1.RAY823.05/彼の名は~逃げる鉱石
がたん、とひどい衝撃で彼は目を覚ました。
何処かにぶつけたのだろうか。頭が少し痛い。手で痛むところに触れようとした。だができない。何故だろう、と彼は思った。頭がぼんやりしている。
手が動かない。
いや、身体が動かない。
その時彼はようやく自分が拘束されていることに気付いた。頬が触れているのは冷たい金属だ。床だろうか。何の床だろうか。地響きの様なものが伝わってくる。いや違う、これは機械の振動音だ。
拘束された手は背にあり、それを軸にして起きあがるのも億劫だ、と彼は思う。そもそも何故ここに居るのか、彼には判らなかった。
判らないままに、眠りと目覚めの間を彼は延々往復していた。
ひどく長い間眠っていたような気もする。だがその一方で、ずっと何処かで起きていた様な気もする。さっぱり判らない。頭に濃いもやが掛かっているかの様だった。
う、と彼は身体を丸める。
胃の底から何かがせり上がってくる様な感触が突き抜ける。何だこれは、と彼は思わず言葉を吐く。言葉だけでなく、胃の中のものまで出てきそうだった。
だが生憎それは御免だった。今吐いても、それを始末する手が動かない。彼は口を閉じる。今にも喉から飛び出してきそうなものを必死でこらえる。嫌な匂いが、身体の奥からあふれ出してきそうだった。
手が、せめて手が自由になれば。
自由になれば。
彼はそこまで胡乱な頭の中で考えた時、思考の歩みが止まるのを感じた。
自由になれば…… 俺はどうしたいというのだろう?
胃の不快感が、頭の痛みを忘れさせていた。
俺は何でここに居るのだろう?
そして彼は、決定的な疑問を、ようやく頭に浮かべる。
……俺は…… 誰なんだ?
*
出ろ、と開けられた扉の向こうで、襟の辺りに毛皮のついた軍用コートを着込み、やはり毛皮の帽子をつけた男が、彼に向かって怒鳴りつけた。
「出ろって言ってんだよ! 貴様聞こえねえのか? この犯罪者がよ!」
乗り込んできて、男は、厚手の手袋をした手で彼の胸ぐらを掴み上げると、そのまま壁に向かって勢いよく突き飛ばした。背中をぶつけ、よろけながらも、ようやくそれで立ち上がりバランスを取ることを彼は思いだし、顔を上げた。
途端、視界が白くなった。
目がやられたのか、と彼の中に一瞬不安がよぎる。
だがそれは半分目の錯覚だった。彼の服を再びつまみ上げた男は早く出ろ、と行って突き飛ばしたのは、目が痛くなる程の雪の中だったのだ。
彼はそのまま、拘束された手にロープを更に掛けられると、とっとと歩け、と命ずる男の後ろについていった。
言われるままにするのはしゃくに障る。だがそうしないことには、何が何だか、今の自分には判らないことばかりだった。
何よりも、この寒さはこたえる。
この男が自分を何処に連れて行くのか判らないが、「連れていく」以上は、凍死させることはないだろう、と奇妙に冷静に、他人事の様に考えていた。連れて行く予定の者を途中で死なすのは責任問題だ。
数分歩いた所で、彼は急に視界が開けるのを感じた。
そこには、灰色の建物が、やはり灰色の高い壁に囲まれて幾つも立ち並んでいた。壁の上には、有刺鉄線が幾重にも張られ、そしてその壁が途切れた先には、やはり金属で出来た扉の上に、幾つもの曲線が描かれているのに気付いた。
目を見開く。
Let's work for the freedom.
そして彼は曲線の意味に気付いた時、即座に思った。ここは監獄だ。
しかも、ただの監獄ではない。この寒さ、自分の出た場所。一瞬振り向いたあの扉の向こうは、船だった。
飾り気も何もない、ただ物を運ぶ輸送船の形にもっとも近い―――
ここは、流刑惑星ライだ。
*
歩きながら――― 歩かされながら、彼は未だぼんやりとしている頭の中から、ゆっくりと糸をたどり始める。
ゆっくりだが、言葉が、映像が頭の中を漂い始める。自分に関する「記憶」は引っぱり出せないが、そうでない「知識」は残っているように彼には感じられた。
現在、人類とその進化種多々が居住する全星域を統一し統治する銀河帝国の、帝都本星からは遠く離れ、文化の進度にもずれがある場所は「辺境」と呼ばれる。
彼の「知識」の中で、自分がおそらく現在居るだろうこのレーゲンボーゲン星域は、その意味において、正しく「辺境」に当たる。
そしてこの正しく「辺境」である星域に、居住可能な惑星は二つあった。
一つは、温暖で、陸地と海地が、人間の住むのに良いバランスで存在しているアルク。
そして、もう一つは。
彼は前方に目をこらす。門の中に入っても、雪の量にさして変わりはない。一足歩くごとに靴の底にべったりと雪はへばりつき、どんどん足どりを重くしている。頬をかすめる大気は、寒いを通り越して痛い。
それでもここは、まだましな方なのだ、と彼は思う。
流刑惑星ライは、アルクよりやや外側の軌道を回る惑星だった。主恒星からの距離は、大気も水もかろうじて在るその惑星をひどく寒冷にした。万年雪と弱々しい太陽の光。
彼の「知識」は彼にそれでもまだマシなんだ、オマエ、と訴える。
灰色の、四角い建物の中に入った途端、彼はその温度差に一瞬眩暈と、呼吸困難を起こしそうになった。
*
大した説明もされないままに、手の拘束を解かれ、彼は衣類とタオルだけを両手いっぱいに渡された。そして今度は別の制服を着た別の男の背を見て歩き出した。
軍服だろうな、と彼は思う。濃青の、深い襟を持ち、斜めにベルトを掛ける衣服など、彼はそれ以外に知らない。だが大した階級の者はいない様な気がした。自分を連れてきたのは、明らかに一般兵士だったし、現在自分の前を歩くのは下士官だ。肩の星と線の色と数がそれを証明している。
廊下の途中にある扉を開いた瞬間、彼は再び寒さが全身を襲うのを感じた。確かに外よりはましな気温ではある。しかし一度通された、看守の棟であろう場所とは、20℃ほどの差がある様に彼には思われた。
廊下の途中にある手洗い場では、隅の方でうっすらと氷が張り掛かっている。
手の上にある衣類は山になっている。だがそれで「一揃い」であることは、その一つあたりの厚みから見てとれた。
そしてそれは決して新しいものではない。タオルにしても同様だった。幾らかの染みがそこには見られる。洗われた形跡はあるが、幾つもの薄茶色の染みが飛び散った様ににじんでいる。血の染みだな、と彼は思う。おそらくは、この持ち主はごく最近死んだのだ。
ここは、死ぬまで出られない惑星だということを、その血の染みが呼び起こした「知識」は告げる。
前方の下士官は一つの扉の前で立ち止まり、こう言った。
「自分で扉を開けて入れ。S12391号」
味も素っ気も無い呼ばれ方だ、と彼はぼんやりと思う。そして下士官はこう付け加えた。
「せいぜい可愛がってもらうがいいさ」
重い扉は、開ける時に低い音が響いた。
*
閉じた扉の内側で、空気が動くのを彼は感じた。
決して広くはない部屋の中に、ざっと見たところ、15、6人は居るのだろうか。入って来た自分に視線を向けたのか、向けないのか、いまいちこの窓が一つしかない、そして明るくもない電球が一つだけの部屋ではよく判らない。
だが、その窓よりの空間で、皆が皆、思い思いの姿勢を取っていることくらいは判る。
壁よりには、三段になったベッドがその中に六列置かれている。彼はその中で空いていそうな一つに衣類を置こうとした。
すると。
「ちょっと待てよ」
彼は不意に肩を掴まれる感触に、振り向いた。
「挨拶も無しに、寝床を決めるなんて、いい根性してるじゃないか」
「……空いてるじゃないか」
彼は思ったことを口にした。そこには、他のベッドと違い、きちんと畳まれたままになっている場所があったのだ。
だがそれを認識しながら、自分がこんな声をしていたのか、と彼は改めて驚いた。思った以上に、自分の声は低いのだ。
「おーい皆、新入りは、口が達者なようだ」
筋肉質の太い指が、肩にめり込むのを彼は感じた。自分の身体を無理矢理振り向かせようとしている。
とっさに彼はその手を掴んでいた。
「何を」
思うより先に、身体が動いていた。
ざわ、と周囲の空気の密度がずれる。
足元に、振動が響いた。
「や――― りやがったな!?」
彼は思わず目を見開く。自分の腕の行き場所を見る。
驚いているのは、彼の方だった。勢い良く相手が襲いかかって来ようとするから、彼は避けようとしたのだ。無意識に。
ただ、その「避け方」が、彼自身の「知識」にあったものとは異なっていただけなのだ。
掴んだ腕はそのまま、重力に逆らわずに、相手の力を向こう側に動かしていた。すると相手は、そのまま宙に浮かんだ。そして次の瞬間、床に身体を叩きつけていたのだ。
「アイキドーという奴か」
何処からかつぶやく声が聞こえる。小さいのに、ひどくそれはくっきりと輪郭を持って、彼の耳に飛び込んだ。
突発的なことに、彼は自分の呼吸が乱れているのを感じた。倒れた相手は、背中を強く打ったらしく、せき込みながら、それでも再び起きあがった。
「やってくれるじゃないか」
そんなこと言われても。彼は当惑する。自分の身体が勝手に動いてしまったのだ。どうしたらいいというのだろう。ちら、と周囲を見る。面白がっているな、と彼は即座にその空気感を識別する。
彼の「知識」は、これが一つの通過儀礼の様なものだ、と告げていた。嫌になるほど頭の一部分が冷静だった。いや、怒る理由が今の自分には見当たらないのだ。
おそらく自分がどんな人間であったのか、を相手は身体で確かめようとしている。それはある意味こういう場においては当然だろう、と「知識」が判断する。
自分自身が、自分のことがさっぱり判らない以上、これは仕方のないことだ、と「知識」は説明を繰り返す。
だがそれはそれとして、彼の無意識と身体は、次々に繰り出される攻撃をかわし続けていた。
ひゅう、と口笛がまた何処からか聞こえた。だが今度はそれに気を取られている余裕はなかった。自分より頭一つ大きい相手の、強い拳の突きを一呼吸前に察知して、素早く彼は切り抜けていた。
「へえ」
また何処からか、感心と馬鹿にするのと半々であるかの様な声が飛ぶ。何って響くんだろう。
避けるべきところは避け、相手の力の入り具合を見計らっていた――― 筈だった。
すっ、と足元が抜ける感覚が彼を襲った。
ち、と彼は舌打ちをする。誰かが、彼の足をすくったのだ。バランスを崩して、床に手をつく。ほこりや砂の混ざった床の表面はざらりと、ひきずる彼の手のひらを強く擦り、皮膚を引っ掻いた。
その途端、相手は彼の襟首を掴み上げた。何てえ力だ、と彼は足先が浮くのを感じる。そしてそのまま床に叩きつけられた。
とっさに体勢を変えようと思ったが、間に合わず、左の二の腕を下にしてしまったことに気付く。
やばい、と彼は思った。肩が抜けたのだ。ぶらん、と自分の腕が、きりきり走る神経的な痛みとともに動かなくなっているのに気付く。お、という声が周囲の中で一つ耳に飛び込む。だがその声の主は、誰かに制止された。彼はそう感じた。
こうなっては長くはこんなことしていられない。彼はぶらん、と左だけでなく、両方の腕をぶらさげ、相手をにらみ返した。
相手は逆上した。それは彼がにらみつけたからではない。
彼が、笑いかけたからだった。
この野郎、と相手はまるで戦意喪失したような彼の方へと殴りかかってきた。
来た。
彼はぶらりとさせた右の腕をすかさず伸ばした。
その腕をすかさず引き寄せ、そのまま彼は身体をひねった。周囲はあ、と息を呑んだ。
一瞬だった。
彼はそのまま、相手の身体を、床に強く押し付けていた。
つ、と誰かが立つ気配があった。
だが声を掛けたのは、その立った男ではなかった。立ち上がった男は、一度腕を上に上げる。判ったよ、と自分の下に居る男がその動作に対して答えた。
「終わりだよ、どけよ!」
彼は言われたままに押さえ込んでいた手を離した。
手ぇ出せ、と男は言った。彼が答える前に、相手は彼の左腕を掴むと、そのままぐっ、と外れた肩を元に戻した。
ひどい痛みが腕の付け根に響いたが、あの抜けている時の不気味な感触からは自分が解放されているのに気付いた。
相手はそのまま、ああ疲れた、と言いながら壁に身体を投げ出した。だが彼に合図を出した男は、立ち上がったまま、壁にもたれ掛かり、何かを考えているようだった。
「強いな。オマエ」
だがその時言ったのはその立った男ではなかった。
あの声だ、と彼は思った。ひどく響く声だった。
彼は目線をその方向へと動かす。
部屋の隅でだらしなく足を投げ出した、淡い金色の髪をした男がそこには居た。
奇妙にその男の声は、この部屋の中で、大きく響き渡る。広くはないと言っても、十数人が充分寝泊まりできる程の部屋だ。その中でこんな風に聞こえるというのが、彼はひどく奇妙に感じられた。
「それに、ひどくかあいらしいしぃ」
げ、と彼は腕に鳥肌が立つのを感じる。何でそう感じるのかは判らない。だが言われた瞬間、服の袖に当たる感触が気持ち悪くなった。
「なあヘッド、こいつ、オレがもらってもイイ?」
金髪の男は、あごをしゃくりながら立ち上がった男に向かって声を放った。
「何だリタリット。お前にしちゃ珍しい」
「イイじゃん。コイツずいぶんイカすと思わね?」
立ち上がると、リタリットと呼ばれた男は、状況の変化に対応しきれない彼の側に近づいた。
そして片方の手を腰に当てると、もう片方の手を伸ばした。何をするというんだろうか。彼はこの口元ににやりと笑みを浮かべまくっている男の次の行動がまるで読めなかった。
「ほーらこんな上等なな黒い髪、何か久しぶりだと思いませんかねえ? 皆さん?」
髪をつままれたのだ、ということを彼はその時やっと理解した。
「それにほら、上等の黒い瞳。おおキミの瞳はまるで黒曜石のやう…… それにほら、こんな白いお肌」
ぐっ、と左の襟元を彼は引っ張られるのを感じる。入れ直したとは言え、すぐには動かせない腕のせいで、抵抗もできず、彼は自分の肩がむき出しになるを感じていた。
ぴゅーぴゅー、と口笛が周囲から飛んだ。リタリットはそれにひらひらと手を振る。やや芝居めいた動作で、手を動かして、礼のまねごとをする。何だこいつは、と彼は思わずにはいられない。
「ありがとうありがとう皆さん~ ワタシは嬉しうございます~ ねえヘッド、どう? オレ、コイツ欲しいんだけど」
「俺は構わないがな。皆がどういうか」
ちぇ、という声が明らかに所々から飛んだ。だが、直接否定しようとする声は何処にもなかった。むしろ、仕方ねえなあ、という調子の声がその場には飛び交った。
「ヘッド、コイツ何って呼ぼう?
「BE? 俺はやだぜ? 同じ名は!」
ふとそこに、それまで聞かれなかった声が飛んだ。茶色の髪を短く切った男だった。その目はずいぶんと大きい。夜中の猫の目を彼は思い出す。
「あんたはビッグアイズだろう? でもそうだね、同じだと面倒だねえ。ねえヘッド」
「名付け上手が名付けてやれ」
ヘッドが「頭」であることに彼はその時気付いた。鶴の一声、という奴だ。何だかんだ言って、この男の言葉に誰も逆らおうとしていないのだ。
おっけー、と一言言うと、彼の前で腕を組んで、金髪のリタリットは口をへの字に曲げた。そして数十秒後、よし、と大きくうなづいた。
「BP」
「何だ、大して変わらないじゃないか」
BE――― ビッグアイズと呼ばれた男は、リタリットに向けて声を放る。
「違うよ~ ほら良く聞いて。アンタは『
げ、と周囲がざわつくのを彼は感じる。何が何だかいまいち彼はこの事態を把握できなかった。
「格好良すぎだぜ? リタリット」
何処からともなくひどく楽しそうな声が飛んだ。
「ワタシのネーミング・センスに文句がありましてっ?」
「まあいいさ」
応える様な形で、ヘッドは壁にもたれさせていた背を伸ばした。
「気に入ったなら、リタリットお前の自由にしろ」
「ありがとヘッド。アイしてるよん」
そしてこっちもね、と言うと、この男は、彼の首をいきなり抱え込むと、べじゅ、と音がする程強く、唇に唇を押し付けた。
*
「今日の当番は誰だ?」
彼がこの地に来て二週間程経った日の事だった。
毎日、毎朝この言葉が棟の全員が一斉に集められる食堂で飛ぶ。そしてその都度、棟内の各房から二、三人の手が上がる。
最初の一週間、彼は何のことだろう、と思いながら、決して多くも無く、美味くもない食事を無言のまま口に入れていた。
味の落ちた穀物は、おそらくは備蓄年月の過ぎたものだろう。野菜はさすがにこの極寒の惑星では、輸送されたものがそのまま天然の冷凍庫の中で保存されるため、一応運ばれた時期の新鮮さはあるのだが、その代わり、解凍不十分のまま、アルクのマニュアルのまま調理されるので、生煮えのことも多い。
成人男子が労働に耐えられる限界の熱量を補完するためだけのもの。どう見てもそれだけのものに彼には見えた。
しかしそれでも食事は食事だ。口に入るだけありがたいと言えた。一口一口、できる限り彼は噛みしめて食べる。
ところが、そのスプーンを持った手が、急に右隣の同室の者に引き上げられた。
「……?」
彼は目を大きく開け、周囲を見渡す。もう一人、自分の房の人間が並ぶテーブルで、手を上げている者が居た。
「よし。118号房はその二人だな」
ひしゃげた声が、前方で聞こえた。声の主の下士官は、手袋をした手にボードとペンを持ちながら確認のためだろうか、もう一度手を上げるように、と付け加えた。
彼には何のことだかよく判らなかった。右隣に座ったビッグアイズは、その呼び名そのままの大きな目を何事もなかったように伏せると、実の少ないスープの腕に口をつけて、ずず、と音を立ててすすっていた。
彼の居る「118号房」だけでなく、この棟の中には全部で二百程の房が存在していた。
ただしその房全てに人間が住んでいる訳ではない。できるだけ施設は使わないように、というのが当局の方針らしい、と彼は時々耳にする噂から気付いていた。従って房には幾つも、幾十もの欠番がある。
房だけでない。「棟」――― 一つの箱のような建物にしても、この地に建てられているのは十程もあるというのに、実際に使われているのは、彼の居る棟とその隣、二つしか無い様だった。
数日作業に出かけるうちに、彼はそのことに気付いた。有刺鉄線で巻かれた壁の外へ、彼等は定められた「昼時間」中、分厚い防寒着を身に付けて作業に出かけるのだが、その棟から人が出てくる気配は無い。「昼時間」で無い限り、人間が屋外で作業をするのに耐えられるものではない。時間差で作業をしているとは彼には思えなかった。
朝食の後、外への作業に出ようと、ベッドの上の防寒着を彼は手にする。すると同じベッドの空いた中段に服を置くリタリットと顔を合わせた。よ、と金髪男は片手を上げる。
「ちゃあんといつもよりしっかり着込んでくんだよBP。『御指名』受けたんでしょ」
「『御指名』?」
「あれ知らね?」
リタリットは腰に手を当て、へらり、と口元を歪ませた。
「オマエさっき手ぇ上げてたじゃん」
「あれは…… ビッグアイズが」
「でも上げたのはオマエよ。まあいいんじゃないですか。一緒なのはヘッドだし」
「彼が」
「何、ロコツにほっとした顔して。オレは嫉妬するよ? BP」
そう言われても。両方の眉を大きく上げて冗談なのか本気なのか判らない表情をしているリタリットに、彼はどう答えていいものか判らなかった。
実際この男は、最初からさっぱり判らないところがあるのだ。この呼び名だってよく判らない。どうして自分がこう呼ばれなくてはならないのかも、彼にはさっぱり判らないのだ。
だがこの金髪男のおかけで、他人が見た自分の容姿に関しては少しは判る部分もあった。何せこの房の――― いや、棟の何処にも、鏡というものが一つも見あたらないのだ。
記憶を失った彼には、自分がどんな姿をしているのかすら予想がつかない。リタリットの言葉によると、黒い髪に黒い目。それにどうやらここの雪焼けした連中よりは顔の色は白いらしい。
それに加えて、信じられないことだが「かあいらしい」などという形容詞までもらっている。訳が判らない。
そして訳が判らないと言えば。
この房のリーダーであるらしいヘッドに、自分をもらう、と宣言したこの金髪男そのものが、全くもって判らない。
頭の芯がまだはっきりしていなかったせいなのか、ああそういうものなのか、とあれからすぐにやってきた消灯時間に、彼は確保した自分のベッドではなく、金髪男と一緒に居た。
だがだからと言って何かあったという訳ではない。彼自身も何かがあると思った訳でもない。後になってみれば、やっぱり奇妙な気もする。だが、その時金髪男が言ったのは、こうだった。
「は~やっぱり暖かいほうがよく眠れるなー」
俺は犬か、と彼は二人分の夜具をかぶり、その中で抱きしめられているという状況なのに、そう思わざるをえなかった。
実際、数日経つと、その意味がよく判った。自分達だけではない。周囲でも、一つのベッドに二人で潜り込んでいる場合が多かった。
だがそこにはそれ以上の意味は無い。抱き合って眠るが、「抱き合って眠るだけ」である。
消灯時間が過ぎると、部屋の中はそれまでより寒さが一層増す。部屋の中の人間が動く熱量も、弱かろうが何だろうが、電灯の灯りのもつ熱量も、それらが無くなる時間には、はじめから氷点近い部屋は、それ以下にどんどんと下がっていく。
部屋の隅に一つだけある水道から漏れた水は、ただ白いだけの衛生陶器の表面を凍り付かせ、そして落ち損ねた水を氷の粒にする。
そんな中で、配給された夜具だけで眠ることは、凍死を意味する。
サイズの関係なのか、人間的に問題があるのか、運悪く独り寝を決め込まなくてはならない者は、昼間の防寒服と夜具とを組み合わせて、蓑虫の様な格好で眠る。それよりは人間の体温の方が、よっぽど安定して互いの身体を暖める。狭苦しいとか寝相がどうとか宗旨がどうとかと言ってる場合ではない。
だから頭がぼうっとしていたのが幸いしたのだ、と彼は思う。最近いきなりこの男にそんな風に言われたなら、自分はひどく警戒するだろうと。
何故なら、このひどく人懐こい男の目は、いつも決して笑っていないのだ。
*
「こっちだ」
ヘッドは門を出ようとする彼に向かって、厚い手袋をはめた手を振った。
そこには車が一台と、その内部の大半を占拠している様な機械があった。
「計測機械?」
あたり、とヘッドは言いながらニヤリと笑う。
「よく判ったな」
「何となく」
彼はぼそ、と言う。「知識」がそう口を動かした。
「だったらいい。車の運転はできるか?」
「できるとは思うが……」
どうだろう、と彼はじっと手を見る。できるのではないか、と思う。一つ一つ見るマシンの内部の意味と用途も理解できる。ふうん、とヘッドは何度かうなづく。
「まあいいさ。とりあえず行きは俺が運転する。お前は帰りにやってくれ」
「判った」
通行証をフロントガラスの内側に立てると、ヘッドは車のエンジンを入れる。
ひどく大きな振動が、シートを伝わり、身体に響いてくる。パワーのある車だ。だが結構な旧式だ。
地面からはひどく大きな音がする。積もった雪の表面が凍った、その部分をばりばりと砕きながら進む音だった。
五分刈りの頭に帽子を目深にかぶると、ヘッドはある程度門から離れたと思われるあたりで窓を閉めた。
「BP、そこのドアについているハンドルを回せ。窓が閉まる」
彼は言われた通りにした。
途端に車内の音が半分以下になる。ようやく会話のできる状態になった、と思った彼は、とりあえず疑問に思っていたことを口にした。
「何処へ行くんだ?」
「そこの真ん中のパネルを見てみろ」
前方の、右側でハンドルを握るヘッドと自分の間に、そこだけがこの旧式な車内では浮いている新式のパネルがつけられていた。
「点滅しているところがあるだろう?」
彼はうなづく。そう言えばそうだった。黒いパネルの中で、そこだけが赤く点滅している。
「何処になっている?」
「現地点から東北東に150㎞、というところかな」
「だったら俺達は今日は運がいい。それはパンコンガン鉱石の場所だ」
「パンコンガン鉱石?」
「覚えてないか?」
彼は首を横に振る。
「おかしいな、軍部ではそういう辺りのことは教える筈だが」
「軍に? 俺は軍に居たのか?」
「覚えていないのか?」
「ああ」
ヘッドはそうだよな、と驚きもせずにうなづく。
「ここに来る奴は皆そうだ」
BPは目を大きく広げると、右横を向いた。
「皆?」
「そう、皆だ。お前知らなかったな? ここに来る人間は、皆来る前に個人的な記憶を消されてるんだ」
「知らなかった……」
だろうな、とヘッドは再びうなづく。
「だから、今日お前を『当番』にしてみた」
彼は黙って、膝の上で両手を強く組み合わせる。ここは、そういう所なのだ。
「俺は…… そんな刑罰を加えられる様なことをしたのか?」
「判らない」
ヘッドは短く答える。
振動と共に向かう方角から、弱々しい恒星の光が飛び込んでくる。まぶしくはない。まぶしいと感じる程の熱量がそこには存在しない。
「だが予想はつく。ロクなことを思い出して欲しくない奴ら、という意味なんだろうな」
「思い出して欲しくない」
「ああ」
「誰が」
「決まってるだろう。ここへ俺達を送り込むことが出来る奴らさ」
ああ、と彼はうなづいた。それでも彼の「知識」はここが合法的な流刑の惑星だということは知っていた。彼は合法的に記憶を消され、合法的に流されているのだ。合法的にそんなことをできるというのは。
「俺達は政治犯だ」
「……」
政治犯。だがその言葉は彼にとって、ひどく自分自身とは遠いものに感じられた。本当にそんな大それたことを自分がやったというのだろうか。
「ま、どんな内容かは人それぞれだろうがな」
「あんたもそうだと言うのか?」
「たぶんな」
たぶん。それ以上のことはいえない、とヘッドは暗に含める。
「お前には、何か残っているものがないか? BP」
「残っているもの?」
「何でもいい。自分の中で、意味が判らないままに浮かんでくるものは無いのか?」
彼は首を傾げる。言われていることの意味がよく判らなかった。
「無いなら、いい。その方がずいぶんましだ」
「無い方が、いいのか?」
「わからん。少なくとも気は楽だろう」
そういうものか、と彼は再び口をつぐんだ。
*
窓の外の景色は、殆ど変わることなく、ただひたすら白い平原が続いていた。遠い向こう側に山は見える。BPの左側の窓からは、葉の無い木々のシルエットらしきものも見える。だがその眺めが変わることはない。延々同じ景色が続くだけだった。
「で、パンコンガン鉱石っていうのは何なんだ?」
「一応、ここでしか採掘されない鉱石のことだ」
「地域限定?」
「特産物、らしいな」
彼はふっと口元を緩めた。流刑惑星には似合わない単語だった。
「何でもごく少量でも結構なエネルギー源になるとか、ここの看守達は説明を受けてるらしいな。うちの政府が帝都に納めるためのものらしい」
「帝都の」
その言葉は彼の口からすんなり飛び出した。
「帝都政府に関することは、お前どのくらい覚えてる?」
「レーゲンボーゲン星系は辺境だから、基本的に自治権を持っているけど、その代わり、向こうの言うがままに、出すものは出さなきゃならない」
まるで子供の回答だ、とBPは思う。
「そう。確かそうだ、と俺も思った。一応ウチの房の皆にも聞いたが、確かにそうだった」
「房の皆にも?」
彼の中に、ふっとあの金髪男の姿が浮かぶ。ヘッドは前を向いたままだったので、彼の微妙な表情の変化には気付かない。あれも政治犯だというのだろうか。ひどくそれは想像のしにくいことだった。
「ただしその中で最も需要が高いのが、あの鉱石だというのは、ここに来て俺も初めて知ったんだ」
確かにそうだろう。彼の「知識」の中には、その鉱石の名すら無かった。
「それならわざわざこんな『当番』を決めさせて行かせなくとも、皆が皆その作業に出ればいいものを」
ヘッドは首を横に振る。
「そう単純なものではないらしい」
「単純じゃない?」
「俺もよくは知らん。ただ、変なもので、それは移動するんだ」
「移動? って鉱石だろう?」
「鉱石だ、と思う。だがそれは逃げるんだ」
彼は眉を寄せた。ふとあの金髪男が、彼のそんな表情を見ると、ロコツに思ってることが判るよとげらげらと笑ったことが浮かび上がる。
「正確には、所在が掴みにくいんだよ、かなり。じゃあ人海戦術だったらいいか、というとそれも良くないらしい」
「何で」
「ほれ」
ヘッドは後部座席を占領している計測機械を指さす。
「ある種のパルスを感知するタイプだ。で、常に測るんだが、ある一定以上の温度のものが多数あると、パルスを出さなくなるんだよ」
ああ、と彼はうなづいた。
「だから、人間が多いというのも困る。どうも相手は実に敏感なお嬢さんなんで、せいぜいがとこ、二~三人だな。ごまかせる熱量は。それでもその反応がいつも一定の場所にあるとも限らない。だから下手すると、この役割は一日を越えることもある」
そしてヘッドはこう付け足した。
「つまり、何か一つ取って来るまでは帰って来るなってことだ」
「なるほど」
納得できると言えば、納得ができた。
「でもまあ、今日の俺達は、運がいい。反応が消えなければ、そこで100グラム採掘してくればいいだけのことだ」
「たった100グラム?」
「多すぎても少なすぎてもいけないらしい。その辺りのことは俺は詳しくないから、後でジオに聞け。奴の持ってる知識が詳しい」
ジオというのは、同じ房に居る一人の呼び名だった。
同じ房に居る人間には、それぞれ呼び名がある。他の房がどうであるのかは知らないが、番号で呼ばれるのは彼自身も好きではなかったから、きっと多かれ少なかれ、そういうものがあるのだろう、と彼は解釈していた。
あれから後で彼が数えてみたところ、彼等の房には、総勢15人が居た。彼が入って16人になったのだ。
そしてその15人がそれぞれ、その元々持っていた知識やら、腕やら外見からそれぞれの呼び名がつけられている。
ただしヘッドは別だろう、と彼も思う。おそらく何か別の名があったのだが、この房のリーダー格になった時に、その名がついたのだと思われた。
だが彼も前の「ヘッド」はどうなったのか、とは聞けなかった。ここに居ないのなら、答えは一つしか無いのだ。
「そう言えば、奴と上手くやってるようだな」
「上手く? そうかな?」
「リタリットが人に懐くことは俺が知る限り、無かった。珍しい」
「そうか?」
「そうだ」
そうだろうか、と彼は思い、そうかもしれない、と思い返す。
「この場では、誰であって居たほうがいいに決まっている。凍死する割合も減る。顔が凍らないで済む」
「顔が」
ぷ、と彼は吹き出しそうになった。
「笑い事じゃない。笑った方がいいのは確かだが。知ってるかBP? 表情筋は使わないと鈍るんだぞ?」
「よく判らないな」
「笑っていないと、笑い方を忘れるんだよ、人間ってのは」
だからできるだけ、感情と表情を動かす様にしなくてはならない、とヘッドは付け加える。
「俺は、忘れたくない。奴もそうだろう。あれは本当に笑ってる訳じゃあない」
「どうしてそんなことが判る?」
その問いには答えが無かった。
しばらく車内には沈黙が続いた。
彼はその沈黙の中で、房の人間を一人一人思い出してみる。皆確かに一癖も二癖もありそうな者達だった。
先程ヘッドが口にしたジオもそうだが、例えば今朝がた彼の手を挙げさせたビッグアイズもそうだった。その名の通り、強烈な程の大きな目と、その目が置かれるに充分に整った顔立ちをしている。
そう言えば、と彼は思い返す。よくこのヘッドの寝床に潜り込んでいるのはあの男だったよな、と。それで今朝がたの行動も納得が行く。
他にも、猫の様な金色の瞳を持つトパーズ、それにあの最初に彼の腕試しとしてかかってきた男は何故か
最近の者は、皆リタリットが付けたのだと言う。
「奴は、どういう意味があるんだ?」
「何?」
「リタリットは」
「ああ…… 奴はどうだ? お前としちゃ」
「さあ。まだ判らん。変な奴だとは思うけど」
ヘッドはそれを聞くと、にやり、と目を細め、片側の口元を上げた。何となくその顔がひどく子供っぽいのに彼は驚く。
「奴は、『
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