第5話
「そこまでだ、大尉」
ちょうど僕を見下ろす格好で、父が言った。『大尉』とは、この大男のことらしい。さっと視線を彼の胸元に遣ると、階級章に並んでプレートがあった。大槻澄夫というのが、こいつの名前か。
「これが生の暴力の味だ。どうだ、一翔?」
酷い鈍痛が頬に走る。出血に至らなかったのは幸いだった。とは言っても、痛いものは痛い。思わず顔を顰める僕を、父は無感情な顔で見つめる。
彼は顔を上げ、目の前で親指と人差し指を突き合わせた。そしてぱっと指を離す。その動作をする度に、一枚ずつ立体画像が表示されていく。僕は殴られた右頬を押さえながら、じっとその様子を見つめた。
「お前の部屋を捜索し、見つかったのがこれらの精密機械だ」
立体画像を拡大する父。そこに写されていたのは、僕がヴァーチャル・リアリティのゲームをプレイするのに使うヘッドギアやコントローラー、それらを連携させる無線機器だ。
何故だ? どうしてこんなものを僕に見せる?
僕が眉根に皺を寄せていると、父はゆっくりと片膝をつき、画像越しに僕と目を合わせてきた。
「これが、お前や流果の生活を支えてきたのだろう?」
父は軽く画像を突いてみせる。僕は肯定も否定もせず、父の目を見返した。
そんな僕の目の前で、父は両の掌を開き、パチンと打ち合わせた。展開されていた立体画像が、いっぺんに消え去ってしまう。
「だが、これからはゲームじゃない。お前の愛用しているゲームシステムはできるだけ踏襲させてもらうが、殺すのは敵のキャラクターではない。生身の人間だ。覚悟しておけ」
「生身の……人間?」
オウム返しに問うた僕を無視して、父は立ち上がって踵を返した。大槻がそれに続く。
「ちょっ、待ってよ父さん!」
僕は両腕を突っ張って身体を起こし、父の背中に言葉をぶつける。
「生身の人間を殺す、だって? そんな馬鹿なこと……!」
「古川博士」
父は足を止め、しかし振り向くことなく博士を呼んだ。『はい』と固い声で答えながら、背筋を伸ばす古川。
「彼に軽くレクチャーをしてやってくれ。何も知らずに任務にあたらせるのは酷だろうからな」
「機密レベルは? どの程度まで開示します?」
「レベル4だ」
唾を飲むだけの時間を置いて、古川は『了解しました』と告げた。
それを聞き届けてから、父は再びドアの方へと歩を進め、さっさと退室した。大槻の背中がスライドドアの向こうに消えるのに、そう時間はかからなかった。
※
場所を移そう。そう言って、古川は僕をラボから連れ出した。
父の後を追うようにして、スライドドアを抜けて廊下を歩く。だが、この建物全体の構造がどうなっているのかを知るには、情報は乏しかった。廊下の造りが複雑なのだ。
ラボ同様に、真っ白な壁、床、天井。僕たち以外に人はほとんどおらず、いたとしても、皆白衣を着た研究者だった。
一つ気づいたことがある。窓がないということだ。ということは。
「ここ、地下なんですね」
「ご明察」
ややおどけた調子で答える古川。
「まあ、軍の関連施設だからねえ。テロ対策には万全を期しているよ」
「そうですか」
だが、それ以降の会話はぷっつりと途切れてしまった。僕は気づいたことを言っただけだ。特にネタになるようなことを持ちかけたわけではない。
そのまま代わり映えのしない廊下を闊歩すること、約三分。
「ここならいいかな」
古川はゆっくりと足を止めた。見上げると、そこにはプレートがあり、『小会議室5』と書かれている。
腰を折って、顔を手摺に近づける古川。そうか。網膜上の毛細血管をスキャンさせているのか。
《古川知美博士、認証しました》
そんな合成音声が響く。それからカチッ、という短い開錠音に続いて、するりとドアが開いた。
「さ、話を進めようか。おっと、その前に」
古川に促されるようにして、僕は小会議室に入った。
「一翔くん、コーヒーばかりでは飽きるだろう? 私は構わないが」
「え、ああ、はい」
小会議室の奥まったところにドリンクサーバーがあった。僕は有難く、アイスティーを注文した。両手に一つずつカップを握らせた古川から、そっと片方を受け取る。
それと同時に顔を上げ、古川博士、と呼びかける。
「ん?」
「流果は今、どうしていますか? 生きてるんでしょう? 会わせてください。そうでなければ、僕はあなたや父には協力しません」
流果の安否を問うだけだったはずの僕の言葉は、一気呵成に脅し文句にまでなってしまった。それに対し、古川は自分のカップに口をつけながら冷徹な視線を送ってくる。
そうだね、と前置きして、語り出した。
「さっき君も聞いていただろう? 機密レベル4に値する事案だ。五段階ある機密レベルのうち、上から二番目に秘匿性が高い。公表すれば、一生軍や警察の公安部につきまとわれることになる。今君が知らされた情報だけでもそうなんだから、これ以上、いや、これ以外の事案については、とてもとても話せない。私の権限ではね」
「つまり、流果のことも明らかにできないと?」
僕はだらんとぶら下げた腕の拳を握りしめながら、目を細めた。古川も容赦なく、頭一つ上の長身から僕を見下ろしてくる。
先ほどは、父に殴り掛かろうとして大槻に阻まれた。しかし今度は近づくこともできない。古川の周囲に、冷たい現実という名のバリアが展開されているかのようだ。
振り下ろすべき場所を失った僕の腕は、呆気なくアイスティーのカップを握りつぶした。
「畜生ッ!」
指の間から、薄い茶褐色の液体が滴り落ちる。その染みが床に広がっていく。
それを見て、僕ははっとした。まるで血のようではないかと思ってしまったのだ。
一度気絶させられたからといって、流果の背中から湧き出す血の不気味さ、おどろおどろしさを忘れられるわけではない。
同時に、僕は父の言葉を思い出した。こう言っていたではないか、『これが生の暴力の味だ』と。
ゲームの中で発射する銃弾より、腕、それも自分の拳の方が恐ろしい。これが現実なのか。
いくらばら撒いても気にかけることのなかった銃弾、爆薬、ロケット砲。だがそれらは、飽くまでヘッドギアの視覚バイザー越しの仮想現実に過ぎなかった。
しかし今の僕は、自分の身体にすら恐怖を覚える。僕は暴力という、巨大な闇の歯車に巻き込まれてしまった。それでいてどんどん下に、闇の奥深くに追いやられていく。
これは例え話だが、我ながら正鵠を射ているように思われた。
仮想世界で暴力を振るっていた自分が、現実でも暴力衝動に駆られ、あろうことか父を殴ろうとした。我ながら、普段の僕からは想像できない、身の毛もよだつような行為だ。
もしかしたら僕は、対戦型シューティングゲームをプレイすることで、自分の心中に巣食う暴力性を発散していたのかもしれない。
母を喪い、父に捨てられ、荒んでしまった感情をゲームにぶつけることで、心の平静を保ってきたのかもしれない。
そうして暴力性を封じ込めることが、生活費を稼ぐことと重なっていたのだから、まさに一石二鳥だったわけだ。
そこまで考えて、僕は自分の額に嫌な汗が浮かぶのを感じた。
じゃあ、流果は? 流果はどうやって感情の負の連鎖を断ち切っていたんだ?
答えは明白である。断ち切ってなどいなかった。『ディジネス』という反政府組織に協力することによって、現実世界で暴力性を発散していたのだ。
「そんな……。じゃあ、流果は……!」
どこから仕入れたかも定かでない生活必需品を、得意気に見せる流果。
反政府組織に関わっていることを隠そうともせず、誇らしげに語っていた流果。
そして軍との銃撃戦に巻き込まれ、血塗れで玄関までやってきた流果。
僕が止めてやるべきだった。
兄として、年長者として、何より家族として、流果を『ディジネス』から遠ざけるべきだった。
現実での暴力の連鎖に巻き込まれることがどれほど恐ろしいか、諭してやるべきだった。
かく言う僕も、血塗れの流果の姿を見るまで、そこまで仮想世界と現実世界の区別を明確にしていたわけではなかったけれど。
一体、僕たち兄妹の人生は、どこから狂ってしまったのだろう? そして、どこへ向かっているのだろう?
「う、うぁ」
僕は短い呻き声を上げながら、目の前のデスクに両手を着いた。かぶりを振って、胸中で叫ぶ。
こんなはずじゃなかった。僕の人生は、流果の未来は、こんな暗澹なものになるはずじゃなかった。
「くっ……」
僕はデスクの上の両手を、ぎゅっと握りしめた。
その時ふと、脳裏に浮かんできた光景がある。あれは、最後に僕と流果、それに父の三人で会った時のことだ。
二年前の梅雨の日、父は唐突に僕たちの前に現れ、こう言ったのだ。
『母さんの墓参りをしよう』と。
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