第19話 ゴッド(下)

     *****救いはどこにもなかった

 ここまで来ると修道会は,あたかも日本の時代劇に登場する悪代官そのものです。「お主も悪よのぉ」とつぶやきたくなるところですが,時代劇と違うのは,悪を罰する正義のヒーローがフィリピンのどこにも存在しないことでした。

 地方に暮らす原住民はこう嘆いたと記されています。

「総督はマニラに,王はスペインにおられる。そして神は天国に住まわれる。」

 地方に行くほど原住民の接するスペイン人は教会(修道会)の神父(修道士)のみでした。その神父こそが悪行の限りを尽くしていたのではどこにも救いがありません。国王やフィリピン総督,そして神に救いを求めてみても,彼らの願いが届くことはありません。

 こうした様々な手口によって原住民は,先祖代々受け継いできた土地を教会に奪われたのです。

 スペインの占領が終わるまでの間に,修道会の所有する土地はフィリピンの全耕地面積の約15分の1を占め,修道会はアシエンダと呼ばれる広大な大農園をもつ大地主となっていました。

     *****教会が始めた原住民の奴隷化

 教会による農園経営は,原住民にとって過酷なものでした。家族が食べる分だけを自分たちで生産し,生産物のすべてを自由にできた原住民は,土地を失ったことで,小作人の地位に落ちることを余儀なくされたのです。

 小作人とは,農地の所有者から借り受けた土地で農業を行い,その農作物の一部を小作料として地主に払う農民のことです。今までと同様に田畑を耕し,農作物を育てているにもかかわらず,収穫した農作物の一部を取り上げられることになります。原住民にしてみれば悲しいほどに理不尽な制度でした。

 農作物の一部といっても,その割合を決めるのは教会です。教会は自分たちの都合によって小作料を毎年のように値上げしました。

 小作料は,現在に至るまで,フィリピン人の大半を占める小作農を苦しめることになります。20世紀後半においてさえ,小作料が収穫の50パーセントを超えることも珍しくなかったほどです。ただし,日本の歴史では,五公五民は農民に優しい割合だと言われています。

 教会が小作人に過酷な納税を課したのは,小作人が無力だと知っているからです。修道会に逆らった小作人は罰として鞭で打たれるのが通例でした。

 さらに反抗的な態度をとった小作人は,追放処分にあいました。そうなれば家族共々たちまち路頭に迷うことになります。小作人として働きたい原住民はいくらでもいるだけに,教会が働き手に困ることはありません。教会にとって小作人は,まさに修道士の贅沢な生活を支えるための使い捨ての奴隷同然だったのです。現代のKTVやゴーゴーバーの仕組みもほとんど同じだと感じるのは私だけでしょうか。

 教会によって取得された土地に対する管理も情け容赦のないものでした。修道会に奪われた土地では,原住民が川で魚を釣ったり,森でたきぎをとったり,野生の果実を集めることさえ禁止されたと記されています。

     *****

 教会の暴走は誰も止めることができませんでした。国王の勅令も効果なしです。

 土地の収奪以外にも教会は原住民を苦しめました。教区の司祭は洗礼式から葬式,結婚式など教会が行うあらゆる儀式において,驚くほど高額な手数料を要求したとされています。原住民は,教会からこれらの儀式を欠かすと魂の救済ができないと教えられていたため,貧しい暮らしの中から,ときには最後に残されていた財産を売り払ってでも費用を捻出しました。財産を持たない貧しい農民は,ミサに神父を呼ぶことも,死者をカトリックの教えに従って丁重に葬ることさえ適いませんでした。

 さらに信者はロザリオ(カトリック教徒が祈りに使う十字架のついた数珠)に代表される宗教的な品々を教会の言い値で購入しなければならず,教会の求める労働奉仕に動員され,自分たちの食物さえ満足にないにもかかわらず,修道会の食卓を満たすための食物の寄進などを負担させられました。

 司祭の命令に服さなかった信者は,鞭で打たれる体罰を受けるのが通常でした。

 しかし,それ以上に教会が原住民の怒りを買ったのは,未婚の娘がいるとわかると,床掃除など教会内での仕事に駆り出されることでした。現在,家系図のどこかに司祭を祖先にもつフィリピン人が多数いることから,このとき何が行われたのかを察することができます。

 フィリピンにおいて物欲や性欲を思う存分実現した修道士は珍しくありません。聖職者の不正があまりにもひどいため,国王は1751年に次のような勅令を地方の官吏に出しています。

「当該村落のインディオたちが修道士によって苦しめられないよう,また将来,修道士が行なうかもしれない不正行為を防止できるよう,今後は最大限の監視を行なうこと。」(「フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1」レナト・コンスタンティーノ著,井村文化事業社)より引用

 国王や総督が懸命に教会の暴走を止めようと努めたことは,国王から司祭に対し,住民の苦況を察した種々の禁令が出されていたことからもうかがえます。

 婦人たちに無理強いして修道院で家事をさせてはならない。

 教会で行う儀式の費用を住民に要求してはならない。

 臨終の間際に財産を教会に遺贈するように勧めてはならない。

 等々

しかし,司祭らの暴走は止まりませんでした。

     *****

 教会はなぜやりたい放題できたのでしょうか。

 スペイン帝国は,神と国王という二人の君臨者に奉仕すべきものとされ,国王と教会の間で政治権力を奪い合う争いは常に存在していました。しかし,国王の権力が及ばない遠いフィリピンでは,教会絶対主義が確立していました。

 教会の受け持つ教区の住民の暮らしの中で,修道士らが関与しないことはないといっても過言ではありません。修道士らはは,小学校の管理から徴税の監督,町の予算の監査,衛生委員会などの各種委員会の委員長,町評議会,警察,刑務所の人事を握り,州評議会のメンバーでもありました。原住民にしてみれば,生活に密接なつながりのあることごとくを教会に握られているだけに,教会の意向のままに動くよりありません。

 教会が強力な政治権力を握り,原住民を掌握している以上,国王も総督も官吏も教会の意向に逆らうことはできなかったのです。

 フィリピン総督は教会に対する不満を国王に次のように告げています。

「そして修道士は同じことを言う――もし、彼らの力がインディオから取り除かれたら、インディオは改宗村を捨てていなくなってしまうだろう、と。修道士の権力はこのように強力なので、インディオは改宗村の神父以外の王や上位の者を認めようとしない。そして総督の命令よりも神父の命令をよく聴く。従って修道士たちは何百人ものインディオを奴隷として、あるいは舟の漕手としてさらにまたその他さまざまな仕事や手伝いに、賃金も支払わずに利用する。そしてあたかも追いはぎのように彼らを鞭でせっかんする。神父らに関したことであれば、修道士らはインディオのためにいささかの苦痛も憐みも感じない。ところが国王陛下のための労働奉仕や公共事業にインディオが必要になったり、彼らから何かを徴発しなければならないことが起こると、修道士たちは必ず反対を唱えてそれを阻止し、あらん限りの邪魔をする。」(「フィリピン民衆の歴史 1 往事再訪 1」レナト・コンスタンティーノ著,井村文化事業社)

 精神と行政の両面にわたり,原住民を支配した教会の権力は,フィリピンにおいてあまりにも絶大であり,それゆえに腐敗も激しかったといえるでしょう。

     *****総督のたどった悲劇

 フィリピン総督といえども教会に逆らうことはできませんでした。教会に逆らった総督のたどった運命は悲惨です。たとえば総督サルセードは宗教裁判にかけられて投獄され,メキシコへ送還される船上で息絶えました。

 バルガス総督とパルド大司教の骨肉の争いも有名です。バルガスを総督をその座から引きずり下ろしたパルドは,バルガスに麻袋を着せ,首にロープを巻き付けるとロウソクを持たせ,およそ4ヶ月の間,マニラの通りに立たせることで辱めました。バルガスもまた囚人としてメキシコへ向かう船上で世を去っています。

 教会による勝手気ままな横暴は留まるところを知らず,国王も総督も制止できないまま原住民を苦しめました。

 もちろん原住民とて黙って教会による暴虐に耐えていたわけではありません。原住民の抱いた修道会への個人的な憤りが結集することで集団の憤りとなり,修道会による支配を取り除くための戦いはフィリピン全土で繰り広げられました。

 

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