第8話 余計なことを言ってしまった


 勉強会をキャンセルされた翌日の昼休み。

 僕は廊下を歩く直路を見かけて声をかけた。


「昨日、どうして勉強会に来なかったのさ」

「ああ、それな……」


 直路の反応はにぶかった。ガタイの良い身体を猫背ぎみにして、浮かない表情をしている。決め球をホームランにされたレベルの落ち込みっぷりだ。


「何かあった?」

「いや、別に大したことじゃないんだが……」


 口ではそう言っているが、深刻そうな感じがした。僕は直路を校舎の端のベランダへと誘って、打ち明けやすいよう、周囲に人のいない状態を作ってやる。手すりに体重をあずけて景色を眺めていると、ようやく直路は話を始めた。


「これは友達……、いや部活の先輩から聞いた話なんだが」

「うん」まあそういうことにしておこうか。

「男子と女子が付き合ったら、やることがあるだろ」

「何? 麻雀? 二人打ちは大きな役を狙って雑になるから、あまり好きじゃないんだけど」


 口ぶりからいきなり嫌な予感がしたので、そんな風にごまかそうとしたが、直路の方は思った以上に真剣だったらしい。冗談は通じなかった。


「違う、セックスだ」

「……全力投球のストレート来たね」

「やかましい。で、その……、ストレートがすっぽ抜けちまって、気まずくなって困ってる……、っていう話を聞いたんだよ」

「おやまあ」


 これはひょっとして、僕には荷が重い相談なのではないだろうか。

 安請け合いするんじゃなかったと早くも後悔してしまう。


「おい黙るなよ」

「ああ、ごめん。すっぽ抜けというのは、どの程度の?」

「どの程度って」

「だから、ワンバンとか、後逸こういつしたとか」


 直路は眉をひそめて考え込むこと数秒、


「……デッドボール、だな」

「乱闘にはなってないの?」

「バッターはこっちを思いっきり睨みつつ一塁へ向かう……、みたいな感じだな」

「報復とかは」

「いや、なかった」

「じゃあ、それほど悪い状況じゃあないと思うよ」

「そうかぁ?」

「攻めた結果で歩かせるのはまだマシ。敬遠四球とかの方が、きっと印象は悪い」

「そう、なのか……?」


 悩みが晴れていない様子の直路に、僕は言葉を続ける。


「それに、こういうことは一発勝負じゃないから。何度も対戦した積み重ねで、通算成績ってのは決まるものだよ」


 前向きな話を続けていくうちに、直路は徐々に顔を上げていく。


「そう……、かもしれないな」


「大丈夫」と僕は直路の肩に手を置いた。「苦手意識を挽回するチャンスはまだある。データを集め、分析し、対策を練って、冷静にそれを実行するんだ。いいね」


「あ、ああ……」


 力ない仕草ではあったが、直路は確かに首を縦に振った。もともと実力のある選手なのだ。冷静にさえなれれば、きっと大丈夫だろう。


「相談してよかった。なんとなく、気が楽になった。ありがとうな」

「いいってことさ」


 そうこうしているうちに5限目の予鈴が鳴り、次は移動教室だという直路は足早に教室へ戻っていった。


 とりあえず持ち直してくれたみたいでよかった。僕自身、半分ほどは何を言っているのかわからない説得だったが、相手がポジティブに受け取ってくれたのなら、なんの問題もなかろう。


 それにしても。


 僕は手すりを両手でつかんだまま、その場にしゃがみ込んだ。


 まさか性交渉のお悩み相談を受けるとは思わなかった。

 先輩の話と言っていたが、直路本人の問題なのは確実だ。となれば相手は当然、百代なわけで……。


「あ~……」


 変な声を出してみても気分が紛れることはない。


 こんな生々しい話、聞きたくなかった。男友達の自慢話なら単なる猥談で済むが、女子の知り合いのそういう事情を知ってしまって、次に顔を合わせたときに冷静で居られるだろうか。

 ちょっと自信がない。しばらくあの二人とは会わないようにしよう。

 さいわいクラスが違うし選択授業もかぶっていない。こちらが気を付けていれば、避けるのはそう難しくないはずだ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「ね、阿山君、ちょっと相談があるんだけど」


 考えが甘かった。

 ホームルームの終了とともに百代が教室へ入ってきた。強引に僕の腕をつかむと、ひと気の少ない廊下端のベランダへ連行されてしまう。そこは奇しくも昼休みに直路の相談に乗ったのと同じ場所だ。


「……それで、相談っていうのは?」


 僕は手すりに体重をあずけて、遠くの景色を眺めながら尋ねた。


 直路の話を聞いたときは、あいつがしゃべりやすいだろうからと、あまり視線を向けないように配慮していた。

 しかし今は百代の顔を見るのが気まずくて、絶対に目を合わせたくなかった。彼女の身体の一部でも視界に入れただけで、よからぬ想像をしてしまいそうだ。


「ねえ、あたしって魅力ないのかな」


 百代もまた直路と同じように落ち込んでいる様子だった。梅雨空のようなジメジメした声で、面倒くさいことを聞いてくる。


「百代さんは朗らかだし、よく話すから、場の雰囲気を明るくしてくれる――」

「そうじゃなくってぇ……」


 僕の言葉はさえぎられた。別の返事をご所望らしいが、それに応えるのはとても難しい。百代の言う魅力とは、性格などの内面的なものではなく、顔のつくりやスタイルなどの、外見のことなのだろう。


 そんなことはわかっていたから、わざと答えをはぐらかしたというのに。


『あたしってきれいだと思う? 美人だと思う?』


 などと直接的な質問をしてこない以上は、言葉を濁してごまかすつもりだった。

 人の容姿をとやかく言うのは苦手だ。

 人は見た目ではない――なんて綺麗ごとを言うつもりはない。単に、人の外見をあれこれ批評するのは下品だと思っているからだ。


 しかし、逃げは通じないらしい。

 僕はあきらめて口を開いた。


「百代さんは……、か、かわいいと思うよ。笑ったときとか、特に」

「ありがと。じゃあカラダは?」


 百代は容赦なく追撃してくる。

 もう勘弁してほしい。僕の精神力は擦り切れる寸前だ。


 横目で百代を見やる。彼女は正直言って、発育のよろしい身体をしているので、それがまた困りものなのだ。わがままは身体だけにしてほしい。


「……自分に魅力がないと思うようなことがあったの?」


 何も気づいていない鈍感男をよそおって尋ねると、百代は首をかしげて、


「二人きりになっても、そーゆーことをナオ君がしてこないから……、ほら、別にあたしも、そこまで積極的にしたいわけじゃないけど、でも、男子ってノリノリでしょ、超ノリ気で、常にそーゆーことを考えてるんでしょ?」


 と開けっぴろげなことを言う。

 前々から思っていたが、百代は僕に対する距離感が近い。計算なのか天然なのかわからない。直路の友達というだけで警戒心がなさ過ぎだ。あるいは僕を異性と思っていないのかもしれない。


 その無防備さが男子を勘違いさせることに気づかないのだろうか。いや、僕は別に勘違いしてはいないけれど、一般論としての話だ。本当だよ。


「同意を求められても困るけど、男子だって常時発情してるわけじゃないし、それだって相手によるし、……むしろ大切な相手だから勢い任せにはしたくないっていう、なけなしの理性が働いているのかもしれない」

「そーかなぁ」

「そう思っておいた方が、精神衛生にはいいよ」

「じゃあどうしたら理性をやっつけられると思う?」


 百代は首をかしげつつ聞いてくる。

 積極的だった。超ノリ気だった。


「やっつけるなんて……。争いは何も生まないよ。倒すのではなく、手を取り合うところから始めないと」

「ボディタッチってこと? ちょっと緊張するけど、今度試してみる」


 僕は心の中で天を仰いだ。

 逃げたい。

 この場から、この話題から、可及的かきゅうてきすみやかに脱出したい。

 その気持ちが先走りしすぎて、僕はひどい提案をしてしまう。


「こういうデリケートな話題は、僕じゃなくて繭墨さんに相談すべきじゃないの」


 それが残酷なことは理解しているが、繭墨を諦めさせるためには、何か強いショックが必要なのではないか。そんな風に言い訳をした。


「それは……、ダメだよ」


 百代は小さく左右に首を振る。


「だって、あたし、知ってるもん。ヒメがナオ君を好きなこと」


「――え」


 思わず振り返る。


 百代の表情には色がなかった。

 怒るでもなく悲しむでもない、ニュートラルな空っぽの横顔。


 このとき僕は初めて、百代曜子の本質に触れた気がした。

 彼女は見た目どおりの朗らかなだけの女の子ではない。


 ……いや、女の子は誰しも、見た目どおりではないのかもしれない。わかりやすい外面の奥底に、得体の知れないものを宿している。男子はそいつに翻弄ほんろうされる定めなのだ。


 いつも明るくて、距離が近くて、こちらを動揺させる、無防備な女の子。そういうレッテルを貼っただけで百代曜子をわかった気になっていた自分を、ひどく未熟な人間だと感じた。


「……変なこと聞いてゴメン。今の話、全部忘れて?」


 こちらが呆然としていると、百代は顔の前で両手を合わせて、そそくさとベランダを出ていってしまった。



  ◆◇◆◇◆◇◆◇



「遅かったですね」


 昇降口で繭墨が待ち構えていた。まるで決闘にのぞむガンマンのように、目の前に立ちはだかっている。こちらがわずかでも気を抜けば、一瞬のスキを突いて、するどい舌鋒を叩き込んでくるのだろう。

 しかし今の僕はその戦いに付き合える状態ではない。直路と百代から、立て続けにアレの話を聞かされて、心のキャパシティが限界に来ていた。


「明日でいい?」

「――ちょっと!」


 隣をすり抜けて帰ろうとする僕を、繭墨は腕をつかんで引き留めた。


「話も聞かずに、ぞんざいに応じないでください」

「百代と直路の様子がおかしいから、何か知らないかって、聞きたかったんじゃないの?」

「それは……、そのとおりですが」


 考えを言い当てられるとは思わなかったのか、バツが悪そうに手を離す。こんな繭墨はめずらしい。ずいぶん焦っているようだ。二人が気まずくなっている理由が、知りたくて仕方がないのだろう。

 そのくせ、自分の好きな相手を百代こいがたきに知られているという、肝心なことは知らないのだ。

 教えてやったらどんな顔をするだろうか――そう考えてみて、底意地の悪い発想に嫌気がする。


 ともあれ僕はいま、繭墨乙姫をあわれんでいた。

 だから、余計なことを言ってしまったのだろう。


「くわしい事情は言えないけど、あの二人、つけ入る隙はあると思うよ」

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