4.ARK825.04/仕事は厄介~帝都政府とは~屋根裏の散歩者

 違和感。

 彼はその時、ひどくその場に違和感の様なものを感じた。


「だから、別に禁退出の資料を持ち出そうって訳じゃないんですよ、ただ、この時点の資料をここでいいですから、見たいってだけで」


 テルミンはいつもの様に「空き時間」に首府中央図書館の扉をくぐったつもりだった。だがそこには見慣れない光景があった。


「だからそれは、時期によってはお見せできないものもあるということで」

「じゃあそれは何処に書いてあるというんですかっ」


 掴みかかりそうな勢いで、司書に向かって、若い女性が一人、怒鳴り込んでいた。

 へえ、とテルミンは何となく足を止めてしまった。

 この辺りで若い女性の姿を見るのは珍しい。もちろん軍隊にも女性がいない訳ではないのだが、絶対数として、この惑星の場合は少ない。そしてそういう場所の女性は、……少なくとも、この視界に入っているのよりは、落ち着いているだろう、と。


「あたしはね、市民としての当然の要求をしている訳で!」

「とにかく! 申し訳ございませんが、お引き取り願います」


 司書はきっぱりとした口調で、まくし立てている彼女の言葉を遮った。こりゃ司書の勝ちだよな、とテルミンは取った帽子でぱたぱたと思わず顔を扇ぐ。

 くってかかっていた女性は、わかりました、と一言言い残すと、うつむいたまま、ずんずん、と司書に背を向けて歩き出した。だがテルミンはん? と帽子を動かす手を止めた。ちょっと待て。


「……少佐!」


 気がついた司書がカウンターから手を伸ばすが、伸ばしたところで届く訳がない。

 うつむいたままで勢いよく歩き出した女性は、次の瞬間、尻餅をついたテルミンの上に居た。


「す、すみません!」


 彼女は弾かれた様に身体を起こすと、慌ててテルミンの上から退いた。何が起きたのだか、彼はいまいち事態を把握できなかった。だが、不思議と、次の行動だけは起こしていた。


「はい」


 彼はポケットからハンカチを出し、彼女に手渡していた。


「な…… んですか」

「どうぞ」


 そう言いながらテルミンは彼女の顔を外からでは判らない程度にそっと指した。言われて初めて気がついたように、彼女は右手を自分の頬に当てた。あ、と彼女は小さく声を立てた。


「あ…… りがとうございます」

「いえいえ。ぼうっとしていた俺も悪いです」


 彼女はしゅんとしてハンカチを受け取ると、それを自分の眼に当てた。その間にテルミンは立ち上がり、ぽんぽん、と服のほこりを払う。


「……本当にごめんなさい。興奮した上に悔しくなると、何かすごく一気に頭と眼にきちゃって……」

「うん、そういうことはよくあるね」


 ちら、と彼は司書の方を向く。顔見知りだったが、自分のせいではないぞ、と言いたげに顔をしかめている。テルミンは肩をすくめ苦笑すると、彼女の肩をぽんと叩いた。


「まあ落ち着いて。何かまだ声が震えているから、休んだほうがいい」


 彼女はそれまでの剣幕も何処へやら、小さくうなづいた。

 彼は彼女をいつも利用しているオートショップへ連れていくと、先に座らせ、紙コップの飲み物を差し出した。下の書庫には資料に液体がこぼれるのを恐れて、いつもストローつきのパックを買っていくので、これはそう口にするものではなかった。


「すみません。あの、コイン……」

「いいよいいよ。もしかしたら俺、下心あるのかもしれないし」


 くす、と彼女は笑った。長めの明るい茶色の髪の毛をポニーテイルの様に上げて、バンダナで結んでいる。ただその長さがあちこちまばらであるのか、後れ毛があちこちからはみ出していた。身に付けているのは、すっきりとした飾り気の無いコットンのチェックのシャツに、これまたシンプルな七分のパンツ。大きな目は結構よく動く。

 正直言えば、自分の好みだ、と彼は思っていた。

 だがだからと言って、すぐに口説く様な真似は彼はしなかった。自分がそういうことに慣れていないことを彼はよく知っていたから、無理はしないことにしていた。


「あ、そんなことしないでしょ、って言いたそう」

「だって、しないでしょう?」


 彼は黙って口元を軽く上げた。どうやら涙も乾いてきた様だった。


「しないよ。だけど、代わりに一つ聞いてもいい?」

「何ですか?」

「あなた一体、何の資料を探していたの?」


 彼女はとん、と前のテーブルにフルーツミックスのジュースを置いた。


「聞いて、どうするんですか?」


 おやおや、と彼は思う。途端にガードが固くなるらしい。


「ん? いや、あの……」

「だいたいおかしいんですよ! 最近前よりずっと、資料が出せなくなっているんですから」

「え、そうなの?」

「そうですよ!」


 彼女は紙コップをおいて空いた手をぐっと握りしめる。


「こっちは仕事上、色んな資料が必要なんですよ? なのに公共の図書館が資料の出し渋りするから、仕事進まなくて進まなくて! ただでさえ女ってことで結構軽く見られてるんだから、与えられた仕事はちゃんとしたいのに、これじゃあ」


 じわ、とまた大きな目に涙が浮かぶ。ぎょっとしてテルミンは慌ててまたぽん、と肩を叩いた。別にそうすることでこのこぼれそうな目からさらにこぼれる涙を止められるという訳ではないが、何となくそうしたくなってしまう自分に彼は気付いていた。


「あ…… もう。何かもう、しょうもないですよね」

「いやいや、どんな場所でも仕事というのは厄介なもんです」

「実感こもってる」


 まだ涙は浮かんだままだったが、彼女の顔には笑みが浮かんだ。


「別に、変なことしようって訳じゃないんですよ、あたし。実際、去年…… ううん、一昨年くらいまでは、結構よくここを利用しいたし、だいたいどんな資料でも簡単に引き出せたんです。ほら、やっぱり税金払っている以上、使えるところは使えっていうのが、市民としての権利の主張ではないですか」

「……ま、そうだね」


 矢継ぎ早に繰り出されるこの調子。彼は面くらいながらも、何となく楽しくなってくる自分に気付いていた。


「それに、今度の仕事で、本当に必要なんですよ? なのに…… これじゃすごく困る」

「仕事って…… あなた何やってるの?」

「中央放送局に勤めてます」

「アナ嬢?」

「って言われるのは心外ですねっ」


 可愛いし、誉めてるんだけどなあ、と彼は内心つぶやく。


「あたしはドキュメンタリーを撮りたいんです」


 どん、と彼女は握りしめた拳をテーブルの上に置いた。


「ど、ドキュメンタリー?」

「でもいいし、ニュース記者。とにかく、現在の、この世界の上で起きていることを、できるだけ正確に、できるだけ強く、たくさんの人達に届けたいんです」

「へえ……」


 彼は思わず感心して声を立てていた。元々女性は彼の周囲には少なかったが、こういうタイプは更に初めてだった。


「なのにっ! 皆あたしが放送局に勤めてるって聞くと、アナウンサー志望か、とか、隣の音楽番組のスタジオに実は出入りしたいんじゃないの、とかもう実にうるさくてうるさくて!」

「そっちでは嫌なの?」

「そっちが嫌、なんじゃなくて、こっちがいい、んです!」


 はあ、と彼は思わず首を縦に振っていた。


「だから、少しでも今は認められたいんですよ。ちゃんと仕事もできる、女の子、じゃなくてスタッフの一員として」


 そう言えば顔は可愛いのに、化粧気がまるでないことに、彼はその時初めて気付いた。


「そういうのって、いいね」

「えーと…… 少佐さんは、そういうの、じゃないんですか?」

「俺が少佐ってよく判ったね?」

「だってその階級章見ればすぐに判りますよ。ほら綺麗な星」


 ああ、と彼は肩を押さえる。確かにそうだ。


「俺は、軍人になりたくてなった訳じゃあないからね」

「そういうもんですかあ?」


 彼女は間髪入れず、訊ねた。彼はそういうものなの、と言ったきり、それには答えなかった。

 誰もそんな質問は今までしなかったし、自分自身にも、封印をしておいた様な疑問だった。


「でもその若さで少佐ってことは、やっぱり合っていたんですね。そういうのもいいなあ」

「そうかな?」

「そうですよ。確かにやりたいことだけど、時々自分には合ってないんじゃないか、って思うことありますもん。好きと適性って時々ずれるでしょ」

「それは確かにあるね」


 うん、と彼は腕を組んでうなづいていた。確かにそうなのだ。

 と、その時胸に入れた端末が震えた。


「……ごめん、呼び出しがかかった」

「あ、すみません、あの、こんな他愛ない話に付き合ってもらっちゃって…… 」

「ううん、俺も、珍しいから楽しかった。また会えたらいいな。あ、そういう意味じゃなくて」

「判ってますよ」


 本当に判ってるんだろうか、と彼は思いつつ、自分の連絡先と名前を告げた。


「もしかしたら、君の力になれるかもしれないし」

「そんな。でもちょっと考えてみますね。今は溺れる者わらでも掴むって感じだし。あ、あたしはゾフィー・レベカ」

「格好いい名だね」

「あら、そう言われるのは初めて」


 そして彼女の連絡先を聞いて、彼は図書館を出た。


 やや駆け足気味で、そのまま最寄りの小さな扉をくぐり、芝生の上を斜めに突っ切ると、彼の勤務先の首相官邸の裏口へ出る。そこに着く頃には、駆け足もゆるみ、呼吸を整えつつある。結構このタイミングというのが必要だった。呼ばれたからと言って、すぐに扉を開けると、結構とんでもない光景に出くわすこともあるのだ。

 一度、やや早めに戻ってしまい、扉を開けたら、ちょうど彼の警護すべき相手は、シャツに腕を通すところだった。まあそれだけだったら構わない。ただ、そのシャツを通す腕も肩も、所々に赤い染みが散っていたのである。

 無論彼は、自分の警護するヘラという青年が、首相の愛人であるということはよく知っていた。本人は「囲い者」と言っていたが、テルミンから見れば、首相の家族にも等しい相手である。

 だがそれでも、その「愛人」という言葉の持つ生々しさは、なるべく気にしないようにしていた。なのに、たった一瞬の姿が、彼の中にひどく波風を立てるのだ。

 だが彼にはその理由が判らない。

 考えてもどうしても判らないことは、保留にしておこう。それが彼の姿勢だった。考えて立ち止まっていては、この軍隊という組織の中ではやって行きにくいこともあるのだ。

 そんなことを頭の隅に置きながら、官邸の廊下を歩いていた時である。見覚えのある姿が、前からやってきた。そしてやあ、と片手を軽く上げる。


「こんにちは」


と彼は軽く頭を下げて、その場を通り過ぎようとする。

 相手もまた、にっこりと、やや目を細めて笑うと、彼の横を通り過ぎて行った。

 帝都からの派遣員だった。名をスノウという。少なくとも彼はそう聞いた。



 テルミンがスノウという名のその派遣員に会ったのは、あの図書館の地下書庫の「休憩所」だった。もう最初に出会ってから、半年を軽く越えている。

 もうそんなになるのか、と彼は時々考える。「そんなになるの」に、顔を会わせなかった日が殆ど無い。

 「派遣員」というのはそんなに暇なのだろうか。

 彼は他愛ないことを考えて、首を横に振る。

 そんな筈は無い。何せ、「帝都からの」派遣員なのだ。


 帝都。


 この現在の人類の居住星域を支配している「帝国」の唯一無二の首府。長い戦争に勝って政権を取った、不老不死の「皇族」とその「血族」が住んでいる都市。

 ただ、その帝都政府が直接にそれぞれの星系を治めるということは少ない。数少ない「皇族」が治めるには、この居住星系は広い。広すぎる。

 広すぎるから、直轄地以外のそれぞれの星系は、距離や歴史を考慮された上で、一応の独立した政府を持つ。

 レーゲンボーゲンも、その例に漏れない。

 形として、民間人が政治を取り、軍部がそれを守るという文民統治を守る、独立した政府が長い間この二つの惑星を統治してきた。


「でもね、そんな風に、こんな辺境の星系が一つの政体で居るということはひどく珍しいし、難しいことなんだよ」


 とある日派遣員は彼に言った。


「仮想敵として帝都があることが、一つの政体であるための歯止めになっているのさ」


 それを聞いたテルミンは眉を寄せた。何ってことを語るのだろう、と彼は思った。



 だがテルミンは社会の仕組みを考えること自体は好きだった。

 士官学校の生徒だった頃も、暇を見つけてはそんな内容の本を読んでいた。士官学校では、そんなことはまず詳しく教えない。だったら興味のあることは自分で調べるしかなかったのだ。

 まあ趣味の一つである。趣味の一つにすぎない。

 例えば文民統治の原則の中、政府にも軍にも顔が利く機関がある。

 科学技術庁である。

 その理由は、この星系に人類が居住を定めた経緯から始まる。

 この星系において居住可能な惑星はアルクとライ。

 その時地質学者や生物学者は疑問に思った。何故この環境で大型の生物が存在しないのか。居住に適した大陸の気候は温帯のそれに近いというのに、何故荒れ地が多いのか。

 その理由はライにあった。

 この二つの惑星は、大きさも地質成分もさほど変わるものではない。ただ公転速度と自転速度、地軸の傾きが違う。

 ライはアルクよりほんの少し外側を回り、ほんの少し公転スピードが速い。二つは、並んで動く訳ではない。

 よって接近する時にはそれぞれに多かれ少ながれ影響がある。

 赤道付近にしか居住可能区域が無いとされているライはともかく、アルクにおける影響は問題だった。

 植民初期時代、ライは再接近から五年程経っていた。その時点で、次の再接近が三十年以内ということが計算されていた。

 再接近のもたらすのは地震なり火山の爆発なり、台風の類であり――― いずれにせよ、森や林が育つことができない災害である。

 よって、それがいつ何処にどんな影響をもたらすのか、その情報は政治や軍事を越えて最優先となる。

 学者達の私設専門機関は、やがて公式科学技術庁となり――― 他の事情もあり、のちには帝都政府との直接交渉もするようになる。

 そして、テルミンに最近ちょっかいをかけてくる派遣員は、直接交渉を政府や軍部、そして科学技術庁とするお偉方だった。

 通常なら、テルミンごときが近寄ることができる存在ではない。だが逆は可能だ。何の意図があるのかは判らないが。

 テルミンはただの気紛れであることを願う。

 何せ、趣味に過ぎない資料を読みふけっていた時に、その派遣員は声をかけてきた。その資料を読んでいた自分「個人」に、どうやら興味を持ってきたらしい。

 困ったことだ、とテルミンはそっと溜息をついた。


「それは大変なことだな……」


 彼の上司であるアンハルト大佐は、図書館で出会った、という話を聞くと、ひどく驚き、思わず手にしていたカップの持ち手を砕いてしまった。

 だがおっと、と言いながらカップ自体を掴んで落とさなかったのは立派だろう。


「どうしたものでしょう」


 テルミンは訊ねた。

 訊ねたこと自体に、実は多少彼の中にも思惑があった。

 一つは、聞いたことで、判断の責任を上司に任せた、ということ。

 プライヴェイトな知り合い、で済む相手ではないと彼も理解している。だから後で見つかってあれこれ言われる前に、上司に相談する、という形を取った方がいい、と彼は考えたのだ。

 そしてもう一つは、本当に自分自身でいまいち良い解答が出せなかったからである。正直、誰かの意見を聞きたかったのだ。

 そしてアンハルト大佐はひどく簡単にこう言った。


「悪くはないんじゃないか?」

「そうですか?」

「悪い人に見えたかい?」


 テルミンは首を傾げた。悪い人にはまあ見えなかった。だからその通り答えた。


「ではいいじゃないか。帝都のことなど、色々君も学ぶべきところもあるだろうから、向こうが話しかけてくるようだったら、話してみればいい」


 そういうものだろうか、とテルミンは思ったが、それもまた一理あったので、そうすることにした。ひとまずそこで判断の重みは半分に減る訳である。

 だが、判断を半分放棄したつけはいつか回ってくる様な気もしていた。

 何かが彼の中で、引っかかっていた。それが何なのか、彼もよくは判らない。そしてそれは、今でも彼の中で引っかかっているのだ。

 派遣員スノウは、図書館以外ではまるで他人の様にふるまう。いいところ、「近所に住む顔見知り」くらいだった。

 実際そうだった。この派遣員もまた、このひどく増殖し、迷宮の様な官邸に一室をもらって住んでいるのである。近所と言えば近所だ。

 そしてその「ご近所づきあい」はまだも続いていた。すぐに飽きるだろう、と思ったのは彼の誤算だったのだ。

 もっとも、彼自身、その「ご近所づきあい」が決して嫌なものでなかったのも事実である。

 嫌なら、とっくにやめている。彼は自分にそういうところがあることもまた、よく知っていたのだ。



 部屋の扉をノックして入ると、警備相手のヘラは籐の大きな椅子に腰掛けて足と手を組んで、窓際でぼうっと外を見ていた。

 だいたいそうだった。自分が来る頃には、そんな風に気の抜けた表情で、外を見ていることが多かった。

 そしてようやく、テルミンが入ってきたことに気付くと、その大きな目を半分くらい伏せたまま、ゆっくりとヘラは彼の方を向く。そしてやっと、テルミンは言うべき言葉を口にする。


「遅くなってすみません」

「ホント、遅かったな。まあいいや」


 それでまた、しばらくぼうっとヘラは外を見る。

 あの派遣員と同じように、この警備する相手とも出会ってもうある程度の時間が経っていた。

 だが派遣員と違い、ヘラとのつき合いは決して深まることはなかった。あくまで仕事上の警備する相手、だった。それだけの時間が経っているのに、彼はヘラの考えていることもさっぱり判らなかった。

 派遣員の考えてることが判らないのは、向こうが隠しているからだろう、ということで何となく納得が行く。またそれは当然だろう、と彼は思う。

 だがヘラの場合、それとは何か違うものに思えて仕方が無い。

 そもそも、一日中ぼうっと外を見ていても平気そうな人間と、そうそう気持ちが通じ合うとは彼も思ってはいなかったが。


「テルミン」

「はい?」


 まだ少し乱れたままの部屋の中身をあちこち直しながら、テルミンは顔だけ警備相手の方を向いた。


「……今日はもういい、帰れよ」

「え? でもまだ勤務時間内……」

「いいから」


 かすれた声。彼は不思議に思いながら、それでも言われるままに、部屋を下がることにする。

 扉を開ける時、ちら、と振り向くと、ヘラはまた窓の方を眺めていた。何となく表情を見てみたい、とテルミンは思ったが、無論それはかなうことではなかった。

 扉を開けると、廊下の向こう側に、先程通り過ぎた知り合いが、腕組みをしながら壁に持たれていた。彼はまた、軽く頭を下げ、通り過ぎようとした。

 だがそれはできなかった。


「何か用ですか?」


 テルミンは振り向き、自分の肩を掴むスノウに向かって訊ねた。何て力だ、と彼は思う。ほんの軽く掴んでいる様に思えるのに、身動き一つとれない。


「ずいぶん早いじゃないかい?」


 テルミンは目線を少し上げて相手を見る。


「ええまあ。今日はもう帰っていい、と言われましたから」

「ふうん」


 スノウは口元を軽く上げる。そして小さくつぶやく。


「やっぱりね」


 え、とテルミンは思わず目を大きく開く。


「それって、どういう意味ですか?」

「いや、失言。ちょっと口がすべっただけだけど?」

「そんなことはないでしょう」


 彼は思わず反論していた。何故そんな言葉が自分の中から出たのかは判らない。すると再びスノウはひどく楽しそうに口元を上げる。


「気になるのかい? テルミン君」

「それはそうでしょう。警備する相手のことですから」

「それは、そうだね」

「それより、離して下さい。別に自分の仕事は、これで終わりという訳ではないのですから」

「それもそうだね。ところで聞きたくないかい? テルミン君」

「え」

「何で今日、彼が大人しいのか」

「失言じゃなかったんですか」

「失言だね。君がそのまま行ってしまうんなら」


 テルミンは思わず顔をしかめる。


「自分は、からかわれるのは好きじゃないんです」

「別に、からかってはいないよ。ただ私は、君が知りたいだろうことを教えてあげよう、と思ってるんだけど?」

「だったらさっさとそうして下さい。この手を離して」


 テルミンは空いた手で、彼の手を掴む。何を自分はこんなに必死になっているのだろう、と思う。

 だが、その手は離される気配は無い。


「……離して下さい」

「今日が何日か、君は知っている?」


 何をいきなり。


「4月…… 23日ですが……」

「そうだね。今日は4月23日だ。だから、君のご主人はご機嫌が斜めなんだよ」

「答えになってません!」


 テルミンは思い切り肩をゆすり、手を払った。そして思わず駆けだしていた。

 迷路の様なこの官邸でそうするのは、危険だ。何処をどう曲がり間違えるか判らない。

 だがその時彼は、そうせずにはいられなかった。

 廊下の突き当たりまで走ったところで、彼は一度立ち止まり、今まで掴まれていた肩に触れる。何って力だったんだ。

 まだ、掴まれた感覚が残っていた。痛いくらいの。



『今日が何の日かって?』


 端末の向こう側で、一つ年上の友人はそう繰り返した。


『……何っかあったかなあ……』


 気が抜けそうな軽い声に、彼は思わず苦笑する。何となく、話をしたくなった。

 この友人は、自分の職場の問題とはあまり関係が無いから。だが食事に誘うと、今日は忙しいから、と断られた。どんな忙しさかは説明しないが、技術研究所は度々そんなことがあるので、テルミンも無理強いはしなかった。

 だが、どうしてもこのことだけは聞いてもらいたかったのだ。


『何、なんか気になるの?』

「ああ。だから別に、何の日、でなくても、去年や一昨年のその時に、俺達が何をしていたかでもいいけど」

『ああ、そうすれば何か思い出せるかもしれんしなあ』


 そして数秒の間の後に、ああ! とケンネルは声を上げた。


『お前確か、一昨年のその日、広場の整理をしないといけないってんで落ち込んでたじゃん』


 広場の整理!

 彼の頭の中で、弾けるものがあった。


「そう言えば、そうだった」

『だろ? お前あのクーデター未遂犯の処刑現場の整理をしないといけないって、俺が行かない立場でいいなあってぼやいてたじゃないの』


 そう言えば、そういうこともあった様な気がする。ありがとう、今度食事おごるから、と言って彼は通信を切った。

 4月23日には、クーデター未遂犯の公開処刑があった。それは確かに事実だ。自分も言われてみれば思い出せる物事がたくさんある。

 だからと言って、それが直接彼の警護相手の不機嫌とつながるとは、彼には思いにくかった。

 だが、スノウがそこで嘘をつくとは思いにくかった。嘘をつくなら、こんな手の込んだ方法を取らないだろう。あの派遣員は、自分に考えさせたいのだ、と彼は思う。

 実際、スノウという人物は、他愛の無い会話の中で、彼を試すようなことがよくある。今回も、そんな他愛の無いことの一つなのだろうか。彼は目を伏せる。そしてそうであって欲しい、と願った。



 翌日書庫へ行くと、迷わず彼は一昨年の記録のある辺りへと足を伸ばした。

 4月23日の処刑は、その一週間前のクーデターに対するものだった。彼はその日の記録に手を伸ばす。

 だが一日の記録と言ったところで、実際にはかなりな量になる。とりあえず彼は、首相官邸の常駐日誌や、軍の記録からクーデターに関する記述を探した。

 823年4月16日、早朝4時にそれは起こったのだという。首府警備隊第35連隊に属する若手の士官数名が、宿舎で武装して集合していた所を発見され、逮捕された。

 その数名が、逮捕された軍警本部において、活動の一部始終と、参加メンバーの氏名を全て自白したことから、この一斉検挙は行われた。

 だが彼は、読み進めるうちに、自分の眉が知らず知らずのうちに強く寄せられてくるのを感じていた。……変だ。

 確かに経緯の記述はある。あるのだが、どうもそのつながりがおかしい。彼は何度も何度も記録のページを繰り直す。

 この日誌は、ファイリング式になっていて、担当になった者が紙に書き込んで提出したものを後で記録者がまとめてファイルに綴じ込む、昔ながらの方法になっている。無論それを後でデータ化もするのだが、最初はその方法だった。

 ぺら、と連なる金属の輪に通ったその書類を見ながら、彼の頭にぴん、と突然来るものがあった。


 ……抜けている?


 なるほど、そう考えるとつじつまが合った。彼が開いているページの左側には、まだ朝の記録がされているのに、右側には、既に正午すぎの記録がなされている。その間の記述が、全くもって抜けているのだ。

 早朝に最初のメンバーが逮捕。それが前のページから引き続いた、左側のページに記述されている。だが次のページには、既に全部が逮捕され、拘留された、という記述となっている。

 そう言えば、と彼は当時自分が疑問に思ったことが不意に頭に浮かぶ。あの時は、何かひどく情報が入ってくるのが遅かった。入ってきたのは、その参加メンバーが自分とさして変わらない年代の士官であること、それに、その人数が25人であること…… 


 25人。


 その数字を思い出して、その記述が果たしてその中にあったか、と彼は再びページの上に視線を走らせる。無い。人数も無ければ、メンバーの所属も姓名も何も無い。

 これは変だ、と彼は思う。それに、彼には当時疑問に思っていたことがあった。確か、あの時処刑場で見た「柱」は23本だった。


 あと2本は何処に行ったのだろう?


 無論、その自分の聞いた数字の方が間違いという可能性はある。だが、自分が実際に数えた、その時その場所での処刑された若手士官の人数だけは間違えはしない。確かに、あの時立っていた、彼らをくくりつける柱は23本しかなかったのだ。

 彼はひどく嫌な予感がした。何か、見てはいけない様なものをのぞきかけている様な、そんな不安が、自分の中に走った。そして資料を閉じる。唇を噛みながら、階上のオートショップへ一息入れよう、と足を運んだ。


「あ」


 そしてそこには、見た顔が居た。


「こんにちは」


 こんにちは、と彼は返す。昨日の今日だ、忘れっこない。幾枚かのコピーされた用紙を読みながら、ゾフィーはパックのジュースに口をつけていた。


「どうしたの? また司書の彼に追い返された?」

「今日は、中の書庫の資料じゃないから、そういうことはないの。新聞記事」

「新聞記事?」 

「ついでに言うなら、今日は、私用なの」


 そう言って彼女はどうぞ、とカウチの自分の横を空けた。テルミンはありがとう、と言いながら、自分もパックの茶を一つ取り出す。


「私用で、新聞記事?」

「ええ。調べてることがあるの」

「本当に、私用?」

「私用よ。人捜しだもの」


 人捜しで新聞記事、というならそれはなかなか尋常ではない。少なくとも、研究対象を探すとか、そういう対岸の火事の様なものでは無いような気が彼にはした。


「知り合い?」

「ええ。兄の友人だった人。ねえテルミン少佐、3年前の水晶街の騒乱を覚えてます?」

「水晶街の騒乱? ああ、確か俺も出向いた」

「鎮圧側ですよね?」

「いや、後かたづけ。だってその頃、俺はまだ本当に配属されたばっかりだったから。散乱した水晶街のガラスを掃除する市民の手伝いをしろ、って上官にみんなしてたきつけられて」


 くす、と彼女は笑った。


「なら良かった。ううん、もちろんお仕事だっていうのは判ってるんですよ? だってあたしだってその時、そんな様子を、高みから撮影する側の一人だったんですから」

「君、カメラ持ってたの?」

「まさか! ……カメラのケーブルひきだったわ」


 肩をすくめ、彼女は口元を歪めた。


「でもまあ、当事者を遠い目で見ていたのは確かだったの。知り合いが、その中に居たのは知っていたんだけど」

「その知り合いが、そこで行方不明になったの?」

「ええ」


 彼女は小さくうなづいた。


「兄の、友人なんです。本当の名はあたしも知らなかったし、兄も彼のことは、バーミリオンとしか言わなかったから」

「何かそれはずいぶん暗号めいた名前だね」

「実際、暗号だったかもしれないんです。兄はその時水晶街を打ち壊した側の学生の一人だったから…… 何ですか?」


 彼女はテルミンの方をちら、と向く。


「いや、そんなことを軽く口にしていいのかな、と…… 俺は一応軍人だし」

「いいんですよ。あたし自身が関係無かったことは、局の皆の証言とか色々あるから確かだし、別にあたしをどれだけ洗ったとこで、何も出てきやしませんから。ま、普段から挙動不審だとか言われてるんですけど」

「そうなの?」

「そうなんです。別にあたしは普通にしているつもりなんだけどなあ」


 彼女は両手を頬に置いて、ため息をつく。


「それに兄自身、その騒乱の時に、もう亡くなってるんです。だから今あたしがどうこうしたってどうってことは無いんだろうけど……」

「そのお兄さんの友達は、気になる?」

「ええ」


 彼女はうなづいた。


「そのお兄さんの友達って、君の恋人か何かだったの?」

「まさか!」


 勢い良く彼女は頭を横に振った。


「冗談じゃないわ、あんなヤツ」

「……嫌いだったの?」

「嫌い、って言うか…… どうだろ」


 彼女は曲げた右手の指を、口元へと運ぶ。


「そりゃ、兄にも兄の事情はあったのかもしれないけど…… でも兄をそういう方向に引きずり込んだのは、バーミリオンだったのよ。好きにはなれなかったわ。それに、何か彼は、強烈な何か、がありすぎて、あたしはそういう風には初めっから思えなかったの」


 へえ、とテルミンはうなづいた。

 

 水晶街の騒乱は、彼が首府警備隊に入って一年経ち、「最初の一年」を良好に過ごしたおかげで、そのままそこで任務を続けることが決まった直後の事件だった。

 レーゲンボーゲンの首府は、毎年の様にそんな騒乱が起こる。掲げる主張は毎年変わるが、そこに一貫して流れているものは、現在の政府が、帝都に対する姿勢だった。

 「穏健」を主張しているが、結局は「日和見」ではないか、この独立してやっていける星系を帝都政府の元に置くよりは、完全独立を果たしたほうがいい、という主張が、どの不平分子・反乱を掲げる集団の中にもあった。掲げるだけの場合もあったが、掲げていることが有効な主張であったのは確かだった。

 それだけに、首府警備隊の役割は大きい。テルミンは士官学校の時からそんな話はよく聞いてきたし、赴任した最初の年にも幾度か小さな検挙には参加してきた。

 だが、水晶街の騒乱は、それらの小規模の検挙とはやや規模が違っていた。

 あれは明らかに、長い間計画され、そしてその計画が何処かからほころびたことから勃発したものだ、と当時「後かたづけ」に回され、その場の形跡を観察していた彼は感じ、そしてそれは後になって、そう間違っていなかったと知った。

 結果、騒乱を起こした側は、首府の地下を巡る地下鉄や、首府最大の繁華街である「水晶街」を舞台に、背水の陣とも言える市街戦を演じた。一昼夜に及ぶ、警備隊との攻防の末、2/3が警備隊の銃弾に倒れ、1/6が検挙され、残った1/6が地下に潜ったと聞いている。


「死んだ訳ではないらしいの。局に回ってきたフォートには、彼の死体は無かったもの」

「じゃあ検挙されたか、地下に潜ったか……」

「そういうことになると思うの」


 なるほど、とテルミンはうなづく。


「でも新聞記事じゃあ、結局は判らないのではないの? 君の居る局と同じ程度の情報しか載っていないのだろうから」

「そうかもしれないわ。でもとりあえず死亡者のリストから洗い出そうと思って」


 ふうん、と彼は思う。彼女はかなり草の根的な洗い出し作業を行おうとしているのだ。思わずテルミンは感心していた。


「何か力になれることがあれば、手伝うよ」

「あらいいの? 少佐さんが」

「無論まずいと判断した情報じゃなければね。あくまで君の私用の人捜しだろう?」

「私用よ。全くもって。誰がそんな、三年前の事件を今頃TV局で掘り起こそうなんてひとがいますか。皆自分の身が大事なんだから、そんなこと、わざわざしないわよ」


 それはそうだ、とテルミンはうなづいた。



「やあ」


 書庫に戻ると、待っていたかの様に派遣員は手を上げてみせた。


「……こんにちは」

「何か、判ったかい?」

「いいえ特に……」

「嘘をつくのは良くないよ」


 休憩所の椅子に掛け、スノウはくたっとした綿の白いシャツに細いサスペンダをつけ、腕をまくり、足を組む。

 いつもの態度だ、とテルミンは思う。

 この場所に多く居る軍人と政治家、どちらかと言われれば、政治家の方が近い格好だが、そう決めてしまう、とそのやや緩めに作られているズボンは違和感がある。その足の組み方からして、実に動き易そうだ、と彼は思う。シャツにしても、折り目正しく、という訳ではないから、腕をぐるぐると回しても大丈夫そうだ。

 やや細い眼に笑みを浮かべ、さらに細くすると、立ったまま、資料を取りに行こうとする彼を実に楽しそうにながめる。そんなこの男を見るたびに、何を考えているのだろう、とテルミンは思う。

 そしてそんな男には構わずに、奥の棚に資料を取りに行こうと彼はその場を離れようとする。だがそれはできなかった。彼は慌てて振り返る。左の腕を、やはり左の手で掴まれていた。


「何するんですか」


 テルミンは少しばかりの非難を込めて問いかける。掴まれているのは左の腕だというのに、右の二の腕が、ひどく敏感に、軍服の袖の布地の感触を感じ取っている。


「あまり時間がある訳じゃあないんです。用が無いなら、離して下さい」

「用はあるんだよ」


 すっ、とスノウは立ち上がった。テルミンは少しばかり顔を上向ける。


「何の用ですか」

「来てもらいたい所があるんだ」


 まさか、普段の解答に危険分子とでも思われたのだろうか。そんなことを考えながら、それでも彼はその手を振り解こうとした。だが解けない。その手はしっかりと自分の腕を掴んでいて、少し動かすと痛いくらいだった。

 彼はふと不安になる自分を感じる。それに気付いたのか、男は笑った。意図的なのかどうなのか、その笑みは余計に彼を不安にした。


「……何処に」

「ついてくれば判るさ」


 腕を掴まれたまま、彼はいつも職場に戻る道を歩いて行く。この道筋をどうしてこの男が知っていたのだろうか、と思いながら、不安は消えない。

 何処へ連れていくつもりなのだろう。それが首相官邸であることは間違いないだろう、とテルミンも思う。

 だがその後が違った。そもそも入り口自体が、彼の知っているものとは違っていた。こんな場所があったのか、と中庭の隅にある扉をスノウが開けた時には思った。

 そしてそこからは、彼の知らない道ばかりがその前にはあった。本当にこれは自分の知っている官邸だろうか、と彼は思った。そしてついきょろきょろと辺りを見渡してしまう。そんな様子に気付いたのか、スノウはそれでも手は離さないまま、口を開いた。


「この官邸が、いつからあるのか、君は知っているかい?」

「一応、植民初期からって、読んだことがありますけど……」

「そう。植民初期。本当に初期さ。だから来た当初は、こんな辺境に良い建物を建てようと思っても、人材が無い。とりあえず間に合わせの土木の方の専門が、見よう見まねでそれらしい建築を作っていたらしい」


 そう言われてみれば、少しあちこちの柱の形も奇妙だ。変にデコラティヴなところもあれば、妙にオリエンタルなところもある。獅子の置物と龍の飾りが大理石の階段に同居している。


「だがだんだんこの建物の主が変わるごとに、その趣味が反映されていくことになる。……さて、ある期の首相は、ひどく臆病だったんだ」

「臆病?」

「結局はその首相は、運悪くひいた風邪をこじらせて死んだのだが、彼が一番恐れていたのは暗殺だった。そこで」


 スノウは階段の脇をぽん、と押した。するとそこはくるり、と壁の一部分が空き、回転した。


「こんな風に、抜け道を作ったりもした訳だ」


 テルミンは初耳である事実と、それを当たり前の様に知っているこの男に同時に呆れた。ほらおいで、と男は手を離すと、その手で彼を招く。彼が来るのは当然とでも言うように、口元には笑みを浮かべて。少しばかりその隠し扉は低い場所にあったから、背をかがめて。だけどその服は緩いから、決して行動を邪魔しない。


「ほら」


 来ないのかい? とばかりに更に男の笑みは露骨になっていく。好奇心が猫をも殺すことは彼も知っていた。だから、そんな誘いは、子供の頃の探検ごっこの時代から避けてきたはずなのだ。

 なのに、その手は彼の理性を裏切った。乾いた手が、自分の手を掴んだ時、彼はその傷一つない、すべすべとした触感と、思いがけない大きさに、自分自身の手の汗腺が一気に開いた様な気がした。汗をかいただろうか、と思ったがそれは彼の錯覚だった。

 入り口は小さかったが、入ってみると、その通路は決して狭くはなかった。だが普段使わないだけに、照明は付けられていない。暗いな、と彼は思う。するとそんな彼の考えを読みとったかの様に、スノウはズボンのポケットから口紅くらいの大きさのライトを取り出した。


「まあ知ってる者はまずいないな」


 そしてそうつぶやく。そうだろうな、とテルミンも思う。自分もそうだが、この官邸の構造を知っている者がどれだけいるだろう。代替わりするたびにスタッフは変わる。変えられるのだ。

 そして現在の首相は、任期は長いのだが、家族が住んでいる訳ではない。必然的にスタッフは多くは無い。そしてその大半が、自分の様な軍部の一端だったりする。皆それぞれの任務に忙しく、そんな子供の「探検ごっこ」の様なことをする暇は無いだろう。


「こっちだ」


 手を引かれる感触があった。言われるままに彼は足を進めていく。こんな暗い中で、足元もおぼつかない中では、素直に進むしかない。

 しかもこの通路は、決して真っ直ぐではない。折れ曲がり、時には左右に別れていたりもする。それをスノウは慣れ親しんだ道の様にすいすいと進んでいく。テルミンは手を引かれながらも、時々壁に激突しそうになる自分に何度も冷や汗をかいた。

 やがて、少しばかりの光が見えたので、彼はほっとする。スノウはその光がすき間からもれる壁の一部を押した。ああまたあの隠し扉か、と彼は思う。そこが出口なのだろうか。

 ところがそこは出口という訳ではなかった。どうやらスノウはあくまで階段を昇らせるためにだけ、その隠し扉を開けた様だった。

 高い窓が一つあるだけの螺旋階段がそこにはあった。何故螺旋階段なのか、彼にはさっぱり判らなかったが、おいで、とその手が招くのをどうしても彼は拒むことができなかった。

 自分は一体どうしたのだろう、とテルミンは思う。

 光の方向に向かって、螺旋階段は上へ上へと続いていく。

 窓と同じ高さにまで昇ったところで、果てが見えた。真鍮のノブを回し開いた扉の向こうは、屋根裏部屋だった。少なくとも、彼にはそう見えた。


「この部屋に入ることができるのは、今の階段からだけなんだ」


 スノウが説明する。

 この、斜めの天井と、壁にも窓がついた「屋根裏部屋」は、何か彼に既視感を覚えさせた。

 何があるという部屋ではない。板張りの床には何も敷かれていないし、物置にすらなっていない。通路があれしか無いのなら、当然だろう、と彼は考えるが、何もせずに放っておくには大きな空間だった。

 しかしそれにしても、既視感は大きかった。この窓から見える景色には見覚えがある。無論同じ邸宅なのだから、と言ってしまえばおしまいなのだが、それにしても。


「ほら、こっちへおいで」


 男は手招きする。踏みしめる足元が一瞬響いた様な気がして、彼は思わず歩き方を変える。膝をつき、男は床の一部を指さす。

 何があるのだろう、と彼は言われるままに膝をつく。床にたまったほこりがふっ、と濃い青の軍服の膝を汚した。

 床は少しばかりの大きさ、切り取られていた。何だ? とテルミンは思ったが、言われるままにその切り取られた穴から下の世界をのぞき込む。


 そして彼は硬直した。


「見えるかい?」


 見えるも何も。彼は何故この部屋からの景色に既視感があったのか、一瞬にして理解できた。

 この「屋根裏部屋」は、ヘラの私室の真上だった。

 彼の眼下では、彼が見たくなかった光景が、大きく広がっていた。

 見たくない。だけど目が離せない。

 あの濃いブラウンの、豊かな巻き毛が、シーツの上に大きく広がっている。胸をはだけ腕を広げ、剥き出しになった腕は手は、シーツの端を掴んでいる。その指先には力が入っているだろう、隅がひどくしわになっている。

 どくん、と彼は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。

 そこからゆっくりと、おそるおそる、彼は視線を横にずらしていく。そこにはやはり服を脱いだもう一人の男が居た。それがゲオルギイ首相だと気付くのに、彼は少しばかり時間がかかった。

 彼はすぐにそちら側からは目をそらした。彼の知る首相の姿からは想像ができない程、ヘラの腹部から下を撫でさすり、いやそれ以外の場所で動いているかもしれない、太っているという訳ではないが、それでも確実に年齢特有のたるみはある背中が、ひどく焦っているかの様に上下する。肉が揺れる。彼は唇を噛む。そして視線を戻す。

 ヘラは目を開けていた。そして首を気怠げに傾け、何処かを見ていた。いや、何処も見ていなかったのかもしれない。口を緩く閉ざし、表情一つ変えずに、時々面倒くさそうに手の位置を変えていた。

 だがその表情がふと動いた。眉が軽く寄せられると、ひどく悔しそうに目が伏せられる。手が一瞬固く握られ、そして緩められる。

 心臓が、もう一度、跳ね上がった。……いやそれだけではない。自分の中で、何かが、熱く、わき上がるものがあるのを、彼は感じていた。ひどくそれは不本意だったが、確かに自分の中で、うずき、広がり出すものがあることがあるのを。

 彼は思わず口に手を当て、かがめていた身体を起こした。


「どうしたの? 顔色が悪いよ」


 目の前の相手と、視線が合ってしまう。彼は慌ててそれをそらそうとする。この動揺を、知られたくない。いやもう、知られているだろう。だが、これ以上は。

 しかしそれが甘い考えであることを知るのに時間はかからなかった。


 どうして音も立てずに、この男は動けるのだろう。


 そんな疑問が無意味に頭の中を横切る。その間にテルミンは自分の手が再び掴まれていることに気付いた。しかしそれに気付いた時には、身体がゆっくりと後ろに傾いでいたのだ。

 ゆっくりと沈められた床の上に、ほこりが立つ。けほん、と彼は一つ咳をした。


「何を…… するんです」


 彼は声をひそめた。下手に大声を出したら、階下の彼らに気付かれるかもしれない。その間にも、テルミンにのしかかる男の手は、ゆっくりと彼の軍服に斜めに掛けられたベルトや、幾つもきっちりと留められているボタンを一つ一つ外し始めていた。


「何をって? 君はそこまで頭が悪かったかな?」


 スノウはひどく当たり前の様にさらりと言う。言いながら、彼のかっちりと留まった襟元のボタンを外した。途端に喉のあたりに新鮮な空気が通り抜ける様な気がした。楽になった呼吸をその上から塞がれる。

 彼はもがいた。だが男の腕が、いつの間にか彼の頭の後ろを抱え込んでいた。身動きができない。幾度も幾度も、唾液混じりの深い口接けが繰り返される。今までに感じたことの無い程の、強く深く濃厚な。


「それに」


 触れられる感触に、彼はぞくりと背筋が冷たくなるのを感じる。


「どうしてこうなっているの?」


 彼は視線を逸らそうとする。逃げたかった。だけど逃げられなかった。指摘される事実に、彼は撃ち抜かれたかの様にびくん、と頭を後ろに逸らした。


「好きなのだろう? 彼が」

「……え」

「違うの?」


 好き?


 考えたこともない単語を、目の前に差し出されて、彼は戸惑う。一体誰が、誰を好きだというのだろう。


「君は、テルミン、あの首相の愛人が、ヘラという名をつけられた彼が、とても、好きなんだ」


 事実の確認の様に、スノウは一つ一つの言葉を突き付ける。


「……違う……」


 彼はようやくそんな言葉だけを絞り出す。首をいやいやという様に横に振る。


「じゃあどうして?」


 彼は与えられる感覚に目をつぶる。だが目をつぶると、先刻の光景が、浮かび上がる。無気力な瞳。何処を見ているのか判らない、遠い視線。広がる巻き毛。伸ばされた華奢な身体。


 ひどく悔しそうな、表情。


「ほら」


 くくく、と相手の笑う気配がする。彼は唇を噛みしめる。薄く開けた目に、涙がにじんで、視界がぼやける。

 ひどく悔しくて、胸の奥が締め付けられる様に痛い。今さっき見たばかりの光景を思い出すごとに、自分の欲望が形になっていく。こんなことは、初めてだった。そしてそれが自分の中で熱く、よどんでいる。

 止められたくしゃみよりも、見つからないかゆみの場所よりも、それは彼を追い立てる。そしてあふれそうな感覚が集中する。彼は知っている。どうすればこの感覚を散らすことが、冷ますことができるか。

 びく、と彼の肩が動く。あ、と漏れる声とともに、彼は自分の中の何かが壊れる音を聞いた。

 腕を伸ばし、相手の首にしがみつき、端正な顔に顔を近づけた。そして彼は、解放の呪文を口にした。


 好きにしてくれ、と。


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