勇者フルート物語0・魔法の金の石

第6話 白い顔

　奥に進むに連れて、森はますます暗くなっていきました。

　地面には藪（やぶ）や下生えがほとんどないので歩きやすいのですが、大きな木の根が地上に出ていたり、思いがけず岩が顔を出していたりするので、つまずいて転びそうになることもたびたびです。

　そして、なんとも言えない見張られているような感覚は、もう間違いようがないほどはっきり感じられました。

「森の主（ぬし）が見てる……」

　とフルートは心でつぶやくと、顔に噴き出す汗をぬぐいました。

　森の中は涼しいのに汗が流れて止まりません。冷や汗です。

　すぐ目の前をジャックが歩いていました。剣を握りしめ、肩を怒らせて進んで行きます。

　ジャックもシャツの背中が冷や汗でびっしょり濡れているのですが、絶対にフルートに先を譲ろうとはしません。

　あたりはしんと静まりかえっていて、鳥の声さえ聞こえませんでした。

　異様な静けさです。　

　また敵が現れそうだな……とフルートは考えて、自分たちの装備を眺めました。

　装備と言ってもたいしたことはありません。ジャックは古いロングソードを、フルートは料理用のナイフを持っているだけです。

　次の敵にもこれだけの武器で戦えるのでしょうか？

　ふと、フルートは苦笑いをしました。

　どうしてこんなことをしているんだろう？　と考えたのです。

　魔の森の恐ろしさは充分に知っていたし、ジャックたちにも「殺されてしまうよ」と警告していたのに、他でもない自分自身がジャックとこうして魔の森を歩いています。

　それを思うと、なんだか不安と悲しさがごちゃまぜな気持ちになって、涙が出てきそうになってきます。

『魔の森の主は人間を憎んでいる。森に足を踏み入れた人間は、魔法にとらわれて気が狂い、獣や怪物に八つ裂きにされる……』

　魔の森の言い伝えが頭の中によみがえってきました。

　森の主はフルートたちを見ています。

　じっと見つめて、不敬な侵入者に天罰を下そうとしているのです――。

　なんて馬鹿なことをしているんだろう、とフルートは考え続けました。

　森の主の魔法にフルートたちの武器がかなうはずはありません。

　熊と大蜘蛛は運良く追い払えましたが、次の敵にもそんなにうまい具合にいくでしょうか。

　あらゆる怪我や病気を癒し、真の勇者の証（あかし）になる、魔法の金の石。それを求めて大勢の大人たちが森に入っていきました。

　鎧兜（よろいかぶと）に身を包んだ戦士、岩のような筋肉をした力自慢、旅の魔法使い……

　けれども、どんなに強そうな大人たちでも、誰ひとりとして魔の森から金の石を持ち帰ることはできなかったのです。

　屈強の戦士たちにもできなかったことを、フルートにできるというのでしょうか？

　何の力もない、たった十一歳の子どもに……。

　フルートはいつの間にか足を止めていました。

　お父さんの枕元で泣いていたお母さんの姿を思い出します。

　お父さんだけでなく、フルートまで死んでしまったら、お母さんはどんなに嘆き悲しむことでしょう……。

　ぼくは何をしているんだろう？　とフルートは自分自身に尋ねました。

　こんなちっぽけなナイフひとつで、何ができると思っていたんだろう？

　森の主は、ぼくのことを一撃で倒してしまうのに。

　魔法の石なんて取ってこられるはずがないのに……。

　帰れ！　帰れ！　とどこからか声が聞こえるような気がしました。

　風もないのに木の葉がざわめき、木々の枝や幹がきしみ始めます。

　まるで森中の木がフルートたちに向かってわめいているようです。――出て行け！　森から出て行け！　と。

　フルートの胸がぐぅっと苦しくなってきました。

　言いようのない恐怖に心臓が爆発しそうなほど脈打っています。足が勝手に回れ右をして出口へ走り出しそうです。

　帰ろう、とフルートは震えながら考えました。

　今ならまだ間に合う。家に帰るんだ。

　そして、お父さんとお母さんのそばにいてあげよう。今のぼくに本当にできることは、それくらいなんだから。

　せめて、お父さんのそばに……

　きっとお父さんもわかってくれるから……

　フルートの脳裏にひとつの光景が浮かびました。

　ベッドのかたわらでフルートはお父さんの手を握って立っています。

　お父さんはもう苦しんではいません。静かな顔で横たわっています。

　抜けるような死者の顔色、呼吸をしていない胸、冷たくなっていくお父さんの手……

　そんなものを、フルートはありありと思い浮かべました。

　そして、その枕元でフルートは黙ってお父さんを見つめ続けているのです。

　ただ、見つめ続けているのです……。

　いきなりフルートはかたわらの木を殴りつけました。

　じぃんと手に痛みが走り拳に血がにじみます。

「い、や、だ……！　いやだ……絶対に嫌だ！」

　恐怖で声も出なくなっていた咽（のど）をふり絞って、フルートは叫びました。

　何もしないまま、お父さんが死んでいくのを見ているだけなんて、フルートは絶対に嫌でした。

　たとえどんなに困難でも、どんなに無謀でも、ほんの少しでも可能性があるのなら諦めてしまいたくありません。

　帰れ、帰れ、帰れ……森が言い続けています。

　フルートは叫び返しました。

「黙れ！　ぼくは帰らない！　ぼくは絶対にお父さんを助けるんだ――！」

　とたんに森はざわめくのをやめました。

　同時にフルートの体がふっと軽くなります。

　人の心に恐怖を呼び起こして逃げ出したい気持ちにさせる魔法に、いつの間にか捉えられていたのです。

　フルートは魔法を振り切ったのでした。

　フルートは汗びっしょりになりながら、ぜいぜいと息をつきました。

　まるで何百メートルも全力疾走してきたように疲れ切っています。

　気がつくと、かたわらでジャックも汗だくであえいでいました。

　ジャックも同じ恐怖の魔法につかまって、フルートの声でようやく呪縛をふりほどくことができたのです。

　フルートは顔中の汗を袖（そで）でぬぐうと、きっと目を上げました。

　どんなに自分に力がなくても、どんな敵が現れても、なんとしても森の奥までたどり着いて金の石を手に入れるつもりでした。

　すると、ジャックが、ひぃっと声を上げました。

　行く手の木々の間に何かが現れたのです。

　もやもやと白い霧のようなものが寄り集まって、人の背丈より大きな顔に変わっていきます。

　男とも女ともわからない、お面のように無表情な白い顔でした。

　驚いて立ちつくすフルートたちへ、顔はかっと口を開けました。森中を揺るがすような声が響き渡ります。

「わしの森に入り込んで騒がせているのはいるのは誰だ！！？　命が惜しければ、さっさと立ち去れ！！！」

　巨大な口の中には鋭い牙がずらりと並んでいます。

　ジャックはその場にへたりこんでしまいました。腰が抜けたのです。

　けれども、フルートは恐怖と戦いながら白い顔に言い返しました。

「お願いがあるんです、森の主！　どうか、ぼくに魔法の石を貸してください！　お父さんが死にそうなんです！」

　白い顔は、すぅっと目を細めました。冷ややかな笑いが顔一面に広がります。

「ならぬ！！！」

　ならぬ、ならぬ、ならぬ……帰れ、帰れ、帰れ……

　白い顔の声が森中に山彦のように響きます。

　フルートは唇をかむと、すぐに言い返しました。

「それじゃ──力ずくでもらっていきます！」

　言うのと同時に飛び出して、ナイフで白い顔に切りつけます。

　バシュッ！

　風を切るような音がして、一瞬で顔が消え去りました。

　あとには暗い森が広がります。

　子どもたちを捉えていた恐怖が、潮が引くように遠のいていきました。

　フルートはまた顔中に噴き出していた汗をぬぐいました。そのまま森の奥を見つめます。

　すると、ジャックがのろのろと立ち上がってきました。

「おまえ……」

　と言いかけて急に口を歪め、悔しそうな表情を浮かべます。

　ジャックは足音荒くフルートの前に出ると、乱暴に言いました。

「あんな化け物は剣じゃ切れねえ！　だから俺は手を出さなかったんだ！　次に出てきた敵は必ず俺がこの剣の餌食（えじき）にしてやる！　おまえは出しゃばるなよ！」

　フルートは目を丸くしましたが、ジャックがどんどん歩いていくので、あわてて後を追いかけました。

「待ってよ、ジャック。ひとりで行くのは危険だよ」

「うるせえ！　腰抜けは黙ってついてこい！」

　腰抜け。

　これほど今のフルートに的外（まとはず）れな悪口もありませんでしたが、そんなことはおかまいなく、ジャックは奥へと進んでいきました。

　森はいっそう暗く、深くなっていきました……。