第8話 スポンジ工場
「これは…」
シグルドは絶句した。
そこに広がっていたのは血の海だった。
シグルドの踵(きびす)まで没するほどの血だまりがそこに出来ていた。
生ぬるい感触と、生臭いにおい。一呼吸ごとに理性がやすりにかけられるように思えた。
その血河の中に、夥しい数の死骸が浸かっているのだった。
いずれも剣を佩(は)き、鎧を纏(まと)っていた。
冒険者と思しいその屍には共通点があった。
どれも頭部がなくなっていたのだ。
眉より上、ちょうど頭蓋の部分が綺麗に切り取られていた。
魔物に食われたのではない。明らかに人の手によって成された行為であった。
「ほれ見ろ」
アリスは、シグルドを屍の山へと突き飛ばすと、手近にあったうつ伏せの死骸をそのつま先で裏返した。
破れた衣服の隙間から、冒険者の引き締まった腹筋が露出していた。
シグルドは、再び息を呑んだ。
その場所にシグルドの左肩にあるのと同じ紋章が刻まれていたからだ。
「これは、私とウルカがこの洞窟で採集したバカの標本だ。こいつらがこの後どうなるか、その気の毒な頭で想像できるか?」
「まさか、精霊の生贄に…」
「スポンジになる」
「は?」
「だから、加工するんだよ。お兄ちゃんたちのスカスカの脳みそをね」
ウルカが横やりをいれて説明した。
あまりに常軌を逸した発言にシグルドは思わず面食らってしまう。
脳みそを? スポンジに? 加工?
「そんなことが出来るのか?」
当然の疑問を口にすると、アリスは不敵な笑みを浮かべて、あの光る剣を振りかざした。
「我が剣は、正四面体構造をもつ火の粒子から鍛えられた。故に他の物から火の粒子を奪い、また与えることが出来る。これによって、凝固や気化も思いのままだ」
アリスは、岩の上に再びあの剣を突き立てた。
その部分の岩が溶けはじめ、煙が立ち上った。
「この力で勇者オタクのスカスカの脳みそを乾燥させると、最高級のスポンジになることを我らが偉大なる盟主ヘルペス=クリス=メメンチョス様が発見なさったんだ」
「パーデンネン王国は世界有数の温泉国だからね」
「スポンジの需要は常にあるからな」
さも当然のことのように言う二人に、シグルドはつっこみを入れざるをえない。
「いやいや、そんな、悪趣味な物を買う奴がいるもんか」
「ところがすっとこどっこい、貴顕の野郎どもにバカ受けなんだよ」
「キケン?」
「貴族様だよ。お兄ちゃん。身分の高いお方は、だいたい猟奇趣味の変態だからね。中にはお尻に入れて遊んでる人もいるらしいよー」
ウルカの発言が、引き金となった。
シグルトは眩暈に襲われた。
毒のせいばかりではない。
おぞましい空想が脳裏に展開されたからだ。
脂ぎった貴族の爺が食卓に着いている。でっぱた腹の前でシャツのボタンが弾けとびそうだ。
酒がはいっているのか、禿げあがった頭までが赤らんでいる。
だらしなく開かれた口からは、酒と膏の悪臭を放つ涎がだらだらと零れている。
美しい少年が室内に入って来る。
銀の皿の上に、スポンジが載っている。
貴族は、やはり銀のナイフでそのスポンジを細かく切り分け、その小さな欠片を口ではなく、お尻の穴へと運んで行く。
切り刻まれ、辱められていくのは同じ夢に殉じた冒険者の脳みそなのだ。
そこまで想像したとき、怒りが頂点に達した。
「うわああああああ」
気づいた時には、すでにアリスに切りかかっていた。
抜刀と同時に、左から右へと跳ね上げるように切りつけた。
それは渾身の一撃だった。
日々の冒険によって鍛えられた鋼の肉体が繰り出す一切の無駄が削ぎ落とされた神速の斬撃。
しかも卑怯にも不意打だった。
対してアリスは、ほんの少し上体を後ろに反らしただけである。
それだけで刃は虚しく空を切り、シグルドは斬撃の勢いを殺すことが出来ずに、うつ伏せに倒れこんだ。
その背中をアリスが踏みつけにする。
「鉛で体がバカになっているはずなのに大した根性だな。尊敬に値するぜ」
グリグリぐりぐり。
シグルドは、倒れ踏みつけられたたまま首だけを上げアリスをにらみつけた。
彼女は、左手を頬に宛がっていた。
さきほどのシグルドの一撃が、微かに左頬を掠めて、切り傷を創(つく)ったようだった。
たったそれだけのことに、シグルドは妙に励まされた。
「お前ら血は何色だ!」
シグルドは腹の底から絞り出すように怒鳴った。
「お前らがやっているのは、変態鬼畜行為の片棒担ぎだぞ。こんな非道なことがまかりとおると思っているのか」
地べたに這いつくばっているにも関わらず威勢のいいシグルドに、最初はきょとんとしていたアリスは、やがて声を上げて笑い出した。
どこか自嘲的なトーンのある陰湿な笑いであった。「くくく、私の血の色が知りたいか」
そういうと、アリスは腰を屈め、シグルドの目の前で、左頬を抑えていた手のひらを開いてみせた。
「私の血は…」
そこにべったりと付いていたのは、
「黄色だ」
黄色い汁であった。
まるで、蜂蜜のような色の液体が、そこに付着していたのである。
それが紛れもなく彼女の血である証拠に、覆いを取り除かれた頬の傷から同じ色の血がどろりと溢れだした。
「ご賢察のとおり、この黄色い血が私をこんな変態鬼畜に駆り立てるのさ」
先ほどまでの威勢はどこへやら、シグルドの心は恐怖に塗りつぶされた。
なんだこれは?
何かの病気なのか。
あるいは、この女は人間以外の何かなのか。
そんなシグルドの様子を楽しむように、アリスは自らの血でシグルドのほっぺたにバカと書いた。
「この血は一体」
「ふふふ、私は血が胆汁になってしまった少女騎士なのさ」
「血が胆汁になってしまった少女騎士?」
「正確には、黄胆汁(こうたんじゅう)」
「それって、確か四体液の一つ…」
シグルドは、黄胆汁についてエステルから教えられて知っていたのだった。
「そう、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁。この四つの体液は、それぞれ四大元素とも対応していてな、私ら火の獣帯士は必然的に体内の黄胆汁の割合が増えてしまうサダメなんだ。どうだ。綺麗なものだろう?」
「綺麗っていうか…。それ体に悪くないのか?」
「すこぶる悪いな。このまま放置しておくと肝硬変になって死ぬくらい悪い」
「大丈夫なのか! いや俺が心配する義理はないんだが…」
「ふふ、我らが偉大なる盟主ヘルペス殿が液抜きの方を心得ておられるから大丈夫だ」
そこで、アリスは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「もっとも、施術の対価は絶対服従だがな」
そしてアリスは、倒れ伏したシグルドの鼻先すれすれの所に剣を突き立てた。
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