第3話 恋愛と戦争ではあらゆる手段が正当化されます
この部屋に異性を入れるのは、家族以外では初めてだった。
僕が独り暮らしをしていることは、たぶん直路から聞いたのだろう。
それはいい。
問題なのは繭墨の真意だ。
繭墨はいったいどんなつもりで、僕の部屋へ行きたいなどと言ったのか。まさか好意からではないだろう。お互い学校で顔を見たことくらいはあるが、会話と呼べるくらいに言葉を交わしたのは今日が初めてだ。
ほんの数時間で男性としての魅力をアピールできるほど、僕はコミュニケーション能力に長けていない。そして繭墨もまた、ほんの数時間で「この人は運命の相手だ」などと即決してしまうような、気の早い女子には見えない。
――という理屈を抜きにして、何かを期待している自分がいるのが非常に悔しいところだった。
「失礼します」
繭墨が部屋に入ってくる。
自分の部屋に女子がいることにすさまじい違和感を感じつつ、テーブルの辺りを指さした。
「そのあたり、適当に座ってて」
「はい。綺麗にしているんですね」
「物が少ないからね」
繭墨はベッドとテーブルの間のスペースに腰を下ろした。両脚をくっつけたままでわずかに正座を崩した、女性的な座り方だ。その佇まいひとつとっても妙な気品がある。床に広がったスカートを引き寄せるのを見て、この部屋に女子がいるのだと改めて実感した。
「……えーと、何か飲む? 麦茶と牛乳とコーヒーくらいしかないけど」
この質問の出処は、おもてなしの気持ちが半分、居心地の悪さをごまかしたいのが半分だ。
「ではコーヒーをお願いします。……ああ、モカ以外で」
「好みがあるんだ」
「酸味のあるコーヒーは好きじゃないんです」
「わかった。本棚の本は自由に見ていいから」
「はい、ではお言葉に甘えて」
コーヒーを淹れているあいだ、繭墨は本棚から抜き取った文庫本を読んでいた。流し読みではなく、かなりじっくりと読書に入り込んでいるようで、カップをテーブルの上に置くまで、視線は本にくぎ付けになっていた。
「ありがとうございます」
「何か入れる?」
「いえ、そのままでかまいません」
繭墨はブラックのコーヒーを平然と飲んだ。
いつもミルクを入れている僕は、わずかな敗北感を感じつつ、立ったままでコーヒーをひと口。そしてカップを勉強用の机に置いて、イスに腰かけた。
同じテーブルには座らない。狭い室内で距離が近くなるのがなんとなく嫌だった。床に座る繭墨を見下ろすことになるのは失礼かもしれないが、いちいち気を遣っていられない。むしろ、このくらいの高低差がないと、彼女の雰囲気にのまれてしまいそうだった。
「……それで、話っていうのは?」
改めて本題を切り出すと、繭墨はもうひと口ぶんカップをかたむけてから、静かにテーブルに置いた。
「進藤君と曜子の仲について、阿山君はどう見ますか?」
「どうって……、まあ、付き合い始めの初々しい感じじゃないの。お互いの距離を測っているあたりとか、特にさ」
「物は言いようですね」
言いたいことはわかっている。あの二人の関係は、ファミレスでのやり取りを見るかぎり〝初々しい〟よりも〝ぎこちない〟の方が正しい。だけど、繭墨に同意するわけにはいかなかった。
「そういうのは時間が解決するよ。川の上流にある石は角ばっているけど、下流に行くほどに丸みを帯びてくるじゃないか」
「角が取れるだけならいいですが、ときに強く衝突して、真っ二つに割れてしまうこともありますよ」
その切り返しで繭墨乙姫の性格がわかった。
ああ言えばこう言うタイプだ。
「……友達なら、そうならないように見守ってあげないと」
「阿山君は意外と気遣いができる人ですね」
「僕が?」
「進藤君と曜子の会話がとぎれそうになったら、さりげなくフォローを入れていたじゃないですか。他人に興味なさそうな振りをしているくせに、意外とよく見ていますね。感心しました」
「そりゃどうも」
意外、と二度も言われてしまった。そんなにコミュニケーションに難のありそうな人間に見えるのだろうか。あまり他人に興味がないのは事実だが、もう少しカモフラージュした方がいいのかもしれない。自分の振る舞いを反省していると、その隙を突かれた。
「――それとも、よく見ているのは、曜子だからですか?」
頬が引きつるのをごまかせなかった。
艶めくストレートの黒髪の持ち主だからといって、その言動までまっすぐで
「何が言いたいの」
「阿山君は曜子が好きですよね」
訂正。
質問への答えは、
『好きか嫌いかで言えば好き』
という曖昧なものになるのだと自覚している。
百代曜子は僕にとって、この学校で最も距離の近い女の子だ。
友達の女友達というつながりで知り合った百代は、外見はかわいいし、起伏の良い身体も男子としてはいちいち意識してしまうし、気にならないと言えば嘘になる。
しかし僕は距離を詰めるような行動も起こさず、漠然と過ごしているうちに、百代はいつの間にか直路と付き合うようになっていた。
それをショックだとは感じなかった。百代はやっぱり直路が好きで、その想いは見事に通じたんだな、大したものだ、と逆に感心したくらいだ。
悔しくて眠れなくて、なんとしても振り向かせたいと真剣に考える――そんな、焦がれるような気持ちにはならなかった。
『好きか嫌いかで言えば好き』とは、それくらいの感情だ。
「まあ、百代さんは友達だから」
やんわりとした肯定。
いわゆる、ラブではなくライク、をアピールしてみる。
「確かに阿山君といるときの方が、曜子は気楽そうにしていますね」
「あまり男扱いされてないのかもしれない」
「実はわたし、進藤君が好きなんです」
いきなりの告白にぎょっとして、言葉に詰まる。
「……唐突だね」
「球場でも言ったはずですが」
「ごめん、あのときはよく聞こえなくて」
「難聴系はもう流行りませんよ。いま来ているのは糖度高い系と歳の差もの、そして同居ものです」
「どこの業界の事情だよ……」
繭墨は口元を上げると、ゆっくりと立ち上がった。胸元に手のひらを当てて、眼鏡の奥の瞳でまっすぐに見据えてくる。
「進藤君を好きなわたしと、曜子を好きな阿山君。わたしたちは協力すべきです」
「二人の仲を引き裂くことを?」
こちらの反論にも、繭墨はまるで揺るがない。
「まさか。そんな露骨な妨害はしませんよ。二人がギクシャクしているときに、さり気なく声をかけるんです。間を取り持つのではなく、悩みを相談したり、雑談で気を紛らわせたり、そういうことを繰り返しているうちに、曜子も阿山君の良さに気づくはずです」
「なるほど、繭墨さんは、自分の望みが叶うなら、友達が不幸になってもいいってわけだ」
「その考えは飛躍しすぎです。わたしは二人の不幸を望んでなどいません。それに、外野がちょっと騒いだ程度で別れてしまうというのなら、そんな
またしても言葉に詰まる。
繭墨の言い分にも一理あると、そう思ってしまう時点で、僕は彼女に勝てないのだろう。少なくとも言葉で言い負かすことはできそうになかった。
勝てなければ、逃げるしかない。
「繭墨さんがなんと言おうと、僕は恋愛なんて面倒くさいことに手を出すつもりはないから」
「かまいませんよ。先ほども言ったじゃないですか。お友達として、曜子と仲良くしてくれればいいんです」
この切実そうなセリフだけを聞けば――そして、語っている繭墨の親身な表情だけを見れば、なんて友達思いなんだろうと感動してしまう場面である。
しかし、すべては利己的。
「なんていうか……、なりふり構わないんだね」
「はい。恋愛と戦争ではあらゆる手段が正当化されますから」
「それは勝者の言い分だよ」
僕は椅子から立ち上がり、たぶん今日はじめて、繭墨とまともに目を合わせた。
「僕が君を敗者にする。わたしが間違っていましたと言わせてやる」
こんな風に反発されるのは意外だったのか、繭墨は一瞬、目を見開いた。しかし、すぐに落ち着きを取り戻すと、
「情熱的な言葉。楽しみですね。……さしあたっては、来週でしょうか」
そう言って艶っぽく笑った。きゅっとつり上がる唇は、口紅もつけていないのに、ひどく鮮やかな赤色をしていた。
来週?
一体なんのことを言っているのか。こちらの緊張をよそに、繭墨はかばんを手に取った。ようやく帰ってくれるらしい。
「コーヒー、ご馳走様でした。ペーパードリップですか?」
「ああ、うん」
「もう少し蒸らし時間を工夫した方が、味の深みが増しますよ。よかったら試してみてください」
「ああ……、うん」
最後にきっちり
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