True lie

白井玄

True lie

 これはデートと呼べるのだろうか。


 カフェに入る前の会話を想起する。駅近くになって、草薙は少し付き合ってほしいと言った。理由を訊ねれば、バイトまでの時間があるのだと答えた。特別予定のないぼくはいいよと首を振った。


 ここまではなんてことないやりとりだ。こんなふうに頼まれるのはめずらしいけれど、いままでにだってなかったわけじゃない。放課後に立ち寄るのも一度や二度ではない。


 問題はこのあとの一言だ。ありがとう、じゃあデートをしようか。こともなげに言った草薙の様子から、冗談なのはわかる。わかるが、多少なりとも意識をしてしまうのは男子高生の習性だった。


 いや、めちゃくちゃ意識していた。甘美な響きを持つその言葉に、心乱されまくっていた。


 デート。デートといえば、あれやこれ。ピンク色の妄想に手招きされたけど、さすがに今日そういう展開はないはず。でもいずれは。


 なんて浮き足立ってから、振り解くようにかぶりを振った。冗談だ、冗談。言い聞かせて、どうにか平常心を取り戻した。それでも、期待している自分もいて、つまるところなにかが起きる気がしていた。そう、いまにして思う。


 それなのに。だ。


 沈黙が横たわっている。


 草薙は涼しい表情のまま、口許に三日月を薄く伸ばしている。その表情は見慣れたもので、変化のない微笑みは無表情と変わらないだろう。いまいち、なにを考えているのかわからないやつである。


 発言の責任をとってほしい。無責任に考えながら、ぼくも口を開かないのだから同罪だった。


 他のテーブルからちらちら視線を感じる。草薙の容姿が原因だ。高校で一番綺麗だと言ってもいい。そう笹倉が言っていた。ぼくは頷いたような気もするし流したような気もする。いずれにせよ否定はしなかったはずだ。


 作り物めいて見える草薙は、インテリアオブジェみたいな女子だった。


 対面に座っているのに、「いる」より「ある」と言ったほうが適切な気がしてくるから不思議だ。動かないとか喋らないわけでもないのに。ちゃんと動いて喋る。当たり前だ、草薙は生きている。でも、そういう機能がついているだけとも思えるのは、どこか生命感が希薄だからかもしれない。その希薄さが儚く見えて、余計に目を惹くのだろう。


 ぼうっとしていると見惚れそうになる。誤魔化すために白いマグを手に取って、口に運ぶ。めちゃくちゃ熱かった。火傷した。よく噴き出さなかったよ、自画自賛。草薙の表情に変化はない。せめて笑ってほしい。顔が熱くなる気がした。


 目の前に座る草薙に視線を向けながら、考える。ひとりでいるような居心地の良さが厄介だ。コーヒーの香りがぼくを包み、インストゥルメンタルにアレンジされたJPOPを聴き入ろうとさせてくる。


 とはいえ、いつまでも黙ったままでは、誘ってもらったのに悪いか。沈黙が心地いいのはぼくの感想であって、彼女がどう思っているかはわからない。


 周りからはどう見えるのだろう。カフェで男女が向かい合っている。黙ったまま。美少女はうっすら笑みをたたえて、冴えない男はその女子を眺めている。


 言葉にすると不穏だった。デートとは言い難い。むしろ修羅場だ。ぼくがどう思われようが構わないけれど、さすがに草薙を巻き込むのは良くないことだけはわかる。


 それに折角、放課後に女子とカフェに寄ったのだ。デートとまでは言わないけれど、世間一般的な楽しい時間を過ごすための努力はするべきだろう。


「いい天気だね」大真面目な表情で言う。


「うん、たしかに今日は雲が薄いね」草薙は微笑んだ。


「そこ?」


「栗田は目のつけどころいいと思う」


 外は淀みない曇が広がる、初めからこうだったと錯覚するような見事な灰色の空だ。二月に入ってから十三日が経ち、一度も晴れ間を見せない頑固な曇天だった。そのなかでも今日は比較的明るめだから、草薙の返答はおかしくないし、相対的にみればぼくの言葉もまた真実と言える。


 そう納得しようとして、だけどやっぱり腑に落ちない。たしかにぼくは、彼女のその返答を引き出そうとした。迂遠な茶化し合いを交えたうえでだ。なぜか結果だけを得てしまった。嫌な気持ちはしない。ただただ笑えてくるおかしさがあった。


「こう、会話が下手だね、とかない?」


「狙いどおりに応えたら負けた気分になるよね」 


「わからなくもない」


「だけど、この反応こそが栗田の狙いかもしれない」


「そうかもしれない」


「だとしたら」


 草薙の口角がさらに少し上がった。


「私の勝ち」


 透明な声音ではっきりと言って、それから草薙はコーヒーをひとくち飲んだ。


 ぼくの狙いどおりに負けて、勝ったと宣言したその表情に余韻はない。言葉の意味を理解できないぼくは、首をかしげるしかなかった。どうにも、彼女の理屈はひん曲がっている。


「うん? つまり草薙は負けたほうが都合が良かったわけか」


「負い目があるとね、どうも落ち着かないんだよ」


「貸しを作ったつもりはないけど」


「バイトまでの時間をカフェに付き合ってもらう、なんて全部私の都合だもの」


「それは……」


 否定しようとして、続きを躊躇う。草薙は自分を過小評価しすぎてはなかろうか。彼女が声をかければ、男子は喜んで赤べこになるはずだ。少なくとも笹倉はそう。だけど、このことを伝えれば、諸々誤解されかねないというか、避けたい展開になりそうだから核心には触れない。


「まあ、ぼくも暇だったから気にしなくていいよ。だめなら断ってるし、無理に合わせてるつもりもないし」


「つまり栗田は、暇なら誰とでもデートをすると?」


 草薙の眼が鈍く光った気がした。


「なぜそうなる」


「私は思いました、少なからずデートという言葉に引っ掛かったのだと。そして栗田は言いました、暇だから付き合ってくれたと。つまり、暇なら誰とでもデートをするということになります」


「なぜ丁寧口調」


「真偽はいかに?」


 質問というより詰問だった。こんなデートがあってたまるか。叫び出したかったが、言葉を飲み込む。とてもそんな雰囲気じゃない。冗談なんだろうけど、真っ直ぐ向けられる瞳に気圧される。なんだこの圧は。


 どこかのテーブルで、誰かが唾を飲んだ気がした。ぴんと空気が張り詰める錯覚を抱く。貼り付けた微笑みが不気味だ。やましいことなんてないのに、後ろめたい焦燥感が背中を伝う。


 思考の回転数を上げる。恋人でもないのに、浮気を疑われている気分だった。


 しかし、狙いどおりの反応は負けた気がする。なにに負けるのかはわからないけれど。


「誰とでもは言い過ぎだけど、そういう面がないとは言わない」


 嘘だけど。心の中で付け足した。誘われれば浮かれるだろうけど、失敗するのは目に見えているのだ。わざわざ汚点を増やしたくはない。


 草薙は微笑みを崩さない。圧は消えていた。見透かされているのかもしれない。


「嘘だね」


「嘘じゃないよ」


「嘘だよ」


「嘘だけどさ」


 それに、暇はイコールで退屈ではない。クリアしてないゲームはあるし、読みかけの小説もある。課題だってやらなければならない。その時間を誰にでも融通するほど、ぼくは寛容でもない。


「ほらね、やっぱり私の都合でしょ」


 だから、草薙に合わせていないというのも嘘になる。厳密に言えば、と注釈は付くけれど。草薙は暗に言うのだ。お前はそんなにお人好しじゃないだろう、と。そしてそれはきっと正しい。


 気持ちはわからなくもない。たぶん逆の立場ならば、ぼくもそう思うだろう。


「そういう面もある。ただ、合わせてるだけでもないよ。つまらないと思ってたら断ってる」


 結局のところ、天秤にかけて草薙が勝ったのだ。彼女に都合に合わせたのも真実だが、同時にぼくが自分で選んだのも真実だ。だから、ぼくと草薙は対等で、負い目なんて感じる必要はないのに。きっと納得はしてくれない。


 草薙はおどけた様子で言う。


「素直に楽しいからと言ってほしいのが乙女心だね」


「狙いどおりに応えるのは負けた気分になるからね」


「そこは負けてくれてもいいんじゃないかな」


 小さな笑い声が重なった。沈黙も心地いいけれど、くだらないやりとりが楽しい。楽しいから、ぼくはそっと息を飲む。


「それで、なにか話があったんじゃないの?」


「話がないと誘っちゃだめ?」


「そういうわけじゃない、けど、今日はなにかあるんだろ? バイト前に声をかけてくるのめずらしいし」


「デートしたくなったの」


「はあ、これデートなの?」


「デートだよ、定義なんてないでしょ」


「まあそうだけど、それで話は」


「誕生日、なにが欲しい?」


 なんて、素っ気なく訊いてくるものだから、それがぼくに向けての言葉だと気づくのに時間がかかった。


 誕生日、その言葉に負い目が膨れに膨れて、心苦しい。なるほど、たしかにこれは落ち着かない。


「いや、いいよ。去年もらいっぱなしだし」


「気にしないでよ、私が勝手に贈るんだから。それとも、いらない?」


 いらない。そう言えたら気楽になれたのだろうか。どうする、草薙は首を傾げていた。ぼくは応えない。誤魔化すように冷めたコーヒーを飲むと、やけに苦く感じた。


「そんなに苦々しい顔されると悲しいなぁ」


 草薙は微塵も悲しくなさそうに言う。


「べつに嫌なわけでも、いらないと言うつもりはないよ。でもさ、草薙の言葉を借りるなら、負い目があると落ち着かない」


 そう思うなら返せばいい。簡単な話なのに複雑なのは、草薙の誕生日を知らないからだ。知らないし、教えてくれない。理由を訊いても答えてくれない。これはなんだろうね、避けられているわけでもないのに、なぜ頑なに教えてくれないか、まったくわからない。


 ずっとつきまとうささやかな噛み合わせの悪さが、隙間隙間にきまりの悪さを引っかけている。


「私は栗田を煩わせたくないんだよね。前も言ったけど、感謝してるんだよ。もうもらったみたいなものだから、これ以上は返せないからいらない」


「恥ずかし気もなくよく言えるな……それこそ前も言ったけど、偶然だよ。笹倉がいないのに気づかなかっただけなんだから」


 振り返った先に笹倉の代わりに草薙がいて、間違いを認めるのが恥ずかしいからそのまま会話を続行した。それがぼくと草薙の始まりであり、草薙曰く友人第一号誕生の瞬間だったらしい。


「それでも嬉しかったし、それに」


「それに?」


「優しさに甘えてるみたいで嫌じゃない」


 草薙はやっぱり口許に三日月を浮かべていて、表情に変化はなかった。それなのにどこか寂しそうに見えて、それが気のせいか本当に寂しいのかわからなかった。


 時間になって、カフェを出た。別れ際に誕生日を訊いても答えてくれない。それでも、食い下がったら、明日改めてデートをしたら教えてくれると言質をとった。


 心のなかに引っかかるきまりの悪さが、違和感を生み出して、ぼくの胸を占めていく。なにかが変わる。その変化が怖い。良くなるとは限らない。


 そんな当たり前なことに気づいて、見送る草薙の背中がいつもより小さく見えた。


 

 見上げれば、青。


 嘘みたいな快晴だ。誰かが灰色を洗い流したのだろうか。それは神かもしれないし、あるいは誰かの願いかもしれない。待ち合わせ場所の南米にありそうなモニュメントの前には、休日なのもあって、ぼくと同じく手持ち無沙汰な人でにぎわっていた。彼ら彼女らの願いが束なったなら、天気のひとつぐらい変えられそうな気がする。煌々と陽が照りつけるモニュメントはどこか神秘的であり、集まる人々を祝福しているに違いない。案外、この大きな顔がぼくらの願いを叶えてくれたのかもしれない。


 思考が支離滅裂だった。緊張しているらしい。改めてデートなんて言うから。さぁっと吹き抜ける風がマフラーを揺らす。顔が冷えていくのに、どうにも頭の熱は冷めてくれそうにない。


 雑踏と電車、自動車のエンジン音がひっちゃかめっちゃか混ざり合い、あちらこちらの街頭モニターが垂れ流す音楽と勢力争いをしていてやかましい。


 それなのに、お待たせ、その透明な声音が耳にはっきり届いた。どうやら、ぼくが向いていた方向とは違う改札から出てきたようだ。


 青いアウターに膝下丈の白いスカート、焦げ茶のバッグを肩に下げた草薙が隣に立っていた。私服は久々だ。良く似合っていた。


「時間ちょうどだよ」


「早かったの?」


「五分ぐらいね」


「ありがと。じゃあ行こうか」


「決めてるの?」


「映画」


 短いやりとりを交えてから、人を縫うように歩く。坂の途中にある映画館に入った。受付でチケットを買う。なにやらカップル割なるものがあるらしく、二人で二千円だった。タイトルは草薙の希望で話題の洋画。火薬が炸裂しビルが崩れ、銃火器がバーゲンセールよりも安く多く弾を撒き散らす、そんな痛快な映画だった。デートと言うにはロマンスが欠けている気がしたけれど、つまらない映画を観るのは御免なのだからこれでいい。


 映画が終わったらカフェに入る定番のコース。草薙がテンション高めに語る姿は新鮮で、だけど少し無理をしているようにも見えた。しばらく語り合ってからはゲームセンターで散財し、それから周囲の服屋や生活雑貨の専門店を冷やかし、目についたものを話題にして会話を繰り広げた。


 昼過ぎに待ち合わせたのもあって、気がついた頃には陽が傾きだしていた。歩き疲れたね、なんて言いながらランニングコースやライブ会場にも利用される体育館などがある大きな公園を訪れた。芝生の広場があるエリアまで歩き、側の自販機で飲み物を買ってベンチに腰を下ろす。


 遠くからトランペットの演奏が聴こえる。芝生の広場では小学校に上がる前ぐらいの子供がきゃっきゃとはしゃぎながら、父親とバドミントンをしていた。べつなところではランチョンマットを広げて休んでいる家族。ここには、穏やかな時間が流れている。


 それなのに。


 沈黙が横たわっている。


 居心地の悪さがひりひり、頭の裏側を痺れさせる。喉が乾く。プルタブを開けて缶コーヒーをひとくち飲む。甘くてべたついていて、あんまり美味しくなかった。


 ぼくは前を向いたまま、意識して言葉を口にする。


「いい天気だね」


「うん、本当にいい天気だよ」


「楽しかったね」


「うん、本当にね」


「今日はたぶん、ふたりとも負けだね」


 楽しかった。楽しかったけれど、空回る感覚がずっと、鎌首をもたげていているようで落ち着かなかった。それはきっと草薙も同じで、どこかわざとらしさを感じられた。楽しまないといけない、そんな義務感か、あるいは使命感が脳裏を過ぎった。


 そうじゃないだろう。デートかどうかなんて関係ない。楽しむことが悪いんじゃない。楽しんでいるふりをすることが良くないのだ。つまらないならつまらないでいいじゃないか。顔色を窺ってばかりじゃ、自分も相手も疲れるばかりだ。


 子供が勢いよく転んだ。父親が心配そうに駆け寄ってきたが、子供はにこにこと笑って立ち上がった。そんなものだろうな、と心のなかで独りごちた。


「負い目があると落ち着かない、てことになるのかな。いままではさ、ぼくも草薙も遠慮していたんだろうね。その距離感が心地よかったのもあるし、踏み込むには負い目が邪魔をして躊躇ってきたんだと思う」


 恋愛感情の問題ではなく、いやそういう恐怖もあったのかもしれない。でも、それ以上に気を遣わせている、みたいな感覚があった。お互いが一歩引くことで、それが常態化していたから意識の外に出せていたけれど、頼みごとひとつにも緊張感があったのはたしかだ。


「すべてをつまびらかにするってことじゃない。べつに秘密のひとつやふたつ誰にでもあるし、ときには相手に腹が立つこともあるはず。でも、それに負い目を感じる必要はないんだと思う。恩に感じる必要も、転じて負い目にすることも必要ない。なにより、その負い目を抱えなくていいんだと思う」


 気持ちの問題だから、感じるなと言われても難しいし、解消できるかもわからない。ただ、後生大事に抱えるものでもないだろう。


「草薙はぼくから見た草薙を過小評価しすぎだよ。楽しくなかったら一緒にいないし、そもそも同情で始まった関係でもない。たしかにきっかけは偶然だけど、そのあとは自分の意思だ。お返しできないなんて言うけれど、もらっているのはぼくも同じなんだよ」


 草薙はどうしてか、一方的に彼女だけが楽しんでいるように考えている。ぼくが付き合っていると考えていて、だからお返しをしようと思考回路が回っているのだろう。


 さぁっと風が吹いた。芝生の青臭さが鼻について、かぁっと顔が熱くなる気がした。


 しばしの沈黙のあと、草薙はため息を長く吐いた。


「そうだね、うん、本当はね、昨日嘘ついたんだ」


「嘘?」


「そう嘘。栗田を煩わせたくないって言ったけどね、本当は誕生日を知ってほしかったし、プレゼントもほしい。もっと遊びに行きたいところもあるし、正直優しさに甘えたいときもあるんだ」


 わがままだよね、なんて力なく笑う草薙の声はどこか子供っぽくて、それが人間らしく感じた。


「でも、同じぐらい嫌われたくないんだよ。迷惑かけたくないんだよ。ひとりでいることは平気だったけど、やっぱり嬉しかったんだよね。だから、煩わせたくないのも本音。矛盾してるし、なに言ってるかわからないけど……」


「煩わしいなんて思ったことないよ」


「ありがとう。うん、いまは素直に信じられる。栗田は優しいからさ、きっと嘘でもそう言うと思って、遠慮してたんだろうね」


「だろうなぁ。ぼくも同じだ」


 あはっ、草薙は笑う。楽しげで、いまこの瞬間こそデートだと思う。ぼくも自然と笑顔になっていることだろう。


「私、今日誕生日なんだ」


 こちらを向いた草薙は、いつもどおり三日月を浮かべていた。その表情は蠱惑的で、生命感に溢れている。


 息を呑む。見惚れそうになるのを気合で押し殺して、鞄に手を突っ込んで小包を取り出した。それを彼女へ差し出す。


「おめでとう。去年のお返しだ」


 目を見開く草薙。口許にもう三日月はない。


「え? 知ってたの……」


「確信はなかったけどね」


 ぼくの誕生日が来月なのを考えれば、あの質問は不自然ではない。けど、わざわざバイト前に時間をとる必要はなかった。たぶん本当の目的は今日誘うことだったのだろう。それもデートと言う形で断りづらくして、なおかつ誕生日を意識させて、気づけばいいな、と願望をのせたのかもしれない。


 真偽は定かではないけれど、可能性があるなら準備すれば腐りはしないし、べつに当日じゃなくても渡してしまえばいい、なんて考えたぼくは打算的だった。


 隠していたのは去年、ぼくが訊いた時点で過ぎていたからだろう。気を遣われていたのだ。


 草薙は大仰にため息をついた。


「ずるいなぁ、ほんとずるい。あけていい?」


「いいよ」


「おーマグカップ! あ、マグがカップの一種だからマグカップだと重複なんだっけ」


 草薙が好きなキャラクターのデザインされたマグ。草薙は瞳をキラキラさせて、持ち上げて細部まで眺めていた。なんかキャラ違くないか。口にはしない。なんだろう、違和感が。


「ありがとう。もらえるなんて思ってなかった。嬉しいよ」


「喜んでもらえてなにより」


 肩の力が抜けていく。達成感が身体を包み込んでいる。おかしくなった。簡単なことだった。ちゃんと話をすればいいだけだったのだから、いままで無駄な駆け引きをしていた気がする。それはそれで楽しくはあったけれど。


 草薙は丁寧にマグを箱に戻して、包装もしっかり再現して大事そうにバッグにしまった。それから薄い包みを取り出して、こちらに差し出してきた。


 首を傾げると、草薙は呆れたように言った。


「バレンタインだよ、今日」


「あっ、そっか」


 今日誘ってきた理由の半分はチョコか。透明な包装袋に入ったチョコを受け取る。ハート型の小さなチョコがいくつも入っていた。手作りらしい。なるほど、照れる。


「ありがとう」


「お返し、楽しみにしてるから」


 そう言って草薙は立ち上がった。


「もちろん」


 ぼくも立ち上がる。もうすっかり暗くなって、気がつけば親子連れはいない。寒くなってきた、そろそろどこかに避難したほうがよさそうだ。


 ああ、でもこの機会を有効活用するべきか。


「この際だから、他に言い残したこととか、嘘とかあればどうぞ」


「そう言う栗田こそ、なにかないの?」


「ない」


「嘘だよ」


「嘘じゃないよ」


「嘘だね」


「嘘だけどさ、お互い様だろ?」


「まあね」


 そう言って笑い声は重なる。草薙は満面の笑みだった。その笑顔はインテリアオブジェではなくて、ひとりの可愛い女子だった。


「私は今日も嘘をついたよ。まだ、教えてあげないけど」


「嘘はないかな、ぼくは」


 歩き出した草薙は、嘘だよと笑った。


 嘘だけどね、ぼくは笑わなかった。


 嘘をついたのは自分の気持ちにだ。


 追いかけて隣に並ぶ。


 手をとる。握られたから、握り返した。


 ぼくたちは歩いていく。

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