吾忘れの淵

深恵 遊子

その淵にて


 暗闇の中、朦朧もうろうとした意識とともに祈りを捧げる。微睡まどろみのような恍惚の中で一心不乱に、神へと届くように。声を上げればあげるほど頭蓋ずがいの中には光もないのに白い光が満ちていって、意識は高みへと昇っていく。


「うぃうあ、うぃうあ、くう、ふむくるうぃあ、むかりな、くうりえ、かふなくふたく、うぃうあ、うぃうあ、…………。」


 ともすれば唸り声のようにも聞こえるソレがひたすらに頭の中を駆け巡る。苦しみに喘ぐかのように響くそれはいくつもの声と絡み合い妖しく唱える俺たちを繋いでいく。

 憧れの先輩も、いいカッコしいの同期も、そして、いつのまにか好きになっていたあのでさえも一様に、ウラシオと呼ばれる聖句を繰り返して大いなる救世主へと救いを求めていた。

 俺たちの見つめる先で静かに火が灯る。一瞬その光に目が眩み瞬きをすると次の瞬間には導師と呼ばれる人物が俺たちの正面に立っていた。紫色をした着物と高い帽子、四つ股に別れた布地は彼の表情や横顔を隠している。彼は深く長く息をする。俺たちも釣られて息をして、

 ——パンッ!

 導師が大きく手を叩く。その突然に響いた破裂音で体中の筋肉が緊張し肉という肉が強張った。そして、俺たちは神秘を見るのだ。極光は視界を覆い尽くし、導師の背後には後光が差している。

 厳かに導師は口を開いた。


「救い主たる空羽くぅうは汝らが罪の一切を神都瑠璃しんとるりの底より出でしを以て払い濯ぎ流し、汝らの欠けたるを隣人との繋がりを以て嵌め合わせそのうろたる空隙くうげきを満たし、汝らを救いの園へと導かん」


 言葉一つ一つに重みが宿り、背筋を伝うようにして肌をなぞっていく。詠いあげる言葉はチリチリと肌を焼き、全身へとその波を広げていく。

 昔に聞いた長唄を思わせる導師の言葉は次第に俺の脳の働きを溶かしドンドンと目蓋まぶたを重くしていく。


「……太祖たいそ、空羽の声聞きたりしを以て汝らの罪の一切を憂い、一切穢汚いっさいわいおの世にありて払いとらんとすことのよしを我が口、我が法音ほうおんを以て汝らに示さんとするそのことわりを汝ら深き理者りしゃたるにあらざるもの達に説くものである」


 凛、と高い音が響く。

 鈴のような、金属を叩くような高い高い音。天上から響くようなそんな心地よい音色。その背後では一秒に一回もならないような速度で太鼓のようなもの——後に聞けば沱鼓だこと呼ばれる神具——が響いている。


「導師、具沱乃孫大師くたのそんたいし、空羽の声聞きたるに至らずも汝らが罪の衣を取り去らん」


 一際強く、凛と金声きんせいが響く。

 それと同時に徐に最前列の人々が羽織っているだけだった薄衣をはらりと脱いだ。それに合わせるようにあるいは波打つようにその行為は後ろ後ろへと伝わっていった。


 ——ウラシオを。


 導師の言葉が合図だったように俺たちはウラシオを繰り返す。それを聴いて導師は軽く頷くとそこに音を重ねていく。


「導師、具沱乃孫大師、神都瑠璃迎えたるに至らずも汝らがしょううろを埋めたらん」


 強い金属音。前列の影が二つ交わり一つとなり、板張りの床へと倒れていく。周りもそれにならっていった。俺も隣にいる名も知らず顔も見たことのない女性の肩を押し床に体を伏していく。薄明かりの中で目を凝らさずとも片秀かたほの顔と分かる顔立ちに恍惚とにこり笑う彼女の口許からは総鬼歯そうおにばとでも言うべき乱杭歯らんぐいばが覗く。

 それでもなお精神の高まりは続き口唇を傷だらけの花弁へと近づけていく。

 周囲からは艶声つやごえが響き渡り、なまめかしく影達は踊る。水音が響くようになるとその猫の盛るような声は一層に増していった。

 俺も行為を続ければ続けるほど自らと相手の境界があやふやになり溶け合うように感じていく。俺が喘ぎを上げているのか、あるいは目の前の女が快を叫んでいるのか分からなくなっていく。

 唐突に凛と、再三のりんが響いた。


「導師、具沱乃孫大師、星辰未だ無謬むびゅうに遠くして汝らが駆体くたいの虚を埋めたらん」


 その言葉と共に一層に声が大きくなっていく。聖句を唱えているのか喘いでいるかもわからない忘我ぼうがの中で、俺は満たされて、


 それでもどこか心のトゲが抜けないでいた。



 食事はみんなで食べる。

 テレビがなく、ラジオも携帯も電波が届かないこの施設では食事が唯一といってもいい娯楽の時間なのだ。

 唯一、みんなが和気藹々と騒がしくなる瞬間だ。みんな、高まりの直後でわずかな頭痛があるだろうに大したものだといつも思う。

 ワイワイガヤガヤと賑やかな中、俺は見慣れた小柄な背中を探していた。


瀬波瑠乃従弟せはるのじゅてい、どうしたのだ? さっきから誰かを探しているようだが?」


 声をかけてきたのは叢世士乃従兄そうせしのじゅけい。従弟とか従兄とかというのは後輩とか先輩とかいう言葉と同じ意味だ。この男の人は俺をこの場所まで導いてくれた尊敬すべき人、大学で右も左もわからない俺の不安を拭い去ってくれた人の一人だ。


花波悠乃従姉かわゆのじゅしを探していました。いつもの場所におられなかったのでどうしたのだろうと」

「ああ、なるほど。そういえば瀬波瑠乃は知らなかったな。花波悠乃従妹かわゆのじゅまい大姉たいしとなる時期が近づいているから導師様のところでお勤めだ」


 お勤め、という言葉に納得し俺は従兄の隣へと腰を下ろす。食事は親しい人で固まることも多いため座る場所は大体自由になっている。

 俺も「お勤め」という言葉が何を指しているのかわからないが導師と共に行うというのならとても貴い儀式なのだろうことは察しがついた。


「しかし、従姉が大姉になれるなんて思いませんでしたよ。あんなにおっちょこちょいなのに」

「罪の衣の重みは人によって違うからな。従妹は他の人より最初から衣が軽かったのだ」

「大姉が俺の衣もついでに軽くしてくれないかな」


 そんな俺の言葉を聞いて苦笑いする従兄。俺はそれを尻目に大兄たいけいらから配膳されていく食事を受け取ってなんとはなしに手を合わせる。


「おい、従弟。作法違いは荒行を個室で一週間だぞ」

「おっとと、そうでした」


 俺は慌てて胸の上で手を組むと三度胸を叩いた。

 それを見て満足したように従兄も同じことをする。これがここでの食事の作法だ。間違っても俗世の作法を持ち込むと一人だけで個室に閉じこもり荒行に励まなければならない。その間には定期的に従兄や従姉の誰かがその従者じゅしゃのもとへと訪れてここでの作法を教えられるのだ。

 俺もそうして一人前の従者になったのだから、荒行がとても大切なことはよく分かる。


「そういえば、従弟がここにきてから、もう三ヶ月か。早いものだな」

「はい、従兄! これも従兄や従姉達のおかげです」

「それなら、……お前も荒行の従弟や従妹の面倒をみてみないか?」


 俺はその言葉に目を見開いて、従兄の方を見る。従兄はもう一度苦笑いして、わかったわかったとヒラヒラ手を振った。


「では大兄に頼んでみよう」


 その言葉は食事のすぐ後に達せられた。大兄の一人が俺を呼びに来ると俺をお勤めのある荒行部屋へと案内した。

 荒行部屋のある区画ではボスボスという誰かが何かを打ち付けている音や痛みに呻く声、何かを訴える叫び声があちこちから聞こえてくる。


「瀬波瑠乃従弟、こっちだ」


 どんどん奥へと向かう大兄は俺を手招きする。そうしてたどり着いた先には外側からかんぬきのされた鉄の扉があった。


「ここには歌波百乃従妹かわものじゅまい、お前にとっても従妹にあたる従者がいる。未だ罪の衣が厚く、荒行もまだ浅い。罪に従弟が飲まれぬよう気を付けよ」

「心得ています、大兄」

「従妹は荒行の影響で食事がうまく取れていない。部屋にとっていない食事があるだろうから少しだけでも食べさせてあげてくれ。このままでは餓死してしまう。それと、勤めの最中必要だと感じたものは遠慮なく申し出るがいい。荒行で怪我をしていたら治療の道具はいつも持っているものを使うこと。何か質問はあるか?」


 大兄の言葉に俺は首を振ると満足そうに大兄は笑うと俺を残して何処かへと歩いていった。俺も覚悟を決めて目の前の鉄扉を押し開いた。

 厠と洗面台と鏡、ベッドとその近くに置かれた小さな机と三つほど段のある棚。それだけしかない簡素な部屋。窓はなく、出入り口となる場所はこの鉄扉だけ。そんな禁欲的な部屋。

 そこにいたのは目をギラギラと光らせたアザだらけの女の子だった。



 俺は後手に扉を閉めると女の子の前に座って敵意がないこと示す。顔はなるべく柔らかく柔らかく笑いかける。

 毒入りの餌を警戒する犬のようにこちらを観察するそぶり。俺はそれにクスリと笑って声をかける。


「歌波百乃従妹、そんなに警戒しないでくれよ。俺は、」

「私はそんな名前じゃない!!」


 髪を振り乱して叫んだ彼女に俺は正面から抱きしめて背中をトントンと叩いていく。そうしていると最初は強張っていた体から次第に力が抜けていく。


「君の荒行がどんなものか俺は知らない。だけど、怖がる必要はないんだ。俺の役目は君から罪の衣を少しずつ脱がせていくこと。ここで怖がる必要がないようにしていくことなんだから」


 ——だから、ね。

 そう言った俺に従妹は涙を流し、いつまでもいつまでも嗚咽をあげていた。溢れる滴が俺の服にちょっとの時間では消せないくらいの染みを作った頃、くぅ、と情けない音が響く。恥ずかしそうに従妹は俺から離れた。

 安心して空腹を自覚したというところだろうか。


「ご飯を食べよっか」


 小さくこくんと頷いた彼女に笑いかける。彼女が座ったベッドの脇、手付かずのまま置かれている御膳を取ると俺も彼女の隣に座った。

 あまり考えたことはなかったが荒行の従者も俺たちも同じメニューを口にしているらしい。クスリと笑って俺は箸で汁物のつみれを裂き、つまんで息をふーふーと吹きかける。既に湯気もたたなくなってるけど気持ちだけだ。


「ほら、口開けて」


 そう呼びかけると彼女は素直に口を開ける。そんな彼女を見て俺の中で何かが少し疼く。くすぐったさに思わず笑い声を洩らしてしまう。

 どうやら俺もまだまだ罪の衣が厚かったらしい。大兄に更なる勤めでも願い出た方が良さそうだ。

 口の中に肉の塊を差し込むとゆっくり咀嚼する彼女の姿を眺める。小動物的で少し、——いや、かなり可愛いかもしれない。俺の荒行の時に担当してくれた従姉もこんな気分だったのだろうか。

 こくん、と喉を鳴らして飲み込む彼女の口に白米を持っていく。今度も彼女は素直に口を開け咀嚼する。

 口に運び、咀嚼する。口に運び、咀嚼する。口に運び、……。

 何度繰り返したろうか。口の前に箸を運んでも首を振るばかりになった。従妹の顔を覗き込むとその血色はとても悪い。しばらく食事をとっていなかったせいで胃がびっくりしたのだろう。


「大丈夫か、吐きたいのか?」


 俺の問いかけにも首を振り前屈みになった。俺は俺で背中を撫でて少しでも不快を無くそうと試みる。どうしても吐き気に襲われたような表情が従妹からは取れない。

 俺は御膳を棚の上に。従妹の手を取り、腕を交差させる。そのまま俺が動かして三度胸に手をつけた。


「食事の前と後はこうやって偉大なる空羽に感謝の気持ちを伝えるんだ」


 そう言って頭を撫でてやると苦しそうに、悲しそうに、あるいは曖昧に従妹は笑い、頷いた。

 しばらくそうしていると鉄扉を叩く音がする。どうやら今日の勤めは終わりらしい。


「じゃあ、従妹。俺は自分の部屋に戻らないといけないようだから。気持ち悪くなったらちゃんと戻すんだぞ?」

「——モモナです」


 モモナって呼んでください。そう弱々しくそう言った彼女を俺は見た。モモナ、これはおそらく俗世での彼女の名前だろう。罪の衣がまだ厚く聖名に慣れないのだろう。俗の名は罪の衣を厚くするが、——仕方あるまい。しばらく彼女を慣らしてみるしかないのだ。


「じゃあ、モモナ。俺のことは従兄って呼ぶんだよ。少しずつ、ここの規則に合わせていくこととしよう」

「あの、名前は?」

「そうだな、今教えてもいいけど、……今は内緒にしておこうかな」


 口に指を添えて、立ち去る前に一度振り向く。最後に振り返った従妹の顔が妙に悲しくて、胸の内側がシクシクと疼いた。



「へえ! あの荒行の常連だった瀬波瑠乃従弟せはるのじゅていが荒行の勤めにね」


 ニヤニヤと笑う花波悠乃従姉かわゆのじゅしは楽しそうに言うと白米を頬張った。


「うるさいな。俺の荒行部屋を散々散らかしていったのはどこの誰だよ」

「あっちゃあ、藪蛇か」


 そう言って頰を掻く従姉を半眼で見る。従姉は従姉で目をそらして吹けもしない口笛を吹いていた。


「まあ、でも、従姉の気持ちも少しわかった気がするよ。あの頃の俺はあんな痛々しかったんだな」

「荒行は怪我も多くなるし、食事を戻しちゃうこと多いからね。心が荒んじゃうのはどうしようもないよ。勤めの従者にできるのはその荒んだ心を少しでも癒してあげることだけなんだから」


 自信満々の従姉に、俺は従姉が大姉に選ばれる理由を見た気がした。聖女というかなんというか、従姉は清らな人なのだ。


「最初は歌波百乃従妹かわものじゅまいも従弟君と同じで荒っぽくしてくるかもだけどいずれは心を開いてくれるよ。私の目の前にある従弟君が証拠だよ」


 お茶目に片目だけ瞬きしてくる。その姿に俺は耳へと血を集めたことを感じる。


「おお、これくらいで顔を赤らめるなんて修行が足りないぞ? 従弟君も荒行、した方がいいんじゃない?」

「うるさいな」


 こんなちょっとした従姉との触れ合いが俺の罪の衣を軽くする。そんな気がするのだ。



 今日の儀式と夕食が終わると昨日と同じ大兄が俺を呼びに来た。朝のうちに頼んでおいた切り分けられた果物を幾つかを受け取ると鉄扉を開ける。

 そこには昨日と同じで警戒したような目で俺を見る歌波百乃従妹かわものじゅまいがいた。


「怖がらなくていい。モモナ、俺だよ」

「じゅ、けい?」


 少しぼんやりとした顔で従妹は俺を見ると首を傾げた。

 俺は片手に乗った皿を脇の棚に置いて従妹の頭を犬の毛を整えるよう丁寧に丁寧に撫でてやる。


「よくできました。そう、先に俗世を抜けた人のことは従兄と呼ぶ」


 にこりと笑いかけ顔を覗き込むと目を少し細める彼女の顔に赤黒い腫れができていた。氷嚢の類はあっただろうか。確か棚の中にも薬箱があった筈だ。

 戸棚を漁ってみると衝撃を加えると冷たくなるタイプの氷嚢があった。俺はそれに軽く拳で衝撃を与えてやる。


「——ヒッ!?」


 するとすぐ後ろで小さな悲鳴が上がった。

 振り向いてみると従妹は俺の方を見てカタカタと小刻みに震えている。目は見開いていて、先ほどまでの穏やかな姿は何処へやら一転して俺に怯えた様子を見せていた。

 近づいてみるとベッドの上で身をくねらせ俺から逃げようとしている。しかし、力が入らないのか、その動きは実を結ばない。

 何が、俺の行動の何が彼女をこうも傷つけたというのだろう。

 少しにじり寄っていくが、


「こっちに、こないでぇ!!」


 近づいた俺を狂乱の中にいる従妹は突き飛ばした。

 消化を完全に失った従妹に俺は正しく映っていないらしい。その瞳は地面に尻餅をついた俺にすら怯えた目を向けている。


「——モモナ」


 その言葉を投げると警戒するように俺をみてくる。危険なものが急に仲間に変わった時の草食動物のような虚な目は、


「大丈夫だ、モモナ。俺叩いたりしないから」


 そう言うと従妹は、モモナは一瞬びくりとして、曖昧に笑う。俺の表情を探るように。

 その理由はわかっている。今度は俺がその言葉に動揺したのだから。

 馬鹿馬鹿しい。

 叩く?

 荒行とは罪を払う神聖な儀式の一つなのだ。そこに暴力などという罪を持ち込むわけが、

 ——ない、なんて思い切れなかった。

 胸の内に俺の物ではない気持ちが溢れていく。先ほどまでは少しも浮かばなかった映像が脳裏に浮かんでいく。俺が、壊れていく。

 その景色は、水の溜まったタライと何に使うかわからないパンチのような器具、血のついたナイフに、中身のない注射器、体はどうしても動かせなくて、固定された目はどんなに怖くても閉じれない、ニヤニヤと笑う男たちに、視界の端チラチラと映るよくわからないこわいもの。

 なんだこれなんだこれ、きもちわるいいたいきもちわるいきもちわるいこわいきもちわるいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいくるしいいたいくるしいくるしいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい、やみのなかに、きんのめ、いたいいたいいたいいたい、こわいいたいいたい、——。

 不意に頭に柔らかい感触。ゆっくりゆっくり髪をなぞると、


「大丈夫だよ」


 と優しく告げた。

 思わず見上げたその影は仄かに笑っていて、薄い服の内側のふくよかな胸とたおやかな首筋、その姿はだいすきなひとの幻と被って、


「従姉さま?」


 そう聞いた声に影は首を横に振る。それとともに視界は現世に帰ってくる。

 従妹のすらりとした体つきは花波悠乃従姉からはかけ離れている。目が少し吊り、眉の上がった冷ややかな顔より従姉の優しげな顔方が遥かに美人だ。なのにどうして従姉と従妹を間違えたやら。

 俺は微妙に気持ち悪い感覚を振り払うように首を振り、起き上がる。

 少し、眠ってしまったようだ。


「すまないモモナ。従兄が突然眠ってしまうなんて情けない、荒行が足りないな」

「ねえ、従兄は、」


 そう言って従妹は首を振ると


あの部屋にいたことがあるの」


 何を言う。荒行をしたことがあれば荒行部屋にあることは普通で。

 でも、あんな、まるで、拷問部屋の場所に連れて行かれる理由なんてなくて。


「私、おかしいんだ。従兄がいない間はずっとひどいことされてるせいかな? もうどれだけここにいるかもわからないし、ご飯は食べるたびに吐き戻しちゃうし」


 でも、と従妹は、モモナは告げる。


「従兄も、————————んだよね?」


 聞こえない。

 聞こえてはいけない。罪の衣を厚くしてはいけない。かつての俺に、オレに戻ったら罪は許されない。また罪を軽くしないといけないのだ。そんなのは嫌だ。嫌だ。戻りたくない。あの頃に戻りたくなんか、


「逃げちゃおうよ」


 悪魔の甘言が脳に、甘く甘く響いて。

 俺はその言葉から逃げるように鉄扉の外へと躍り出た。大きな音を立てて閂を閉め、荒く息をする。

 逃げたいだなんて、そんな気持ちが浮かんだことは従妹と共に閉じ込めた。



 久々に儀式の前に吐いてしまった。

 そのせいか昨日まであんなに没入できていた儀式が薄っぺらなものに感じてしまう。

 今日だけで叢世士乃従兄そうせしのじゅけい花波悠乃従姉かわゆのじゅしから三回も罪払いを受けてしまった。特に今日は従姉が大姉となる重大な儀式もあるというのに、こんな迷惑をかけるなんて最悪だ。

 それもこれも、罪の衣が厚いと知っている相手に心を許してしまっていた自分が悪いのだ。

 大兄たちは従姉の儀式に総動員されているから今日は俺一人で従妹のもとへと向かう。向かって、鉄扉に手をかけて俺は動かなくなった。

 もしかすると、また、俺は取り乱して、ここを出るなんて罪深いことを考えてしまうかもしれない。それが、俺には怖くて、


「そうだ、従姉の儀式を覗き見よう。神聖な儀式を見れば俺の罪の衣も軽くなって、きっと、きっと、」


 従妹に動揺せず向き合える筈だ。その言葉は口にできなかった。

 俺は沈んだ心を無理矢理掬い上げ、空元気と共に儀式をする大広間の扉を軽く押して覗き込もうとして、

 ——アアアアアアァァァッッアアッ!!

 絶叫のような聞き覚えのある音。その背後ではウラシオが繰り返され、凛と鳴る鈴が場違いに響き、粛々と導師が法音を紡ぎ、大兄らが法悦を浮かべている。

 その視線の先には従姉。豊満な房には赤黒い肉で飾りつけられ、四肢はそれぞれはひどく悍しく疎ましいそのてらてらと炎に輝く縄のような何かに縛り付けられている。下半身では絶えず何かが行き来して、腹部はそれに呼応するように奇妙にボコボコと動いていた。

 頭には何かがかぶりついていて、その間からよがり苦しむ、苦悶とも喜悦ともつかない表情が見え隠れしている。

 その目は、どこか遠くを見つめていて、優しげな眉と目と口と、いつも愛らしい表情を作るそれらが歪みいやらしく媚びるようになるたびに、胸を抉りとるような気持ち悪さが行き来して、そこで俺は気づいた。

 俺は目を逸らしているのだと。

 俺はずっと苦痛ゆえにいろいろなことから目を逸らしてきた。きっとここでもソレから目を逸らせば幸せに生きていけるのだろう。明日からも従姉を「大姉」と呼ぶくらいの違いがあるかもしれないが。導師がいて大兄がいて大姉がいて従兄がいて従姉がいて従弟がいて従妹がいて、その中に俺がいる。そんな日常の景色ありえべからざるが脳裏に浮かんで、俺は。

 目を合わせる。

 従姉につながるぬらぬらとした粘液を垂れ流すその縄を辿り、その先には本尊がおわすべき台座がある。普段は御簾みすで隠されているソレの形は、率直に形容するならば『肉塊』。

 脂肪がデラデラとついた肉塊をめちゃくちゃにつなぎ合わせブヨブヨとした皮を上からかぶせる。その上にドロドロとした体液を塗せたそれは蛸のような魚のようなウツボのようななんとも言いようのない姿をしていた。

 その中心には黄金でありながら悍しく名状し難い輝きを伴って光る一つの目。

 古来、一つ目のものは神とみなされたというがこれはそんな大層なものではなく、どちらかというとこれはギリシャの神話を訪ねるが正しかろう。そのような怪物をギリシャ神話にはこう残されている。

 ——天目一箇の鬼サイクロプス

 俺は、その目と、目を合わせて。はしりだした。逃げる場所なんてあるわけもないのに。走って走って、見栄も信仰も剥がれ落ちたオレがついた場所は。


「——従兄、今日は遅かったですね」


 モモナは不思議なものでも見たような顔をして、オレを見ている。

 オレは息を切らしながら、無言でモモナの手を掴むと開いたままの鉄扉の方へと走り出す。何も事情がわかっていない。それでもなおオレの必死さに呼応して足を動かしてくれている。

 オレは朧げな記憶に残る、このクソッタレな施設の出口へ向かって走って走って走って、モモナの腕を掴んでいた腕が引っ張られる。掴んだものが手からすり抜けていく。

 反転し、後ろを見れば背後ズデンと勢いよく転んだモモナ。その足は激しく擦りむいていて何度も立ち上がろうとするも足首を捻ったせいか立てないでいる。

 ここでよく知りもしない彼女を助ければ、逃げる足が遅くなり、あのバケモノのもとへもしかすると、いや、連れて行かれる。

 だって、かつて脱走を企てた時もそうだったのだから。

 でも、知ってしまった。

 従姉や従兄、同期達と違って手遅れではないこの娘の存在を。それを置いていくことなどオレにはできない。こんな洗脳染みたことをする場所に放っておくことなんて。



 この施設は、名前も知らないカルト宗教の儀式場らしい。

 オレの場合、最初は心理系のアンケートを取りたいという話から始まった。

 志望校に合格して一週間。どこのサークルにも入らず、友人もできなかったオレは大学の周りを歩く先輩に声をかけられたのだ。そのうちの一人が、今施設で共に過ごしていた叢世士乃従兄そうせしのじゅけい——その時は田村たむら良平りょうへいと名乗っていた——だった。

 心理系の四年になったという彼は心理実験の統計データを取りたいという口実でアンケートを渡し、オレの本名と連絡先を手に入れる。オレも新入生ガイダンスの時にカルトの手口を解説し注意喚起する映像資料は見せられたが、まさか自分にアンケートを渡す彼がソレだなんて欠片も思いやしなかった。

 田村は最初、「お礼をしたいからいついつにお茶をしよう」とメッセージサービスで伝えてきた。何も予定がなく暇だったオレは何も考えずその誘いに乗り、そこで田村の話す心理学の知識に魅了された。

 正直なところ、そこで縁を切っておけばよかったのだ。

 しかし、オレはその後何度となく彼から何か理由をつけて遊びや飲み会、旅行に連れ出され、最後に、


「実は心理系の友達が一杯参加する合宿があるんだ。またとない機会だし、ここでしか会えない人もいる。よければ君も参加してみないかい?」


 そんなありきたりな言葉に連れられてオレは山奥のこの施設まで連れてこられたのだ。

 その後は散々だった。散々? いや、それどころじゃない、最悪だ。

 オレが施設に入り最初にしたことは施設の人間や同じように連れてこられた同期の人間とのアイスブレイキング。しばらくしてこの施設での決まりの読み上げがあって、そのまま個室、荒行部屋へと監禁された。

 監禁されてすぐは暴れに暴れた。今考えれば大兄と呼ばれていた連中の骨を複雑骨折させてやったり、目をえぐり取ってやったり。

 その仕返しは端的にいうと拷問そのものだった。水に沈められて溺れさせられたし、爪を剥がされ殴られ痛めつけられたし、色んな薬を打たれてバッドトリップをかましたし、とにかく色んな苦痛を受けさせられた。そういえば、記憶も曖昧だが飯を食うたびに気持ち悪くなって吐いてたらしい。あれもなんか混ぜ物がされていたのだろう。

 そんな苦痛の合間に現れたのが花波悠乃従姉かわゆのじゅしだった。

 立場としてはモモナに対するオレと同じだ。苦痛の中で甘い甘い優しさを与える役目。これも奴らの手口の一つだったのだろう。苦しい中で優しさが与えられるとコロっと落ちてしまうことがある。そんな話が田村の雑談の中にあったような気がする。

 オレはそうやってコロっと騙されて、モモナの様子でフラッシュバックを起こさなければモモナもまたコロっとオレに騙されていたはずだ。

 従姉はあまりにも、言葉にするのもはばかれるほどの粗忽者そこつもので出ていくとき個室の鍵をかけ忘れたり、オレに持ってきた食事を地面にばら撒いたり。その度にオレは隙を見て脱走を図った。もちろん、その日の拷問はいつもよりキツくなるのが常だったが。

 それでもその日々は俺の正気を長引かせてくれた。あまりにも食事を食うたびに吐くから、厨房に忍び込み食糧をかっぱらっていたのは今になって考えれば大きかったというわけだ。

 兎にも角にも、そうやってこの胡散臭いカルト集団に恭順させられたオレは最後に儀式場で、ヤツと出会った。

 黄金に爛爛と輝く醜悪な汚泥の中浮かぶその一つ目と。


 かくしてオレは完全に錯乱し、我を見失って瀬波瑠乃従弟せはるのじゅていに成り下がっていたということだ。



 それを乗り越えてオレはここにいる。

 無我夢中でモモナの方に駆け出し、横抱きに抱く。施設暮らしが長かったせいか足への負担がきついがそれでも走る。

 この施設には外に至る道のいくつかに監視カメラが仕掛けてある。従姉の儀式に大兄が総動員されているとはいえ、見つかるのは時間の問題だろう。

 特に、オレは儀式場のあの金目と目が合っている。あの時点で追手がかかってもおかしくなかった。

 走った先にあったのは駐車場。その中の一つ。手近な車の窓ガラスを割って鍵を開ける。モモナを後部座席に投げ込んでオレは運転席へと潜り込んだ。

 当然ながらこの車のキーはない。

 だから、電気系統をいじってエンジンに火を入れるしかない。


「何を黙って、……って、そういえば窓を割って侵入したってことはこの車のキーを事前に確保してたとかじゃないんですね!? キーがないのにエンジンかかるんですか!?」

「うるさい、わかってんだよそんなことはよ! 思い出せ、高専出身!! 手持ちの工具はマイナスドライバーとバールみたいな何か、車はキーシリンダーがあるタイプ。だったら、」


 イグニッションスイッチは簡単だ。取り外して直接回してやりゃあいい。だったら、後の壁はハンドルロックの解除だけ!


「解除できるまで来るんじゃねえぞ、カルト野郎共!!」


 細かくカンカン打ち付ける音が駐車場に響く。後もうちょっと、後もうちょっとでネジが外れる。

 そんなところにかすかに何かが動く音が聞こえる。


「モモナ、あんまり動くな。奴らが来たかとびっくり、」

瀬波瑠乃従弟せはるのじゅてい、残念だよ。しばらくおとなしくしていたというのにまた、君を荒行に送り込まなければいけないとは」


 その言葉に窓を見上げると、そこには黒い短髪にタールのように淀んだ瞳。幾度となくオレに拷問を加えてきた人物が、立っている。


「——田村、良平ッ!」


 カンッ、と最後の一当てをすると手元のネジが完全に緩まった。ハンドルロックを取り外すと同時に田村の手がこちらに伸びている。

 だがハンドルロックがないならこちらのもの。マイナスドライバーでイグニッションスイッチを回し、エンジンに火を灯す。腕が扉のロックに触るより先に、オレはアクセルを強く踏んだ。

 ——前には何もなかったし、事故はない……はず!!

 窓から伸びていた手はオレの上にぼとりと落ち、オレはそれを無視して運転席に這い上がった。


「モモナ、シートベルトつけてないと死ぬぞ! オレは仮免取る前にここに来ちまったからな! 事故っても知らねえ!!」

「ちょっ、それやめてください! なんでそんなど素人が峠でドリフトなんて決めるんですか!? 私を下ろして! 下ろして、誰か、助けてくださーい!!?」


 背後からは追手の車。バルルバルルとあからさまにエンジン音ではない何かの破裂音をチェイスのBGMにして、オレたちは奴らの根城から遠く遠くへ走っていく。ありえべからざるその日々を振り切るために。

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