うんこな私と汚い後輩

@Izu_Izu

第1話


すべては、私の軽率なう〇こから始まった。


「ちょっと追分おいわけ! なんなのさっきの動き! やる気あんの!? バド舐めてんの!? 死ぬの!?」


 ラケットがシャトルを打つ音をかき消して、私の声が体育館に響き渡る。


「ひっ、ご、ごめんなさい……」


 私が怒鳴り始める前から肩をビクつかせていた女の子は、怒声を浴びてその目に涙を浮かべる。


 華奢な体つきに、色白の肌。たれ気味の大きな目と、それが隠れるくらいまで伸びたサラサラの黒いボブヘア。


 いかにも、泣き顔がよく似合う女の子って感じだ。


「どうして、あんだけ確認したフォーメーションの動きが出来ないのよ!」


「ずみまぜん……」


「泣けばいいとでも思ってるわけ!? そういうところが本当に腹立たしいのよ!!」


 追分は、ただただ大粒の涙をこぼして肩を震わせる。


「ま、まあまあ、それくらいにしてあげなよ、かみあん……」


 チームメイトの京きょうが私を止めようと割って入った。


「みぃちゃんも反省してるみたいだし……。ほらみぃちゃんも顔上げて?」


 気まずそうに優しい声をかける京。


 みぃは鼻を啜りながら「はぃ」と声にならない声を儚げに絞り出す。


「ふんっ」


 私は踵を返して、体育館を出る。チームメイトが複雑な表情で私の背中を見送るのを感じながら。


**************


 トイレの便器に座っていると、スマホが鳴動し、メッセージの受信を告げた。


 ――1-Bの教室に来てくださいね    15:43――


 大きなため息をついてから、トイレを出て、私はラブコールに指示された場所に向かう。


 今日は土曜日。

 学校には、私たちみたいに部活をしに来た生徒はいるけれど、後者の中はがらんどうだ。吹奏楽部だろうか、どこからか楽器の音が聞こえてくる。


 真夏だというのに、薄暗い廊下はひんやりとしている。

 汗の粒が浮かんだ肩が空寒い。


 1-B。呼び出された場所であり、のクラスでもあるはずだ。


「来たわよ。追分さん」


「あ、かみあん先輩。お疲れ様で~す」


 窓の桟に手をついて外を眺めていた女の子が振り返った。


 華奢で、色白で、大きなたれ目に、サラサラの黒髪ショートボブ。

 さっきまで私に怒鳴り散らされてビクビクしていた追分みぃは、軽いノリで挨拶して、そして笑っている。


 クスクス、クスクス、と。


 追分はスキップするような足取りで私の目の前に寄ってきた。


「かみあんせんぱぁい。二人の時は『みぃ』って呼んでくれる約束ですよねぇ?」


「そうだったわね。ごめんね、みぃ」


「っていうか、来るの遅くないですかぁ?」


 クスクス、クスクス。


「そ、そう? みぃの連絡の後、すぐ来たつもりだったけど――」


「ぁぁぁあああ!?」


 突如、さっきまでの可憐な声が嘘のように追分が怒鳴った。


「っひ……」


「……。あ、ごめんなさい、大声上げちゃって」追分――みぃがクスっと笑う。「でもなぁ。先輩には46秒も待たされちゃったしなぁ」


「それは、その……。ごめんなさい」


 みぃは口の前に立てた人差し指を振る。


「ん~ん。謝られても先輩に無駄にされた時間は返ってこないんですぅ。だからぁ~、ん~~」


 そうだ! とみぃが手を打つ。


「待ちくたびれて足が疲れちゃったから、足、揉んでくださいよ」


「足……?」


 私の返事を待つことなく、みぃはすとんと椅子に座った。そしてするすると靴や靴下を脱ぎ始める。


「はい、どーぞ」


 どーぞ、と言われても。

 椅子に座ったみぃの足の位置は、当然床と同じ高さだ。


「えと、そこじゃあ位置が低すぎて……」


 瞬間、みぃは眉をいびつに寄せる。


「はあ? 床に座ればいいじゃないですか。ちょっとは考えたらどうです? 人間やめたんですか?」


「…………」


「ほら、固まってないで早くここに座って、座って」


 みぃは足先をぴょこぴょこさせていた。




 私は、しぶしぶ地べたに腰を下ろす。

 目線は、ちょうどみぃの膝の高さになった。


 みぃの真っ白な内ももが、汗に濡れたハーフパンツの陰の中に消えていく。

 本当に、お餅みたいにすべすべで綺麗な太ももだ。

 で、上を見上げると、控えめな胸の膨らみの後ろに、にんまりとした笑みを浮かべたみぃの顔があった。


 何か、企んでいるな。


 私が直感的に危険を感じた、その瞬間だった。


「はい、良い子ですね~。じゃあどうぞ!」


 みぃはいきなり両足を私の顔面に押し付けてきたのだ。


 汗をかいて冷えた後の足裏の、びちゃっとした感覚が私の額から鼻から唇から、全部を襲う。


「なっ! いやっ! うぇ、ゲホゲホ!」


「えぇえ~何ですかかみあん先輩、その反応~。まさか私の足が臭いとか言うんですかぁ? すごい傷つくんですけどぉ」


 臭いに決まってる! さっきまであんな激しい練習してたんだから!

 なんて口が裂けても言えない。鼻腔は裂けてしまいそうだが。


「く、臭くないわよ、あたりまえじゃない……!」


「あぁ~良かったぁ。たまたま3日間靴下洗ってなかったんです。だから不安だったんですよぉ」


 こいつ……!


 クスクス、クスクス。

 みぃは無邪気に笑っている。


「ほらぁ。かわいい後輩の、きれいな足なんですから。早く揉んでくださいよぉ」


 うぅぅ。


 私はみぃの白いすらっとした足先を、部屋に出た大きめの虫を見る気持ちで眺める。


 確かに、色や形は綺麗だ。

 どこかの美術品の彫刻のように、きめ細やかな肌、均整の取れた指の長さ、血色のいい楕円形の爪。


 でも、指の間や爪には靴下の繊維が黒々と絡まっている。なにより、さっきまで大汗かいてバドミントンをしていた事実が、私を怖気づかせる。


 ええい、もう!

 トイレ掃除みたいなもんだと考えろ!


 私は悟りの境地でみぃの左足を掴んだ。


「うん。そうそう、両手で足を押さえ込んで、両の親指で一点に力を加える感じ――。かみあん先輩、すっごい上手」


「そりゃどうも」


「さっきまでの部活の疲れが飛んでいきます~。――そうそう、部活といえば、先輩良い感じに嫌な先輩でしたよ。思わず泣いちゃいましたもん」


「なっ、あんたがそうしろって言うから私は――んンッ!」


 空いている右足が鼻先に突きつけられ、その刺激臭に私は思わず閉口した。


「バドが強くて、美人で、厳しくて、しかも勉強もできる。やっぱりかみあん先輩は何でもできちゃうんですね。憧れちゃうなぁ」


 クスクス。


 こんな状況で、何、白々しいことを。


「皮肉にしか聞こえないわ……!」


「別に皮肉のつもりはありませんが――でも一つだけ言うとすれば、先輩ってサービス精神は足りないですよねぇ」


「は? サービス精神?」


 いま、法治国家に生きる人間としてはこの上ない奉仕をしてやってるつもりだけれど。


「ええ、相手を思いやる心です」


 みぃは可愛らしいたれ目を細めて微笑んだ。


 イヤな予感がする。


「だって、私の足、よく見ると汚れてるじゃないですか」


 そうね、よく見なくてもそれは明らかだ。


「これ、気が利く人なら放っておかないと思うんですよぉ」


「……何が言いたいの?」


「舐めとってください」


 う、嘘でしょ……?


「嘘でも冗談でもないです」


「イ、イヤよ、そんなの――」


「そ・れ・と・も!」みぃはスマホの画面を突き付けてきた。「、全世界に拡散しちゃいましょうかぁ? うんそれがいいですね!」


 林が映っている。

 林の奥に、人影があった。

 人影は、スポーツウェアを着て、木の影にしゃがんでいる。うずくまっているようだ。

 撮影者は、だんだんその人影に近づいていく。


「や、やめて……!」


「じゃ、舐めてくださぁい」


 クスクス、クスクス。


 撮影者は、音をたてないように人影に近づいていく。

 シャーっという、何かが水しぶきを上げる音が聞こえ始めた。


 動悸がする。眩暈がする。

 私は目を瞑った。みぃの足も、あの動画も、見ないために。

 息が荒くなる。

 ツンと刺激臭が鼻腔を襲う。


『ちょ、え! ……え、なに!? 撮ってんの!?』


 私の声が、チープなスピーカーの音質で流れた。


『クスクス、クスクス』

 

 撮影者の笑い声。


 シャーというしぶきの音。


『ふざけ……! 撮らないでよ!』


「ほらほら、早くぅ」


「あ、あんたってホント汚いわ!」


「はぁ? 汚いのは先輩ですよね?」


 鼻先が何かにつままれた。

 臭いが一層きつくなったから、みぃが足の指でつまんだのだろう。


 ああ、いやだいやだいやだ!

 みぃの足はどこにある? この辺? もうすこし?

 頬の筋肉が痙攣しそうになるのを感じながら、舌をチロチロと振ってみぃの足を探す。


『ほんとに! ほんとにやめて! 止められないから! もう無理だから!』


『クスクス、クスクス』


 ああ、地獄。


相賀美愛あいかみあせんぱい』


 クスクス。


『県立西野原高校2年生』


 クスクス、クスクス。


『汚いの、たくさん出しましたねぇ』


 もう、嫌だ…………。


 あの日、ランニングに出る前に。

 ちゃんとトイレに行っていさえすれば……。


 部を率い、厳しい先輩として後輩に恐れられていた、輝かしいかつての自分。

 後輩の復讐にあい、地べたに這いつくばって、その足を舐めようとしている今の自分。


 あの日から、後悔だけが頭の中でぐるぐると巡り続けている――。


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