ヤドカリとラッコ

瀞石桃子

第1話



わたしは疲れてしまった。


上司からの無慈悲で無尽蔵な押し付けにまいってしまって、心がぐずぐずと炭化していくのだった。

「あの...目が座ってますよ」

密かに思いを抱いていた後輩の憐憫のまなざしがむしょうに悲しかった。


何かの勢いに押されてその後輩を家に連れ込んだくせに、全然濡れなくて、抱いてもらうことができなくて、一人になったあと、やたらめったら悲しくなった。

人間としてうまくいかないことが多すぎるわたしは、たかだかコンビニにあるものだけですべての生活が成り立っていて、とにかく辛い毎日を見つめたくなくて、お酒と一緒に夜を飲み込んだ。


ある夜、長らく放っておいたシーリングライトの内側を開けた。そしたら大量の細かい虫の死骸や糞がわたしの頭にぼとぼとと降ってきた。どうしようのない虚しさが喉元に駆け込んできた。


もういい。


もういいや、って心底思ってしまった。たくさんの諦めたちが足のつま先にまで翳っていて、絶望たちが背中のぶつぶつにあらわれていた。

切なさをたっぷり吸い込んだ布団にもぐっているうちに、死にたいという思いが強く巡ってきて、叫びたくなった。

明日は仕事を休もう、それで家の中に引きこもっていようか。

そう思うと、からだがふっと楽になって、懐中電灯を切ったみたいにぷつりと意識が落ちた。


⌘ ⌘ ⌘ ⌘


からだが冷たくて目を覚ました。自分の体液が、冷蔵庫で冷やした藍色のインクのように感じた。

わたしは、ヤドカリになっていた。

ごわごわの毛と、石灰質の仮住まい。2本の前脚はものをつかみ、4本の脚は歩くためにあった。残りはヤドにしまっている。


それから。

わたしはラッコのお腹の上にいた。濡れた刷毛のように湿った毛むくじゃら。つぶらな瞳と、半分飛び出している前歯。

ラッコのお腹の上にヤドカリ。

この構図はもしかして。

「あなた、わたしを食べようとしていたの?」

波に揺れ動く足場につかまって、ラッコにたずねる。

「そうだよ。お腹が空いたんだ」

「ちょっと待って。わたしは食べないで」

「なんで?」

「なんでって、そりゃ食べられたら死ぬからよ」

「食べられたくないの?」

「もちろん」

「じゃあ僕は何を食べよう。ここのところ、狩りを怠けていたせいで周りに除け者にされちゃってさ、まともに食事ができていないんだ」

「一人で狩りはできないの?」

「まだ若いからね。できないことはないよ。でも一人での狩りは時間がかかるし、収穫も少ないんだ」

「群れに戻ることはできないの?」

「新しい群れを見つけるまでは一人かな」

「そうなの」

「だからお願い、食べさせてよ」

「ダメよ。死ぬのは御免よ」

「でも君はヤドカリだよ。ラッコに食べられてもいいと思うんだ」

「あのね、わたし。ヤドカリだけど、ほんとうは人間なの。人間だったの」

「ニンゲン? それはほんとの話?」

「そう。ほんと。ヤドカリになるまで、すごく悲しい毎日を過ごしていたの。いろんなものに押しつぶされていて、それをどうすることもできなくて、わたしの弱い心が全部いけないんだけど、とにかくダメな状態が続いていたからね、確かにいつだったかヤドカリになりたいって思ったことがあったの」

「なんでヤドカリになりたかったの」

「ヤドカリはいいじゃない。自分を守る殻があって、嫌なことがあったら逃げ込めばいいし、殻を変えることだってできる」

「たったそれだけでヤドカリになりたかったの」

「誰かに責められる前に自分を守りたいの、人間って」

「よくわかんないなぁ」

「そりゃああなたラッコだもの」

「でも君はヤドカリだよ。人間だったら食べることはできないけれど、ヤドカリは僕の好物なんだ。食べさせてよ」

「だからダメって言ってるじゃない」

「なんで? 君はヤドカリなんだ。ヤドカリだったら、僕やほかの動物たちに食べられないように逃げないと。君はそういう世界にいるんだ」

「わたしは食べられるためにヤドカリになったんじゃないの。人間でいるのがいやだったからヤドカリになったの」

「よくわからないよ。人間はこの地球上でいちばんすごい生き物なのに、どうしてやめたくなるんだろう。僕だったら人間になって、たくさんのことをしたいのに。人間になれば魚をありったけ食えるんだろう」

「あなたも人間になったら、苦しくって生きていけなくなると思う」

「そんなの、僕だってそうさ。ラッコでいるのは辛いよ。いつも冷たい海流に押し流されているし、気を張っていないとどうもうなシャチなんかに狙われるし、僕の仲間だってシャチに食われたよ。孤独になったラッコなんか目も当てられないんだ──僕のように」

「あなたは早いところ仲間を見つけるといいのよ。そうすればきっと良くなる」

「ほんとうかなあ。仲間がいれば、大丈夫なんて、そんなことはわからないぞ。僕にとって良いことはなんなのかわからないんだ」

「この世に幸せなんてあるもんじゃないと思うの。その都度その都度、そのときを幸せと思うか思わないか、そういうものだと思うの」

「じゃあ君は今幸せ?」

「ぜんぜん。だって食べられそうだから」

「幸せになりたくて、ヤドカリになったんじゃないの」

「そういうわけじゃないわ。ヤドカリになれば、これ以上人間でい続ける苦しみから逃れられると思っただけ」

「だったら、そもそも何かになる必要なんてなかったんじゃないの」

「それはどういう意味?」

「僕が言いたいのはね、

『何者かになったところで、何者かになった苦しみを味わうだけ』なんだ」

「それはほんとうかもしれない。現に、今わたしはヤドカリである苦しみを味わっているから」

「そして君はその苦しみから逃れることはできないんだ。僕は君を食べなきゃ生きていけないし」

「いやよ、お願いだから食べないで。少し我慢したら、ほかのエサが見つかるはずよ」

「僕には君を見過ごす理由がないんだ」

「いやよ、食べちゃダメよ。死ぬのは御免よ」

「そんなことを言われても、僕は君を食べるんだ。僕には、もう生きていく楽しみもないけれど、食べなくちゃ生きることができないから」

「楽しみがないなら、生きるのもやめたらいいじゃない」

「やめようと思ったよ。何度も何度も、繰り返し考えたよ。この先、何の希望もないし、幸せもないのに、生きていく理由が見つからないんだから、もういっそ死んだらいいと思うことがたくさんあったよ。だからとことんお腹を空かしてそのまま死のうと考えたけれど、食べなくなっていくうちに気持ちが食欲の方向に行っちゃって、死ぬよりも食べることをしたくなってしまったんだ。そうして、ある日、白い立方体のケースが流れてきたんだ。たぶん漁師があやまって落としたものなんだろうけれど。それを空けたらさ、中からウニとかアワビとかわんさか出てきて、僕は食糧にありつけたんだ。もちろん独り占め。あのときは嬉しかったなあ。一人でも嬉しくなることができたんだ」

「それはすごく良いことね。恵まれている、というのかしら」

「うん、恵まれていたな、あのときは。生きていればそういうこともあるんだな、って思ったよ」

「恵まれるには、どうしたらいいと思う?」

「君はそういうことを言っちゃダメだよ。だって君はもとは人間だったんだから。動物たちにしてみれば、人間がもっとも恵まれた生き物なんだ」

「けれど、わたしの人生は恵まれたことはなかった。ほんとうよ」

「これから恵まれるはずだよ。もともと恵まれる要素をたくさん持っている生き物なんだから」

「そのために辛い毎日を過ごすのが、わたしにとって困難なのよ。辛さを感じない生活をしたいのに、世界は厳しすぎる」

「贅沢だよ、そんなの。辛さを感じない生活をできるのは、ほんとうに一部なんだ」

「わかってるのよ、それくらい。でも、辛いのはもうこりごりなのよ」

「いい加減にしてよ、もう僕は腹ペコでたまらないんだ。君はかつて人間だったけれど、今はヤドカリなんだ。食べさせてよ」

「だからダメなの。わたしは食べられるためにヤドカリになったんじゃない」

「じゃあどうしてヤドカリになったのさ」

「傷ついて、傷つけられて、生きるのがいやだったからよ」

「傷つかずに生きるなんて、できっこないのに。傷を受けても生き延びるように生きるしかないんだよ」

「そんなのきつくてきつくて、死ぬわ」

「でもみんなその中にいるんだよ。君だけ、っていうのは許されないんだ。ここはおとぎの世界じゃないんだ」

「いやよ、きつい毎日はいや。もうたくさんなの。いいことなんてひとっぽちもありゃしないの。こんな人生、さんざん。せめてヤドカリでいるときくらい好きにさせてよ」

「甘えたことを言っても無理だよ。僕、君を食べなくちゃ生きていけないんだ」

「いや、いや。お願い、食べないで」

「......ちょっと待って。静かに」

「なに?」

「どうしよう」

「なに、どうしたの?」

「僕たち、お話している間にシャチの群れに囲まれているよ」

「え、え」

「こんなことになるなら、とは言っても仕方がないね。僕、彼らから逃げられそうにないよ」

「どうして。まだ諦めたらダメよ」

「さっきまで食べられたくないと言い張っていたのに、状況が変わるとそういうことを言うんだね。やっぱり、人間って生き物は変わっているなあ。僕の心配なんかせずに、自分の心配をしなくちゃ。僕は逃げたい気持ちもあるし、君を食べたい気持ちもあるんだ。だから、君は絶対に離さないよ」

「早く逃げて。早く」

「あまり泳ぎは得意じゃないけど、頑張るよ。君はこの脇の内側の袋に隠れてて」

「うん、わかっ──」


ばくん。



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ヤドカリとラッコ 瀞石桃子 @t_momoko

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