第54話 惰性では立つことのできない場所
夏休み前の、最後の通常授業の日。
午後の二限を使って行われた生徒総会は、滞りなくその全プログラムを終えた。
会場は熱狂と興奮のるつぼ、鳴り止まぬ拍手と喝采、全校生徒がスタンディングオベーション……、なんてことには当然ならなかった。
もともとがつまらない行事なのだ。生徒はほとんどが嫌々参加しているし、新しく生徒の意見を聞く時間を設けたといっても、それ自体に最初から興味のない者だって多い。
ただ、生徒会長が閉会の言葉を述べたときに、生徒たちから沸き上がった拍手は、前回の2月末のそれよりも確実に大きかった。
生徒総会に興味のない生徒は多いが、それでも、いくらか関心を持たせることのできた生徒もいたらしい。その成果としての拍手を、繭墨はさも当然という涼やかな顔で受け止めていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ただ参加しているだけの生徒は意識しないことだが、祭りで忙しいのは手前の準備と、それが終わったあとの後片付けだ。
各クラスの委員長は椅子や机、ホワイトボードの設置などの肉体労働要員として駆り出されていた。生徒総会が終了したあとも、熱気の籠った体育館に居残って、後片付けから掃除にまでこき使われた。
汗を拭きながら教室に戻る。
クラスメイトは全員下校しており、空っぽの教室の片隅で、僕の机のフックにだけ寂しくカバンがぶら下がっている、さながら絞首刑のごとく――そんな情景を思い浮かべながら教室に入ると、窓辺の席に女子生徒が居残っていた。窓の外を眺めていたその子は、引き戸が動く音に反応してこちらを向いた。百代だった。
「あっ、キョウ君、お疲れさま」
「どうも。何してるの?」
「わかってるくせに」
と何が楽しいのか百代は笑う。
もちろん、百代が僕を待ってくれていたことはわかるが、それを口にするのは自意識過剰な気がして、つい、はぐらかしてしまうのだ。
そんな難儀な性格など、とうに把握されているのだろう。百代はそれ以上、何も言わずに窓の外へ視線を戻す。
僕は自分の席を通り過ぎて、百代の一つ後ろの席に腰掛ける。
「ね、ヒメと仲直りできた?」
「仲直りって……」
またノスタルジィを感じる単語を出してくる。小学生じゃないんだから。
「えー、だって毎日毎日、そのために手伝ってたんじゃないの? 生徒会の仕事」
「違う。前も話したけど、自分が言いだしたことだから心配だっただけ」
「えー、じゃあまだヒメと口きいてないの?」
「椅子の位置を確認するときに話したよ」
「そんな事務的なのじゃなくて」
百代は足をゆらゆらとブランコのように揺らした。
「僕と繭墨は、別に仲違いなんてしてないから、仲直りする必要もないよ」
「じゃあずっとこのままってこと?」
「この、っていう状態がよくわからないけど」
「そのまどろっこしい言い方!」
百代は不満そうに声を上げる。
僕は少し考えて、ちょっとした比喩を用意する。
「生徒会の長と、クラスの委員の長だから、なんていうか、仲間みたいなものだよね」
「あ、ちょっと親しい感じになったかも」
「ロープレでパーティを組んで戦うのって、魔王を倒すとかお姫様を助け出すとか、そういう目的でしょ」
「うん。みんなの力を合わせて困難に立ち向かう……、いい感じじゃない」
「だから困難が片付けばそれっきりってこと」
「えー、そこはやっぱり、ともにピンチを乗り越えて育まれる絆とか、ないの?」
「そんな大層な問題も起きなかったし」
僕の言葉に、百代は不満げに頬を膨らませている。
「そっかぁ、その場限りの関係なんだぁ」
「いやその言い方はちょっと語弊が」
「それならあたしは『魔法使い女』よりも、囚われのお姫様になって助けを待ってる方がいいかなぁ。それだったら物語が終わっても幸せな続きがありそうだし」
「お姫様願望とはまた大きく出たね」
僕が口元を上げると、百代はムッとした口調で、
「ふんだ、ヒメの方がお姫さまっぽいことくらいわかってますー」
「いや、繭墨は……、なんだろ、魔王を補佐する女指揮官みたいな感じがする」
「いつの間にか敵になってるんですけど……」
そんな話をしていると、不意に教室の戸が開いた。
「あ、よかった。まだ居たんだぁ」
「あれ、遠藤さん。生徒会は?」
「うん、今終わったところ」
「じゃあヒメ――会長は?」と百代が尋ねる。
「会長はまだ残ってるよぉ。あと2時間くらい続けちゃいそうな勢い」
「へえ」
僕は改めて遠藤に尋ねる。
「で、遠藤さんは何しに来たの?」
「お邪魔だったぁ?」と遠藤は首をかしげる。
「いや別に」
「……つまらない反応ー」と遠藤は口を尖らせる。
「つまらないおとこー」と百代が追従する。やめて。反論できない。
「まあ冗談は置いておいて……あたし、阿山君に謝らなきゃと思ってて」
「何それダジャレ?」
「あ、違うよぉ、そういうつもりじゃなくて」
と遠藤は慌てて手を振った。
「大丈夫、小学校の頃からさんざん言われてきたからもう何も感じないよ。久しぶりに聞いたからちょっと新鮮だったくらい」
少し気を使ってそう答えると、遠藤は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんねぇ、阿山君のほの暗い過去を掘り返しちゃって」
「いや別にそんなつもりで言ったんじゃないし、自虐とかでもないし」
「いいんだよキョウ君、無理に明るく振る舞わなくても」
「百代は乗っからなくていいから」
かしまし娘たちの攻勢を押し止めて、僕は話を元に戻す。ったく、ちょっと聞いてるとすぐ流れがおかしくなる。
「で、何? 謝らなきゃいけないことって」
「そうそう、あたしずっと、阿山君の名前を間違って覚えてて、ずっと別の名前で呼んでたから」
遠藤の自己申告のとおり、彼女は僕の名字を「まやま」だと思い込んでいた。1年で同じクラスだったころから丸一年ほどずっとそう呼んでいたのだ。
「ああ、それ? 別に気にしてないけど」
「けど?」
「今さら感あるよね」
「うぅ……」
それなりに気にしているらしく、遠藤は悲しげな顔をする。
「あー、ちなみに、なんで気づいたの?」
「会長が教えてくれたの」
遠藤は特に意識せずにそう口にしたが、こっちは結構びっくりしていた。
ここで繭墨のことが出てくるとは思わなかったからだ。
僕の動揺など気にしない様子で、遠藤は謝罪ができて満足げに教室を出ていく。
その去り際、
「それじゃ、あとは若いお二人で、ごゆっくり……」
と男女の宿泊客のために〝一つの布団に枕は二つ〟のベッドメイクをした仲居さんのような言葉を残していった。
数秒ほどの沈黙。
それは遠藤の意味深な発言に、照れてしまったからではない。
「ヒメが教えたんだって」
嬉しそうに、百代が言う。
「たまたまだよ、たまたま」
「かも、しれないねぇ」
「細かい間違いとか、めちゃくちゃ気にしそうだし」
「それだったら、気づいたとき、すぐに注意したんじゃないかなぁ」
「僕が気にしてなかったからスルーしたんだよ」
「そうかなぁ、ちょっと苦しい言い訳だよねぇ、ねえ?」
楽しそうに百代はこちらをのぞき込んでくる。ちょっとウザい。
「名前って大切だもんねぇ、聞くだけでその人のことを思い出しちゃうし」
「想像力が豊かでいいことだね」
「だから間違っているのが許せないっていう気持ち、あたしはよくわかるなぁ」
「僕は別に気にならないけど」
「ヒメもそうだったのかなぁ」
「そろそろバイト行かないと」
立ち上がると、百代もカバンを持ってついてくる。
「あっ、待って、途中まで一緒に帰ろ」
教室を出ると、すぐ隣に並んだ。
「――すーなーおーになれないのー、あーなーたーのまえではー♪」
変な歌を口ずさむ百代を引き離すべく、僕は足早に歩を進めるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
遠藤が僕の名前を呼び間違えていて、それを繭墨が注意したこと。
それは何かのサインなのだろうか。
例えば、歩み寄りの意思表示だったとか。
そんな都合のいいことを考えてしまったが、しかし翌日の教室では、繭墨と会話を交わすどころか目を合わすことすらなかった。
そのまま終業式のために体育館へ行って戻り、1学期最後のホームルームが終わると、繭墨は颯爽と教室を去っていった。
百代はそんな僕たちのすれ違いを、困ったような笑い顔で眺めていた。
繭墨がこのまま、ただの同級生になってしまう可能性は、そこそこ高いと思う。
今までは妙に関わりがあったが、その状態の方がイレギュラーなのだ。
直路を介して出会い、いくつかの季節を経て、4人の枠から直路が抜けてしまった。僕たちの集まる理由がなくなってしまったのだ。
とはいえ、このままでも直路とは友人だし、百代もたぶん、普通――あるいはそれ以上――に接してくれるだろう。
だけど繭墨は違う。放っておけば、きっと接点はなくなってしまう。
これがただの週末で、また数日すればクラスで顔を合わせられるというのなら、そこまで焦らなくてもいいのかもしれない。しかし、今日は終業式で、明日からは夏休みが始まる。始まってしまう。
40日も顔を合わせずにいれば、きっと大半のクラスメイトと同様の、教室が同じというだけの関係になる。
繭墨の隣というのは、本来、惰性では立つことのできない場所なのだろう。
いや、繭墨に限った話じゃない。
遠ざかっていく誰かの手を取ることも、自分のそばの誰かを幻滅させないことも。
動かなければ、ままならない。
突っ立っていてもズレていくだけだ。
夏への期待でいまだ喧騒の止まぬ教室の中、僕はそんなことを考えていた。
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