湧いて得た感情、あるいは乾いて冷えた関係

女良 息子

湧いて得た感情、あるいは乾いて冷えた関係

 雨が降った直後の夜の山道は歩き心地が最悪だ。

 ぬかるんだ地面は踏み進めるたびに元気を吸い取るし、汗と湿気は服を肌にべったりと纏わりつかせる。周囲は暗闇に包まれており、リヤカーを牽引する手は課せられた重労働に悲鳴を上げていた。

 それだけでも嫌になるというのに、同行しているのが宇城うきなのだから、私のテンションは最低値を下回るのであった。

 後ろを振り返るとリヤカーを両手で押す宇城が見える。その顔は疲労と汗でぐしゃぐしゃになっており、見るも無様な姿を晒していた。笑ってやりたくなったが、きっと私の顔も同じくらい酷くなっているだろうしやめておく。

 宇城と私がここまでの苦労を強いられて何を運んでいるのかというと、それは冷蔵庫だった。

 大きくもないが小さくもない、ふたりで使うには丁度いいサイズ。されど運ぶとなると、女ふたりではかなりしんどいサイズだ。

 どうして私たちが山奥でこんな物をえっちらおっちらと牽引しているのか。その話をするには少し時を遡らなくてはならない──一年と少し前。

 大学で出会った私と宇城は、似たような性格をしていることから仲良くなり、同棲するまでに至った。

 家賃は半額で済むし、互いに家具を持ち寄れば生活にも困らない。冷蔵庫はお互いに一人暮らし用の小さいやつしかなかったので、ふたりで金を出して一回り大きい中古のものを買った。一緒の生活が始まってからは暫くは順調だったと言えるだろう。

 しかし半年も経つとボロが見えてきた。宇城は私が冷蔵庫に入れていたプリンを勝手に食べたり、晩御飯の当番をすっぽかしたりするようになった。最初は我慢していたけど、そういう小さな積み重ねが長い時間を経て大きくなり、ついには限界に達してしまったのだ。


「おいちょっと待て真栄田まえだ。なに私だけが悪いみたいに言ってるんだ。お前だって冷蔵庫に入れていたものの賞味期限が過ぎてもほったらかすわ、何度言っても煙草を部屋の中で吸うわで悪いところがあっただろ。そんな偏ったことしか言わないなら語り部を変われ」

「はあー? たしかに私もちょぉーーーーっとだけ悪いところがあったかもしれないという可能性がほんの少しだけ否めないけど、総合的に見れば絶対にアンタの非の方が多かったね」

「なにおう!」


 いつもならここで宇城が言い返し、私も更に言葉の乱射を続けるという会話のドッジボールが展開されるはずなのだが、登山で呼吸器が絶賛酷使中の私たちはそれ以上何かを言うことがなかった。

 ぜえぜえはあはあと息を吐きながら、黙々と山登りを再開する。くっそ、こんなことなら煙草をやめておけばよかった。きっと今頃宇城の方も「もっと外に出て運動しておけばよかった」とか後悔しているのだろう。

 それで……ええと、どこまで説明したんだっけ。宇城が余計な口を挟むから忘れてしまったじゃないか。

 そうそう、同棲を始めたものの綻びが見え始めた辺りだったか。

 積み重なった不満はやがて不仲を生み、不仲の末に喧嘩が起こり、何回目かの喧嘩でわたしたちはどちらからともなく、あるいはまったく同時にこう言ったのだ。

 もうやってられない、別れよう──と。

 類友で始まった関係は、終わるころにはすっかり同族嫌悪になっていた。

 そうと決まれば話は早く、荷物をまとめることにした。家にあった家具は元は互いの家から持ってきたものが殆どだったが、冷蔵庫をどうするかという段階になると軽快に進んでいた荷造りは途端に足取りが重くなった。

 ふたりで金を出して買ったものなので、どちらかに所有権があるわけではない。じゃあ欲しい方が貰えばという話になるのだが、上で述べた通りこれはふたりで使うのにちょうどいいサイズの冷蔵庫だ。これから始まるそれぞれの一人暮らしにこいつの居場所はないのである。

 それに、この冷蔵庫には短い間だったとはいえ、ふたりの思い出がこびりついているのだ。そんなものを持っていきたいはずがない。扉を開くたびに宇城のことを思い出させられるなんて、中にどれだけ美味なスイーツが入っていたとしても台無しになってしまう。

 宇城も同じような考えらしく(つくづく似た者同士で嫌になる)、ふたりで冷蔵庫の今後を悩んでいた。


「買い取りしてもらうのは?」

「却下。そもそもこれは中古ショップで買ったものでしょう? 元から相当ボロかったんだし、買い取ってもらえるはずがないわ。粗大ゴミとして出すのはどうかしら?」

「不可。ただでさえ新生活で金がかかるのに、粗大ゴミに出すための金なんてないぜ」


 自治体のホームページを見て冷蔵庫の回収代金を調べてみると、一万円まではいかないもの、なかなかの金額をしていて驚かされた。金のない学生には出せそうにもない。

 持っていくのも無理、処分するのも難しい。大きな難関として立ちはだかる冷蔵庫に対し、私たちが出した結論は不法投棄だった。

 町をみっつ越えた向こう側には山が立っており、そこには色んなゴミが不法投棄されていることを以前から耳にしていた。聞いた当時は自然環境を破壊する奴がいるなんて許せないと憤ったこともあったが、まさか私たちが捨てる側になるなんて。人生とは分からないものである。

 というわけで私たちは車の後部座席に冷蔵庫を押し込み、夜の山へと向かったのであった。

 そのまま車で順調に山を登り、ゴミ捨て場に着けばよかったのだけど、麓に差し掛かったあたりで事件が起きる。車のガソリンが切れたのだ。

 まるで山の神の怒りを受けてしまったかのような不運である。普通こういうのって事を終わらせた後に降りかかるものじゃない?


「どうしてちゃんとガソリン入れてなかったの! まったくこれだから……」

「あぁん? お前が偉そうなこと言うなよ、免許も持ってないくせによ」


 車内にギスギスとした空気が立ち込める。このままだと殺し合いが起きて、運ぶ荷物がもうひとつ増えかねない。

 ガソリンスタンドは近場でも四キロは離れている。それに後部座席に冷蔵庫を寝かせている状態では助けを呼べそうにもない。

 このままでは冷蔵庫を捨てることもできない。どうしたものかと考えていると、宇城が車から降りた。

 車内に立ち込める空気に居心地の悪さを感じて逃げ出したのか? と思ったが、どうやら違うらしい。何かに向かってはっきりとした足取りで歩いている様子から、彼女が何かを見つけたことが察せられた。私も降車し、後を追う。

 宇城が見つけたのはリヤカーだった。地元の住人が使っているのか、あるいはとっくに捨てられているのかは分からないが、かなり使用感のある見た目をしている。

 宇城は荷台を何度か叩いて強度を確認すると満足したように首を縦に振った。

 ぞわり。

 嫌な予感が脳を掠める。


「ねえあんた……もしかして、それで冷蔵庫を運ぶつもりじゃないでしょうね」

「ん、よくわかったな。その通りだよ」

「馬ッ鹿じゃないの!? 噂で言われてるゴミ捨て場はこの山の中腹なのよ? いくらふたりがかりとはいえ、こんなオンボロリヤカーで冷蔵庫を運ぶなんて……」

「うるせえなあ。そんな嫌ならお前は大人しくここで待ってろよ。ま、私はお前と違って私は一度決めたことには誠実だからな。車が壊れたくらいじゃ諦めねえよ」

「はーーーーーん??? 誰も諦めるなんて言ってないでしょ!! ……ふん、いいわ。私もリヤカーで冷蔵庫を運ぼうじゃない。それもキツイであろう牽引する前側でね!」


 という意地の張り合いの末、今に至るというわけだ。

 くっそ、あそこで宇城がいらん強がりを見せなければ、今頃こんなキツイ思いをしていなかったのに……この女は私に厄しか齎さないのか?

 山の斜面を登る行為による疲労は私たちを自然と無言にさせる。しかしその運動にも慣れてくると、宇城がぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。  


「あー、しんど。なあ、真栄田ぁ。まだ目的地は見えないのか?」

「さあ。そもそも噂のゴミ捨て場がこの方向であってるかもあやしいのよね。車で捨てに来る人が多いはずだから、こういう広い道を進む必要があるとは思うんだけど」

「予想や推測ばっかじゃん。これで外れてたら承知しねえかんな」

「アンタは黙って押しときゃああ!」


 文句を返そうとした途端、ぐいと後ろに引っ張られた私は悲鳴を上げた。

 後ろから押してた宇城の力が急に減ったのだ。斜面に沿ってリヤカーが落ちていくほどではなかったが、力を抜かれればどうしても私の負担が増えてしまう。一歩間違えば転んで怪我するところだった。

 この野郎、いくら口喧嘩の最中だからってやっていいことと悪いことがあるだろ──汗だくの顔に怒りの形相を浮かべながら、私は振り返った。しかし、青ざめた顔で口元を歪めている彼女の姿を見て、喉元まで出かかっていた罵声は引っ込んでしまった。


「あんた……なによその表情」

 

  立ち方からして、宇城が右足に痛みを抱えているのは明白だった。山を登る前はそんな様子はなかったし、最中に負ったものだろう。


「別に……たぶん、靴擦れ。大したことない」


 宇城はバツの悪そうな顔で強がりを言ったが、痛みによって滲んでいるであろう冷汗は量を増す一方だった。

 

「…………」


 私は宇城が嫌いだ。そりゃ少し前までは好きだったことがあるかもしれないけど、いまではすっかり反転して憎悪しかない。

 そんな彼女が痛みに苛まれたところで、悦びを覚えこそすれ哀れむことはないはずだ。

 はずだ。

 はず、なんだけど。


「……………うーん」


 しかし、ここで宇城という動力を失えば、このリヤカーが目的地にたどり着くことは極めて困難だと言えるだろう。

 だから、そう、私がこれからすることは決して情によるものではないのだ。


「ほら、あそこ……もう少し上った先に比較的傾斜が緩いところがあるでしょ。そこまで頑張りなさい。そしたら診てあげるから」

「…………」

 

 宇城は何も言わずにこくりと頷き、リヤカーを押した。私も牽引する。

 傾斜が緩くなったのを確認すると、適当な木に引っ掛ける形でブレーキをかけ、リヤカーを休ませた。

 宇城を岩場に座らせ、靴を脱がせる。足の横側が真っ赤に晴れていた。

 救急セットなんて気の利いたものは持っていないので、出来たのは応急救護ですらない処置だったが、それでも何もしないよりはマシだろう。

 

「すごいな。まるで医者じゃん」

「一応医者の卵だからね、私」

「医者を目指す奴が愛煙家で大丈夫なのかよ」

「うるさいわね! 病気にするわよ!」

「医者にそんなスキルがあってたまるか!」


 言い争いが出来るくらいまでは回復できたので、私たちは山登りを再開した。


「そういやさっき治療してもらった時に思い出したんだけどさ」

「…………」

「去年の暮れくらいに真栄田が風邪引いて、私が看病したことあったよな」

「……なによ、今更そんな話をしてどうするつもり?」

「いや、単に思い出しただけ」

「今更あの時の恩を思い出させて『やっぱり私が悪かった。離れ離れになるのはナシにしましょう』みたいな台詞を引き出そうという魂胆ならやめておきなさい。意味がないから」

「だからそういうのじゃねえって」


 そんな話をしながらリヤカーは昇っていく。

 二十分後、私たちの視界は一気に開かれた。そこには大きな広場があり、ゴミ捨て場となっていた。

 あっちに家電が積み重なっており、こっちにはボロ車が丸ごと転がっている。ここの写真を撮るだけで、環境問題をテーマにしたちょっとしたコンクールに入賞できそうなくらい惨澹とした有様だ。

 普段の私ならこの光景に怒りを覚えていたかもしれないが、今回はここにゴミを捨てた数多くの誰かの仲間入りをしに来たので、心中にあるのは「やっと着いたー」という達成感だけだった。宇城も同じ心情だろう。

 適当に歩いていると、空いているスペースが見つかったので、そこに冷蔵庫を置いた。


「リヤカーはどうする?」

「地元の人のものかもしれないし、常識的には一応もとに戻しておいた方がいいんじゃないかしら?」

「不法投棄した犯罪者が常識を語るなよ」  


 言われてみればそうであるが、ここで宇城の反論に屈するのは癪なので私はフンと鼻を鳴らしただけだった。

 ともあれやることは全て終わった。あとは帰るだけである。

 行きの上り坂はあんなにキツかったが、下りはとても楽だった。それは行きにはあった荷物がないというのがあるかもしれないが、その他に「これでもう宇城との別れの障害になるものはない」という心的な理由もあるだろう。宇城も同じ考えらしく、嬉しそうな表情をしていた。

 そうやって軽快な帰路を下り、麓に着いた頃。


 「あ」


 と宇城は何かに気付いた。

 ぞわり。

 再び嫌な予感が私の脳裏を掠める。


「いや……ええと、ふたりで買ったものって冷蔵庫だけじゃなくて洗濯機もあったじゃん? ルームシェアで大きい家に住むからって室外用から室内用に買い替えたやつ。アレの処理を考えるのをすっかり忘れてたなって」

「もーいや!!」



 

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