15 二人の夜 四




 汐見しおみ凪紗なぎさは自分にとって特別な存在だ。こちらが一方的に感じているにすぎないつながりが、今の穏原おだわら景史けいしを支えている。


 いつも感じていた。学校でも、家でも、自分はここにいるべきではない、と。

 ここにいるのに相応しい人間ではない。ここにいてはいけない気がする。そんな種類の孤独感。

 それはきっと記憶がないせいで、記憶を失う前の自分である『穏原景史』にどこかで後ろめたさを感じているからなのかもしれない。ここは彼のいるべき席で、部屋で、彼の家族なのだと。同じ人間のはずなのに、今の自分にとってはクラスメイトも父も母も妹も、少しだけ他人だから。


 居場所のない孤独を、彼女も感じている。そんな風に思った。似て異なるかもしれないし、そもそも思い過ごしかもしれないけれど、同じような想いを抱えている誰かがいることが救いだった。彼女が、救いだった。


 だから、彼女を失いたくない。仮に元の自分を取り戻すことが出来ても、そこに彼女がいないのなら意味がない。



「……なんだ、考えるまでもないじゃないか」



 答えは決まっていた。出ていくべきだ。ソファから腰を上げようとした、その時だった。


 階段を降りてくる足音が聞こえた。



「暗……、なんだ、まだ起きてたの。だったら電気くらいつけてよ。私、いつも下は明るくしてるんだから」



「……汐見、さん」



 リビングに明かりが点る。ふと目覚めてしまった、というよりはずっと起きていたのか、汐見は部屋に上がる前とあまり変わらなかった。それでいて、まるで人の心中を見透かしているかのように、


「早く寝たら? 明日は荷物持ちしてもらうんだから」


「……あのさ、」


「言ったよね、協力するって。パソコン貸してあげたんだから、ちゃんとそのぶん働いてよ」


 なんというか、言わせてくれない。


 汐見はコップにお茶を入れてからこちらにやってきた。向かいのソファに座る。仕方なく景史も浮かしかけた腰を下ろした。床に落としてしまったノートを拾う。


「それで、何か分かったの?」


 分かったことをかいつまんで説明する。機関については汐見も熟知している様子なので、日逃ひのがれについてと、集めた情報から考えられるヤワタリイツギの現状を話した。


「あぁ、そっか。日逃。なんか聞いた覚えっていうか、ふっと字が頭に浮かぶくらいには見た覚えがあるなって思ったんだ」


「そっちもまあなかなか問題なんだけど、俺が気になるのはこいつがテロリストの内通者、機関からすれば裏切り者じゃないかってことで……実際、俺は二回襲われてるわけだから」


 一回目はなにやら私怨を感じたが、二回目は義務的に殺害しようとしていた印象だった。


「つまり、穏原くんは荷物持ちしたくないってこと?」


「……うーん……まあそういう意味になるかな。俺と一緒にいると危険だってことくらい、汐見さんだって分かるだろ?」


「分かるけど、私、最初からそういうの承知の上で付き合ってるつもりだったんだけど。穏原くんは私のことなんか気にしなくていいよ。私も知りたいことがあってやってるんだし。目的は違うけど協力してたらお互いに収穫があるはずだよ。というか、穏原くんいてくれないと困る。私の欲しい情報は今の穏原くんに引き寄せられてやってくるっぽいし」


「むしろ危険ウェルカムって感じですか……」


「そうなるかな。別に自分から危ない目に遭うつもりはないよ。もし危険な目に遭っても、またいつぎさんが助けに現れるかもしれないし。穏原くんは気にしなくていいよ、うん」


「……いろいろ複雑な心境なんだけど。きいていいかな。汐見さんの知りたいことって――」


「内緒」


 真顔で言う。たぶん、本人から打ち明けてくれるまではいくらきいても答えてくれないだろう。実際そうだと言わんばかりに、それから汐見は口を閉ざしてしまった。


 汐見を巻き込むことにはまだ躊躇いがある。彼女がなんと言おうと、これは自分の心の問題だ。でも、なんだろう。彼女にそう言われると、ここにいてもいいのかな、なんて。いまさら自分が無関係を装ったとしても、手がかりを得るために機関の人間は汐見から聴取するかもしれない。ならいっそ、たとえ何も出来なくても彼女の近くにいて守れるように努力すべきだろうか、なんて。情けないな。彼女といたい。


「……もう少し、想術そうじゅつってやつについて調べてから休むよ」


 汐見は特に返事もくれなかったが、構わずノートPCを起動する。

 やはり部外秘なのか機関のサイトにも詳しくは記されていなかったが、一般の、個人が運営する想術考察サイトというものをいくつか見つけた。過去の文献やら実際の機関の活動やらから想術について独自研究しているらしい。どこまであてになるかは分からないが、今は藁にもすがる思いだ。


隠形おんぎょう……あれが一番厄介だ。気付いたら囲まれてるんだもんな。何か対策でもとれれば――)


 パソコンの画面に集中しているつもりだが、どうしても視界の隅に汐見の顔が映る。さっきから何も言わず、観察するというよりどこか別のところを見ているかのような、心ここに在らずといった表情でこちらにジッと視線を注いでいる。気になって仕方ない。まさかと思うが、寝てるのだろうか。


「……あのー……汐見さん……?」


「今から思えば、なんだけどね」


 唐突に汐見が口を開いた。目の焦点がこちらに向けられている。


「昨日……もう一昨日か。一昨日の告白、穏原くんっぽくなかった気がする」


「あ、あぁ……いろいろありすぎてうっかり失念してたけど……」


 というか、なかったことにしようと、汐見にも忘れてもらいたいと思っていた。

 思えばあれが全ての始まりだ。


 鬼退治後に保健室で入れ替わったという景史の説が、あの告白のことを考慮すると崩れてしまう。

 この場合、入れ替わったのとは別の想術があると見るべきか――


「なんというか、言葉ほど気持ちが伝わってこなかったっていうか」


 汐見が再び口を開いたので、考えをいったん中断して彼女に向き直る。


「まあ、私、ひとの気持ちとか疎い方だって自覚はしてるんだけど」


「……自覚してたんだ……だったら改善する努力をしてほしいです」


「分かんないものはしょうがないよ。でも、そんな私でも好意を感じなかったっていうか。気のせいかもだけど。やっぱりあれ、別人だったのかな」


 別人だろうがなんだろうが、まあ結果は変わらないのだが。


「仮にいつぎさんだとしても……あんな告白はしないかなぁ……。私のイメージの話だけど」


「美化しすぎじゃない? 見た目ほど中身はイケメンじゃないかもよ」


「少なくとも今の中身はそうだよね」


「うん? うん?」


 今のはどう捉えれば?


 まあ、それはさておくとして……やっぱり、彼女もそう考えるか。ヤワタリイツギとは、また別人の可能性。

 具体的にどんな告白だったのか、ここまで来ると興味も湧いてくるが――また厄介な、〝第三者〟が浮上してきたわけだ。


「そもそも、穏原くんはぜったい私に告白なんてしないと思ってたんだけど。だから、その、なんていうのかな……私はとても困惑してしまったのです」


 眉根を寄せる。こんな顔を見たことがある。昼休み、返事をしにきた時だ。


「お陰で私は昨日、お昼に返事するまでとても不愉快な思いをしました」


「不愉快……。でもぜったい告白しないって……まあ、しなかったと思うけど」


「だよね。穏原くんは自分から人に寄っていかないイメージある」


 寄っていかないというか、声をかける勇気がないだけなのだが……。


 なぜかそこで汐見は口元を緩めた。不意打ちの微笑に心を奪われかけるも、汐見は手にしていたコップのお茶を飲み干すと腰を上げた。部屋に戻るのか。


「……あのね、一つ訊きたいんだけど」


 コップを手にキッチンへ向かう。珍しく躊躇いがちな口調だったから気になって見ていると、汐見はすぐには続けず、コップを洗って、片付けて、何も言わないまま階段へ。そこで汐見はふと足を止めてこちらを振り返った。



「どうして――私を助けたの」



 すぐにはなんのことだか分からなかった。何度か助けようとした覚えはあったがそのたびにうまくいかなかったからだ。汐見は目を逸らしながら、ふてくされたように、


「ほら、あれ、最初に鬼に襲われた時……。まあ本当にもうダメかもって時に助けてくれたのはあのカナエって人だし、最終的にはいつぎさんが助けてくれたから穏原くんは何もしてないも同然なんだけど……」


「はいはいそうですね俺は何もしてませんね……」


「どうして、助けようと思ったの」


「…………」


 口を開いたが、言葉が出なかった。

 その気持ちの正体を知っている。言語化し、はっきりと自覚した。


 でも――それを口にして、どうなるというのか。


 思うままを打ち明けたら、実はまったくの見当違いだと笑われるかもしれない、馬鹿にされるかもしれない、気持ち悪いと――拒絶されるかも。


 いや――そんなことは、どうでもいいのだ。


 彼女にどんなことを思われようと、この気持ちは自分だけのものだ。

 ただ、そう感じた。そう思った。答えは求めていない。ただそれだけの、感情。

 わざわざ教えてあげる必要はない。これは自分が勝手に抱いただけの、ごくありふれた、なんでもないただの共感だから。


「内緒……って言ったら、殴る?」


「……殴られたいの?」


「そうしようと思ったら、体が動いただけだよ。君が俺のこと殴るのと同じ理由」


「……答えになってない」


「誰だって、目の前で誰かがヤバそうだって思ったら『助けよう』ってちょっとは思うんじゃないかな。行動するかは、別として」


「…………」


 汐見が背を向ける。階段に足をかける。話は終わりだと思った。



「……私は、違うよ」



 独り言が、闇に溶ける。



「おやすみ」



「……あ、うん。おやすみ」



 あとはもう足を止めることなく階段を上っていった。


「…………」


 最後のあれは、どういう意味だろう。


 いつになく沈んだ声で、気にはなったが――


 それにしても、不愉快、か……。


 気のせいというか希望的観測というか、今は少しだけ、その意味を言葉の通りに受け取っていいものかと思えてきた。


 本当に嫌だったなら告白されたその時に返事をすればよかったのだ。たとえ相手が返事させる間もなく消えたのだとしても、汐見なら容赦なく、朝の教室で顔を合わせた時にでも告げるだろう。


 そうしなかったのはそれが汐見にとって、すぐには答えを返せないくらい心のうちを掻き乱すものだったからではないか。


 ……まあ、どちらにしても悪い意味には違いなく、だからこその「不愉快」なんだろうけど。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る