3.RAY824.11/ブンガクシャの語る景色~暁の祈り

「女が抱きてぇよなあ」


 ぽつりと誰かが言った。

 薄暗い灯りの中、その声は次第に気温を下げていく房の中で、奇妙に響いた。その響き、その声が自分の相棒だ、ということがBPにはすぐに判った。

 冷えるな、と思いながらも彼は防寒着を羽織ったまま、ぼんやりとその声を聞いていた。そろそろこの冬の惑星の上でも、最も寒い季節がやってくるのだ。

 昼間の防寒着が、夜じっとしている時には手放せなくなる。一日に摂る食事の量が「足りない」と感じ始める。身体はエネルギーをより必要に感じる。だがそれが得られることはない。

 前の年にこの季節を越えた時には、彼はさすがに自分を誉めたいくらいだった。一度目よりはおそらくはましだろうが、それでも厳しい季節には違いない。


「なぁそう思わない?」


 彼は相棒の話し方は嫌いではない。

 壁に付けた背中が何かずいぶんと冷えるな、とは思うが、かと言って何かしようという気が起こらない時には、こんな風に消灯時間までぼんやりと誰かの話を聞いていることが多かった。


「何だよお前、元気あるな」


 低い声が飛ぶ。ビッグアイズだった。

 呆れている様な、それでも何処か楽しそうに声の主に問いかける。その手には何かしら尖ったものが握られている。今日の戦利品だな、とそれを見ながらBPは思う。きらきらと弱い灯りに光る。ガラス片だろうか、と見当をつける。

 ビッグアイズは作業中、雪の中でそんなものをよく見つけては、こっそりと隠し持って来る。例えば誰かが落としてそのまま雪に埋もれてしまったナイフや銃剣の先。例えば時々起きる食堂の騒動の時に窓から放り出されたスプーンやフォーク。

 そしてその善し悪しを調べては、やはり埋もれていた鉄片でもってこすり、錆を落としたり、なまった部分を研いだり、と手入れをしている。

 リタリットはだらん、と足を投げ出すと、両手を後ろに置き、首をぐるんと回した。


「べつに元気じゃあないけどさぁ。んー。やっぱ何かこう、ね。手が指が、欲しがってるってこと無い?」


 そう言って名前に「文学者」を意味する男は指をちろちろと動かす。


「例えばさあ、オレ昼間外に出るじゃない」


 別にこいつだけではないのだが、とBPは黙ったまま思う。


「で何となく作業に腰痛くなってちょっと立つじゃない。するとまあどうでしょう。見渡す限り野郎野郎野郎」

「そりゃあ仕方ないだろ」

「だけどさあ。女の姿が全く見えないのって、うるおいが無いと思いませんか?」

「って言ってもなあ」


 ちら、とビッグアイズはヘッドの方を向いた。


「お前の相棒じゃあ不足か?」

「それとは別モンダイでしょ」


 いきなり話題と視線が自分に振られ、BPは思わず片方の眉を上げた。いきなり俺に来るか?


「あれはあれ。これはこれ。あれはあれでよし。でもほら、やっぱり何かこの……」


 リタリットは不意に言葉を止めた。そして指を小指から順番に折り曲げて行くと、突然ぐっ、とその手を握りしめた。BPはふとその様子を見て、顔を上げた。

 そんな風に、前もやっていたのだ。


   *


 基本的にこの惑星での「労働」は採掘だった。

 「特産物」のパンコンガン鉱石だけでなく、この地には大きくの鉱産物が眠っている。それも何処そこに、というのではなく、この惑星全体が、何かしらの鉱産資源を抱えているのだ。

 だが実際、その採掘作業はそう盛んではない。


「理由は色々あるけどさあ」


 ドリルで固い地面を掘り起こしながら、声を張り上げてリタリットはBPに、彼がまだ入ってきたばかりの頃説明をしていた。

 無駄口を叩くな、とは彼等は言われてはいない。口でも何でも、何かしら身体を動かしていないと凍える。

 BPはこの地では、ただ「外に居ること」自体で充分「強制労働」であるとも言える。たとえ防寒着を着ていたところで、それが体温を全く守ることができるという訳ではない。動いていて、初めて彼等は体温を維持できる。

 監視員達は、360度を見渡すことができる監視塔に、時間交代で昇り、作業をする囚人が逃げ出さないか、だけ監視している。この際、作業をさぼっているかどうか、はさほど問題にされない。


「何せこれだろ」


 きゅ、という音がして、ドリルは自然に止まった。ほれ、とリタリットはドリルを持ち上げて彼に見せる。刃がぐるりと曲がっていた。


「あちこちがこれだからさあ、いちいちヒトの手で、どのへんが大丈夫かつっつきながら掘らなくちゃなんね」

「発破かけるとかそういうのはいかんのか?」


 刃を慣れた手つきで取り替えながら、リタリットは首を横に振った。


「ダメダメダメ。下手にそんなコトすると、周囲の雪がどさどさどさ……」

「雪崩るのか」

「はいあっち見て」


 ふい、とBPは自分の前に突き出された指の向く方向に首を動かした。尖った山が陽の光に輝いている。


「山……」

「はいじゃこっち」


 言われるままに、BPは首を動かしていく。白い山。針葉樹すらそこにはない。


「ほんでもってあっち。ついでにこっち。あっちもこっちもどっちも山々々」

「……確かにこんな四方八方山に囲まれた場所で雪崩が起きたら大変だよな…… 何でこんなとこに作ったんだろう?」

「そうゆうのは、ジオが詳しいけどさ。オレが知ってんのは、そのあっちもこっちもどっちも、資源がゆたか君だってことだけなんだよな。それも結構ひと肌脱げばって感じ」


 地下深くって訳じゃないのか、と彼は理解した。


「ま、なだれが起きてもし雪に沈んでも、別にオレ達が死んだトコで、誰も泣く訳じゃなし」


 ひどくさらり、とリタリットは言った。


「そうなのか?」

「そうでしょ」


 くっ、とそう言いながら曲がったドリルの刃をリタリットは抜いた。ああやっと抜けた、と口にしながら、ポケットのついたベルトの中から替え刃を取り出し、慣れた手つきで取り替える。


「違うの?」


 そして不意に彼の方を向いた。彼は首を横に振る。


「判らない」

「だとしたら、オマエには居るんと違うの?」

「って」

「ってさあ。オレには居ないと思うもん。判るからさ。オマエは判らないんでしょ? じゃ、居るさあ」


 理屈になってない、とBPは思った。だがかと言って、こう言い切る相手に何を返せばいいのか、というと、案外言葉が出て来ない。

 言葉を探す間に、彼もまた、作業を再開させていた。慣れないドリルは、スイッチを入れると、途端に荒れ狂う。まるで暴れ馬だ、とBPは思いながら、あっちに向けこっちに向け、大地に対する「良い具合」を探してみる。

 必死になると、身体はだんだん暖まってくる。そして、地面の上で、ほんの少し軽い感触をドリルの刃ごしに手に覚えると、彼はそこで力を込めた。ガガガガ、という音とともに、ドリルは上手く雪の下で凍った大地の下に潜っていく。

 そしてやがて、土でなく、岩の様なものに突き当たる。鈍い光を発している様なその岩の存在に、彼はなるほど確かにここに作る訳だ、と納得した。

 ドリルで更にその岩自体を掘り起こす作業に熱中しているうちに、腕が熱く感じられたので、彼はひとまず休憩、とドリルを止めた。するとリタリットは口元を歪めた。


「いいカンしてるじゃない、BP」

「そうかな?」

「そうだよ。オマエさあ、結構色んなちゃんとした訓練受けてんじゃない?」

「訓練?」

「ヘッドがさ、オマエは軍人だったんじゃないか、って言ってた」

「……俺がか?」


 彼は黒い太い眉を露骨に寄せた。


「車、乗れたろ」

「ああ。だけどそんなこと位で」

「車ったって、ここにあるのは結構旧式だし。看守だまくらかして聞いたら、何か軍の払い下げだとさ。ここのは。民間車じゃねぇんだって」

「そうなのか?」

「そうだよ。だいたいここに来た奴は最初から乗れるヤツってのはいねーんだ」


 だから、か? と彼はヘッドがわざわざ新入りの自分をあの時連れていったことの理由を推測する。


「リタリットは、お前はどうだったんだ?」

「オレ? ダメダメ。できる訳ないじゃん」


 両手をひらひらと上げて、リタリットは否定する。


「それにオレは、ダメなんだってば」

「何が」

「ああいうエンジンのでかい音聴くと、どーも吐き気がすんの」

「吐き気?」


 それは尋常ではない、と彼は思う。だが言った本人は、至ってあっさりとしていた。

 それじゃあこんなドリルの音も良くないのではないか、と思うが、どうもそういうものではないらしい。


「オレさあ、一コだけ残ってる風景があってさ」

「残っているのか?」

「みんなそうだよ? ここに居るヤツら、皆一コだけ、何か残ってるんだってば。オマエにもあるんじゃね? 何か」

「俺は」


 残っているもの。何かあっただろうか、と彼は考える。だがまだ頭の中はぼんやりとした部分が多かった。


「何かさあ、ほら、ウチの房のドクトルKに言わせると、オレ達は別に記憶を『消された』ワケじゃねーって言うの」

「違うのか?」


 リタリットは首を横に振る。


「違うの。記憶ってのはそんな簡単に、黒板とか消しゴムとかコンピュータのデータの様に簡単に消せるわけじゃねえって。何かそこにたどりつく、道をこんがらがらせるんだってさ」

「迷わせる?」

「とも言うね。だから、消えてる訳じゃなくて、道に迷ってる分だから、どっかにはあるワケよ。で、その中でもひどく強いものだけは、どーも道がどう迷わせてもくっきりついてるんだってさ」

「へえ」


 BPは感心した様にうなづいた。それなら自分もいつか記憶を取り戻すことができるのかもしれない。彼は自分の中に、ふと明るいものが点った様な気がした。


「で、そういう一番キョーレツなものが、皆一つだけは見えるんだって」

「で、お前にもあるんだ?」

「オレなんかひどいよ? 聞いてくれるBP?」


 そう言ってリタリットはドリルの上に器用に両ひじを乗せ、その上にあごを置いた。ああ、とBPはうなづいた。確かに彼にとっても興味はあったのだ。


「場面なんだけどさ」


 にやり、とリタリットは笑う。目は相変わらず笑っていない。


「たぶん、メトロだと思うんだよ、アレは。高い丸い石の天井に、蛍光灯のシャンデリアがあってさ。で、何かひでー音が、して、そおそお、何かひでー音。何つーのかな、布を一気に金属で引き裂いた様な音ってゆうか、じゃなかったら、黒板をこのドリルの刃を(ふいとリタリットはそれを持ち上げた)何十本と並べて一気に引っ掻いたような音っていうか。でもそんだけじゃないのよ。そこでずいぶん大勢の連中がざわざわざわざわしてんの。何やってんの、と思ってオレは…… たぶんオレなんだよね。見に行くワケよ。そーすると」

「そうすると?」

「人の輪の中にぽっかりと穴が空いててさ。オレはほら、そうゆう人混みって好きらしいから、何だ何だと首を突っ込むワケよ。で、そこでオレが見たのは、真っ赤に染まった床」


 え、と彼は思わず問い返していた。


「オレもさー、何で床が赤いのかな、と思ったのよ。床のほかの部分はほらよくあるクリーム色のビニタイだし。それに何かべとべとしてるようだし。でオレはもっと近づくワケよ。で何か目を凝らすと、手があんの」


 ひどく嫌な予感がした。


「濡れてんの。その手は」


 聞くんじゃなかった、と彼は思った。


「何か半袖っぽくて、白い服だったのかな? 何かすげえ綺麗に真っ赤に染まっていたから、きっと白い服だったんだ、とオレは思ったね」


 そういうのは、冷静に言う話じゃない、と彼は思った。だが止めることもできない、とも彼は思った。

 リタリットは淡々と続ける。


「片方はそのまま身体についてたんだけど、もう片方はごろんとそこにあるのかな。足なんかもう、曲がっちゃってて。かろうじてついてんだけど。でやっぱり下のほうも真っ赤でさ。切れてるとこから、どくどくとずっと出てんの。で床がずいぶん真っ赤になっちゃってて」

「お前さ……」


 BPは顔が自然に歪むのを感じていた。話している本人はひどく淡々としているのに、聞いている自分の方が、胸がひどく痛くなる。


「ドクトルKに言わせるとさ、オレみてーなくっきりした『場面』でそれが在るってのは珍しいんだってさ。でも何でそんな場面が出てくるのかは奴も判らねって言ってたけどさ」

「知ってる奴…… ってことは」

「どーだろ。そこまでオレには判んないよ」


 そして目を半分伏せる。


「オレに見えんのは、その『場面』だけだもん。そこに出てるのが誰かなんて、オレには判んね。ああ、男だったとは判るよ。でもそれがオレに関係したヤツなのか、それとも通りすがりの誰かさんかどーかなんてのはさーっぱり判らないのよ」


 BPは思わず口に手を当てていた。


「でもさあ、そのせいかオレどーもでかいエンジン音ってのはやでさあ。最初にあーやって行った時、吐いちゃってさ。オマエもういいから来るなって言われてはいそれまで」


 そしてげたげた、とリタリットは笑った。


「オマエにはさ、BP、無いの? そんなモノが」


 言われてBPは首を傾げた。


「ある…… 様な気はする」

「へえ。どんなの?」


 そして今度は逆の方向に首を傾げる。リタリットは面白そうに眉を上げると、口を歪めた。


「判らない」

「判らない?」

「同じ夢をよく見るなあ、とは思うんだけどさ」

「同じ夢ねえ。ヘッドと同じよーなこと言うねオマエ」

「ヘッドが?」


 ん、とリタリットはうなづく。


「カレはさあ、映像じゃあないのよ。概念だけが何か渦巻いてるんだって。でそれがぼんやりとした夢の中に出てくるらしいんだと」

「コンセプト?」

「『何か自分には女と子供が居るらしい』そぉゆうの」


 コンセプト、というにはひどく具体的だな、とBPは思う。


「だからカレは誰がどう誘おうと、そぉゆう向きには靡かないね。可哀相なビッグアイズ」


 げ、とそれを聞いてBPは思わず声を立てた。


「何、ちょっと待てそれじゃ」

「まじまじ。それはそれ。これはこれ。でもココだから良かったね。誰もここじゃ何かれどーしようなんてコト思えないから、いいんじゃない?」

「……」

「だいたいオマエ、ここでそうゆう気分になったコトあり?」


 いや、とBPは首を横に振った。

 確かに、考えてみれば、一度も無かった。健康な成人男子であるというのに、考えてみれば、それに気付いたことすらなかった。


「記憶を消されてるのが何か関係あるのか?」

「んにゃ、単に寒いから勃たないだけ」


 リタリットはそう言いながら、ふにゃ、と肩をすくめた。



 実際、そうだろうな、と言われてみて彼も思わない訳にはいかない。そうでなくて、この状況下で平気でいられるだろうか、と。

 至近距離というのは、それが何であれ、至近距離まで近づいてもいい、という相手に対して、危険な感情を起こさせるものではないか、とBPも改めて思う。


「……んでもさあ」


 ぼそぼそ、とその至近距離に居る男はつぶやく。


「オマエ元々、結構平気なヤツだったんじゃない?」

「何が?」

「女でなくても平気、な類じゃないの?」


 言われてみたら。彼は想像する。しかしその想像は途中でどうしても暗雲がかかる。


「判らん」

「けどオマエ、オレがこーんなことしても」


 首に手を回す感触。


「はたまたこーんなことしても」


 更には軽く口にキスまでされる。


「何か平然としちゃってさ。その気全く最初から無い奴だったら、んなことされりゃ、馬鹿ヤロと叩き出すぜ? オマエ腕は強いんだからさ」

「そうかな」

「そぉだよ」

「お前こそ、そうだったんじゃないのか?」

「オレ?」


 何を聞くんだ、という調子で相手は問い返した。


「どぉだろ。オレ別に女は好きよ。抱きしめてやらかくて、そういうのはいいよね。キモチよく中に入れてもらってとろとろしたいって感じ」

「んじゃ野郎は?」


 だいたい何でこうもくっつくのだろう、と何故か冷静な自分の頭を改めて不思議に思いながらBPは問いかける。


「さーあ。オマエの前に誰か居たワケじゃないからさあ」

「そうなのか?」

「そぉなの。女はさ。別に知識の方であるのに、あっちはいまいちぼんやりしてるし。でもオマエのカラダは結構オレ好きよ?」

「何で」

「何でだろ」


 リタリットは首をひねる。そして改めて思い当たった、というように、指をくわえ、すぐ上の天板に視線を移す。


「ヤッてみりゃ判るのかなあ?」

「って何を」

「ってナニを」

「寒くて勃たないんじゃないかよ?」

「だから暖かくなったらさ」


 ってことは今って訳じゃないんだな、とBPは何となくほっとする。別にこのべたべたくっついてる男が嫌いではない。抱きしめられようがキスされようが、別にそれは彼にとって大したことではない。

 だがそれ以上、そこまでしてもいいか、というとどうも彼の中で疑問が残るのだ。おそらくこの場合のリタリットが自分にしたいのは、「そういうこと」だろうし、ではその場合自分がやすやすとそのまま流されてしまうのだろうか、と想像すると、それもまた暗雲が思考の上に流れていくのである。


 何か違うような、気がする。


「ま、いーさ。そん時まではおあずけ。寝よ寝よ」

「おあずけって」


 きゅ、と手に力が込もる気配がする。数秒後には、相手は既に眠りの中に居た。

 だけど。彼はその眠る気配を感じながら思う。そんな時が来るとこいつは思ってるんだろうか。暖かくなったら。この地でそれは無理な話だ。


 だとしたら。


 ふと彼は、そこが夢の中であることに気付いた。

 ああまたあの夢だ。

 ひどく風景が鮮明だった。石造りの建物の内部、ということがすぐに判る。

 それが見覚えがあるもの、という気はするのだが、何処であるのかはさっぱり判らない。下手すると、それが建物であるということすら、自分の感覚からはするりと抜けだしそうになる。

 自分はその建物の、暗い部屋に居る。だが自分の姿は見えない。自分なのだから。

 未だに彼は自分の顔が判らない。房の皆が、自分の姿を言葉では説明してくれる。重そうな黒い髪、黒い大きな目、やっぱり黒い太い眉、少しとがり気味の顎、そして最近は雪焼けして多少色はついたが、元々は白いだろう肌…… 

 言われてはいるが、実感は無い。触れてみる感触から、輪郭の予想はつくが、それを具体的に考えることができないのだ。

 それと似た感覚で、ふと立ち上がる夢の中での自分の足取りは奇妙だった。ふわふわとして、雲の上を歩くように、実感が無い。

 そしてその暗い部屋の一部分に急に光が差し込む。誰かが入ってくる。逆光で、シルエットしか彼の方からは見えない。だけどそのシルエットは、ひどく小柄に見える。長い髪をゆらゆらと揺らせ、自分に近づいてくる。

 そして自分に向かって、泣きながら、何か言うのだ。何か言いながら、その腕は、自分を抱きしめようとするのだ。


 だがそこでいつもその夢の光景は終わる。

 その相手が、何を言ったのか、どうしようとしていたのか、彼には判らない。

 そしてその夢を見た次の朝は、ひどく自分の額が濡れていることに、彼は気付くのだ。


   *


 その朝彼は、自分がいつもより早く目が覚めたことに気付いた。そしてどうしてこんな時間に目が覚めたのだろう、と思った。まだ周囲は暗いのだ。別に自然が呼んでいるという訳でもない。

 何だろう、と思いながら、夜具の中の暖まった空気を逃さない程度に彼はもぞもぞと位置を動かし、辺りの様子を伺う。

 そしてふと、窓の方へ視線を動かすと、誰かが防寒具を羽織ったまま、窓際に座っているのが見えた。誰だろう、と彼は思って、目をこする。

 中と外との気温差で生まれた水蒸気すら、外の冷たさに凍り付いている。その凍り付いた窓の一部分がこすりとられ、窓際の誰かは、外を眺めていた。

 何をしているのだろう、と思いながら彼はしばらくその様子をじっと見つめていた。するとふと、胸にぐっと力が込められるのを感じる。寒いじゃないか、と知った声が小さくつぶやく。

 起きたのか、と聞こえるか聞こえないか位の声で彼が問いかけると、相棒はオマエが勝手に動くから覚めちまったじゃないか、と悪態をつく。


「またミョーな夢でも見たんかい?」


 夢の話は、BPも以前この相棒にしたことがあった。相手のばかり聞いて、自分のそれも答えないのは不公平ではないか、と考えたのである。リタリットはそれについてはふうん、とうなづいただけだった。それがよくあることだ、という意味だったのか、それだけなのか、という意味なのかは、BPもよくは判らなかった。

 だが今はその夢ではなかったので、いや、と彼は声を立て、窓際に首をしゃくった。何なに、とリタリットはもぞもぞと彼の上から窓の方を見る。


「ああ」


 納得した様にリタリットはうなづいた。


「何だよ」

「……見に行く?」


 珍しいことがあるものだな、とBPは思った。だがこの寝汚い程よく眠る男がこんなことを言うのは珍しいので、ああ、と彼はうなづいた。いつもだったら、とにかく時間ぎりぎりまで眠りこけ、そのために彼を離そうとしないのが普通なのだ。

 彼らは音をさせない様にベッドの下段から這い出し、夜具の上に掛けていた防寒具を引きずり出すと、羽織りながらゆっくりとまだ暗い室内を横切った。


「よぉ」


 白い息が、外の照明に光る。短く刈り込んだ頭に、帽子をかぶったヘッドがそこには居た。よく見ると、その相棒のビッグアイズも一緒に窓の外を見ていた。


「何かあるのか?」


 BPはどちらにとも取れる調子で訊ねた。反応したのはビッグアイズだった。普段そう見ない、半分だけ開けた様な目と、弓なりに逸らした唇を向けると、彼に向かって窓の外を指した。BPとリタリットは黙ってその指された方向に身体を向けた。


「何だ?」


 凍った窓ガラスの向こう側には、煌々と光る常夜灯の下に、くくりつけられた幾人かの人間の姿があった。しかも、その身体には、防寒具は無い。


「『暁の祈り』だ」


 ヘッドは小さく答える。BPはその声の方を向く。


「お前が来てから初めてだが、隣の棟で脱走者が出た」

「脱走者?」

「考えられないことじゃないだろう?」


 ビッグアイズが付け足す様に言う。


「この流刑惑星で、お前『刑期』を聞いたことがあるか?」


 そういえば。言われてみて改めて彼はその存在に気付く。いや、考えなかった訳ではない。ただ、誰もそれを口にしないところを見ると、それはいつか何処かからもたらされるものなのか、と曖昧に考えていたのである。


「聞いたことないのは当然だ」


 ヘッドはそんな彼の考えにはお構いなしに続ける。


「そんなものは無いのさ。ここには」

「無い?」

「馬鹿かオマエ」


 相棒は容赦なく、何を今更、という様に彼をのぞき込んだ。


「ノー天気だよなあ。今までほんっとうに考えなかったのかよ。マジ馬鹿違う?」

「そう馬鹿馬鹿言わん方がいいぞリタ。お前につきあっているくらいだ。だが実際そうだ。ここに『刑期』なんて無いんだぞBP」


 ヘッドの細い目は、鋭く彼を見据えた。


「無いのか?」

「無い。奴らは俺達を働かすだけ働かして、そこで死んだらそれでよしと考えている。そのための記憶抹消だ。下手に里心つかれたら困るからな。だけどだからと言って、それで全てが管理できる訳じゃない。見てみろ」


 そして再び窓の外を指し示す。


「脱走は未遂だろうが計画だろうが、見つかればあれだ」

「あれじゃ…… 凍死する」

「そう。夜半からあそこにああやってくくりつけられて、明け方の、一番冷える頃に、とうとうああだ。その時に声を立てる奴もいるらしい」

「ほら見てみろよBP」


 ビッグアイズはその中の、一番その窓から遠くに居る者を指さす。


「もうじき夜が明ける。空が明るくなってくるだろ」


 確かにそうだった。話しているうちに、明けつつある空は、次第に色を変え始めていた。静かな朝の空は、そう感じるのが不謹慎だと思うくらいに、BPの目には美しく見えた。

 だがその美しく色を変える空の中に、そのシルエットは、黒く強烈に映る。


「あの姿が、まるで天に対して祈りを捧げているようだ、と言われてるんだ」

「それで、『暁の祈り』?」

「そうだ」


 ヘッドはうなづいた。


「そして、明日の俺達の姿だ」


 それは静かな声だった。だがひどくそれは、実感をもって彼の中に響いてきた。自分達には刑期は無い。この冬の惑星から、出られる時は無いというのか。

 彼はぐ、と唇を噛んだ。


「お前だったら、どうする? BP」

「どうするって……」

「俺達は、ここに居続けるにしても、何か起こすにしても、地獄と隣り合わせだ。だから誰でも一度はああやって考える。だが連中を見くびってはいけない」

「タイミングって奴さ」


 ビッグアイズが口を挟んだ。ぱち、と音がするので見ると、手には何処から調達したのか、綺麗に磨き込まれたナイフが開かれていた。


「ビッグアイズ、それ……」


 だがそんなBPの問いかけには、相手は大きな目を物騒にひらめかせると、にやりと笑い、またぱちんと刃を閉じた。


「まだ、その時じゃあない」


 ヘッドは普段の声よりずっと低くつぶやいた。


「あんたは、『その時』がいつか来ると思っているのか?」

「わからない」


 ヘッドは即座に答えた。


「だが、それが永遠である訳は無い」

「そりゃあそーだよね。死んだらそこで終わりだし」

「リタ」

「そーじゃんよ。死んだら全部終わりなんだよ? あーんな風に、氷の棒になっちまうか、真っ赤にまみれて転がるモノになっちまうか、それはどっちでもイイけどさ」


 彼はふと、相棒に残されていた風景を思いだしていた。


「死んだら終わりだ。ヘッドあんたもそれはよぉく判ってるはずじゃない?」


 リタリットは言い切った。


「オレは死にたくないね。まだ知りたいことがあるんだ」


 それは、その光景のことなのだろうか。BPは思う。しかしそれは自分も同じだった。同じ夢が繰り返される。その中に出てくる誰かは、日々、その感覚を蘇らせてくる。

 抱きついてくる、その折れそうに華奢な身体の感触。なのに込められた指の強さ。豊かな髪が触れた時のくすぐったさ。そして…… 


「それまでは死ねないし、死にたくない。オレは絶対、帰るんだ」

「ああ」


 ヘッドはうなづく。


「それは俺も同じだ。……皆同じだ」


 気がつくと、ベッドの中で目を覚ましだした房の者達が、窓の外の光景に気付き、静かに彼らの様子を見つめていた。


「焦るなよリタ。『その時』は必ず来る。いつかは俺にも断言できないが、必ず来る。ただ、それにはタイミングが必要だ。俺達の側だけでない。何か、そうするべき時が、必ずあるはずなんだ」

「ああ全く。あまねく神々は何をしてらっしゃるやら。我らはぐれた子羊なんてさすがにお忙しくて天使様すらお寄越しにならないのですね全く。さすがです当然です。天使は今では地の上で人と絡みその光を失いその力は既に我らが星まで満たしはしない。やるせないねえ」


 BPは思わず目を大きく瞬かせていた。何をいきなり言い出すのだこの相棒は。

 また始まったよ、とビッグアイズはくく、と笑う。そして小声でBPに囁いた。


「癖なんだよ、こいつの」

「俺は知らなかったが…… 」

「お前が来てからあまりそういうことは無かったけどな、BP。こいつは元々こういう奴だ。何処で覚えたのやら」


 それで文学者なのか、とBPはようやく納得した。

 リタリットはそれから延々十分程、世界に対する怨嗟の言葉を皮肉を香辛料に多数の修辞句つきで並べ立てると、ふっと息をつき、気が済んだとばかりにこう付け加えた。


「ま、言っても詮無いことだが」


 だったら言うなよ、とは決して誰も口にはしなかった。



 死んだ数名は、BPも時々作業場で見る顔だった。

 片づけておけ、と言われて、彼もその「処理」に当てられた時、その顔を確認することができた。

 別段話をしてきた訳ではない。だが昨日まで元気に同じ場所で動き回っていた者が、目の前でただの物体になっているという感触は、彼にとってひどく重かった。その運ぶ身体が、生きている時のものより重く感じられたからかもしれない。

 衣服をはぎ取って、焼却炉に放り込む様に命じられた時、彼はひどく自分の中で熱感をもってこみ上げるものがあるのを感じた。だが彼はこらえた。明日は我が身、という意味のヘッドの言葉を口の中で繰り返す。

 凍り付いた遺体は、普通の病死した遺体より処理に時間がかかるという。処理の終わるのをぼうっと待っている訳にはいかずに、彼は作業場に戻った。そしてドリルの振動に身体を任せている間に、蛋白質の焦げる臭いが鼻につきだした。過労が元で病死した者も時々出るが、その時より、今この場に漂っている臭いは強く感じられた。


「ひでえ顔してるぜ相棒」


 リタリットはちら、と彼の顔を見てつぶやいた。


「仕方ねえだろ、俺はああいうことは慣れてないんだ」

「オレだって嫌いだよ」

「そうだったのか?」

「そぉだよ」


 その割にはその顔はいつも通りに実にあっさりとしたものだった。何となく胸の中で、もやもやしたものがぐるぐると止まらずに動いているのにBPは気付く。


「お前は平気なのかよ?」

「平気なワケねーだろ」

「平気な面してるじゃないか」

「オレの顔に何か文句あるの?」


 リタリットはそれでもあっさりと言葉を返した。そして手にしていたドリルをガッ、と凍った地面に突き立てた。


「オレに当たるなよBP」

「当たってなんか…… 」

「ドコが」


 ガリガリガリ、と強烈な音が響きわたる。明らかにリタリットは掘り進めるべきところを外しているのだ。そのひどく耳障りな音を、何度か出しながら作業を続けると、またぴん! と金属の跳ね上がる音がした。


「……あーあ、またやっちまった」


 リタリットはそう言いながら、曲がった刃をポケットに入れる。ふとその行動にBPは疑問を持った。


「お前……」

「何」


 器用な手つきで新しい刃を出すと、リタリットはそれを口にくわえ、上目づかいで彼の方を見た。そう言えば、この相棒がこんな曲がった刃を専用の捨て場に捨てている所を見たことが無い。

 ビッグアイズがいつの間にかがらくたに見える中から、鋭いナイフを手にしていた様に、そんな錬金術がこの相棒の手の中でも行われているのだろうか、と彼は思い付く。

 だがここで言う訳にはいかない。ここは見張られているのだ。


「リタ、お前さ」

「何? さっきからオマエ変じゃね?」


 へにゃん、と帽子に半ば隠れた様になっている目が笑う。それを見てBPはふと肩が軽くなった様な感触を覚えた。何だろう、と彼は思う。


「変かな」

「変だよ。そぉゆう顔は、ムヤミに人に見せるんじゃないのよ」


 そして今度は何度か様子を探りながらドリルを大地に突き入れた。その音に紛れて、リタリットは何気ない口調で続けた。彼もまた、作業を再開した。止まって喋っているだけの余裕は、自分にも、相手にも無いのだ。


「そういえば」

「何だよ」

「この惑星には、居ないんだな。女と……」


 つ、とリタリットは顔を上げ、ついでの様に両方の眉も上げた。


「何だオマエも、女抱きたいんかよ」

「や、そういう訳じゃなくて」

「そういう訳じゃなくて? ちっと考えりゃ判るだろ馬鹿」

「そう馬鹿馬鹿言うなよ」

「こんな環境のとこに、女と子供とじーさん連れてきてどうするよ」


 あ、とBPは思わず声を立てていた。


「同じ政治犯だったら、女は記憶を消すよりは操作して別のトコに使った方がいいだろ。ガキはともかく、じーさん達も昔は居たらしーよ」

「昔は?」

「だから頭使えよ馬鹿。こんなトコに来て、長く生きていけるわきゃないだろ」


 それはそうだ、と思う。


「昔はあの棟全部が埋まってたらしいよ。けど今は殆どがカラだ。みんな逝っちまった」


 鼻に、蛋白質の焦げる臭いがつく。


「来る奴も年々減ってる。連中はそれでも採掘量をゼロにはできんから、オレ達を殺さない様に飼ってる。飼ってるつもりなんだぜ? けっ。生かさず殺さず、かよ」


 そしてその中で、脱走をはかれば、問答無用であの寒い夜明けに縛り付けられる。


「オレは、そぉゆう連中の思い通りになるのはすげえ嫌だけどさ、死ぬのはもっと嫌だ。オレは生き抜いてやるさ。何がなんでも」


 その言葉を聞いて、ふと彼は、自分の顔がゆるむのを感じた。リタリットはそれを見ると、細い眉をきゅ、と寄せた。


「……何だよ」

「いや、珍しく意見が一致したな、と思って」

「とぉぜんだろ。オレの言うことが間違ってたことがあるか?」


 それには苦笑いだけ返したら、相棒は、彼に向かってこう言った。


「暖かいトコに出られたら、一発やろうなー」

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