#13

 第三章 Bear


  1


 ロエルとホメロは、蜃体学校の最上階を歩いていた。時刻は昼下がり、午後の講座が始まったばかりで、学校には気怠げな空気が漂っている。

「失礼します」

「……失礼します」

 元城塞の司令室、現学校の校長室に二人は立ち入った。ロエルがここを訪れるのは二度目だ。前回は大きな絶望から一転、途方もない希望に包まれたものだった。蓋を開ければ何てこともない、あまり変わり映えのない日々だったが。

「久しぶりだな、ホメロ、茫洋のロエル……」

 デスクに着いていたオーマッドは、立ち上がって二人を出迎えた。ホメロは恭しく頭を下げて、

「ご無沙汰しています、校長」

「昨晩は大変だったようだな……きちんと休めたか?」

「お陰様で……久々に熟睡できたような気がします」

「そうか、なら良かった」

 何気ないやり取りだったが、長く交流していなければ出せない親密さが、言葉の端々に滲み出ていた。確か、ホメロの母親が亡くなった際の後見人だったか。

「校長、一年ぶりです」

 会話の間断を縫って、ロエルも挨拶をする。

「相も変わらず不出来で……手ぶらで戻ってきてしまって、申し訳ないです」

「……謝罪なら、ホメロにするんだな。もう、私は何もしておらんからな。それで……」

 オーマッドは改めて席に座り直し、手元の紙片に目を落とす。

「先刻、群青の町で蜃体師達は争議ストライキを宣言した。既に警吏署は、これに参加する蜃体師への逮捕状を出し、摘発を始めた」

 王法に於いては、蜃体師の争議権が認められておらず、少しでも反発の気配があれば警察権を行使することができる。蜃体の有り余るポテンシャルを抑制レギュレートするための措置の一環。

「しかし、それは表向きのことだ。ホメロのいない今、全ての蜃体師を捕らえてしまったら、群青の町の運営は困難となる。故に現状、蜃体師と警吏及び駐留軍は睨み合いだ」

「……師匠がいなくてどれくらい平気なんですか、群青の町は」

 ロエルが訊ねると、ホメロはオーマッドの方を向いたまま、

「一週間が限度です。それ以上は取り返しがつかなくなります」

「蜃体師側は群青に対して、境遇改善を主軸とした幾つかの要件を提示している。群青、揺籃にとって、その一週間が回答の期限ということだ。……この状況を踏まえて、お前はこれからどう動くつもりかね」

 質問の矛先はホメロへ。彼女は少し考えた後、言った。

「しばらく此処で様子を見た後、忍びで町に戻ろうと思います」

 オーマッドは眉を吊り上げる。

「それで。こっそりと仕事を続けるというのか?」

「当面は。その間に、群青町長の判断を仰ぎます。……私には、自分の身を守る権利はありますが、町の有り様について意見を述べる権利はありませんから」

「町長クラムが蜃体師達を治めてくれるのを待つと?」

「或いは、私を罷免して頂いても」

 ホメロは真面目に言い放ったが、オーマッドはくく、と皮肉めいた笑いを漏らした。

「あの男はお前を手放すくらいなら、無数の蜃体師の弾圧を選ぶだろう。実質……あの町はお前一人の力で回るのだからな。それでも、彼らに労働をさせているのは、ただ、王法の定めるところに拠るからだ」

「蜃体学校を卒業し蜃体師の資格を得た者は、その職務を全うしなければならない」

 要するに、蜃体師は無職であることが許されないということだ。

 群青町長は、揺籃の国の名に於いて派遣されている。つまり〈現帝〉の代理という立場なので、王法を反故にすることは自己否定に繋がる。不要だからといって、派遣される蜃体師を遊ばせておくことはできない。

「だが、法に抵触しない程度の職に押し込んでしまえば、配属も給金も適でいい。簡単な手続きでみるみる拡充していく町を見て、町長は笑いが止まらなかったはずだ。その利権を守るとあれば、歯向う蜃体師を蜃体法に優先する刑法で裁いて捨てるのが一番楽……それでも尚、お前は町長の決定に与するのか?」

「理不尽ですし不当に思えます。ですが、私にどうこうできる問題ではありません。私には、蜃体師の方々に同情する権利なんてないのです」

 ロエルは、ホメロの横顔を見やる。彼女は判決文を読み上げる裁判官のように、次の言葉を継いだ。

「そうするには、あまりにも私という存在は大きすぎ、強すぎるのです」

 ――私は共に闘う仲間が欲しいのです……。

 ふいに過去のホメロの呟きが、ロエルの脳裏に帰ってくる。

 人は生まれを選べない。どうしようもなく、生まれてしまうしかない。そして、他でもないこの自分が生まれてしまったという事実を、他人と共有することなどできようはずがない。

 ホメロがどれだけ弱者や、不出来な者に同情を示したところで、それは持てる者の驕慢と表裏である。寄り添えば相手は潰れ、慰めればひしゃげる。

 そうしないためにも、自分の首にはきちんと首輪が嵌まっていることを、きちんと誰かの制御の下にあることを主張しなければならない。だから、ホメロは町の、国の側につく。

 重い沈黙の後、オーマッドは重々しく口を開いた。

「承知した。最大で三日間滞在できるよう取り計らおう」

「ありがとうございます」

「それで、ロエル。お前はどうする。ホメロに付き従うか?」

 老いた眼差しが、ロエルに向けられる。

「俺は……」

 咄嗟に何か言いかけたものの、何も出てこなかった。思考が完全に行き詰まり、言語感覚が吹き飛び、今この瞬間が視界一杯に張り付く。

 これまでのことを考えると、ホメロに付き従うのが筋なのだろう。しかし――

「……少し、考えさせて下さい」

 ロエルは言った。

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