糸
瀞石桃子
第1話
彼は見えない糸の先を目指している。
すべてが退っ引きならない状態にあるなかで、わずかな間隙を見えないこよりがジリジリと伸びている。
ゆっくりと、じんわりと、着実に。まるで夢うつつのさなぎの羽化のシーンのように。たぶん、糸はそのようにして光を目指しているのだと思う。
今、彼がいる闇で、目にも止まらないスピードで混沌と狂気がぶくぶくと膨れ上がっている。大爆発を目前に控えた焦りがちなアルデバランやペテルギウスみたいに。
それはもう、見ているだけで非常に危うい。
彼から伸びる糸は、透明に近い。そして細く、もろい。また、柔軟性にとぼしい、糸、糸、糸。
糸の先端に何があるのか、今の彼はわからない。わたしにもわからない。そのかわり、わたしは彼の糸がぷつんと切れてしまわないことを心の底から願うのだ。
ただそれだけがわたしにとってできる唯一のとりでだから。
##1#
彼が良い人であることは見た目ですぐにわかった。穏やかなまなざしと、ちょっと身体を後ろに引いたような人との接し方。彼の声にあまり抑揚はなく、耳をすまして聞こえる冬鳥の地鳴きのように、けっして大きな特徴のある人ではなかった。
それなのだが、彼の周りには何かしら人がいた。入れ替わり立ち替わり、敬虔な信者な毎日教会に通うように、みんな彼のところに話しかけに行く。みんなみんな彼と接する時間に奇妙な価値を感じていたのだ。
そのくせに、彼から出来する人を惹きつける力について、誰一人として明確な表現をすることはできなかった。
不思議なことに。不思議なことだ。
##2#
彼はいつも上司に注意されている。作業中のミスや連絡上の不配慮だとか、そういうこと。それがただの注意ならば仕方がないことなのだが。
「なんでお前そんなことも知らんのや。その時点で負けや。今まで何をしてきたんや」
唾棄を飛ばす上司は彼を『頭ごなし』に責め立てた。彼は、はい、はい、と言いながらうつむいている。その様子を見ているわたしは胸が痛くなる。ずきずきと。
自分の尊敬する人が上司に怒られているのって、とても切ない。だからと言って、横に割って何かをしてあげられるほど、わたしたちも強くはなかった。
(わたしは彼を守ってあげたいのだろうか)
「じゃあもういいや。とりあえずこれやっといて」
あからさまに嫌味なため息を吐きながら、上司は彼に別の仕事を与えた。一回注意をするたびに、ペナルティとして仕事が積み重なっていく。彼は無抵抗に受け取って、自分のデスクに戻る。
彼のデスクはわたしのとなりにあった。彼は背もたれの深い椅子に腰かけて、ちょっとだけ自分の手を握りしめる。落ち着かない孤独を、きゅっと抱きしめる。
「──あの、おつかれさまです」
「ああ、いやぁ、はは」
「いつもいつもたいへんですよね。あの人もあそこまで言わなくていいんでしょうけれど」
「僕自身、容量が悪いのはあるんだけどさ、あの人はきっと僕の何もかもが気に食わないんだ。だからすぐ、口に出ちゃうんだね」
だから上司に怒られているとき、彼はジッとしている。雨に打たれるお地蔵さんみたいに。
彼は来る日も来る日も叱られた。怒られ、どやされ、仕事を与えられ、それをこなしてもまっとうな評価はされず、結果を出しても次の結果を当たり前のように求められ、新しい結果を出していなければ人格を全否定され、仕事が増えて、そういうことが彼の日常だった。
もちろんそうなることで彼が壮大なストレスにさらされていることも理解していた。
そうして彼のことを考えると、つらくて、むなしくて、たまらなかった。
だから、つい話しかけてしまいたくなるのだ。
「あんまりあの人のこと気にしないでください。わたしたちは先輩の努力、よく知ってますし、ちゃんと見てますから」
「ありがとう。周りにそういうことを言ってくれる人がいるだけで僕は頑張れるよ」
だけれど彼のその言葉を聞いて、わたしは「ああ、まただ」と思ってしまう。
こちら側は全力で励ましをしているのに、彼の配慮はそいつを軽々と上回ってしまうのだ。あのね、ありがとう、でいいんですよ。どうしてそれ以上わたしたちにまでそんな言葉をかけてくれるんですか。
彼は良い人だ。いくら悲しいことがあろうとも、彼は良い人だった。
それと同時にわかってきたことは、彼は他人に心配をかけたくないから、あるいは自分がその立場にいれば周りが傷つかなくて済むから、自分を犠牲にすればよいと考えてしまう、とても非効率な人間だった。
非効率なくせに、全部自分で抱え込んでしまう人だった。
だから、いけない人なのだ。
##3#
「あいつにさせときゃええんやない? なんも言わんし」
「電話履歴見たら、あいつの名前ばっかりやったわ。ちょっと気味わるいよな」
「あいつ全然休憩してへんよなあ。キミ、あいつに休めって言っといて。心の換気も大事大事」
「あいつの手伝いなんかせんでええんや。あいつが勝手にやってるんやから、絶対手ぇ出すなよ」
「あいつの机ってどこやっけ?ああ、そこね。よいしょ、っと。重いわあ、これ。キミ、あいつ来たらこれのこと言っといて。え、これ?『仕事』に決まってるやん」
上司の言っていることは、わたしにはよく理解できなかった。
##4#
彼のことを好きになったのって、いつからだったんだろう、と、深夜0時の醤油ラーメンをすすりながら考える。あまり時間的なことに意味はなくて、彼を見ると単純にテンションが上がるのだ。
現象として。
昨日、こういうことあったんですよ、とか、電車の中にこういう人いたんです、とか、そういうことを話したくなるのだ。
「若いうちに結婚しとけよ。30超えて子ども産んだら子育てがしんどいからなぁ」といつもの上司。そういうのって、セクハラなんじゃ。まあ、別にいいんですケド。
「っていうか、キミはもう『売れて』しまっているんだよな」
まだ売れてませんよ。もう別れましたから。あはは。
「“お前”も早く相手見つけえや」
“お前”と呼ばれた彼が苦笑いをする。忙しくて、デートするヒマなんかないですよ、とお茶を濁しながら。
彼は恋人がいない、という話をなんとなく知っている。わたしが直接聞いたわけじゃないし、言質を取れているわけではないのだが、あまり彼自身から女のにおいはしない。
けれど彼のことを好きな人は多い。少なくとも、わたしの見立てで2人、いや4人か。彼女たちが彼と話しているところを見ていたらだいたいわかるんで。
距離近いし、事あるごとにいろいろふれてるし、わたしが嫉妬をしているのだから、そういうことなんだろう。
「好きにもいくつか種類がある。話しているときに目が合わせられないタイプの好きは憧れに近い。話しているときにずっと目を見つめてしまうタイプの好きは信頼に近い」
どちらが良いとか、そういうのではないんだが、結婚まで考えるなら後者でしょ、当たり前だけど。とか、鏡の前の自分に話しかけてみたり。
彼と会話しているとき、わたしはずっと彼の目を見ている。
わたしの好きはそういう意味の好きだ。もちろん尊敬もあるし、人間としての魅力も感じているが、彼への安心感がいちばん大きいんじゃないか、と思う。
なんでも話せるし、それが心地よいし、そういうことばっかり、寝る前に考えてしまうし。
彼に抱きしめてもらっている夢を一度だけ見たことがある。柔らかい肉のなかに自分が沈んでいく。たった一か所ばかりがつながるんじゃなくて、全身全霊が一体化するのだった。
目を覚ましたとき、布団の真ん中あたりが湿っていた。そこをさわると、ひたひたと音がした。
彼に対する好きの向こうには何があるんだろう。まあ、なんだ、わたしの妄想をはるかに超えた世界があると思う。
じゃあきっとそれは性愛ってやつだ。いのちを賭してもいいってやつだよ。
##5#
彼の近くにいる女のことを知っている。彼女は『おとり』という苗字をしている。漢字にすると『囮』。おとりさんは確か彼の二つ上の先輩で、いろいろ彼に教育をしていたんじゃなかったか。
そういうことがあったのか、なかったのか、たぶんあったんだろう、あったのだからいつも距離が近い。
二人がいると、そこだけ世界がくりぬかれる。わたしたちにはそんなふうに見えている。うらやましさとヤキモチに灰色を混ぜた目で、彼らを見ている。
おとりさんは人当たりがよくて、誰にでも同じように接している。わたしにも優しくしてくれる。んで、彼とも同じように接しているけれど、仕草の端々に特別な扱いが垣間見えるのだ。
「私たち、仲良しだもの。ただの仲良しよ。別に変な関係じゃないわ。もしもそう見えているのだとすれば、勘違い。それか、まったく別の問題ね」
おとりさんにとって彼はどういう存在なんだろう。
「んんー、何かなあ。むしょうで手心を加えてしまいたくなるヒト?」
じゃ、愛っすね。
「キミのなかでそれは愛なんだね。そうかそうか」
え、たぶん。いや、わかんないです。
「いいんじゃない、そういうのも。まごころみたいで」
おとりさんにとって、愛ってどんなものなんですか?
「んんー、何かなあ。『ねえ』かなあ」
ネエ? 日本語、ですか?
「ううん、『ねえ』。ねえねえ、とかの『ねえ』」
それがおとりさんの愛なんですか。
「私のっていうか、なんていうか」おとりさんはちょっと考えるように頭をかしげる。
「なんかさ、彼がそばにいると『ねえねえ』ってしたくなるんだよね。べつに用事とかないんだけど、ねえねえ、って。わからない?」
う、ううん。今のわたしにはちょっと。
「好きな人にこっちを向いてほしいのと近いように思うんだけどね、『ねえねえ』って。しかも、これってさ、あんまり男からはしないでしょ」
言われてみると、たしかに。
「女だけなのかも、『ねえねえ』って。ああ、あと子どもだ」
でもそれが愛だというのは、わたしにはやっぱりよくわかりませんでした。
##6#
生活のリズムにパターンが乏しい人間は潜在的に破滅願望がある、ということを聞いたことがある。
嘘かまことか知るわけもないが、その点について言うならば彼の生活はまったくの未知数だった。
この時間にこのあたりにいるとか、この日は外にいることが多いとか、そういう教本(ルールブック)が存在しなかった。
あるときには3ヶ月ほど放浪していたし、あるときは50連勤とか聞いたこともある。
音楽における同じフレーズを繰り返す技法が彼の生活には見られなかった。
そうなると、彼の型破りなスタイルに合わせられる人間はまずいなくて、彼自身がそれを理解しているからこそ、意図して他人と密な交際を行わないんじゃないかと忖度する。とは言うが、答えはいずこや。
むしろ気になるのは、破滅願望というところでありまして。
彼の自己犠牲の精神だとか、自分の優先順位が低すぎるところとか、優しすぎるとか、良い人すぎるとか、いかにもネットに書いてありそうな項目をあまさず満たしている彼はもしかすると破滅願望を抱いているのではないかと疑ってしまう。
わたしの友人の彼氏によれば、好きな女に殺されるためだけにつまらない生をダラダラと続けているのだという。
なんだかよくわからない。
女に変な理想をいだかないでほしい。でもそれもその人にとっては破滅願望らしい。
そもそも破滅願望っていうのがよくわからないんだ、わたしには。
自分を追い込んで、あるラインを超えると破裂してしまって、取り返しのつかない事態に陥りたいという発想がわからない。どう生活すればそういう思想に至るのかわからない。
物事を字面通りに捉えるのではその本質は見えてこない、と彼が言っていた。
「いろいろ考えるんだ。考えて考えて、もう何も思いつかないというまで考えるんだ。誰にでも見えていることを誰よりも理解するためには考え続けないといけない。『赤の女王』に通ずるところがあるよね。僕は走り続けないといけないんだ」
破滅願望をもう少し深く考えてみよう。できる範囲で。
破滅願望という行為において、身を滅ぼすことがほんとうの目的なのか。破壊のあとには何があるんだっけ。再生。創造。変化。キッカケ。
「変化か」
それはありえそうな話のように思う。氷が水になったり、水が水蒸気になったり、そういうやつのように思う。
彼は水になるのかな。水になって、どうするというの。きっと、水蒸気になろうとするんじゃないかって思う。水蒸気になったあとは、もうわかんないな。消えてしまうかも。
##7#
つかれた
こんな文字列がなにになる
糸 瀞石桃子 @t_momoko
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