第16話 理由が判らない苛立ち
「あんたさあ…… 苛ついてるのは別に構わないけどさあ、あたしにあたるのはよしてよ」
FAVはうるさそうに髪をかきあげながら言う。
「ん? イライラしてる?あたしが?」
「気付いてねえ?」
TEARは起きぬけからぱっちりとした目で時計を見る。既に九時をまわっていた。平日でなくて良かった、と彼女は心底思う。
「……うーん…… やっぱりそうだったか」
「P子さんじゃあるまいし…… そんなあんた自分のことで他人事のよーな言い方しないでよっ」
ぴょん、とFAVは立ち上がった。
ふわふわとしたおさまりの悪い髪をそのへんに転がっていたバンダナで結ぶと、FAVは部屋の隅にあるキッチンに立った。蛇口から流れる水の音がステンレスの流し台に響く。
「ごめん、確かに苛立ってた」
当初は自分が彼女を落ちつかせるはずだったのに。
「何かあったん?」
FAVは注意深く訊ねる。
「何が、とはっきり言い表せるもんならいーんだけどね……」
珍しい、とFAVは思った。この女がこういう言い方をするとは。
「実家から何か言ってきた?」
「いやそんなことであたしが動じる訳がない……」
「じゃあ何よ、言わなくちゃあたしにゃ判らないのよ」
「HISAKAさあ」
「HISAKA?」
その単語が出てくるとは思いもよらなかった。FAVは目を丸くする。
洗ったばかりの顔からぽとぽとと水が滴り落ちるので、慌ててまた流しの方をむく。TEARはその様子を見て、取り込んだ洗濯ものの中からタオルを一枚放ってやる。
「サンキュ」
「会社っていくらでできるかFAVさん知ってる?」
「? 知らない」
反射的に答える。
「知るわきゃねーじゃん。でもあいつが言うんだから、そう滅茶苦茶多くはねーんじゃない?」
「最低二百万はいるんだよ、資本金って奴は」
「へ」
「株式だか有限だか、そのへんはよく知らないけれどさ、でもHISAKAとマリコさんが頭そろえて『ちゃんとした会社』っていうんだから、きっちり資本金そろえて、人揃えて、きっちり文書揃えて…… そういうことするんだと思うんだ」
「はあ。そんなにかかるの」
「かかるの。以前に工場にいたひとが独立するときにこれこれこれだけかかってどーの、ってぼやいてたことを思い出してさあ」
「へえ……」
言われてみれば、バイト先の美容院でも、独立開業にはずいぶん金がいるということはFAVも聞いていた。確かに一つ事業を起こす時にはそれなりの資金が必要なのだろう。納得がいく。
「あいつが金持ちってのは知ってるけどさ。そう簡単にぽん、と出す金額じゃねえと思わない?」
「思う。でもあいつ音楽に関しては無茶苦茶じゃん」
「ま、それはそうなんだけどさ」
そこまでは自分もそう思うのだ。実際理屈としては納得がいく。好きなものを作るときになるべく邪魔が入りたくないから、自分でその場所を切り開く。筋は通っているのだが。
つまりはその「だが」なのだ。どうしてそこで自分が疑問を持つのか、TEARには理由が判らないのだ。
だがまあ、確かに、こんな朝っぱらから考える問題でもないような気もする。
「ま、別にあんたがどうHISAKAについて思ってもいいけどさ…… あたしにあたるのはよせっての」
「判る? どこで?」
にや、とTEARは笑う。視線が立ったままのFAVの腕だの脚だのに飛ぶ。
「じろじろ見るんじゃねえっ!」
FAVはタオルを投げ返した。
*
「クラブ・フィラメント」はオキシドールと並んで都内ではなかなか「闇鍋」的なライヴハウスである。
クリスマスライヴは数々の飾り付けとサンタの衣装で結局参加バンドの中で最も目立ってしまった。
新曲のうち、ここでは「MERRY……」と「MODERN」が発表された。
「ゆーえんちはいいけど、現代かぜはなあ……」
MAVOがもらした。確かにまだ「MODERN」は未完成である、という認識がメンバー全員にあった。「MERRY……」はもともとかなり自由が効いたので、「とにかく楽しく」というFAVの唯一の条件が満たされていたので、それはそれでいいということになった。
そして27日の「BAY-77」では「RED」あらため「RED ALERT」がそこに加わることになっていた。FAVは自分のお膝元でお気に入りの新曲をお目見えさせたかったが、とっておきなのよ、とのリーダーのお言葉は強かった。
ちなみに「BAY-77」は横浜の、港の近い地域に1977年に作られたのでその名前がついている。横浜のライヴハウスとしては古株だった。
したがって、このライヴハウスはこの県内のロックバンドには中央へ出る際の一つのステップとして見る者が多い。つまり、「神奈川一つ征せずに何が全国区だ」という訳である。
とは言え、この「BAY-77」は横浜、ひいては神奈川県のバンドが出るだけではない。「関東地方」の一つにも含まれているわけなので、他県からも多々やってくる。
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