今日も「ただいま」と冷蔵庫に。

エド

今日も「ただいま」と冷蔵庫に。

 姉が逝ったのは五年前。蝉の声が煩わしい頃であった。

 死因は轢死。その日に限って珍しくも些細なことで私と喧嘩を繰り広げ、低い声で「頭を冷やしてくる」と外出してから数時間後、ドライバーの居眠り運転によって制御を失ったトラックに撥ねられた姉は、そのまま永遠に帰宅出来なくなってしまったのだ。

 ショックだった。当然だろう。余命宣告をされた相手との死別ですら悲しいというのに、覚悟も予測も出来るはずもない状況で、突如として大事な人を失ってしまったのだから。

 当時は〝一緒に外出していれば〟と何度も思った。そうであったなら助けられたかもしれないのに……という殊勝な考えからではない。一緒に死ぬことが出来たかもしれないのに……という、マイナスに突き抜けた思いから生まれた嘆きだ。実際、かつてないほどまでに堪えていたらしく、両親曰く事件直後の私は――あまり記憶にはないのだが――幾度となく故意に信号無視を敢行していたという。それほどまでに追い詰められていたのだ。

 とはいえ当然の話ではあるが、突如として生まれた心の孔に翻弄されていたのは私だけではなかった。家族や親戚、姉の友人達だってそうだ。そうでなくては、姉の遺品整理に取りかかるまでに一年以上もの時間を要することはなかった。そして遺品整理をする覚悟が決まるまで、家族総出で姉の部屋を延々とそのままの状態――掛け布団のめくれ具合すらもだ――に保ち続けていたはずがない。

 そうして現在……大学二年生となった私は、姉より一つ多く歳を重ねていた。

 現在は親元を離れて都内へと転居し、自殺者が出たことで家賃が異常に安くなっていたマンションの一室を借りて、それなりの大学に通っている。

 幼い頃から数字が関わる物事にばかり興味を示していた私にしてみれば、曰く付きの部屋など恐るるに足らぬ代物だ。極めて冷静に、そして何よりも科学的に考えれば霊など存在するはずもないのだから。そもそも、よしんば存在しているとしても、あの家族思いで優しい姉が私達の元へと姿を現さないのは、率直に言って不自然極まりない。

 ならばつまりは〝そういうこと〟なのである。

 まぁ……私とは真逆の文系人間で、特にホラー小説や眉唾物の都市伝説などに心酔していた姉ならば、決してこんな部屋は借りなかっただろうが、それはまた別の話として。


「ただいま」


 大学から戻り、静寂に包まれた自宅へと独り言の如く挨拶した私はまず、入念に手洗いとうがいを行った。そしていつものように荷物を収納スペースにしまい込むと、分厚い表紙が特徴的な仰々しい書物が並ぶ本棚がいくつも鎮座する部屋のドアを開く。

 一架や二架では納まらぬ数の本棚に居座っているのは、全て姉の遺品だ。姉が幾度となく触れたものを手元に残しておきたくて、そして真逆であった姉の趣味を通じて彼女に想いを馳せたくて、本を読む習慣がほぼ皆無である両親を説得して受け継いだのである。

 とはいえ、完全に娯楽へと振り切った本に触れる習慣は私にも無かったため、受け継いだ当初は〝さてどうしたものか〟と頭を悩ませたものだったが……幸いにしてそうした書物を読むことにも慣れた今は、それなりに利用させてもらっている。

 例えば、論文のテーマとして使わせてもらったり。

 他人と話を合わせる際に、比較的メジャーな作品の名前を出してみたり。

 そして、


「もう……いい加減起きてよ 〝お姉ちゃん〟」



 人の言う〝倫理〟とやらに、真っ向から反してみたり。



「遊びのつもりで色んなアレに喧嘩売ってるんじゃないんだからねー?」


 本棚部屋の隅にある小型冷蔵庫を開き、その内部にしまい込んでいる大きな蜂蜜瓶――清流仁淀川を思わせる極めて透明度が高い液体で満たされている――の中で、己が身を抱いて眠る体長十数センチの乙女へと、私はいつものように話しかける。

 しかし返事はない。未だに彼女は夢を見続けているようだ。


 乙女の正体は、姉だ。

 正確には〝現状で最も姉になる可能性が高い乙女〟か。


 他人から〝気を違えている〟と言われそうだが、自覚しているのでそこのところは別にどうでもいい。この個体が見事に成長して完成さえしてくれればいいのだから。


「一応、今までで一番ベストな成長速度ではあるんだけどなぁ」


 全ての始まりは、私が姉の遺品……例の数えきれぬ本に手を伸ばしたことだ。

 大学に入学した頃、ようやく姉の残り香と正面から向き合う余裕が生まれたため、私は彼女が愛した本を一冊ずつ開くようになった。

 最初はトンチキな内容に対する戸惑いや、文学というものに不慣れだったことなどがあり、非常に進みが遅かったが……次第に〝読めば読むほど角に記されているページ数が増えていく〟ことに達成感を覚えだしたことがきっかけとなり、遂には目と指を動かすペースは〝学術書や実用書を読んでいるときのそれ〟に肉薄するほどまでになっていた。

 そしてその内に、私は……いくつか存在したオカルト純度百パーセントの分厚い書物に記された〝人間の製造方法〟に辿り着いたのである。

 最初は、鼻で笑った。内心で「馬鹿な」と何度も独りごちた。

 だが、笑うだけ笑って焚書をするなどという気にはならなかった。既に私は姉の残り香をまとい、なかなかどうしてフィクションも悪くないと考える人間へと生まれ変わっていたからだ。

 そのような思想に至った私は、姉を〝再生産〟すると決意した。

 ホムンクルス、ゴーレム、キメラ、ドッペルゲンガー、スワンプマン。その他諸々。名前や方法はなんでもいい。姉を作られるのならば、どのカテゴリに当てはまろうが知ったことか。


「そろそろ目を開いてよ、お姉ちゃん」


 五年前に姉を外出させる理由を生み出したのは、他でもないこの私だ。

 ならば理不尽極まりない死を送りつけられた姉を再生産し、己が肉声で謝罪をすることこそが私の義務である。

 だから私は躊躇いなく、科学の親であった錬金術などを、科学の子へと生まれ変わらせると決めた。かつて眉唾だと笑っていたオカルトを、神秘なるものを……科学の力で生み出せる産物へと零落させてみせると誓ったのだ。

 私なら出来る。幼少期から数字を愛し続ける私にならば、必ず出来る。


「お願いだから……早く私に、謝らせて」


 これで283人目。

 ここまで安定させるために、私は他人の耳に入れるべきではないことも繰り返してきた。それに、もしもこの個体の成長が停止してしまえば、失敗作であるこれまでの282人と同様に〝燃えるゴミ〟として処分せねばならない。先程ぼそりと口にした通り、今回の姉は歴代で最もベストな成長速度を誇っている安定した姉なので、ここまできて廃棄処分となってしまえばしばらくは立ち直れないだろう。

 だから、早く瞼を開けてほしいのだが。


「……大丈夫。焦らない、焦らない」


 己に強く言い聞かせ、そっと私は冷蔵庫を閉めた。

 そして変わらず今日もまた、幾多の本へと手を伸ばす。

 神だの倫理だのに中指を立て、姉に〝ごめん〟と言うために。

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