#12
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日付の変わる少し前、ロエルは自室で荷物の整理をしていた。といっても、元々持ってきたものは数少ないし、持っていくべきものも特に思いつかない。
トラーネは〈
外套で身体をすっぽりと覆った少女が狙われている、追手の足止めを頼む、と。
手持ち無沙汰だったロエルは、トラーネの蔵書を適当に読み漁っていた。
「仮に、お前の起こせる現象が量子力学に関わるのだとしたら、一生、俺達はそれを活用できないことになる。素粒子達は確率的に波のように存在していて、観測すると一粒の粒子に収束する……そんなものを、どう扱えと?」
『それが自虐だと思ってるなら考えを改めたほうがいい。それでも必死に研究してる掌天の科学者に失礼だ』
デグマに正論を言われて、ロエルは押し黙る。
『ま……女ってだけで、人様の夢を締め出すクソ野郎共だがな』
「どっちも正しい。崇高であると同時でクソである。観測の仕方によって結果を変える、まるで量子理論だ」
くつくつと笑い声。自分のものかデグマのものか、ロエルにはわからない。どちらでも良かった。
不思議な夜だった。窓から差し込む夜闇に、ぷらぷらと本を読む。微睡んでいるのか明晰なのか、曖昧に滲んで溶け合う意識の中で、まるで時間が引き伸ばされるよう。
――そんな間を引き裂くように、突然、金属のひしゃげる大きな音がした。あまりにも不意打ちだったので、ロエルは本で頭を覆って首を竦める。ガランガラン、と何かが叩きつけられる音。誰かが踏み込んでくる気配。
「ロエル!」
声がした。ホメロだった。その顔色には余裕がなく、いつもは隠している両腕もだらりと晒されている。
「ノ、ノックはもっと穏やかにお願いしますよ」
「こちらの動向を察されて、相手が計画を早めました。護衛が付いていたのですが、皆剥がされてしまいまして……」
「それなのに、わ、わざわざ迎えに来てくれたんですか」
ロエルが訊くと、ホメロは稀に見る怖い顔をして言い放った。
「あなたは私の弟子ですよ……私がいなくて、あなたの面倒を誰が見るんですか」
「――ありがとうございます」
表側からエンジン音が聞こえた。圧縮された蒸気が役目を終えて排出される、甲高い噴出音。大型の車のものだ。そして、階段を昇る複数の足音。
ロエルは自分の寝室へ向かって、窓を開け放った。暗いせいで、逃げ込むべき地面が遥か遠くに見える。
「路地に落下エネルギーを相殺する気圧差を配置しました、クッションに飛び込むものと思って、早く!」
ホメロに急かされて、ロエルは立ちすくむ暇もなく闇夜へと飛び出した。束の間の浮遊感、それから全身をがっちりと掴まれたような恐怖感が襲う。
「あ――……ぐっ」
地面に落ちる直前に、謎の衝撃に突き上げられて喉が閉まった。後から降りてきたホメロも、同じように呻いて倒れ伏す。
「だ、大丈夫ですか……」
「はい……あまり慣れないことはするものじゃないですね」
うつ伏せになったまま、ホメロが苦笑する。
ロエルはよろめきながら彼女に近寄ると、両腕で抱え上げた。デグマが耳元で『ひゅう、お姫様抱っことかやるじゃん』と呑気に冷やかす。ホメロは驚いたように、ロエルを見上げた。
「スサノが筆舌尽くしがたい雑言を吐いてます……デグマが何か言ったんですか?」
「いえ、別に。それより、どこに向かえば?」
「万が一のために、行政区の東端に車を用意してもらってます。警吏署の、主幹通りを挟んだ向かいの、使われていないガレージです」
主幹通りは、群青の町を東西に貫く巨大な道のことだ。これが行政区に於いて、南北を通る基幹通りと交わり、群青の町の骨格を構成している。昼間は東西南北を目指す車でごった返しており、世界でも有数な交差点であるらしい。
背後から、タイヤが石畳をこすりつける音が聞こえた。「あっちだ!」「回り込め!」という怒声が静かな夜の街に響き渡る。
「……師匠、人に向けて〈差〉使わないで下さいよ」
「わかってます。この力は、生かすための力です」
ロエルはなるべく車が通れないような小路を選んで走った。夜の空気が頬を打ち、喉に張り付く。追手の気配が濃いが、どれほどの距離でどれほどの数がいるのか、見当がつかなかった。
「止まれ!」
何度めかの角を曲がった時、怒声と共に乾いた破裂音が鳴った。高速の何かが火花を立てて、地面を擦過する。ロエルは慌てて近くの小路に入って避ける。
「銃持ってるのかよ……」
「せいぜいしても威嚇射撃でしょう……危ない時は私が守るので大丈夫です」
「それはありがたい――って、や、マズいです……」
咄嗟に入った小路は、少し広い道に接続していた。案の定、車がそこにやってきて、道を塞ぐように停車する。引き返そうにも、後ろには銃を持った追手。うまい具合に誘い込まれたようだった。機関の吐き出す蒸気の音が、獲物を追い詰めた獣の唸り声のよう。
「あの……黄色い植木鉢の置いてある地点」
ホメロが顎を使って指し示した。ロエルは前方に目を凝らす。花屋でもあるのか、道沿いに植木鉢がずらりと並んでいる。
「あそこに、気圧差のゴムを作りました」
「何ですって?」
「要は……人を弾き飛ばす、パチンコのような構造のものです。それに乗ってうまく車を飛び越して――」
「いや、そうじゃなくって! 黄色い植木鉢って、どれですか!」
腕の中で、ホメロがハッとしたように、ロエルの顔を見上げる。
直後、前方を塞ぐ車から三人ほど、作業用のジャケットを着た人間たちが降りてきた。全員漏れなく、手に拳銃をぶら下げている。
その暗い銃口に見つめられるだけで、足がすくんで動かなくなりそうだった。
ホメロが叫ぶ。
「……六、五歩先です!」
「え、そんな近くに!?」
「大丈ぶ――きゃっ!」
次の瞬間、見えない掌で背中を強烈に押されるような衝動。ロエルとホメロの身体が、綱で上空から引っ張られるように浮いた。
「うおおおおおおおおあああ!」
夜空に顔が近づいた。脚が無意味に宙を走る。縋るものを探すように、腕がホメロを強く抱く。自分の口から出ている声が、他人のもののように聞こえる。
上昇するだけすると、今度は地上が近づいてくる。石畳の幾何学模様。二人をぽかんと見上げる蜃体師達。車の向こう側の道には――届く気がしなかった。
ロエルは車の屋根に着地した。フレームが歪み、フロントガラスが割れる派手な音がする。
勢いを殺しきれず、そのまま地面へと投げ出された。硬い石畳が身体を打ち、景色が回転して平衡感覚が撒き散らされる。そのまま、五体がバラバラになってしまうのではないかと思われた。
全てが収まった時、視界に入ってきたのは、見下す蜃体師達の眼差しと銃口だった。
「……ついてきてもらいます」
若い男の声が言う。それは一年前、客に支払いを踏み倒されたあの蜃体師のそれに似ているように思えたが、きっと気のせいだろう。印象がそう思わせるのだ。くたびれきった蜃体師――。
ホメロはロエルから少し離れた場所で横たわり、顔だけ彼らの方に向けて、乱れる髪の合間から睨みつけていた。
「さあ、早く!」
尚も動かずにいると、蜃体師の一人がロエルの腕を強く掴んで、起き上がらせた。ホメロも同様、無理やり抱え上げられて立たされる。
そのまま、銃口の視線を感じながら、ガラスの砕けた車へと歩いていく。ロエルはホメロを振り返ったが、彼女の表情は虚ろで何も語っていなかった。とてもスサノの力を使えそうにはない。忘れがちだが、あれだけの力を発揮するのには、繊細な集中力が必要なのだ。
他の車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。「四隊、お宝を確保しました……はい、これから移送を……」と、蜃体師の一人が喋っている。
ホメロがその様子を見て、苦々しそうに言った。
「〈
「答える義務はありません」
「通信可能な伸張体を作れるのは……この町には彼しかいない」
ロエルは眉を顰める。伸張体は基本、単純な刺激しか伝達できないはずだ。音声のような複雑な情報は、伸張体の中を伝達する過程でみるみる劣化していき、あちら側に届く頃には荒っぽいノイズしか残らない。
しかし――相手にも音声が伝わるだけの異常な精密さで、伸張体をデザインできる蜃体師がいるのだ。その事実を目の当たりにして、ロエルは愕然とした。そんなことは不可能とばかり思っていたから。
凄い、と、素直に感心してしまった。
まだまだ、出来ることは残されているのだと、知った。
自分にだって……何か、出来ることが。今ではない、いつとも知れないいつしかに、出来ることが。
――その瞬間、通りの方から突如やってきた車が遅くはない速度で追突してきた。目の前の車がクラッシュする。飛び散る金属片、ボディの歪む忌々しい音、小型ボイラーから漏れた蒸気が弾け、衝撃で外れたタイヤが転がっていく。
その場に居る誰もが、唖然としてその光景を見つめていた。物音に驚いた近隣の住民たちが、次々と窓から顔を出す。
「わああ、ぶつけちまった~、あはは」
追突してきてバンパーが大破した車からは、陽気な男達がわらわらと降りてきた。はっきり見なくてもわかるくらい酔っ払っている。猛烈なアルコール臭に、ロエルは顔をしかめた。
「お、お前ら、なな、なんてことを!」
蜃体師は顔を引き攣らせて、酔っ払い達に詰め寄る。が、陽気な彼らに蜃体師の怒りは通用しない。
「なぁ~悪い悪い……ヒック」
「でも、でもよお! すげかったなあ、今の衝突! ドゥゥゥゥン!」
「あ~、い今のは、胃に来たぜ……ううぅぅぅ」
一人の男がよろよろとやって来て、大層気分悪そうに身体を仰け反らせる。何というか、彼の仕草はとてつもない不幸の予感に満ちていた。恐るべき不安定……。
果たして、こちらが身構える暇もなく、彼は盛大に胃の中のものをリバースした。
「師匠!」
吐瀉物を隣の蜃体師が浴びたその刹那、ロエルは呆然と佇むホメロの手をとり、駆け出した。彼らは〈
「壊れちまったもんはしょうがねえよ……さ、さ忘れるために、ぱーっと飲みに行こうぜ」
「や、やめろ、クソ、ま、待て!」
無事だった蜃体師達も、酔っ払いに絡まれて身動きがとれない。銃を向けたところで、恐れも何もない彼らには通用しないだろう。数発、発砲音がしたが、状況は何も変わらなかった。
阿鼻叫喚を背に、ロエルはひたすらに走る。ホメロの手は握り返してこないから、離れないようにロエルが懸命に掴むしかない。不思議な感触だった。ごつごつしているが温かい。植物に血が通ったらこんな感じなのだろうな、とロエルは思った
ようやく、主幹通りに出た。横に聳えるは警吏署の堂々とした建物。目的地は向かい側だ。夜中だから通る車両は皆無、片側三車線もある大きな道路を突っ走る。
視界には否応なく、貯蓄体の巨大な函〈
ガレージには、情報の通り、一台の車が停めてあった。が、運転席のドアに鍵がかかっていて開かない。
「師匠、鍵を下さい」
「……」
「師匠、鍵」
「…………」
「鍵……え、嘘ですよね……」
「ないですよ、そんなものは。だから非常用なんです。下がって下さい」
「えええ、壊すんですか!」
扉を壊すしかないから、万が一の時にしか使えないということらしい。
ホメロはロエルから離れてドアを見つめる。少しでも手加減を誤れば、ドアが吹っ飛ぶどころか、車体がひしゃげて廃車になりかねない。ロエルは固唾を呑んで見守る。
すると、ガタ、と、後部座席のドアが開いた。
「ちょ、壊すなんてもったいないよ!」
慌てた様子で車内から出てきたのは、なんとトラーネだった。予想外のことだったので、ロエルは驚きのあまり言葉を失う。
「トラーネ……どうしてここに」
「町のことなら何でも知ってるさ。ドアの鍵はちょうど今外してたところ、お姫様がすぐに乗れるようにね……」
トラーネは針金をちらつかせる。そういえば、家業が整備士で嫌々習わされたと言っていた。色々な学問に明るい彼女だが、結局一番詳しいのは車のことなのかも知れない。
「運転もしてあげるよ、どうせ二人ともしたことないんでしょ」
「あ、あなたは……」
「蔚藍のトラーネ、ロエルの友達! ほら、乗って乗って」
展開についてこれずに戸惑うホメロを、トラーネは後部座席に押し込む。その間にロエルは助手席に乗り込んで、運転席の鍵を内側から外した。
「ありがと。まあ、かく言う私も蜃体機関の車には初めて乗るんだけどさ……」
トラーネは言いながら、運転席に乗り込んでエンジンをかける。蜃体のエネルギーを受け取って即-温まった機関が唸り、滑らかにガレージを出立した。車はすぐに行政区の境を跨ぎ、東部居住区へと入っていく。
「〈
ハンドルを御しながら、トラーネが訊ねてくる。
「ああ、まさか酔っ払って車で突っ込んでくるとは思わなかったが……とても助かった。ありがとう」
「あはは、それは良かった。で、これからどこへ行けばいいの」
「……蜃体学校へお願いします」
後部座席からホメロが言った。トラーネはちらと後ろを見やってからううん、と唸って、
「蜃体学校か。私、場所知らないよ……」
「ロエル、案内できますよね」
「多分……まぁ、ほぼ東に一本道だから大丈夫だろう。遥か右手に厳つい城砦が見えてきたらそれだから」
「わかった」
トラーネは頷いてアクセルを踏みこんだ。行き場のなかった蒸気が殺到、噴出する音と共に車体はスピードを上げる。このペースなら未明には、蜃体学校に辿り着くはずだ。
ロエルは通り過ぎていく群青の町並みを見ながら、思いを馳せる。
果たして、自分はどちらの蜃体師なのか――社会のどん底を這いつくばる鼠のような蜃体師か、彼らを羊のように束ねる羊飼いの蜃体師なのか。
愚問だった。蜃体師であると同時に蜃体師ではない、宙ぶらりんの存在。
端的に、どちらでもないのだ。俺は。締め出されているのだ。
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