降星確率
五月雨ムユ
降星確率
『おはようございます。今日の天気は晴れ。日中の
ここ4か月ですっかり聞き慣れてしまった、携帯ラジオから流れるそんな無感情な声が耳をつき、ぼんやりと意識が覚醒する。
ゆっくりと体を起こし、体の各部を触って自分の状態を確認する。
うん、まだ死んでない。
そんな安堵と共にはあと息を吐き、ぐるっと辺りを見渡して、今度は周辺の状況を確認する。
コンクリートが剥き出しになった壁、散乱した家具、粉々に割れた窓ガラス。そんなあれこれが一気に目に入ってくる
あくびを噛み殺して立ち上がり、もはや窓の意味を成していないその四角い空洞から外に目を向ける。そこには荒れ果てた室内と同じように、破壊されつくした街並みが広がっている。
幾度となく目にした、いつもの光景だ。
横倒しになったビル、原形をとどめていない家や車、そして、大きく亀裂が走り、今にも落ちてきそうな空。
毎朝様々な場所で、もしかしたらというか細い希望を抱いて、こうして外の景色を眺めるのだが、幸か不幸か、結果はいつも同じだ。寝床にした場所によって見える景色は違えど、一度とてそれが非現実の、冗談だったためしはない。
いつだって俺たちの前の前に広がるのは、この終わりを迎えた世界だ。
空は割れ、地上は降り注ぐ星のシャワーに均され、灰だけが静かに降り積もる、そんな夢も希望も見ることの許されない世界。
一体俺は何をしているんだろう。たまにふと、そんな疑問が頭をもたげる。
しかし、その疑問の答えが見つかったことなど今まで一度とてない。そして、すぐにその疑問は霧のように消えてなくなる。だから最近は深く考えないようにしていた。
ふと、今いる建物のすぐそばに大きめのクレーターができていることに気付く。昨晩、この建物を寝床に選んだ時にはなかったものだ。とすると、夜のうちにできたものらしい。
やれやれ、あと少しズレていたらこの建物に直撃していた。本当に危なかった。
安堵と落胆の入り混じったため息をつく。
軽く辺りを見渡した感じ、他にはクレーターは見つからなかったのでどうやら降ってきたのはこの1つだけらしかった。昨晩、しっかりと安全性を確認した上で寝床をこの建物にした甲斐があった。
けど、今日はあくまで運が良かっただけだ。次いつ、俺たちが寝ているところにこいつが降ってくるなんてわからないし、直撃しない保証なんてない。
俺たちが動きを止め、夢の世界に連れ去られている間に、星は俺たちをあの世へ
でも、案外それも悪くないかもしれない。ぼんやりと終わりかけの世界の景色を眺めながら、そんなことを考える。
いつ死ぬかという恐怖に苛まれながら生きるより、自分が死んだということすら知らぬままに、スパッと死んでいけたら、それは存外幸せなことなのではないだろうか。その方がよっぽど人間らしいのではないだろうか。
終わりかけの世界に、こんな風に生き残ってしまった俺たちなんかよりずっと、人間らしいのではないか──。
「……んん?
と、ようやく起きてきたらしい
この世界で生き残っている、俺以外の唯一の人間。そして、俺の幼馴染、
バッサリと肩のあたりで乱暴に切られた黒髪に、汚れた制服。そんな彼女の姿を見て、なんだか少し心が痛んだ。
けど、そんな彼女の姿こそが今の俺たちの置かれている状況を、何よりもわかりやすく示してた。
「ああ、起きたか。おはよう、由衣」
「おはよう、泉ちゃん。今日も私達、生きてるね」
そう言って、彼女は携帯ラジオのそばに置いてあったメガネに手を伸ばす。
でもまあ、とはいえ、だ。
俺も人のことをどうこう言えるような状態じゃない。彼女と同じく、あちこち擦れて、汚れに汚れたブレザーにぼさぼさの髪。とてもじゃないが、まともな恰好とは言えないだろう。
おそらく由衣は、まだ女の子だから多少なりと容姿には気を遣っているだろうが(長かった髪も、一応は多少見栄えするように切っていたし)、でも俺はそんなこと気にしていなかったので、きっと傍目からは相当悲惨に映っていることだろう。
「ああ、そうだな。けど、すぐそこに星が落ちてた。あれがあと少しズレてたら、俺たち……」
「死んじゃってた、ね」
無表情にそうつぶやいて、胸のあたりを抑える由衣。
「でも、私達は今日も生きてる」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言って、由衣は大きく伸びをして立ち上がる。
「どう? 外の様子」
「……あ、ああ」
一瞬、その言葉が俺に向けられたものなのか、判断しかねた。
いや、彼女が話しかける相手が俺しかいないなんて、わかりきっているはずなのだが。
だから俺は「いつも通りだよ」と、気の抜けた返事を返す。
「いつも通り、ね……じゃあ、そんないつも通りに滅んだ世界を見て、泉ちゃんは──」
「滅んだ世界じゃないよ。滅びかけた世界だ」
「ああ、うん。そうだね」
寝袋やランプ、ラジオに水筒といった生活道具を、リュックにしまいながら由衣は言葉を続ける。
「……じゃあ、そんな滅びかけた世界を見て、泉ちゃんは何を考えてたの?」
「俺?」
思わず聞き返す。
「うん、そう」と頷く由衣。
「泉ちゃん、毎朝窓から外を見て、まるで何かを理解したみたいな顔してるからさ。何考えてるのかなーって」
「俺、そんな顔してたか……?」
初耳だった。けど、わかる気がする。
何かを理解したような顔。それはきっと俺が生きる意味を探して、そして見失い、結局寝ている間に死ねなかったという後悔を噛みしめている顔だ。
「……別に、何も。ただなんとなく外を眺めて、ああ、終わってるなって思ってるだけだよ」
けど、なんとなくウソをついた。
自分でもその理由はよくわからなかったけど、でも、酷く心がざわついた。
「そう」
彼女は一言、そう言ったきり口を閉ざした。
なんて声をかけていいかわからず、俺は黙って寝床の撤収を手伝う。
今日も俺たちは旅に出ねばならない。
寝袋や、ラジオや、地図を持ち、飲み水や、食料といったものを探し──そして、俺たち以外の生存者を見つけるために。
「そっちはどう? 片付いた?」
「大方な。由衣の方は?」
「私も準備できたよ」
ぐるりと周りを見渡し、回収し忘れている物資がないことを確認する。
俺達はすでに相当な距離を旅してきたのだ。おそらくだが、俺たちが同じ場に戻ってくることは今後一切ないだろう。
だからと言っては何だが、なんとなく窓の外の景色に目が行く。
「……泉ちゃん? 大丈夫? さっきからぼーっとしてるみたいだけど……」
「……いや、すまん。なんでもないよ」
高校生には不釣り合いな大きめの登山用のリュックを、ポンポンと手のひらで撫でる由衣。そんな彼女を見ていると、不思議と俺も頑張ろうという気になる。
「さて、行くか」
「うん、そうだね」
ぐーっと伸びを1つして、俺たちはリュックを背負って立ち上がる。
終末世界の2人ぼっちのアテのない旅が、今日も始まる。
*
一体、俺たちはどのくらい旅を続けているのだろう。
灰の降り積もった道を歩きながら、たまにふと、そんなことを考える。
真っ青な空が剥がれ落ち、煌めく星々が降り注ぎ、地上世界を平らに均したあの大崩落が起きたのは、今からもう何か月前も前のことだ。
あの日、俺たちは学校にいた。
なんら変わり映えのない飽き飽きしたいつも通りの日常を謳歌していたあの日、俺たちは突如として発生したあの大崩落に巻き込まれた。
大崩落の瞬間は、今でも鮮明に覚えている。
何の気なしに窓の外に目をやると、空が大きくひび割れていた。
空が割れるだなんて、自分でも何を言っているんだという感じだが、事実、あの日、空は割れていた。そしてそれは、今も続いている。
古代中国で、空が落ちてこないか不安で仕方がないという男がいたという話があり、そこから気にしても仕方のないことを考えるという意味で「杞憂」という言葉が生まれたというが、しかし、それも実際に空が落ちる瞬間を目にしてしまうと、そんな言葉の1つさえ、笑い飛ばせなくなってしまう。
大崩落の日。ひび割れた空の欠片が、轟音と共にいくつも地上に落ちてきた。
そしてその割れた隙間から、今度は星が降ってきた。
まるでテレビの中で見た流星群のように、眩い光の粒子をまとった星々が、次々と地面に激突し、衝撃は大きなうねりとなって世界を飲み込んだ。
空が落ちてきて、星が降ってきて、世界は終わる。
いつか読んだ神話のそんな一説をふと思い出した俺は、気が付くと目の前のその光景に心奪われていた。
『綺麗……』
何百回、何千回と繰り返し、飽き飽きしていた日常とはかけ離れ、そんなつまらないあれこれを全て破壊しつくすかのような力が、俺にはどうしようもなく魅力的に見えた。
結局俺は、星々が校舎を粉砕し、何人ものクラスメイトと共に生き埋めになる段になってもなお、目の前の刺激に魅入られたままだった。
「……全てを壊してしまうような力、か……」
踏み出した足に絡みつくような、舞い上がる灰を睨んで呟く。
「ん? 泉ちゃん、どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
不謹慎にも、この世界を終焉の1歩手前まで追いやった大崩落に魅入られた俺だったが、しかし、そんな昂りも次に目が覚めた時には消えていた。
倒壊した校舎から奇跡的に助かった俺が、目を覚ましてまず目の当たりにしたのは、すべてを破壊するような力強さをもった星々の輝きなどではなく、廃墟と化した世界だった。
色彩というものを失い、美しさも、騒がしさも生もなく、どこまでも灰色で、静まり返った死の世界。
そんな終焉の中で、ただ1つ大きくひび割れた空だけが、妙に生き生きとしていた。
なんとか瓦礫から這い出た俺は、誰か他に生き残っている人はいないものかと、辺りをふらふらと彷徨った。
結果、幼馴染の由衣を助け出すことには成功したが、でも、それ以外に生き残っている人間は、どうやらいないらしいということも分かった。
『空が……割れてる……』
瓦礫の隙間から由衣を救い出したとき、彼女は空を見上げてそう言った。
『もしかして、世界中、こうなのかな……?』
『……わからない』
インターネットはもちろん、テレビやラジオといった情報機器がことごとく使い物にならなかったので、俺達には世界が今どうなっているかなんて判断のしようがなかった。
その後、俺たちは生き残っている人を探して、アテのない旅に出ることにした。
ギリギリ解読可能な地図を手に入れ、寝袋を手に入れ、かろうじて生きているラジオを拾い、そうして少しずつ装備を整えながら、俺たちは大きな町を目指すことにした。
食料や水、それに暖を取るための燃料などを集めながら、俺たちは生き残っている人を探して彷徨い続けた。
でも、俺たちが誰かに出会うことはなかった。
『もしかしてさ、今、世界中で生き残ってるのって、私達だけなのかな……?』
アテもなく彷徨い始めて1か月くらい経ったころだっただろうか。
ふと、由衣がそう呟いたことがあった。
彼女が一体何を想ってその言葉を口にしたのかはわからなかったが、それでも俺は、共に生き残ったのが由衣でよかったと思っている。
大崩落からずっと、俺は隙あらば死のことを考えていたのだ。
あの日見た輝きや、それが宿している熱といったものを思い出すだけで、目の前のこの死にかけの世界と、そこに往生際悪くしがみつく俺の存在が、どうしようもなくくだらなく思えてしまったのだ。
人生最期の晴れ舞台に俺は参加し損ねてしまった。そんな気がした。
そしてそんな後悔に身を焦がす度、俺は無意識に刃物を自分の首にあてがっていた。
しかしそれでも、ギリギリ俺が踏みとどまり、死なずに済んだのは、そばに由衣がいてくれたからだったと思う。
もし俺がたった1人で生き残り、誰とも話すことなく彷徨っていたら、ものの数分で喉を?き切って文字通り星々の仲間入りを果たしていたことだろう。
でも、俺のそばには由衣がいた。
幼馴染というのは不思議なものだ。
由衣は俺にとって仲間だとか、親友とか、彼女や、ましてや“家族”なんてありきたりな言葉じゃ語れないほど大きな存在だった。
そのことに気付いた瞬間、俺は彼女をこの世界に引き留めてくれた神様に、心の底から感謝した。
由衣がいてくれたから、俺はこの世界で今、こうして生きている。そしてこれからも生きていける。
「ありがとうな、由衣」
だから俺は時々、何とはなしに彼女にそんな風にお礼を言う。
その度に由衣は「またまた、どうしたの?」と、からかうように笑うのだが、でも、それでも俺はそんな彼女に救われていた。
「あ、泉ちゃん。あれ、見て」
「ん?」
ふと、彼女がそう言って地平線を指さす。
そちらに目を向けると、ひび割れた群青色の空に一筋の光の尾が見えた。
キラキラと数秒間粒子を振りまいたそれは、次の瞬間遥か彼方の地平に轟音を立てて落下する。
そして肌でびりびりと空気を揺らす振動を感じ、それが現実の出来事なのだと言い聞かせるかのように、光の粒子に目を奪われていた俺の心を現実に引き戻す。
「昼間の降星確率、30%って言ってたのにね」
「まあ……でも、30%って、要は3つに1つの確率で降るってことだろ? だったら、それは妥当なんじゃないか?」
「うーん……でも、微妙じゃない? 30%だよ? これが70%だったらほぼ確実に降るなって思うし、50%ならまあ降るなって思うけど、でも30%だよ?」
俺の目を見つめて熱く語る由衣。
「だよ、って言われても……」
メガネをかけているせいか周りから何となく頭がいいのでは、と思われていた節がある彼女だが、こんな風に意外にどうでもいいことでムキになったりする可愛らしい面もある。
「でも、確かにそう言われると微妙だな。似たような話で、ほら、カップラーメンの3分って単位さ、あれ長いと思うか短いと思うか、みたいな議論ってあるだろ?」
「あー……3分待つとなると長いけど、何かしようと思うと時間がない、ってこと?」
メガネをかけているせいで、などと言いはしたが、彼女がメガネをかけていない頃から、事実、由衣は頭が良かったと記憶している。
幼馴染という腐れ縁故か、そんなことまでわかってしまうのだが、今更そんなことを気にしても仕方ないだろう。
「そうそう。その時間に何か、って考えた途端、なんだか急に時の流れが速くなったりしてさ」
何の気なしに口にしたその言葉に、由衣は少しの間押し黙る。
「……その時間に何か、ね……」
ふと隣でそう呟く彼女を見て、由衣はあの光をどう見ていたのだろうかと、そんなことを考える。
日々降り注ぐ星々の光や、その粒子。そして、世界を栄光の終焉へと導いたあの大崩壊。そんなあれこれを、俺が希望を見出し、見惚れてしまったあれこれを、彼女はどう受け止めているのだろう。
思わず聞こうかとも思ったが、思い直して口をつぐむ。
「……いや、すまん。他意はないんだ」
「……ううん、私の方こそゴメン。気にしないで」
これも幼馴染同士だからだろうか? アテのない旅をたった2人きりで続けて早数か月。俺たちは特に大きな喧嘩や、もちろんのこと仲間割れなどせずにここまでやってこれた。きっと、お互いのいい面も悪い面も知り尽くしているが故なのだろう。
もちろん、周りの目を気にしなくてよくなったというのも、ゼロではないだろうが。
だからこそ、なあに、まだ時間ならたっぷりあるさと思い直す。世界が真の終わりを迎えるまで、一体あとどのくらいあるかわからないが、でも、俺たちが悩み、足掻いて、その先で由衣と語り合うのに十分な時間くらいはきっと用意されているはずだ。
ふふっと笑う彼女の横顔を見て、俺はそこで考えるのをやめた。
『……今日の日中の降星確率は30%、そして夜は90%と高く、ところにより土砂降りと……』
彼女のリュックに吊り下げられた携帯ラジオが、静まり返った道に無機質に響く。
今日の降星確率は──。
そんな、すでに聞き飽きたフレーズを右から左に聞き流しながら、俺はなんとなく由衣に話しかける。
「なあ、由衣」
「何、泉ちゃん?」
「このラジオを放送してるやつはさ、どんなやつなんだろうな」
一体何度口にしたかわからない、そんな疑問を性懲りもなく投げかける。別に由衣に尋ねたところで、それで答えが得られるだなんて思っちゃいない。
ただ、何か疑問の余地がある、不透明な希望が欲しいだけなのだろう。
そうわかっていても、俺は口に出せずにはいられない。
「さあ? こんな終わりかけの世界で、誰が聞いてるともしれないのに放送し
続ける人の気持ちなんて、私にはわからないよ」
そう言ってふふっと笑う由衣。
「そう、だな」
俺たちの旅はひょっとして、そのラジオの声の主を探しているんじゃないかと、時々そう思う。
誰もいなくなった世界で、それでも毎日、その日の降星確率を健気に放送し続ける、その物好きを。
『それではみなさん、今日も1日、空に気を付けて過ごしましょう』
放送は毎回、最後のお決まりのフレーズと共に終わる。
その後は特に何を告げるわけでもなく、ただ静かに何か音楽が流れるのみだ。
曲のチョイスを誰がしているのか、そもそもこんな放送に意味があるのかは不明だが、俺たちは毎回、今日の天気予報を聞き終えるとラジオの電源を落とすことにしている。
いつ充電できるかもわからないこの環境下では、ただ音楽を聴くだけのために電源を入れておけないし、そしてなにより、こんな世界で音楽なんて、聴いたところで現実とのギャップに絶望するだけに違いない。
だから今日も俺はスイッチに手を伸ばし、その電源を落とそうとした──のだが、そこでふと、由衣が「ねえ」と伸ばした俺の手をそっと掴んだ。
「ん? どうした?」
思わず彼女の顔を見つめてそう聞き返す。少しキツい口調になったかな、とも思ったが、由衣はさほど気にした様子もなく笑って「今日は聴いてみない?」と、そう言った。
「聴いてって……音楽を、か?」
前に音楽を聴いたのは、この放送の存在を知り、何を放送しているのか興味本位で丸1日電源を入れていた時だったか。それは確か、大崩落の直後だったように思う。
「うん、そう。そりゃあ充電がもったいないとか、そういう理屈はわかるけど、でも、たまには、さ」
「たまには、ねぇ?」
「うん。別に、何が何でも音楽が聴きたいってわけじゃないんだけど……なんて言うのかな。生きていた世界のことも、忘れたくないなって」
生きていた世界、というその言葉に心が波立つのを感じる。
俺にとっての生きていた世界は、あの日見た輝きの中にこそあった。が、きっと彼女の言う「生きていた世界」はまた別にあるのだろう。
「……まあ、いいんじゃないか?」
けど、具体的に何か拒否する理由も見つけられず、俺はしぶしぶ由衣の提案を受け入れる。
「ふふっ、ありがとう」
まあ、彼女のこの笑顔が見られるのなら、これくらい安いものか。
何となくそう考え、納得する。
『続いてはこちらの曲。この終末世界を彷徨う全ての人に、暖かな愛がありますように。では、どうぞ』
1曲、また1曲と流れる曲は、しかしそのどれも、俺には聴き覚えのないものだった。
「なんだかあんまり楽しそうじゃないね」
「そ、そう見えるか……?」
「うん。泉ちゃん、さっきからずっと怖い顔してる」
むすっとした表情の彼女を見て、笑ったり怒ったり忙しい奴だなと、そんなどうでもいいことを思う。もっとも、俺は由衣のそんな明るさに救われているのだから、それをどうこう言うつもりなんてない。
「ああ……悪い。どうもこういうのに慣れなくて」
だから、俺はそんな彼女に素直に頭を下げる。
「こういうの?」
「こういう音楽とか、楽しい
いや、ひょっとしたら大崩落の光に照らされて失明してしまい、見えてないだけなのかもしれない。
そう思ったが、口には出さないでおいた。
「うん。わかるよ、その気持ち。私も音楽なんて久々に聴いたから。……ねぇ、泉ちゃん」
「なんだ?」
「“
「ええと、昔よく聴いてたやつだっけ?」
確か、Remain The Demiseとかいうグループが歌っていた曲だったか?
「あの、星がどうとかってやつ?」
「そりゃあ星時雨ってタイトルなんだから、星がどうこうに決まってるでしょ」
ふふふと苦笑いを浮かべる由衣。
星時雨。確か、俺たちがまだ小学校に入学したての頃にリリースされた曲だったか。特にブームになったわけでも、一部に熱狂的なファンがいた訳でもない普通の曲だったが、どういうわけか俺たちの両親がこの曲を好きで、俺たちは何度も星時雨を聴かされたものだ。
『星の降る夜に空が泣いて、僕の頬を一筋の雨粒が撫でたよ』
そんな歌い始めを持つこの曲だったが、今考えてみれば、もしかしたら星時雨を作った人は大崩落を予測していたんじゃないかとさえ思う。
「懐かしいねぇ。またどっかで聴きたいなぁ」
「そうだな。思えばしばらく耳にしてないしな」
そう答えると、由衣は驚いたように俺の顔を見る。
「な、なんだよ」
「い、いや……泉ちゃんが同意してくれるとは思わなくて。ほら、さっき『俺は音楽が嫌いだ』って言ってたしさ」
「いや、言ってねぇよ?」
由衣の記憶が変な方向に歪められていた。
「まあでも、他のくだらない曲と違って、星時雨は思い入れのある曲だからな」
由衣との思い出の曲、とは言わないでおこう。なんだか恥ずかしいし。
「あーあ。またどっかで聴けないかなぁ。……その辺にCDでも落ちてないかな?」
「そんな都合のいい展開は残念ながらないと思うぞ。っていうか、もしあっても肝心のプレイヤーがないじゃんか」
「そこはほら、プレイヤーとセットで?」
「電源はどうすんだよ」
「じゃあコンセントもセットで!!」
「ご都合主義だな……」
星時雨を聴きたいってことには賛成だが、そんなものが落ちているくらいだったら、燃料や食料、飲み水の1つでも落ちていてくれた方がありがたい。
と、そう考えてふと、由衣のリュックにぶら下がるラジオが目に入る。
「じゃあさ、由衣」
「ん?」
「リクエストしてみれば? そのラジオにさ」
何が何だかわからないといった表情の由衣。うん。まあそうだろうね。正直、自分でも何言ってるんだ状態だからな。
けど、そんな内心とは裏腹に、俺は結構真面目にラジオへのリクエストを考えていた。
「いつかさ、そのラジオを放送してる人に会えたらさ、リクエストしようぜ。星時雨をさ」
「いつか、会えたら……」
「ああ、そうだ。それくらいの目標があった方が、この先の見えない旅だって、少しは楽しくなるだろ?」
「泉ちゃん……」
俺にしては随分と普通の、前向きなことを言っているなと思ったが、不思議とそれを笑う気にはならなかった。
大崩落に置いてきた心が、ようやく俺の身体に帰ってきた。なんとなく、そんな気がした。
*
翌朝。目を覚ました俺は、ぼんやりと昨日とは違う天井を見上げる。
ああ、今日も生きている。
ああ、今日も死ねなかった。
そんなごちゃまぜの感情が頭の中に渦巻いて、ひんやりとした辺りの空気とは対照的に俺の身体は熱を帯びていた。
自分の首筋に触れると、その温もりに、まるでお前は生きているぞと言われたような気がして舌打ちをする。
ふと、隣ですやすやと寝ている由衣の寝顔に目が行く。
ああ、よかった。彼女は今日も生きている。自分の時と違い、彼女の場合は素直にそう思うことができた。
そっと彼女の頬に手を添えると、そのあまりの柔らかさに驚く。
俺と共に世界の終わりを旅していた女の子は、こんなにも脆く壊れやすい存在だったのか。いついかなる時も笑顔で、俺の隣で俺を生かしてくれた彼女とて、1人の女の子なのだ。
今更ながら、そう気づかされた。
「泉ちゃん……くすぐったいよ」
なんて、そんなことを考えていたら、いつの間にか由衣は目を覚ましていたらしい。困ったように笑いながら、俺の顔を見つめていた。
「ああ、悪い」
「もー。寝ている女の子にいたずらなんて、いけないんだ。泉ちゃんじゃなかったらグーパンチだったよ?」
「あはは……それは怖いな。以後気をつけるよ」
「うむ、よろしい!」
由衣はにっこりと微笑み、伸びをして起き上がる。
そんな彼女の様子を見て、俺は不意に何かが足りないことに気付く。
何十回と繰り返した、この終末世界の朝のルーティンに、今朝は何かが足りない。
そこでふと、視界に携帯ラジオが見えた。
そうだ、これだ。今朝はまだ放送を耳にしていない。
「って、なんだ。電源切れてるじゃん」
しかし近寄ってみると、なんてことはなく、単に電源が切れているだけだった。
いつもは夜間、放送に備えてスイッチを入れっぱなしにして寝るのだが、昨夜
入れるのを忘れたのだろう。
やれやれと頭を掻き、電源ボタンに触れる。
『……ようございます。今日の天気は晴れ。日中の降星確率は……』
すると、いつもの無感情な声がラジオから流れだす。
よかった、今日も聴けた。ラジオから流れる声を聴きながら、そんなことを考える。
『……そして夜は85%と高く、ところにより土砂降りとなるでしょう。日が沈んだ後は…………』
だが、その放送はいつもと違い、途中で途切れてしまった。
いつもの別れの挨拶、「それではみなさん、今日も空に気を付けて過ごしましょう」というフレーズに達する前に、ラジオは沈黙してしまう。
はて、一体どうしたのだろう? 電波障害か?
いや、こんな電波を遮るものさえない世界で、電波障害も何もないだろう。
では、放送局に何かあったのだろうか? もしくは放送機器か、あるいは本人に何かトラブルがあったのだろうか?
「泉ちゃーん? どうかしたのー?」
黙々と荷物をまとめていた由衣が、さっきから黙ったままの俺とラジオを交互に見比べる。
「放送が途中で途切れたんだよ。最後の挨拶までいかずに、突然沈黙した」
「えー? どうしたんだろう……ラジオの故障かな?」
「いや、こんな急に壊れたりはしないだろ。それに、昨夜は電源切って寝たんだし、むしろいつもより状態が良くてもいいくらいのはずだが……」
口でそうは言いつつ、でも由衣の意見もあながち間違ってないかもしれないなと、首をかしげる。
このラジオだって散々酷使してきたんだ。コロっと死んでしまっても、なんら不思議はない。
『失礼しました。日が沈んだ後は不要な外出は控え……』
と、そう考えてラジオを手に取ったその刹那、急に息を吹き返したように、放送は再開した。
「ああ、直った」
「よかったよかった」
はあとため息をついてラジオをリュックに括り付ける。
『……それではみなさん、今日もよい終末を』
「……ん?」
いつもとは違う、聞き慣れないフレーズに思わず動きを止め、由衣に「なあ」と声をかける。
「今さ、こいつなんか変なこと言わなかったか?」
「変なこと?」
はてと首をかしげる由衣。
あれ、ひょっとして俺の勘違いだったか?
「“今日もよい終末を”とかなんとか……言ってなかったか?」
「いや、私に聞かれても……しゅうまつ、って、Week end の週末じゃないよね?」
「そっちじゃなくて、世界が終わる方の終末だと思うけど」
「うーん……どうしたんだろうね? 今までそんなこと、言ってなかったよね?」
「そうだな」
この放送が一体いつからやっているのか、正確なところはわからないけれど、でも、記憶にある限り初めてのことだった。
「この放送してる人もさ、疲れちゃったんじゃない? だから、たまには気分転換に、ってさ」
「気分転換に、ねぇ?」
そんな理由で、と言いかけて、いやと思い直す。
こんな世界で何かをするのにそんな大層な理由が必要なのだろうか。
そう考えると、疲れちゃった、という彼女の意見はあながち間違ってもいないかもしれない。
「じゃあ、いつか会ったらさ、その時に聞いてみようよ」
「ああ、そうだな」
昨日のお返しとばかりに笑う彼女の言葉に頷き、俺たちは荷物を抱えて立ち上がる。
さあ、今日も旅に出かけよう。
終焉の星が降り注ぐ、この世界を。
*
「私、お風呂入りたい」
突然由衣がそんなことを言いだしたのは、その日の午後のことだった。
午前中の探索を終え、少し遅めの昼ご飯──と言っても、乾パンと水だけだが──を食べていると、不意に彼女が口を開いたのだ。
「お風呂?」
生ぬるい水を口に流し込みながら、思わず聞き返すと、
「ほら、私も泉ちゃんもさ、長いことお風呂入ってないでしょ?」と返される。
「まあ、そうだな」
「だから、入りたいなーって」
「入りたいなって、そんなこと言われても……それに、お風呂こそ入ってないけど、水浴びは定期的にしてるじゃん」
「水浴びとお風呂は、全然別のものじゃない?」
「んー。そういうもんか?」
むすっと頬を膨らませる由衣を見て、こんな世界の一体どこにお風呂なんてものが、と言いかけて、ああと頷く。
「ああ……温泉、か」
「うん、そういうこと。どこかにないかな?」
「うーん……どうだろうな……」
なんとなく、ぐるりと辺りを見渡すと、いつも通りの光景が目に入ってくる。倒壊したビル、クレーターだらけの地面、焼けつくされた自然、降り積もった白灰。
すっかり色彩を失ってしまったこの世の中のどこかに、温泉はあるのだろうか。今もまだ放送を続けている誰かが生きているように、この世界のどこかに、まだ温もりは残っているのだろうか?
「……じゃあ、探してみるか」
「え、ホント?!」
「ああ。今日は午前中に結構食料とかも集まったしな。たまにはそういう、ポジティブな理由で彷徨うのも悪くないだろ」
「泉ちゃん……」
みるみる彼女の目が輝き、ありがとうと言いながら抱きつかれる。
由衣が突然抱きついてきたことに驚き、それでもそっと彼女を抱きしめ返す。
「っ……!」
最初は変に緊張してしまっていたのだが、しかし、抱きしめた彼女の身体の脆さに驚いて手を放してしまう。
「んー? どうしたの、泉ちゃん?」
「あ、いや、別に。あんまり軽々と女の子の肌に触れるもんじゃないと思ってな」
そんな心にもないことを言い、誤魔化す。
しかし、幼馴染としてしか由衣を見てこなかったが、でも、こうして見ると彼女は立派に1人の女の子なのだなと実感する。
「ふふっ、泉ちゃんらしいね」
そんな風に笑う由衣を見て、ああ、そうかと納得する。
こんな終焉の世界で、2人でなら生きていけるなんて思っていたけれど、でも、ここまで無事に旅を続けて来れたことの方が奇跡なのだ。
男の俺ですら、廃墟で雑魚寝して、ロクに栄養のある食事もとれないこの状況に身体が悲鳴を上げつつあるのだ。ならば由衣は、とっくに倒れていてもおかしくはない。
なればこそ、温泉に行きたいという彼女の小さな願いくらい、叶えてやりたい。俺は強くそう思った。
「もしかして、温泉の話聞いて、泉ちゃんも行きたくなっちゃった?」
「そんなんじゃないけど……でも、お互いにかなり疲れてるだろうし。温泉とかがあれば、見つかればいいなとは思った」
「よかった、ノってくれて」
「まあ……な。日ごろの感謝っていうか、なんていうか。それくらいの楽しいこともあった方がいいと思って」
「ふふっ、ありがとう。じゃあ、早速探しに行こう?」
由衣に昼ご飯を食べるのを急かされ、結局ほとんど水で無理矢理流しこむようにして食べ切った。
そうして俺たちは再び荷物をまとめ、温泉を探し始めた。
俺の隣で心からの笑顔を浮かべている、彼女と共に。
*
由衣の提案に乗って温泉を探し始めた俺たちだったが、そもそも食料や燃料などを探すのにすら手間取っている素人2人が、温泉なんてものをそう簡単に見つけられるはずもなく、俺たちは相変わらずアテもなく街を彷徨うことに──なるはずだった。
いや、なるはずだったというか、なって欲しかった。
由衣の願いを叶えたくないわけでも、まして温泉に入りたくないなんて理由ではなく、望んだものがすぐに手に入ってしまうのが怖かったからだ。
食べる物を求めて、水を求めて、今夜の寝床を、安息の地を求めて旅を続けてきた俺たちが、温泉だなんてものをそうやすやすと見つけていいはずがない。俺はなんとなく、そう考えていたのだろう。
だから、予想外に暗くなる前に星の堕ちた跡にできたクレーターに、温泉が湧いているのを見つけてしまった時、俺は少し落ち込んだ。
なんだ、こんなに簡単だったのかと、ため息が出てしまった。
「はぁ……」
「ん? どうしたの、泉ちゃん。疲れちゃった?」
「ああ、いや……なんていうか、少し拍子抜けしちゃって」
「拍子抜け?」
「意外に早く見つかって驚いてる、とも言うけどな」
首を傾げる由衣にそう言って笑い、さてと話を本題に移す。
「なあ、由衣。ここからどうする?」
「どうするって……温泉入るんじゃないの?」
そう言って可哀想な人を見る目で見つめてくる由衣。
「いや、違う違う。温泉の存在意義を聞いたんじゃなくて。俺が言いたいのは、そろそろ日が沈むだろってこと」
ほれと西の空を指さす。
色彩を失った街を赤く染め上げる夕日は、あと1時間もすれば地平線の影に隠れてしまうだろう。
「どうする? 今夜の寝床も探さなきゃいけないし、明日にしておくか?」
今日も夜間の降星確率は85%と変わらず高い。早い所安全な場所を見つけないと、手遅れになりかねない。
もちろん、降星確率が正しいという保証もないのだが──。
だから俺はてっきり、由衣は素直に頷いて寝床探しを始めると思ったのだが、彼女は
「うーん……いいんじゃない? 今日で」と言った。
「……え?」
一瞬意味を図りかねて、ああ、寝床を探そうという意味かと頷く。
しかし、彼女はあっけらかんと「温泉、入ろうよ」と言葉を続けた。
「いや、いやいや……今からって、それはさすがに。もう日が沈むまで時間ないぞ?」
「うん、知ってるよ」
「じゃあ、なんで」
あまりにも自然にそう言い放つ由衣を、俺は思わずまじまじと見返す。
「せっかく温泉見つけたんだからさ、いつまでに何かを見つけなきゃとか、探さなきゃとか、そういう時間に追われるようなことは、やめない?」
「時間に、追われるような……」
由衣の放ったその言葉に、ああ、そうかと納得する。
そうだ。彼女の言う通りだ。
大崩落からこっち、俺はずっと見えないなにかに追いかけられていたのだろう。でも、それでも、俺の隣にはいつも由衣がいてくれたから──。
「……ああ、そうだな。焦っても仕方がない、か」
「うん、そうだよ。それに、いつか会えたらラジオに曲をリクストしようって、そう言ってくれたのは泉ちゃんだよ」
「そういえば言ったなぁ、そんなこと。時間はまだまだあるんだし、大丈夫だって」
ならば、彼女の提案を拒否する理由などない。
俺はふうと息を吐き、やれやれと頭を掻く。
「まあ……そうだな。降星確率が間違ってることを祈ろう」
「大丈夫だよ。星は、今夜は私たちの味方だよ」
由衣は柔らかな笑顔でそう言った。
*
「……で、なんでこうなった」
これから降り注ぐであろう星々を恐れずに、温泉に入る決心をした俺は今、由衣とお互いに背を向けて服を脱いでいた。
「なんでって言われても……」
「いや、いやいやいや……確かに温泉に入ろうとはなったけど。なったけども」
「あ、もしかして泉ちゃん。私と入るのに緊張しちゃってたり?」
「そりゃそうだろ!」
心なしか浮ついた由衣の声に、思わず少し大きな声でそう返す。
いや、まあ確かに冷静に考えれば何もおかしい話ではない。
俺たち以外に周りに人はいないし、まさか交代で温泉に入るわけにもいかないので、全然問題はないはずなのだが……正直、何かの一線を越えるようで怖い。
幼馴染として、そしてここまで一緒に旅をしてきた相棒としての彼女と共に温泉に入るというのは、それだけのリスクがある気がしてならない。
「あら、そうだった? なんかごめんね」
「いや……まあ、俺が余計なこと考えてるのがいけないんだし……」
脳内で必死に、子供の頃によく一緒に入ってたじゃないかとか、そんな言い訳を考えてみるが、背後から聞こえてくる布の擦れる音に自然と心臓が高鳴ってしまう。
「でも、私も少しドキドキしてたり……」
「そういうことを言うなよ! ただでさえこの均衡状態を保つのに必死なのに!!」
まったく。年頃の男の子を刺激しないでもらいたい。
「だ、だって! 泉ちゃんも恥ずかしいかもしれないけど、私だって相当恥ずかしいんだからね?!」
「ま、まあ、それもそうか」
変に納得してしまい、はあと小さくため息をつく。
そんなこんなで慌てているうちに、俺は服を脱ぎ終わったので、腰にタオルを巻いてよしと頷く。
乗り掛かった舟だ。こうなったら覚悟を決めるしかない。
ええい、ままよ!
と、
「あ、泉ちゃん! 今振り返らないでね!」と由衣の声。
「おっと……危ない……」
「おっとって、もしかして今泉ちゃん、振り返ろうとしてた?! えっち!」
「いやいやいや……どっちにせよ温泉に入るんだし……」
「それとこれとは別! 泉ちゃんはいいかもしれないけど、私には見られたら減るものがあるの! だから先入ってて!」
「お、おう……」
減るものってなんだろうかと首を傾げながら、極力後ろを見ないようにしてお湯に足をつける。
ゆっくりと湯につかる。疲れ切った身体と心に、温かなお湯がじんわりと染みていくのがわかる。
「ふう……気持ちいい……」
そう呟いてぼんやりと空を仰ぐ。
「星……」
見ると、夕日はとっくに地平線の陰に隠れ、ひび割れた空にはいくつもの星が瞬いていた。
いくつもの暗黒地帯が広がる空に月だけが変わらず輝き、星がいくつも尾を引いているのがわかる。ああ、かつて見慣れた夜空はもう過去のものなのだなと、そんなことを考える。
「どうしたの、泉ちゃん。空なんか見上げちゃって」
「いや、そういえば夜空なんて長いこと見上げてなかったからな。こうして余裕を持って見てみると、案外と綺麗なんだなと思ってな」
と、そこまで答えてから、由衣に話しかけられたことに気付き視線を横に移す。
そこには、タオルを羽織った由衣が立っていた。
「……っ!!」
あまりに唐突で、顔を赤らめたり、何か声をかけることもできず、俺は真顔で固まる。
「もう……そんなまじまじと見ないでよ……」
対して由衣は、身体のラインを隠すようにタオルの端を握り締め、上目遣いで顔を赤く染めていた。普段眼鏡をかけている彼女の、見慣れない素の表情に思わず目を見開く。
そんな彼女を、とても綺麗だと、不意にそう思った。
「ちょっと、泉ちゃん。聞いてる?」
「あ、ああ。悪い悪い。ついつい見惚れちまって」
「見惚れって……もう、えっち」
ぷうと頬を膨らませる由衣。
「いや、だからすまんって」
そう言って、一度は逸らした目線をそっと彼女に戻す。
透き通りそうなきめ細かい肌に、滑らかな身体のラインに、ほのかに膨らんだ胸の曲線美。そんな情報が一気に脳内に溢れこんできて、全身の血液が沸騰し、心臓が早鐘を打っているのが自分でもわかる。
今顔が赤くなっているのは、きっと温泉のせいじゃない。
「……綺麗だ」
彼女に聞こえないように、ぼそりと呟く。
「はぁ……気持ちいいねぇ」
そんな俺の内心など知らず、由衣はゆっくり俺の隣に腰を下ろす。
温泉の熱で赤みを帯びた彼女の肩に目を奪われかけるが、それを誤魔化すようにひび割れた空を見上げる。
「……キレイだねぇ」
「……ああ、そうだな」
「こんな世界でも、星はキレイなままだなんて、不思議な気分だよね」
「ま、こんな世界になった原因も、そのキレイな星のせいなんだけどな」
「ふふっ、確かにね」
楽しそうに笑い、はあと白い息を吐く由衣。
その後は、俺も由衣も示し合せたかのように黙り込む。
しばらくそうして2人で何も話さず、ひっきりなしに現れる流星を見上げていた。
「ねぇ、泉ちゃん」
「ん?」
どれくらいそうしていただろうか。
不意に、由衣が空を見上げたまま口を開く。
「星、私たちのところに落ちてくるかな?」
「落ちてくるかなって……さっき大丈夫だって言ったのは由衣じゃんか」
「うん、そうなんだけど。……それでもさ」
しんみりと言葉を切る彼女に、なんて返していいかわからず、俺は口を閉じる。
「泉ちゃん。私ね、多分、死にたがってるんだと思う」
「死にたがって……は?」
「あの日、大崩落に巻き込まれて、私の家族も、友達も、みんな死んじゃって……こうして泉ちゃんと生き残って、2人で旅をするのを幸せだって思う一方で、みんなに取り残されちゃったって気持ちにもなるの」
彼女の方を見ると、由衣は静かに泣いていた。
つーっと滴が頬を伝い、水面に波紋を作り出す。
思えばあの日以来、彼女の泣き顔を見たのは2度目だった。
「それは……俺もそうだよ」
あの日の大崩壊の輝きに心を奪われ、自分を置いて行ってしまった世界の終わりに、俺も常に絶望していた。
由衣がそう思っていたのは予想外だったが、でも、彼女の言葉は理解できた。
「でも、俺の側には由衣がいてくれたから。だから、俺は生きようと思った。由衣が生きる理由をくれていたから」
「私、が……?」
「ああ。例え何もしていなくも、こうして一緒にいられるだけで、俺は生きていける。大崩壊で見失ったものも、こうして旅をしていればまたいつか見つけられるって、そんな気がするんだよ」
それは例えば、星時雨とか──。
「だからさ、大丈夫だよ。俺たちは、大丈夫だ」
「泉ちゃん……」
ありがとう。
由衣は聞こえるか聞こえないかの声でそう呟くと、俺の手を握り締める。
「それに、もし世界が終わりを迎えても、死ぬときは一緒だろ? 俺も、由衣も」
「うん、そうだね」
重ねた手をぎゅっと強く握りしめ、彼女は涙を払うように笑う。
「泉ちゃんは、みんなみたいに、私を置いて逝ったりしないよね? 私を1人にしないよね?」
「ああ、もちろんだよ。お前こそ、俺を置いて逝くなよ?」
「ふふっ、泉ちゃん、優しいね」
そう言って笑う
「いや、俺は……」
そんなことないよと小声で呟く。
俺は今の今まで自分のことばかり考えていて、すぐ側にいる女の子のことすら考えられていなかったんだ。優しいなんて、そんなことを言われる権利は、俺には──。
だが、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は言葉を続ける。
「ううん、泉ちゃんは優しいよ。それに、強い」
「強いって……いや、そんなことないよ」
「ううん、強いよ。だから、私はこうして生きていける」
ひょっとしたら、こんな俺でも、誰かを助けていけるんだろうかと、不意にそんなことを考える。
「……ねぇ、泉ちゃん。ラジオつけない?」
「ん? ああ、いいけど、どうしたんだ?」
「ふっふーん。いや、ずっと静かだと、どうしても暗い話になっちゃうからさ、少し気分転換。前向きな、明るい話をしようよ」
「明るい話、ねぇ?」
リュックを手繰り寄せ、携帯ラジオを取り出す由衣。
「明るい話って、例えば?」
「んー、例えば……2人の将来の話とか?」
「っ?!」
ざばん。思わず水面に顔をつけてしまった。
今、なんて言った?
脳内でクエスチョンマークを大量生産しながら顔を上げると、由衣はラジオから流れる曲を聴きながら、奇行に走る俺のことを眺めていた。
「まったく……凄まじい冗談だな」
「ふふふ、泉ちゃん驚きすぎ」
「ははは……」
「……でも、別段冗談ってわけでもないんだよ?」
「は?」
由衣の顔をまじまじと見返す。
「だって、もうこの世界で生き残ってるのは私たちだけなんだよ? この先、例え誰かに会えたとしても、私達は2人で歩いていくんだからさ」
「まあ……それはそうだが」
「突飛な話かもしれないけど、その……いつかは、子供とか……」
「……それって、俺と由衣の、って意味か?」
「ほ、他にいないでしょ!?」
頬を赤くしてぷいとそっぽを向く由衣。
「子供、か……」
こんな終わりかけの世界に、果たしてこの先なんてあるんだろうか。
繋いでいくべき未来は、俺たちの先にあるんだろうか。
少し前なら、そんな疑問に俺は黙って首を振っていただろう。
でも、今なら思える。
きっと、そんな未来はやってくると。
「……案外、いいかもしれないな」
だから、俺は笑って言葉を紡ぐ。
「案外って……もう。まあ、私も……泉ちゃんなら、いいかなと思えるけど」
「そりゃ光栄だな。……どんな子になるのかね?」
「泉ちゃん、気が早くない?」
「いや、でも気にならないか?」
少しの間をおいて「確かに」と呟いて、うーんと唸る由衣。
「泉ちゃんみたいに、誰かを助けられる子がいいな」
「じゃあ俺は、由衣みたいに可愛い子がいいかな」
「わ、私みたいにっ?!」
顔を真っ赤にして慌てる由衣を見て、俺もつられて顔がほころぶ。
ああ、幸せだ。
気が付けば俺は、思わずそう口に出してしまいそうなくらいに満たされていた。
例え世界にどれだけ絶望が満ち溢れていようと、希望の光が
「幸せだねぇ」
しばらくそうして子供について話していた俺たちは、笑い疲れて星空を仰ぐ。
「……私の隣にいてくれてありがとう、泉ちゃん」
「こちらこそ。ありがとうな、由衣」
そう言って星空を見上げると、目の前でバリっと空にヒビが入る。
いよいよか。目の前の光景を見て、俺は本能的に理解する。
最初1つだった亀裂は徐々に広がり、2つ、3つと拡大していく。
流星の数が爆発的に増え、まるで天球全体が高速で回転しているように尾を引く。
「由衣」
「泉ちゃん」
俺たちは交わした手をしっかりと握りあい、ただ目の前の輝きを見つめる。
ふと、ラジオから流れていた曲が終わり、次の曲紹介に移っていることに気付く。
『……さて、楽しかった時間も、残りわずかとなってしまいました。ここまで放送にお付き合いいただき──』
由衣の方を見ると、由衣もこちらに振り向く。
互いに顔を見つめ合い、自然と笑みがこぼれた。
『……では、最後はリクエストのあった、この曲でお別れです』
懐かしいそのメロディーを聞きながら、俺たちは終焉の空を仰ぐ。
幸せだったねとアイコンタクトを交わす。
『Remain The Demiseで、星時雨』
──そして、星が、空が、世界が堕ちる──。
降星確率 五月雨ムユ @SamidareMuyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます