ハッピーエンドはここじゃない

水月康介

1年次2学期

第1話 交際が成立すればハッピーエンド、なんて物語の中だけですから

阿山あやま君ですね」


 放課後、教室を出てすぐのところで名前を呼ばれた。

 立ち止まって、声をかけてきた女子を見て驚く。

 繭墨まゆずみ乙姫いつきだったからだ。


 長い黒髪の似合うミステリアスな美少女で、入学以来、定期テストの成績トップに君臨し続ける優等生でもある。後から出てきたクラスメイトたちも、チラチラと彼女を横目で見ながら通り過ぎていく。それくらいの美少女で、有名人だ。


「そうだけど……、どうしたの。繭墨さんとは話したことなかったと思うけど」


 というか学年の女子の9割とは話したことがない。


「何事にも初めてはあります」

「え、ああ、うん、そりゃまあ」

「明日、市民球場で野球部が試合をします。ご存知ですか」

「知ってるけど」

「その試合を一緒に見に行きませんか」


 何かの冗談かと思い、目の前の黒髪美人を凝視してしまう。しかし繭墨は涼しい顔のままだ。紅色べにいろの縁の眼鏡を持ち上げつつ、なんですか? と首をかしげる。


「いや……、どうして僕を誘うわけ」

「野球に詳しいんですよね」

「まあ、それなりには」


 僕は曖昧あいまいにうなずく。少年野球をやっていたので、人より少しばかり知っているだけだ。詳しいと胸を張れるほどのレベルじゃない。


「詳しい人と観戦した方が楽しいじゃないですか」

「でも僕たちはお互いを知らない。ほぼ初対面だ」

「初対面ですからよく知らないのは当たり前です。少しずつ時間をかけて、お互いを理解していきましょう」


 付き合い始めの彼氏彼女みたいなことを言いながら、繭墨がスマホを取り出す。


「さあ、阿山君も」

「あっはい」


 こちらのスマホを手渡すと、繭墨は両手で二つのスマホを操作して、あっという間に連絡先を交換してしまう。被害を受けたみたいな言い方をしてしまったが、内心では相当そわそわしていた。


「では、また明日」


 スマホを返すと、繭墨はストレートロングの黒髪を揺らしながら去っていく。僕は化かされたような気分で呆然ぼうぜんとその後ろ姿を見送った。

 一連の動作が優美すぎて見とれてしまったのだ。

 同級生の女子に対して、優美なんて感想を抱いたのは初めてだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 そして、翌日。僕は誘われるがままに市民球場を訪れていた。

 断るという選択肢はなかった。


『外野席で適当に待っていてください』とのことだったので、外野の芝生席にシートを敷いて、すでに始まっている試合をぼんやりと眺めていると、後ろから声をかけられた。


「あれ? 阿山君?」


 相手を確認しなくても、繭墨でないのはわかっていた。彼女とはまったくトーンの違う、可愛げのある明るい声だったからだ。


「どしたの? こんなところで」


 首をかしげつつ、大きな瞳でこちらを見下ろすのは、百代ももしろ曜子ようこだ。

 露出が多く明るい色の服で着飾り、肩口まで伸びた髪は軽く脱色している。クラスの中心グループに所属していそうな、いわゆるギャルっぽい女の子である。


「見てのとおり、野球の観戦だよ」

「ナオ君に誘われたの?」

「いや……、まあ、そんなところ」


 適当に答える。


 実はほとんど面識のない学年一の優等生に誘われたんだと説明しても、信じてもらえるとは思えなかった。

 それに、時間に厳しそうな繭墨が、待ち合わせ時間を過ぎても来ていないということは、あの約束自体が嘘だったのかもしれない。

 嘘ならまだいい。独り身のさびしさが見せた幻覚ではありませんように。


「ふーん、そっか。あ、そこ、ちょっと座らせて?」


 百代は適当に返事をすると、僕が座っているシートを指さした。腰を浮かせて移動して、空いたスペースを手のひらでポンと叩く。


「どうぞ」

「ありがと」


 百代はすぐ隣に腰を下ろす。座るときの動作でふわりとそよ風が流れて、なんかいい匂いがした。


「百代さんは彼氏の応援?」

「もちろん」


 僕の問いかけに、百代は満面の笑みでうなずいた。付き合い始めたばかりの彼氏を思うだけで楽しくて仕方がない、という顔だ。


 百代は、野球部のエースの進藤直路と付き合っている。僕は直路とはちょっとした知り合いで、その縁があって百代とも顔見知りなのだ。


「一人で来たの?」

「ううん、友達と一緒だったけど、今はちょっと別行動中」


 それを聞いて安心した。百代の友達ということは彼女のように派手な見た目で明るい子なのだろう。百代と話をするだけでいっぱいいっぱいなのに、これ以上増えられたらキャパオーバーだ。挙動不審を隠しきれなくなる。


「阿山君も一人?」

「今日のところはね」

「あ、ナオ君が投げるみたい!」


 こちらの強がりをスルーして、百代がマウンドを指さした。


 今いるピッチャーの背番号は1番だけど、高校野球は基本的に1番がエースナンバーなので、それだけでは相手投手と見分けがつかない。ユニフォームもあまり代わり映えがしないし。


「よく見えるね」

「ナオ君は身体つきもほかの選手とは違うから」

「へえ」


 目をらしてみても、正直いって区別がつかない。違いのわからない男で申し訳ない限りだ。


 しかし、投じられた一球で、はっきりとわかった。

 音が違う。

 キャッチャーミットに収まる瞬間の、ずどんと響く重低音が、ボールの威力を物語っていた。1年生にしてエースナンバーを背負う、進藤直路の実力を示す音だった。


 試合は順調に進んでいった。

 直路の好投によって、相手側のスコアボードにはゼロが並んでいる。


「やった! すごーい! また三振!」


 百代は手を叩いてはしゃいでいる。彼氏の活躍がうれしくて仕方ないご様子だ。


「ね、阿山あやま君、いまのボール、すごかったよね!?」


 興奮気味にこちらへ身体を寄せてくる。距離が近い。僕は上半身を反らして遠ざかりつつ、彼女の言葉に答える。ただし心の中で。


 そんなに騒ぎ立てるほどじゃない。球速はそこそこだけど、コントロールがよくなかった。キャッチャーの構えたところから大外れしているじゃないか。三振したのはピッチャーがすごいからというより、バッターがたいしたことなかったからだよ。


「ちょっと阿山君、聞いてる?」


 さらに百代は身体を近づけてくると、僕の肩をゆすった。そういう気安いスキンシップは異性に不慣れな男子を誤解させるおそれがあるので遠慮してほしい。


「聞いてるよ、かなり調子いいんじゃないの、絶好調だ」


 身体を横にずらしつつ、適当に答えると、


「だよね、うん、さすがナオ君」


 百代は嬉しそうにうなずいた。そして肩に置かれていた手が離れる。百代にとってはほとんど無意識のごく自然な動作だったのだろう。


 それにしても、ナオ君、か。

 直路の名前からとったのだろうが、なかなか甘ったるい呼び方だ。僕だったら阿山鏡一朗きょういちろうだから『キョウ君』とでも呼ばれるのだろうか。何を想像しているんだ僕は。


 ここへは野球部の試合を見に来ているのだ。試合に集中せねば。


 そう気持ちを切り替えた途端に、直路は調子を崩した。

 3連打を食らってあっさり途中交代してしまったのだ。


「……大丈夫かな、ナオ君。あたしちょっと様子見て来るね」


 百代は慌てて立ち上がると、小走りにベンチの方へ駆けていく。

 それを見送って一人になると、思わずため息が出た。

 距離感の近い女子といると緊張してしまう。なんなら女子といるだけでも緊張してしまう。


「阿山君」


 気の休まるひまもなく、背後から静かな声がかかった。

 まさかと思い振り返ると、そこにいたのは本来の約束の相手だった。


 長くまっすぐな黒髪、白い肌とそれが映える紅色べにいろふちのメガネ、素肌を隠す長袖のワンピースをまとった、黒曜石のように硬質こうしつで、近寄りがたい雰囲気の女の子。


「……繭墨さん」

「お待たせしてしまい、申し訳ありません」

「いや、別にいいよ」

「お楽しみのところをお邪魔してしまいましたか?」


 繭墨は上品に笑う。上品だが、意味深な笑いだった。


「百代さんのことを言ってるのなら、あの子は別に」


「彼氏の活躍を見たいがために、休日にもかかわらず、こんなところまで観戦に来ている。見かけのわりに甲斐甲斐しいですよね」


 それはどこか含みのある物言いだった。友達のことを話しているのに、対等な印象が感じられない。


「百代さんのこと、知ってたの?」

「わたしは同行者ですから」


 涼しい顔で繭墨は言う。百代が言っていた、別行動をしている友達というのは、どうやら繭墨のことらしい。


「じゃあ、待ち合わせに遅れたわけじゃなくて……、もしかして」


 監視していたのだろうか。

 僕と百代が並んで試合を見ている様子を。


 こちらの疑いを肯定するように、繭墨は口元を上げた。


「曜子と話をしているあなたは、とても楽しそうでしたよ。わたしの見込んだとおり・・・・・・・・・・です」


 また違和感。

 彼女の言葉の端々から、こちらを見下ろしているような距離を感じた。


 確かに繭墨の言うとおり、百代との会話は弾んだと思う。直路という共通の知人と、野球という共通の話題があったおかげだ。それに、


「百代さんは基本的に、誰にでも距離が近いよ」

「はい、曜子の長所だと思います。ですが、それだけでしょうか」

「……何が言いたいの」


「わたしは曜子と進藤君とは同じクラスなので、二人が一緒のところをよく見かけます。だからつい、比較してしまったんです」


「比較?」

「先ほどのあなたたちは、それに負けないくらい、お似合いに見えましたよ」


  繭墨の浮かべる笑顔は作り物めいていた。


 かわいい女子とお似合いだと言われて悪い気はしない。だが、その相手が彼氏持ちとなると話は別だ。この優等生はいったいどういうつもりで、僕を調子に乗せるようなことを言うのか。


「付き合っている二人が、目に見えて親密だとは限らないよ。交際に必要なのは、互いへの敬意なんじゃないかな」


 綺麗ごとだと自覚しつつも、やんわりと反論してみる。


「高校生のお付き合い・・・・・に、そのような気構えで臨む人がどれだけいるでしょうか」

 繭墨は止まらなかった。淡々と語り続ける。

「告白は曜子の方からだったと聞いています。あの子の好意には、憧憬しょうけいの念が多分に含まれていますから」


「直路に憧れてるってこと?」

「わからないとは言わせませんよ」


 進藤直路には野球の才能がある。

 それを疑う余地はない。


 一年生にしてエースピッチャー。夏の大会で弱小野球部が準決勝にまで進めたのは、間違いなくあいつのおかげだ。そんな、誰もが知っている明白な〝すごさ〟は、確かに憧れの対象になりうるだろう。


「対する進藤君の方はどうでしょうか」


 繭墨は首をかたむける。メガネのレンズが光を反射してきらめき、ストレートの長い黒髪が揺れた。


「引く手あまたの進藤君が、たくさんの選択肢の中から曜子を選んだ理由は? そこに特別な経緯はあったのでしょうか」


「小難しく考えすぎだよ、それは」


 とっさに言葉をにごしたのは、繭墨への警戒感からだ。


 繭墨乙姫は、危ない。


 直路と百代――付き合っている二人を並べて、相手を想う感情の強さを比較しようとしている。


 百代曜子は誰もが憧れる才能に向けて、星に手を伸ばすような必死さで告白した。

 進藤直路はたくさんの選択肢から、軽くつまむような気持ちで彼女を受け入れた。


 買い手と売り手。

 選ぶ者と選ばれる者。

 持つ者と持たざる者。


 そう・・だとは限らないのに、繭墨の話を聞いていると、実際にそんな格差があったのではないかと、嫌な想像をしてしまう。


 流されてはいけない。反論を、しなくては。


「……敬意が必要とは言ったけど、それは付き合っている間に少しずつ形作られていくものであって、最初から完成してなくてもいいんじゃないかな」


「同感です。どんな関係だって、最初は不確かなものです」


 繭墨は静かにうなずいた。

 思ったよりもあっさり同意されて、拍子抜けしてしまう。

 それだけに、続く言葉には違和感があった。


「――交際が成立すればハッピーエンド、なんて物語の中だけですから」


 だから気を引き締めないといけない、という心構えではなく。

 だからまだ望みを捨ててはいけない、と執着しゅうちゃくするかのような。


「……繭墨さん?」


 まさかと思いつつ問いかけると、繭墨はあっさりとそれを口にした。


「わたし、進藤君のことが好きなんです」

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