旅の途中【短編集】

キツノ

旅の途中

「ただいま」

そう言って玄関のドアを開けてもおかえりの声は聞こえない。

僕はスーツを脱いで廊下に放り投げる。彩は二階にいるのだろうか。

冷蔵庫を開けるとタッパーに入れたサラダと、昨日作った冷たいカレー。

サラダはしなしなだし、カレーは焦げた匂いがする。

僕は大きなテーブルに一人で座り、頭を抱える。

妻は不倫した。そして僕を置いていなくなった。

甘い新婚生活が終わって、娘が生まれて、妻との関係は疎遠になった。

僕が帰ってくると妻はテレビを消して就寝前の歯磨きをする。

楽し気に笑ってても僕を目の前にすると笑顔を消した。

シンクを流れる流水は虚しさを増大させていく。


コンフレークは甘いなんて当たり前の言葉が頭に浮かんで消えた。

彩はまだ寝ている。休日の朝に見るテレビは騒がしくて、でも僕はボリュームを上げていた。

「行楽地には多くの観光客が詰めかけ……」

家族連れ、老夫婦、はしゃぐ若者。

「おはよ」

目をこすって彩は階段を降りてきた。

「おはよ」

僕が何も返事をしないので彩はまた僕に朝の挨拶をした。

「ああ、うん」

彩は戸棚から食器を取り出して僕と同じようにコンフレークを盛って、牛乳でふやかして食べる。

僕はテレビを切る。

もう小学六年になる娘の彩は、妻がいなくなってからもいつも通りだった。

口数は少なく、人の目を見ない。

「今日暇?」

「へ?」

肘をつき、眠たげに瞼を上げた彩は言う。

「あそこ行ってみたい」

テレビに映し出されたチューリップの花々。風車が静かに周り、年配の男性が写真を撮っている。

「ねえ、行きたい」

彩は僕の目を見ずにそう言う。

「わかったよ」

駄目だと分かっているのに僕の声は少しとげとげしくて、苦い声になる。

チューリップか。彩がどこかに行きたいなんて言うなんて。


車は去年買ったファミリーカーで燃費はすこぶる良い。小さい頃の父の車と同じ匂いがする車。渋滞の中、後部座席で吐いた記憶が僕の鼻をなでた。

助手席に座る彩の姿が慣れない。エンジンのかかる音と共に青く光るボタン達。

「シートベルト閉めて」

「うん」

目的の公園は遠い。お昼ご飯はどうしようかなんて考えた。

車が車庫を出て朝日にあたる。ハンドルを左に切り、車道に入る。

車は道に沿って走り出す。


彩は外の景色をずっと見ている。放置された中古車、潰れたコンビニ。腰を曲げたおばあさん。僕は運転しているから信号待ちでしか世界を見渡せない。

後部座席にいたあの頃は色んな世界を見ることができた。新緑の山並み、水が引かれた水田、自転車を漕ぐ中学生たち。

「父さん。曲かけていい?」

昔僕が買ったウォークマンも握りしめて彩は言う。

「ああ、いいよ」

僕は少し驚きながらも答えた。いつも彩はイヤホンで音楽を聴いていたし、車で流すなんてしたこともなかった。

僕は信号待ちに差し掛かるとラジオを止めて僕はナビの操作をする。

えっとどうするんだっけな。

僕は昔から機械が苦手で、だから社会に出てからは本当に苦労した。他人にとっての簡単は僕にとっては難問で。

前の車が動き出す。僕も少し慌ててアクセルを踏む。

「わたしやるよ」

彩が身を乗り出してウォークマンをBluetoothに繋ぐ。

ややあってから音楽が流れだした。

「ああ、懐かしいな」

僕は思わずうめく。十代のあの頃、霧の中を歩いているようなときに聴いていた曲。

「買ったのか?」

「押し入れ探ってたら出てきた」

僕はウインカーを出して車を左折する。

「捨てたと思ってた。これアルバム曲だよな」

「うん。なんだか物悲しくて、切なくて……うまく言葉にできないけど」

なめらかなメロディー。ボーカルの高音。

「わたしの両親にも、今のわたしみたいな時期があったのかななんて考えたりして」

「そりゃ……僕にも学生時代はあったさ。もう何年も前のことだけれど」

彩はシートベルトを枕にしてドアに頭を預ける。

車は麦畑を通り過ぎ、小高い山の麓を通り過ぎていく。


公園に着いた時、彩は少し寝ぼけた顔をしていた。僕は携帯と財布、車のカギだけ持って車を降りる。

彩が少しして車から降りてくる。手にはウォークマンが握りしめられ、耳にはカナル型イヤホンが付けられている。

「外に出るときぐらい、やめなさい」

僕は久しぶりに父親みたいなことを言う。

彩はイヤホンを外して、すたすたと歩きだす。公園の入場窓口まで行って、立ち止まる。

デスクワークでなまりきった僕の体に春の直射日光が照りつける。水筒を持ってくればよかったと少し後悔する。

入場料は少し高かった。よく観光地に連れ出してくれた親はいつもどれくらいの出費をしていたのだろう。

「先行ってていい?」

彩が言う。車から降りてからどことなく不機嫌な感じがする。僕が頷くと一面のチューリップ畑に向かって走り出す。

僕はベンチに座り携帯で時間を確認する。昼は何を食べよう。チューリップ園だけじゃなんだからどこか別の場所に行こうか。

彩はゆったりと回る風車の前で立ち止まり、それをじっと眺めている。

不機嫌は治っただろうか。

ふと、売店の前でアイスクリームを買ってもらう子供の姿が目に付いた。

僕は立ち上がり、チューリップ畑を歩いていく。

カップルとすれ違う。アゲハチョウがゆらゆらと空を舞っている。

彩は後ろ手を組み、風車の周りを行ったり来たりしている。

なんだか昔の妻が思い出された。新婚旅行が行けなかったから僕らは近くの芝生公園を歩き回る日をつくった。妻は後ろ手を組むと舗装された道を歩いて、そしてくるりと反転してもと来た道を戻った。

「アイスクリーム売ってるんだけど食うか」

彩は立ち止まって僕の持つアイスを見る。

「父さんは」

「俺はいい」

「……うん。ありがとう」

電話が鳴った。

「はいもしもし……」

今でも心臓が締め付けられるくらいこの着信音は嫌いだ。張りつめた音。僕を現実に教えさせた音。

彩が僕の目を見ている。伏し目がちで、眉間に皺がより、口が固く結ばれて。

あの時の目だ。

僕に離婚届を突きつけたあの時の。

しばらく僕は相手方の声が聞こえていなかった。

彩はすたすたとまたどこかへ行ってしまった。


僕は電話を終え、ため息をつく。

僕はなんでこんなとこに来てしまったのだろう。

子供の頃はミュージシャンになりたかった。ギターも買って作曲したりして。

……そして今もそう思ってる。夢が僕の脳にこびりついて離れない。縛り付ける家庭。辛い仕事。

彩を見つける。木で組まれた展望台に立ち、手すりに腕を組み頭を乗せている。

僕は展望台を上ったが、何を言えば良いのかわからなかった。

僕は彩の隣に立ち、そこから見える景色を眺める。

風車がゆっくりと風を切っている。チューリップは地面に鮮やかな模様を描いている。

「わたしね」

「うん?」

「両親が憎い」

僕は手すりにもたれ、顔を掌で拭う。

「わたしは別れてほしくなかったのに。……勝手に決めて、上手くいかないって言って。わたしは何なの?子供だから何も言えないの?」

「そんなこと……」

「わたし押し入れで昔のアルバム見たよ。パパもママも笑ってた。ママは赤ちゃんのわたしとお風呂に入ってて、パパはよちよち歩きのわたしを連れて歩いていて」

「……そんなことわかってる」

「じゃあなんで」

彩は顔を上げなかったけど泣いているのは分かった。

「苦しいのが自分だけだって思わないでよ……」

顔を伏せて震える声で彩は言った。

僕は次の言葉を見つけられない。

なんでだろう。

なぜなんだ。

新婚旅行に行けなかったあの時。

妻に別れを告げられた時。

今この瞬間でさえも。

僕は、僕はいつも自分の事ばかり。

自分を今をいつも悲観して、慰めて、苛立って。

幸せになりたいなんて思って。

いつだって自分本位の考えしか出来ていなかった。

僕は手すりに腕を組んで頭を乗せる。

何年ぶりくらいの涙がこぼれ落ちていく。

僕は泣いた。

彩と同じように顔を伏せて泣いた。

もう大人にならなきゃな。

チューリップと青い空。

悲しみと涙は似合わないような場所だったけれど。


僕は車のエンジンを掛ける。

彩が助手席に乗り込む。目はまだ潤んでいて、鼻から少し鼻水が垂れている。

少しして音楽が流れ始める。

行き道で聴いたあの曲。

「『ロードムービー』だろ」

「うん?」

「行き道聴いていたやつ。今思い出した」

彩は僕の目を見る。

「うん」

「……違ったか?」

「あってるよ。そのあとえーとあのながいやつ」

「なんだっけ、『口笛』?」

「それじゃ短いよ」

くすくすと笑い始めた彩をみて僕は何だか、こっぱずかしい気持ちになる。

車は駐車場を出て、長い国道に入る。

まだ少し青い麦畑を通り過ぎる。柔らかな新緑の山々が見える。

俺達は旅の途中にいるんだ。

道を間違えたって、森をぬけて、国道を見つければいい。

彩は肘をつき外の景色を見つめる。

ガードレールが線になって流れていく。

懐かしい音楽はありきたりだけど全然色あせていない。

僕が後部座席で見ていた景色が、娘にも見えているのだろうか。

そんなことを考えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る