制限解除の老練家
方波見
第1話 プロローグ①
「ありがとうございました!」
生徒の挨拶が大きく響いた。
荷物をまとめ上げた者から順に、道場内へ一礼してから帰っていく。
上部に位置する窓に映るのは雲間に覗く欠けた三日月のみで、とうに日は暮れていた。
「先生っ、今日もありがとうございました!」
一人の生徒が
他の生徒が次々と帰宅していくなかやって来たのは、最近入ったばかりのエミリーというそばかす混じりの少女。
まだ初めて三ヶ月に満たないが、なかなかに筋がよく、玄道が期待している内の一人だ。
武に対して並々ならぬ想いがあるらしく、レッスンが終わるたびに、何を話すわけでもないが、こうして玄道に改めて挨拶をしに来る。
「はい、お疲れ様。また次回」
玄道は、五十五歳とは思えない爽やかな笑顔を浮かべた。
「はいっ、お疲れ様です!」
彼女は下げた頭を勢いよく持ち上げると、そのまま背を向け、そそくさと道場をあとにした。
玄道は、いまどき律儀な人だなと、その背中を見送る。
できるなら、そうしてどんどん強くなってくれ、と願って。
誰もいなくなってから、玄道はシンと静まり返った広い道場の真ん中に立ち、おもむろに型をなぞり始める。
まずは、壁一面に張られた鏡に向かい合い、これまでの最高を辿るようにゆっくりと身体を動かす。
自身の状態を把握し、現在の最高へはどうすれば辿り着けるのか、その答えを探る。
丁寧にそれらの工程を終えると、次はひとつひとつ、型を通常の速さで繰り出していく。
四十年余りに渡って学び吸収してきた、さまざまな武の融合。
中国武術、中でも八極拳を基礎としたそれは、伝統的な既存の型に当てはまるものとはいえないが、彼独自のものとして昇華されている。
応敵と制敵。
敵と対することを前提に置いた、無駄の省かれたどこまでも効率的な型。
玄道の武で中心となるのは、最短の距離かつ最小の力で急所を的確に狙っていく直線的な動きであるが、敵の攻撃を受け流し、それをそのまま利用していくような、
全体を通し、破壊に特化した実践的な動きでありながら、それらひとつひとつが一連のものとして淀みなく流れる様は、一種舞のようにどこか魅惑的でもある。
一通り型を終えると、最後に、身長や体重、戦闘方法を設定した仮想の敵との勝負をする。
玄道にとって、試合のように縛られることなく自身の全力をもって戦えるこの時が、最も心が踊る時間であった。
半袖シャツから覗く、鍛え上げられた太くしなやかな腕の筋に汗が浮かぶ。
衣擦れの音と息遣いが自然に重なる。
玄道は、一日の終わりには毎日必ずこうしていた。
長年続くルーチンワークである。
強さという尽きない欲求のため、周りから達人と呼ばれる今になっても貪欲に自身を磨き続ける。
それが、玄道という人間を作り出していた。
――ダンッ。
仰向けに倒れた仮想敵の顔面を潰すに足る震脚が振り下ろされ、その爆発的な音が響いた。
一度息を整え、身長や体重の異なる別の仮想敵を作り出す。
そうして、今日最後の勝負を始めようとしたとき――突如、道場の扉が薄く開いた。
玄道は反射的に目をやる。
既にレッスンは終え、今日の訪問者はもういないはずであった。
ドアノブの音が妙に静かに押し殺されているのが気になったが、生徒が忘れ物でもしたのだろうとおおよその見当をつけ、玄道はいったん動きを止める。
果たして――外開きの扉からひょっこりと顔を出したのは、やはり、彼の生徒であった。
「忘れ物か?」
「……ああ、はい。すみません」
マイケルは、申し訳なさそうな微小を浮かべて答えた。
どことなく気弱な雰囲気を受けるマイケルであるが、生徒の中でもトップクラスの実力をもっている。
百八十の玄道よりも拳2個ほどは上背があり、成熟し切っていないながらも、骨格はがっしりとしている。
その分、少々力押しなところが目立つが、逸材であることには変わりない。
そもそも、玄道が日本を出てここへ居を移したのは、「武術を世界に広めたい」というような高尚な想いからではなく、「より強い者と戦いたい」という単なるエゴからであった。
強さは身体の大きさだけで決まるものではないが、身長や体重がある程度あったほうが、伸び代は大きい。
玄道は、伸び代も含め、マイケルに最も期待している。
玄道が道場内を見回すと、なるほど確かに、生徒のものと思しき小さな荷物が、ちょうど扉と反対側に位置する隅の方に置かれていた。
「入ってきて構わないぞ」
声をかけながら、玄道は荷物を取ろうとそちらへ歩きだす。
そこで、何となく不穏な気配を感じ、玄道は振り向いた。
そして、状況の悪さを瞬時に理解する。
カチャと、マイケルが後ろ手に閉めた扉が寂しく鳴り、彼は背に隠していたライフルを玄道に向けて構えた。
マイケルは、へらへらと頬を緩めている。
しかし、この非常時にあってなお、玄道の顔には「なぜ? どうして?」といったような困惑は微塵も浮かんでいなかった。
人間はいくらでもいるのだから、身近にこういった類の人間がいったって何らおかしくはない。
そう無意識下の思考でまとめ上げられ、玄道はこの事態をすんなりと受け止めていた。
鍛錬の賜物か、あるいは先天的なものであるのか、彼の価値観はおおむねそのような感じであった。
そんな、大きな反応を見せない玄道に不満を覚えたのだろう。
嘲るような瞳はそのままに、マイケルは、わざとらしいふくれっ面をして見せた。
「せんせ〜、全然ビビってくれないんですね〜」
「ビビってるよ。怖くないわけない」
「そう思うんならもっといい感じに反応してくださいよ〜」
玄道の言葉は、紛れもない真実であった。
いくら技を磨いてきたからとはいえ、銃口を向けられるのは怖い。
当然だ。
それは失くしえぬ、いや、失くしてはならない根源的な自己防衛本能である。
玄道は、銃を向けられても大丈夫などというほど
しかし、『怖い』という感情以上に、不思議なものがあった。
それは、『怒り』。
きっと、裏切られたからではない。
自身を殺めようとしている敵が目の前にいるという現状。
ハリボテの力で自身を殺そうという安易な思考。
それらが玄道に怒りを生じさせていた。
感情を飼いならす玄道は、怒りの任せるままに動くようなことはしない。
自らの情動をただそのままに受け止め、敵を制圧するための最善策をとる。
「でも一体、どうしたんだ?」
まずは交渉。問いかけることで、玄道は隙きを窺った。
「へへへっ。別に、特に理由なんてないですよ。ただ、ずっと人を殺してみたかったんです。蜂の巣みたいにしたいんですよ。へへっ。それに、どうせなら、先生くらい強いほうがきっと楽しいと思いませんか?」
締まらない顔のまま、マイケルはへらへらとのたまった。
狂気じみているが、呂律などはしっかりとしている。
薬物をしている風ではない。
わずかに震えていたマイケルの腕は、喋ることで緊張が抜けたのか、ピタリと静止していた。
銃口の揺れも一切見られなくなった。
その狙いは、範囲の小さい頭ではなく、臍の辺り。
これなら、反動によって銃身が跳ね上げられてもどこかしらには当たるだろう。
ちょうど心臓を穿つかもしれない。
マイケルはいたって平常。冷静そのもの。根っからの狂人だったのだろう。
玄道は改めてそう判断し、どうやっても交渉には至らないだろうと悟った。
「へえ。それはすごい」
――同類なのかもな。
適当に相槌をうちながら、玄道は倫理観の欠如したマイケルの殺人欲求に、どこか納得もしていた。
それはもちろん、安易な殺人を容認するものではなかったが、「ルールの制限なしに、生死をかけた戦いがしたい」という、偽らざる想いが、玄道の心の内には常にあった。
対象は違えど、狂人という意味においては、確かに両者は同じ人種なのかもしれない。
「やっぱり、先生はわかってくれるんですね! へへへ、僕もいいアイデアだと思ったんです」
ただ当然、玄道は黙って
玄道と銃口までの距離は七メートル。
玄道は、重力に逆らわず膝を抜き、初動。
動き出しを悟られないよう起こりを消す、縮地。
玄道は特別意識することもなく、当たり前のように動いてみせる。
「ああ。そうだな」
会話を続け、敵の初動をなるべく遅らせる。
銃身を泳がせるため、直進ではなく、左方に一歩。
――が、発砲音。右肩口に衝撃。
玄道の態勢がわずか崩れる。
「あははははっ」
マイケルは愉快そうに大口を開けて笑いながら、ボルトハンドルを起こす。
ボルトアクション方式。
次弾には薬莢の排出と装填が必要になる。
玄道は最短距離でマイケルに迫った。
しかし――
「ダメですよ、先生」
手慣れた流れで装填完了。
先ほどとは一転、冷ややかな声でマイケルが告げた。
重い発砲音。
「がっ」
弾丸は玄道の腹を
玄道はよろめき、恍惚とするマイケルを目前に、うつ伏せに倒れる。
カチャン、ズドン。カチャン、ズドン。
排出と装填が繰り返され、右肩と腹に次いで両腿に穴があく。
「あ~あ、もう次で最後かあ」
マイケルはおもちゃを取り上げられた子供のように悲しみ、また、弾むように喜びもした。
――未熟者が。
玄道は途切れ逝く思考の中で、内心、恨み言を吐いた。
それはマイケルに対するものか、玄道自身に対するものか。
カチャン。
薬莢が排出され、装填される。
――ズドン。
玄道は、文字通り蜂の巣のようになって死んだ。
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