第98話 部屋から抜けられませんか?
東大寺の観光が終わって外へ出ると、百代は鹿せんべいの売り場へ一直線に駆けていった。大仏よりも鹿と戯れる方が優先らしい。
百代を見送ってから、男性陣が密集する。そして、
「ここがポイントだぞ」
九回裏ツーアウト満塁――のような緊張感で直路は言った。
しかし、その内容は『狙い球を絞れ』や『初球は待て』などの具体的な指示ではない。ここは野球場ではないし、僕たちは高校球児でもなかった。深紅の大優勝旗には興味がない。女の子と仲良くしたいという欲望に忠実な、ただの男子高校生だった。
「女子との仲を縮めるには、動物園が鉄板なんだ」
直路はしたり顔で言う。それがどうやら必勝の策らしかった。
「動物が嫌いな女子なんていないし、かわいいものを見ているだけで機嫌は常に上向きだし、共通の話題にも事欠かない、豆知識をネットで仕入れておけば、物知りをアピールできるって寸法だ」
「ストレート一本だった直路も、いつの間にか小手先の技を覚えてしまったのか」
「直球がいいからこそ変化球が活きるんだろうが」
僕の批判に対して、直路は野球での常套句を用いて反論してくる。まっすぐが速い方が、変化球との速度差や曲がりなどの落差によって、打者をより翻弄できるという意味合いである。
「ここは動物園じゃねえが、動物がいるんだから似たようなもんだ。
赤木の肩をぽんと叩くと、直路はどこかへ去っていった。よそのクラスにいる彼女と合流するのだろう。
そんな直路と入れ違いに、小走りの足音が近づいてきた。
僕はそれに気づかないフリをして、肩をすくめつつ口を開く。
「それにしても、鹿せんべいなんてねえ」
「どうした阿山。そんな白けた顔で」
「だって考えてもみなよ。ここには毎日たくさんの観光客が訪れている。東大寺と言えば誰もが大仏と金剛力士像、そして鹿を思い浮かべるはずだ。仏像には触れないけど、鹿とは触れ合える。特に餌やりは大人気だ。
ところが、鹿には鹿せんべい以外の食べ物を与えることが禁止されている。毎日毎日鹿せんべい、誰も彼もが鹿せんべい。僕が鹿だったら食べ飽きてる。鹿たちも本当はうんざりしてるんじゃないかな」
ゴシャッ、という音が聞こえて振り返ると、両腕いっぱいに鹿せんべいを抱いた百代が立ち尽くしていた。その足元には鹿せんべいの束が落下して粉々になっている。
赤木が慌てて百代を慰める。
「き、気にすんなって百代。バカという字は馬と鹿って書くだろ。鹿なんてどうせ味音痴に決まってる」
その言葉が聞こえたわけでもないだろうが、鹿が数匹、百代たちへと近づいてきていた。地面に散乱した鹿せんべいに興味を持ったのだろうか。食欲の前では
◆◇◆◇◆◇◆◇
動物は鉄板。
百代たちから離れ、繭墨を捜し歩いている僕の頭の中では、このフレーズが繰り返し響いていた。
先ほどさんざんディスった鹿せんべいを、神の遣いであるところのお鹿様に食べさせるだけで、男女の仲が進展する。そんな上手い話があるのだろうか。特殊詐欺じゃないのか。
ひとまず流れを考えてみよう。
……確かに、ネット上にあふれる投稿動画では、動物にエサをやったときのリアクションによってウケているものは数多い。
「チョー食べてる! このいやしんぼめ」
「へぇ、鹿って動物は女を見る目があるんだな」
……となると、鹿の食事を目の当たりにした女の子は、その仕草をかわいいと喜ぶだろう。
それに、手で直接餌を与えられる距離感も大事だ。動物との近さは、やがて男女の距離感を縮める一助になる。
「目がかわいくない? 絶対かわいいよね?」
「キミの方がかわいいよ、ずっとね」
……今や自らの体験はSNSにアップするのが当たり前の時代だ。
撮影を担当するのは男子ということになるだろう。スマホを一時的とはいえ相手に預けることは、相手への信頼がなければできないことだ。
「早く撮ってよ、鹿がもっしゃもっしゃ口動かしてるところ! 違うってば、あたしじゃなくて鹿の方!」
「お前があんまり楽しそうだから、その笑顔を記録に残しておきたかったんだ」
僕の考えを裏付けるように、アベックどもがいたるところで、鹿をダシにしてイチャついていた。なるほど、直路が言いたかったのは、こういうことだったのか。
『動物を間に挟んで二人の距離を縮めよう作戦』は、一般的な女子に対しては有効らしい。しかし、はたして、あの当代一の偏屈ガールに通用するのだろうか。
やがて、みやげ物屋の店先にたたずんでいる繭墨を発見した。
すでに買い物は済んでいたらしく、声をかけるとすぐにこちらへ近づいてくる。
「どうですか、これ」
繭墨は一冊の本を差し出してくる。かなりぶ厚いそれは写真集だった。仏像の。
「一般客は閲覧不可の国宝まで網羅した、学術的価値の高い写真集ですよ。普段は見られないローアングルも含めた全周囲からの撮影によって、仏像の表情の豊かさを捉えることに成功しています。いい買い物でした」
興奮気味に語る繭墨に対して、
「繭墨って……」歴女? という単語を口にしそうになる。
「阿山君」繭墨の声のトーンが下がった。
「ハイ」
「歴女に腐女子、ゆるふわ森ガール……、そういったレッテル貼りは、わたしの最も嫌うところだと知ってますよね」
「ハイ」
だから踏みとどまったのに察せられてしまった。
あと最後のゆるふわ森ガールって何?
「えーと、そ、その写真集、あとで見せてもらってもいい?」
と趣味にすり寄って機嫌を直してもらおうと試みる。
「興味あるんですか?」
「もちろん、僕にも功徳を積ませてよ」
「念仏を唱えただけで救われる、みたいな手軽さを期待されても困りますが」
「そういえば女性の仏様っているの?」
「仏様に性別はありませんよ、その辺りはキリスト教の天使と同じです。……性別を気にするのは、ローアングルという言葉に反応したからですか?」
底冷えのするような繭墨の声音に、僕は小さく首を振って否定の意思を見せる。
「ただの好奇心、知的好奇心だから」
「そう……、恥的好奇心ですか」
「うん……?」
「そういえば、さっきの土産物店に
御仏の名のもとに恋人を虐待する気だろうか。
みやげ物屋に引き返そうとする繭墨をどうにか引き止めて、集合場所に向かう。
そのとき一頭の鹿が、とととっ、と僕たちに近づいてきた。
神の遣いという言い伝えのごとく神がかったタイミング。チャンスだ。
「繭墨は、鹿って好き?」
「獣臭くて食べられたものではない、という批判はよく聞きますが、それも調理方法しだいですね」
鹿は、たたたっ、と足早に離れていった。
「
「それは失礼しました」
繭墨は口元を上げる。100%わかっている顔だった。
動物を介して場を和ませ、二人の距離を近づける――そんな浅はかな企みは、繭墨にはバレバレなのだろう。
「鹿と言えば、ヨーコはどうしたんですか? 奈良じゅうの鹿を餌付けしてやると息巻いていましたが」
「あ、ああ、百代なら赤木と一緒に、鹿と戯れてるはずだよ」
「そうですか。赤木君と一緒に……」
繭墨はこちらを向いて、何か言いたげに鋭く目を細める。
しかし、続く言葉はない。
明らかに空気が張り詰めたのがわかった。
唐突な変化に戸惑ってしまう。
鹿はいなくとも、それなりにいい感じの雰囲気になっていると思っていたのに。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。
それからホテルに戻るまで、僕たちの間に会話はなかった。
繭墨はこちらと目を合わせようともしなかった。
だから、
『消灯時間後、部屋から抜けられませんか?』
スマホにそんなメッセージが届いても、ちっとも胸は躍らないのだった。
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