死神の詩

N通-

越智姫

(ひそひそひそひそ……)

 彼女の周りでは、いつもそんな姿無き声がひしめいていた。

「越智姫様。今宵のお食事はこれらになります」

「………………」

 越智姫と呼ばれた少女は、襖の向こうから手だけで差し出されるお膳を無表情に見詰める。今日の食事はどうやら肉料理のようだった。

「今日は、肉なのか」

「ええ。今日は肉です。たまにはお肉も食されませんと」

 襖の向こうから声が答える。越智姫は、少し眉根を寄せ、その綺麗な造作の顔を崩したが、どちらにしろ食べないわけにはいかないので、もう何も言わない。ここでワガママを言った所でどうにもならないのだ。

「………………」

 襖がきちんと閉じられるのを確認してから、越智姫は初めて腰を上げた。そうしなくてはならない決まりになっているからだ。立ち上がる時に、床を流れるように這っていた黒髪がふあと持ち上がる。

 お膳に手をかけようとして、ふと襖を見上げてしまった。そこには松唐草や荒磯などの紋様は入っていない。夥しい数の呪詛が幾重にも幾重にも書き込まれ、歪な模様を浮き上がらせていた。

「ふう」

 越智姫は頭を垂れ、さらさらの髪を流れるままに落し、大きな瞳を閉じてゆっくり3つ数えると、お膳を持ち上げ部屋の真中に持って行く。

 部屋の中はがらんとしており、無造作に置かれた黒電話と、文机がある以外は何もない。ただ、部屋の広さそれ自体は20畳はあった。その広大さ故に黒電話と文机が余計に物悲しく映る。

 その少女は、年の頃十代半ばに見える。毎日時間をかけてとかしている黒髪は、艶やかで恐ろしく長い。面立ちは小さな顔に線の細い眉、確たる意思を感じさせる黒目の大きな瞳が覗いている。日に晒された事の無い肌は白いが、それは病的というよりも、淡い光りをまとっているかのようであった。ほっそりとしたうなじから下を覆い隠す着物は、どこか奇妙な仕立てだ。神社の祭事に巫女が着るような服にも似ているが、その意匠はことごとく違っている。少女、越智姫はお膳に伸ばしかけた手を、不意に箸を取る直前で動きを止めた。

「お前達、食べるかい?」

 誰もいないはずの空間に声をかける。すると、畳の隙間や襖の陰から染み出すように幾つ物黒い影が浮き上がる。

「越智姫様。それはあなたが食べなくてはいけやせん」

「我々は調理された物は好まぬのですよ」

「何。何時もは言わなくても勝手に食べおるくせに」

 影達はゆらゆらと越智姫の周りに集まってくる。どいつもこいつも不定形で、存在感そのものが薄い。越智姫はそんな影たちに一瞥くれたが、お膳のお箸を手に取った。食べないと後で困るのは自分だ。

「私はいつここから出られるのかのう」

 黙って咀嚼していたが、箸を止め、ぽつりとつぶやいた。

「そりゃせん無き望みです。何しろあなたは死神なんですから」

「しかし後何十年もすれば新しい死神が生まれるやもしれません」

「解っておる。解っておる、そんな事は」

 そう、ここには希望などなかった。この空虚な空間が彼女の全てであり、世界はここで完結している。彼女は、海を知らない。山を知らない。太陽を知らない。月を知らない。人を知らない。生物を知らない。

 彼女の周りには、襖の向こうの声と亡者どもしかいない。それが全てなのだ。世界の端から端まで、たった20歩もあれば充分だった。

「ふむ。今日の食事はまあまあだな」

 などと嘯いてみるが、実際には味の良し悪しが解るわけではない。

「では、食休めに私がお話しを差し上げましょう」

「おお、そうか。そなたらの語りは唯一の楽しみだ。ささ、早く聞かせておくれ」

 年相応の笑顔を輝かせ、亡者に話をねだる。亡者どもはそんな慰みに、頬を紅潮させて喜ぶ越智姫を心の底から哀れんだが、所詮とうの昔に人でなくなっている彼等にはいかんともしてやる事は出来なかった。

「ではお話ししましょう。そうですな、今は昔に起こった天変地異を起こした祟り神についてお話しましょうか――」

 そして亡者は朗々と語って聞かせる。戦に巻き込まれ滅びた村の怨念が凝り固まり、凶悪な祟り神として長年土地に人を立ち入らせなかった事を。その土地を訪れた人間の若者が、祟り神と心通わせその怒りを静めた事を。

「なんと! 祟り神ともあろうものが、たかが人間になあ。それは真か?」

「真でございます。人間は愚かですが、時として神に勝る心を持ち合わせる事もあるのです」

 越智姫は関心しきりと言った様子で、亡者の言う事に一々頷いている。

「その若者は、怒りに我を失った祟り神を相手に、幾日も幾日も辛抱強く語りつづけたのです」

「祟り神は若者の指を落とし、耳を削ぎ、腕をもぎ、地に伏せさせ、遂には心の臓を貫いても尚、説得を止めはしませんでした」

「そして十七日後。遂に祟り神は、忘れていた"耳"を思い出したのさ。若者の話しを聞くためにな」

「ほう、ほう!」

 すっかり物語にのめり込んでいる越智姫は、興奮したように感嘆の声を上げる。

「そして、遂に祟り神は聞きました。『お前は、何者だ?』と」

「若者は応えます。『私は人間です』と。しかし祟り神は、怒りを顕にして声を荒げます」

「『嘘だ! 人間が心の臓を貫かれて生きているはずがない!』」

「しかし若者はそれでも尚言い募ったのさ。『いいえ、私は間違いなく人間です。人間だからこそ、あなたに声を届ける事が出来ました』」

「祟り神はそこで不思議に思いました。『どうして人間ならば私に声が届くのだ』。そこで、若者は応えます。『何故ならあなたも人間であったからなのですよ』。若者は、少し悲しげに応えました」

「そして祟り神も、ようやく自分が何だったのかを思い出します。思い出して、悲しみが満ち、それは滝となって失われた両目からあふれ出ました。涙を流すほどに、祟り神は小さく小さくしぼんでいきます」

「やがてそれが若者の手のひらに乗るほどの大きさになった頃に、若者は祟り神に言って聞かせたんだ。『あなたの悲しみは、豊かな恵みへと生まれ変わる事でしょう。あなたの心は、人々の記憶に永遠に刻まれていく事でしょう。だから、あなたはもうその悲しみを覚えていなくても良いのです』。そこで祟り神は、わずか頷いて凝り固まっていた邪念から解き放たれ、その土地は長らく争いの無い、平和で豊かに栄えていったそうだ」

 亡者の最後の結びが終わり、越智姫は幼子のように頬を赤く染めて目を輝かせる。

「そうか。会ってみたいものだなあ、人間に」

 夢想するように中空を見詰める。襖の向こうの声は、絶対に姿を見せる事は無い。否、あの者がそれを望んだとしても、越智姫と同じ空間にいることは不可能なのだ。

「越智姫様。どうかご辛抱下さい。あなたは必ずこの檻の外へ出る時がやってきます」

「そうか、そうか。それは楽しみだ」

 その時の事を、外の世界を想像してか、越智姫はくくっと愉快そうに笑う。亡者達はそんな彼女の様子を、愛しい我が子を見守るように見ていた。

「さ、今夜はもう寝られませ。明日もまた良き日に」

「うむ。ご苦労であった」

 影達は各々吸い込まれるように消えて行く。それを見届けた越智姫は、寝具を入れてある押入れから布団を取り出し、それを部屋の真中に敷く。一時期他の場所にも敷いてみたのだが、どうにもしっくりこなかったのだ。


「明日は良き日に……」

 呪文のように呟いて、越智姫は布団の中で目を瞑る。そしてまた今日が繰り返され、望みのない望みに希望を抱き、日々を廻しつづける。

 次の日は珍しい事があった。目を覚ました越智姫が、寝具を片付けている所をけたたましいベルの音が邪魔をする。突然鳴り響いた電話の音に驚いて、越智姫は抱えていた布団を取り落としてしまった。散らばった布団を見下ろし、尚やかましく催促する電話を少しだけ睨むように見詰めてから、諦めたように嘆息する。

「越智姫様……」

「解っておる」

 影達にまで急かされて、少々機嫌の悪さを増した越智姫だったが、黒電話の前までゆっくりと歩み寄ると、優雅に腰を下して受話器を手に取った。

「もしもし」

「おはようございます、越智姫様。ご機嫌はいかがですか」

 聞きなれた、落ち着いた女性の声が聞こえてくる。悪いに決まっておるだろう、などと反射的に答えかけて、危うく自制できた。どうも、寝起きはダメだ。変に攻撃的になってしまう。充分な反省の時間をおいてから、越智姫は抑揚の無い声で応えた。

「相も変わらずだ。今日は何用なのだ」

 電話の相手はその態度に機嫌の悪さを感じ取ったか、失笑を隠しきれない様子だった。

「これはこれは。朝早くに申し訳無い事をしてしまって」

 寝起きで機嫌が悪い事を見ぬかれて、越智姫はかあっと顔面が紅潮した。

「それはもう良い。何用なのだ」

「はい。本日は定期報告の日ですので」

 そういえばそうだったか、と越智姫は思い出した。何しろこの部屋にいる限り、月日等まるで関係のない生活になっている。時間感覚が麻痺してしまっていても、それは仕方の無い事だ。

「いや、申し訳無い。すっかり失念していたようだ」

「いいえ、かまいませんよ。それで、今回の定期報告ですが……」

 相手が"いつも通り"言いよどんだので、ああ、やっぱりかと軽い失望を覚えた。毎回期待してはいけないと思いつつも、どこかでもしかしたら、と思う心を誰が責める事が出来よう。

「やはり新しい疫子は見つかりませんでした」

「ふむ、そうか」

 自分でも意外な程冷静な声だったが、これもいつも通りのやりとりの賜物かもしれない。

「我々も全力を尽くしています。どうか、気を落とされませんように」

「大丈夫だ。いつも通りの事であろう?」

 ついつい、皮肉めいた言葉が口をついて出てしまったが、それぐらいは見逃して欲しいと思う。相手は何かを言いかけたが、息を吸い込んでしばし黙した。やがて、ゆっくりと言い聞かせるように語りかける。

「物事は不変ではありません。必ず、終焉が参ります」

「……うむ。すまん、少し意地が悪かったようだ」

「いいえ。お気になされずに。では、私はこれにて」

「うむ、ご苦労だった」

 やがて相手が電話を切り、発信音しか聞こえなくなっても、越智姫は名残惜しむように受話器に耳を充てていた。ふうっと小さく息をついて、ようやくチン……と小さな音をさせて受話器を戻した。

「越智姫様……」

「お前達……」

 心配するように、影達が越智姫の周りにゆらゆらと集まっていた。越智姫の態度から電話の内容を察したのだろう、どれも沈痛な雰囲気をまとわせている。越智姫は、そんな亡者達に殊更に明るい笑顔を向けた。

「なに、心配はいらぬ。いつも通りの事だからな」

「はい。どうか、お気を落とされますな」

「さあ、さっさと布団を片付けましょうや」

「ならばお主がやっておいてくれても良かったではないか」

「越智姫様の仕事を奪うような、出すぎた真似はできませんぜ」

 亡者の不遜な態度に、越智姫は微苦笑を浮かべる。


 相変わらず蝋燭が照らす薄闇の中で、越智姫はただ黙々と作業をこなしていた。時折炎が揺らめいて、越智姫の影を好き勝手な大きさに伸び縮みさせて楽しんでいるかのようだ。

「退屈だのう」

 いつものように文机に向かい、書写を行っていた越智姫はため息をついた。書写は元々好きではないのだが、今日はいつも以上に気分が乗らない。硯に手を延ばし、墨を擦ろうとした所でふと手を止める。そのまま墨から手を離し、いかにも面倒そうに筆を投げた。

「ふむ……では、越智姫様。歌をお聞かせ頂けますか? 良い退屈しのぎになるやもしれません」

 退屈しのぎ等といっているが、その実ただ亡者達が越智姫の歌を楽しみにしているに過ぎないのだ。それを良く解っているので、越智姫は影達に常々思っていたことを聞いてみた。

「歌か。お主等はよくよく私に歌をねだるが、それほど心地良いのか?」

「それはもう! 越智姫様の歌は、まるで心に清水の満たしたかのような穏やかで澄んだ気持ちになれるのです」

「ああ、己達は越智姫様の歌に救われるような気持ちになるぜ」

「素晴らしい声をお持ちですよ、越智姫様は。歴代の中でも抜きん出ております」

 亡者達の惜しみない賛辞に、越智姫は顔を真っ赤にして怒る真似をした。

「ほ、誉めすぎだ。おだてても何もでてこぬぞ」

「いえいえ、我々は歌さえ頂ければ、それで充分なのです」

 本当にそう思っているのであろう、影達はそわそわと落ち着きを無くしたかのように揺らめいて、越智姫が歌い出すのを今か今かと待ちわびていた。ここまで期待されて、無碍に断れるわけがない。越智姫はわざとらしくこほんと一つ咳をして、姿勢を正して正座する。

「今よりは昔、昔よりは今。人々は歌を歌う、終わらない歌を歌う――」

 奇妙な調子のついたその序文には、不思議な力が篭っている。そして、影達はもうその序文だけで既に感動に打ち震えるようにぶるぶると身を震わせて、聞き入っていた。

「この門は閉じられずとも、小鳥すらも入れない。そこにあるはアヤカシの空、ただ傍にあるは人の業……」

 越智姫は歌い続ける。その歌が、実は亡者達にとっては一種の麻薬のように作用しているのだと露知らず、笛の音にも似た綺麗な歌声を、部屋中に反響させながらも、歌う。死神の歌は、死者の魂を直接揺さぶる。その歌の抑揚に合わせて、亡者達はその感情を激しく揺り動かされるのだ。死者となって、永い時間を過ごしてきた亡者達が死神に仕えている理由の一つでもある。

「おお……おおおお…………」

「ああ、なんと素晴らしい……」

「言葉もねえよ……」

「美しい声だ……胸を打つ……」

 陶酔したような影達に一切気を払う事も無く、越智姫は最後まで歌い終えた。残響音が部屋中の壁に吸収されて返ってくるような、不思議な感覚。歌を歌った後は、いつも不思議な気分に捕れる。私が歌えば、それは神韻という事になるのだろうかと考え、それが少しおかしかった。

「ふう。歌を歌うのは疲れるのう」

「良い歌でございました。我々もすっかり堪能させて頂きました」

「ふふ……そうか? お主達にしてやれることは少ないが……」

 思わずこぼれた本音に気付いて、越智姫は慌てて付け足した。

「ま、まあ私も歌いたい気分であったからな。また気が向いたら披露しようぞ」

 越智姫の素直じゃない心を、影達は苦笑しながら気付かない振りをした。

「はい。気が向きましたらお願いします」

「ケチくせえなあ、減るもんでなしに」

「疲れると言ったであろう! 全く、気の利かぬ亡者達だ!」

 怒ったように柳眉を逆立てても、その口元の緩みは隠しきれてはいなかった。それを見て、亡者達は安心する。彼等はただ歌が目当てなだけで仕えているのではない。この少女を本当に愛しく思い、残酷な世界から守ってやりたいからこそ、仕えているのだ。自分達が相手をしている限りには、彼女の孤独を少しでも紛らわせてやる事が出来る。そう、ここを出られる日が来る時まで、亡者達は彼女を守り続けるのだ。それが、"待つ"という辛い決断をした彼女へのせめてもの助けになるならばと、亡者達は揺ぎ無い誓いを抱いていた。

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