうから言わないでおく。


「灰谷さんはないの? 興味のある科目」

「アタシは……、英語なら」

「動機は? 洋画とか?」

「ううん、洋楽。昔のロックとか、よく聞くんだ」


 灰谷が名前を上げたロックバンドは僕の知らないものばかりだった。バンド名はいくつか、主にスタンド名として聞き覚えがあったが、持ち歌となるとさっぱりわからない。そういうものを知っている灰谷に、少しだけ尊敬の念を抱いてしまう。


「なんか格好いいね」

「はいはい、友達もそう言ってくれるよ。でも実際に聴いてみたって子はいなかったけどな。アンタもそのクチだろ」

「僕は、実際に聴いてみても良さがよくわからなくて挫折したクチだから。自分が投げ出してしまったものの楽しみ方を知っている人のことは、うらやましいと思うよ」


 他にも、ギターを買ったもののFコードでつまずいて置物と化すことや、コーヒーメーカーを買ったもののロクに使わず缶コーヒーに戻ってしまうことなどが、同様の現象として確認されており、これらを僕は中二病的敗北と呼んでいる。僕に適性があったのはコーヒーだけだ。無念である。


 そんな心の痛みに耐えていると、灰谷はなぜか、口を半開きにしてまじまじとこちらを見つめていた。僕は何か妙なことを言ってしまったのだろうか。妙な顔はしていない、と思いたい。


「何?」

「あ、えっと……、カズキも似たようなこと言って、ホメてくれたから」


 灰谷は途端に目を伏せてしおらしくなってしまう。

 謎の反応に僕はどう応じていいのかわからなくて、とりあえず目の前のコーラを口に含んだ。炭酸が暴れる。


「そう……。まあ、そのときの想いを忘れずに、勉強に励んだらいいんじゃない」

「……アンタも二次元以外に目を向けろよ」

「僕が二次元になるという手もある」


 軽口を交わし合って雑談が終わり、ようやく本来の目的――勉強が始まる。

 

 今日の方針としては、まずは範囲を絞っての暗記だ。前回の模試の第1設問をひたすら解いてもらうことにした。そのあいだ、不安のある箇所を再チェックしておこうと参考書を開きつつ、ふと窓の外へ目を向ける。視界をよぎるのは、ぞろぞろと歩道を歩いている同じ制服の群れ。


 学校が近いので目につくのも当然といえば当然だけど、それ以前にどこかでこのブレザーの制服を見た気がする。はて、どこだっただろう……。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 わたしと曜子は行きつけの喫茶店『キャトル・マン』に寄り道していました。

 その日の放課後は有志連合の集まりがなく、そのまま下校していたところを曜子に誘われたのです。


 いつもの席に向かい合わせで座ると、曜子がメニューを差し出してきます。


「今日はあたしのおごりだから」

「どういう風の吹き回し?」


 こちらの問いかけに、言葉ではなく笑みを返す曜子。

 それは、転んだ子供が立ち上がろうとするのを、じっと待っている母親のような、慈しみを感じる微笑みでした。同級生からそのような表情を向けられるのは、とても居心地が悪いのですが。


「今日はつらかったね」

「そのやさしさの理由がわからないわ」

「衣装合わせをやるなんて嘘までついたのに彼が誘いに乗ってくれなくて、ショックを受けてるんじゃないの?」


 おだやかな表情ながら、曜子の問いかけには容赦がなく、わたしは思わず絶句してしまいます。この子もずいぶん辛辣なことを言うようになったものです。いったい誰に似たのでしょうか。


「……あれはあくまで、そういうことがあるかもしれない、と匂わせただけ。結果的には間違った情報だったけれど、この世界にメイド服がある以上、わたしがあのあとメイド服に袖を通していた可能性はゼロではなかったのだから。あの時点では嘘ではなかったのよ」


「マンガの悪役みたいなムチャクチャな言い訳してる……」


 やってきた店員さんにオーダーを聞いてもらいます。曜子のおごりということなので、ありがたくお言葉に甘えましょう。わたしはいつものブレンドコーヒーに加えて、シフォンケーキを注文します。


「ちゃっかりしてる」

「心の痛みは甘味で和らげるの」

「ホントに痛んでる?」

「曜子のやさしさが鎮痛剤よ」

「キョウ君には甘えられないもんね」

「言ってくれるじゃない」


 曜子は悪びれることもなく、ニマニマと口元を上げていましたが、短い着信音を聞きつけると、カバンからスマートフォンを取り出します。


「メッセージ? 誰から?」

「それは秘密……ぅぇえええええ!?」


 画面を操作していた曜子が突然、甲高い奇声を発しました。店内の数少ないお客さんや店員さんまでもがこちらを振り返ります。


「何事?」

「な、内緒……」

「わたしにも?」

「ひ、ヒメにはぜったいに内緒」


 曜子はぶんぶんと首を振り、こちらに渡してなるものかとスマートフォンを遠ざけます。疑ってくださいと言わんばかりの反応ですが、曜子のうろたえ方を見るかぎり、誘っているのではなく、本気で隠したがっているのでしょう。不審にもほどがあります。


「わかった、ヨーコがそこまで言うなら諦めるわ」


 わたしはため息をついて、いつの間にか前のめりになっていた姿勢を正します。


「とても重大な情報なんでしょう? わたしが見たら取り乱してしまうくらいの」

「べ、別にそこまでじゃ……」

「いいのよ。ヨーコはわたしを気遣ってくれているんだから」


 わたしは小さく左右に首を振り、窓の外に目をやります。遠い目をした表情を意識しつつ、声のトーンは物憂げグルーミーに。


「でも……、その情報の出どころは誰なのかしら。わたしの知らない人ということはないでしょうね。だったら、いつかその誰かの口から、真実を聞かされないとも限らない。今日のことをすっかり忘れた無防備なわたしが、その話を聞いたとき、いったいどれだけのショックを受けてしまうのかしら。それを考えたら、いま知るのもあとで知るのも、同じことだと思わない?」


 わたしはテーブルに両肘を置いて身を乗り出します。泳ぐ曜子の瞳を見据えて、視線を逸らさず待つことしばし。


「えっと、その……、いつもみたいに、クールでいてね?」


 不穏な念押しとともに、根負けした曜子がスマートフォンを差し出しました。

 受け取って画面を操作すると、メッセージアプリが起動していました。トーク名は『あきらくん』。義弟の名前が出てきたことに少し驚きましたが、それ以上に驚愕したのはその中身です。



 明>学校近くのファミレスにて。義姉さんの彼氏っぽい男が義姉さんじゃない女子と一緒にいるところを目撃したんで検証よろ。



 その一文に続いて添付されていた画像は、ファミリーレストランの窓辺の席を捉えたものでした。テーブルに差し向かいで座っている、一組の男女。ブレザーの制服を華やかに着こなした他校の女子生徒と、伯鳴高校の制服をまとった平凡な男子生徒――どれだけ凝視してもその男子は鏡一朗さんでした。


 これが今日撮られた画像だとすれば、鏡一朗さんはわたしの誘いを断って、この派手めな女子と会っていたことになります。


 恋人であるわたしのアピールを振り切って、どこの馬の骨とも知れない、他校のギャルっぽい女子と密会していたというのは、いったいどういう了見でしょうか。


「……浮気者」

「ひぃ」


 曜子が小さく悲鳴を上げるのと同時に、のんきな着信音が鳴って新たなメッセージが届きました。



 明>これ義姉さんには内緒で。家が荒れるんで。



 間の悪いタイミングで送られてきた、その文字列に神経が逆なでされて、つい手に力が入ってしまいます。手の中でミシリと何かがきしむ音がしました。


「ちょ、ヒメ、あたしのスマホ!」

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