いつか、この夜が明けるまで

人生

プロローグ

 開幕




「よぉ、ご無沙汰じゃねえか――ヤワタリ・イツギ!」



 はじめは、それが自分に向けられた言葉とは思わなかった。


 たとえ目の前の小学生くらいの少年がこちらを見据え、歯を剥き出しにして獰猛な笑みを浮かべていたとしても。

 小さな身体にそぐわない巨大な鉄の塊を肩に担いでいるのだから、なおさらだ。


「よぉーやくだ、よぉうやくお前さんにあの時の貸しを返す時がきた」


 こんな子供に知り合いはいないし、たぶん初対面のはずで。


 それに、そもそも俺は『ヤワタリイツギ』なんて名前じゃない。


 穏原おだわら景史けいしは突然の出来事に戸惑うしかなかった。


 放課後になり、穏原景史いつも通り寄り道もせず帰路についていた。

 確かにずっと誰かに見られているような気配は感じていたし、実際ちらちらとこちらの様子を窺っていると思しき男たちの姿があった。

 単なる気のせいだろうと思って自宅のある住宅街に入った時だった。不意に背後で人の集まる気配を感じ、振り返ってみればどうだ。


 先の少年を中心に、鉄パイプやら金属バットで武装した柄の悪そうな男たちが十数名。その男たちこそ道中こちらを窺っていた連中だった。


 戸惑うな、という方が無理な話だ。


 だって武装……そう、武装している。武器を手にしているのだ。鉄パイプも金属バットもこんな人相の悪い連中が持っているのだからそれはもう立派な武器だろう。凶器である。他に使い道が思いつかないくらい様になっているのだ。


 そしてそんな彼らの中心に、まるでリーダー格のごとく仁王立ちする少年の存在。普通にしていれば近所に一人や二人いるだろう小生意気な少年にしか見えない。手首にじゃらじゃらと嵌めたゴツい腕輪のようなものもまだ許容範囲だ。

 しかし、あの鉄の塊はなんだ。いい加減、自分をごまかすのも難しくなってきた。あれは剣だ。じゃなければ鈍器だ。いずれにしろ凶器であることに違いない。


 黒で揃えた服装の彼らは景史を取り囲もうとするようにしながら距離を詰めてきていて、思わず後ずさってからようやく、背後にも更に数人の黒服がいることに気付いた。


 もはや完全に取り囲まれていた。


 左右に目を向ければ普通に民家がある住宅街の真ん中で、いったいぜんたいどうしてこんなことに。


 しかもよりにもよって周りにはひと気がなく、誰かが通報したり助けにきてくれる希望も見えない。というかこんな集団を前にしたら相当腕に自信があるかよほど身の程知らずでなければわざわざ割って入って助けになど来てくれないだろう。

 何が何やら分からないが、とにかく絶望的な状況であることだけは嫌でも理解できた。


 だがまだ諦めるには早い。諦めるも何もこのままでは理不尽にも暴行されるのが目に見えている。そんなのはごめんだ。だからやれることはなんでもする。


 逸る鼓動を抑えるように左手を胸に当てながら、


「え、えーっと……人違いしてるんじゃないですかね……? お、俺、あんたたちのことなんて知らないし。ヤワタリなんとかさんって人も知らなくて。そ、そうだよ、俺はオダワラケイシって名前で……」


 こういう問答無用で〝暴力〟という恐怖を押し付けてくる連中を前にしているのだから仕方ないにしても、我ながら声は震えるしつっかえるしで情けないったらない。

 そのせいもあるのかもしれないが、大剣を担いだ少年はあからさまに不機嫌そうに顔を歪めてしまった。


「はあ? てめぇコラ、このおれ様がお前さんの顔を忘れるとでも思ってんのか? 忘れるわけねえだろ。この目にしかと刻み込んであんだよ。絶対いつかここを出てお前さんを殺す。それだけを支えにおれ様はあの地獄に耐えてきたんだからよ」


 こ、ころすって……。反抗期の子供が親に向かって言い放つものとは比べるまでもない。この少年は本気だ。武器を手にしていなくても分かる。目が、その眼が殺意を語っているのだ。


 背筋がぞくりと冷えた。額や手のひらに嫌な汗がにじむ。

 そんな景史とは打って変わって、少年はこれ以上ないってくらいの満面の笑みを浮かべてみせた。後ろの男たちもにやにやとしている。景史も倣って愛想笑いを浮かべてみた。その笑みはすぐに凍り付いた。


「この日を夢にまで見たぜ。よぉうやく念願叶った。まだちと本調子じゃねえが関係ねえ。おれ様の味わった地獄の苦しみをお前さんにも感じてもらいてえからよ、すぐに死ぬなよな?」


 あ、死ぬ。とっさにそう思った。


 少年が力強く踏み込み、肩に担ぐようにしていた大剣を両手で持って勢いよく振り下ろしてきたのだ。

 とっさに反応できるわけもなく、ほとんど反射的に後ずさろうとして足が絡まり、その場に尻餅をついた。少年の影が本人よりも大きく見えた。目をつぶった。もうダメだと思った。


 ガキン、という金属同士がぶつかり合うような音が響いた。


 その音が連続して一合、二合……と。


「水を差すんじゃねえよ犬畜生が!」


 誰かがあの少年とやりあっている。たぶん斬り結んでいる。そこまで認識してからやっと目を開けると、少年のものとは明らかに異なる影が目の前にあった。


 美少女が助けにきてくれたのかと思った。


 その人物はまるで女性めいて整った顔立ちをしている。つやのある長い黒髪は紐で結われてポニーテールにまとめている。背が高く、すらりと伸びた両手で鞘に収まった刀のようなものを使い応戦していた。


 男だと気付くのに少し時間を要した。それほど彼は端正な容姿だったのだ。

 影を想起させる黒装束に映える白い肌。深い青の瞳には冴えた輝き。叫び喚き怒鳴り散らしながら大剣を振り回す少年とは打って変わって、冷め切ったような無表情で迎え撃っている。


 両手で鞘と柄を握りながらも刀は抜かず、大剣の刃を直には受けずに刀身の腹に鞘をぶつけるようにして攻撃をいなしていた。


 一度激しくぶつかってから、少年は男と距離をとる。忌々しげに唾を吐き捨てた。


「クソが。出てくるとは分かっててもいざ出てくるとマジ胸糞悪いな、てめぇ!」


「…………」


 男は応えないどころか、不用心にも少年に背を向けた。

 そしてこちらを、無様にも尻餅をついたまま茫然とする景史を見下ろした。思わず硬直する。男は何も言わず手を差し伸べた。一瞬躊躇うも、自分を見つめる真摯な眼差しに吸い寄せられるようにその手を掴んだ。


「うわっ……!」


 強く手を引かれ、男の胸に抱きすくめられる。乙女でもない自分がどうしてこんな目に。

 心音が聞こえた。その音に合わせるように早鐘のようだった心臓が不思議と落ち着きを取り戻した。


 男が静かな声で言う。


「――剣を抜く許可を。猿どもを駆逐します」


 誰が猿だってとかなんとか聞こえたが、


「え、えっと……お好きにどうぞ……」


「では」


 男は景史を片手で抱きすくめた格好のままその場で勢いよく回転した。唐突過ぎてぎょっとしながら景史が見たのは、二人を中心に放たれた衝撃波のようなものに当てられて倒れ込む不良たちの姿。

 どうやら男が器用にも回りながら鞘から剣を抜き、景史を取り囲んでいた武装集団を蹴散らしたようだ。


 しかし回転が止まってよく確認してみれば、不良たちは誰ひとりとして外傷を負っていないようだった。意識を失っているだけなのか。景史を解放しながら刀を鞘に収めた男も返り血ひとつ浴びていない。


 ただ、倒れているのはほんの数人だ。後ろにいた連中は全滅しているが、前方は少年含め未だ数人が健在。どうやら倒れている連中が壁になるなりして難を逃れたらしい。


「やってくれるじゃねえかクソ犬。いいぜ、まずはお前さんからぶっ殺す。てめぇはそのあとだ、ヤワタリ!」


「いや、出来れば俺なしで勝手にやっててくれると……え?」


 肩を掴まれた。グイっと後ろに引かれ、入れ替わるように黒衣の男が前に出た。そして首だけを振りむかせて背後に視線を送る。行け。まるでそう告げるかのような仕草だった。


 あ、あざーっす……。心の中で頭を下げつつ、景史はこそこそとこの場から逃れようとした。男の影に隠れるように、少年の目に留まらないよう慎重に、それでも出来るだけ速く。

 倒れている不良につまづきそうになりながらもすぐそこにある角へと飛び込んだ。


 やっと逃げられる。

 そう思った直後、勢いよく誰かと衝突した。



「「っ!」」



 今度こそ心臓が止まるかと思った。


 黒服だったのだ。


 ぶつかった少女と、その後ろにさらに二人。さっきの連中とは雰囲気が似て異なるが、明らかに刀と思われるものを腰に差している。

 ポニーテールの少女と、黒髪の眼鏡青年、そして化粧っけのある黒人の大男。しかも男二人はとっさの反応なのか腰の刀に手を伸ばし身構えている。


 直感的にマズいと思った。よろめく足を踏ん張って、視線は三人の横へ。連中は道の端に集まっている。反対の端から突破できるだろうか。自信はない。自分の体力と脚力を鑑みるに、相手の隙でも突かない限り抜ける間際にすぐ捕まるだろう。向こうに捕まえるつもりがあればだが。


 ただなんとなく、この三人の自分を見る目には何かを感じた。あの少年たち同様、彼女らも自分に用があるのかもしれないと思ってしまうのは自意識過剰か。でも仕方ないだろう。突然の出来事を理解する間もなく、訳の分からないままに襲われた。不安が募り、そんな状態で偶然かもしれないが帯刀した黒服と出くわしたのだ。何か関係がある、自分は狙われていると考えない方が無理な話だ。


 逃げないと。

 漠然とそう思った時だった。

 手を握られた。引っ張られる。


 逃げ出そうと踏み出したその視界の隅で、尻餅をついた格好の少女が茫然と唇を動かした。何かを、きっと知らない誰かの名前を口にしていた。

 こっちを見ているはずなのに、まるでその目に自分の姿は見えていないかのようで。訳の分からない不安に押し潰されそうだった。


 それでも止まらずに駆け出した。曲がり角の向こうであの少年が怒鳴っている。すぐにも生き残りの不良どもが追ってくる。眼鏡と大男もそれに加わるかもしれない。彼らが振り返るのも目に入った。だから息を止めて走った。


 手を引かれていた。

 どこから現れたのだろう。なんでもいい。



「逃げるよ、景史……!」



 名前を呼んでくれた。


 自分はちゃんとここにいる。

 それだけで今は充分だった。



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