第45話 不安
「──園田くん」
名前を呼ばれ振り返る。と、そこには松岡拓海の姿があった。
「……おはようございます。朝練はどうしたんですか」
まだ朝の八時過ぎ──サッカー部なら毎日朝練に勤しんでいる時間帯だ。平部員ならまだしも、拓海はキャプテンである。
「おはよう。テスト前だから朝練はないよ」
そう言われてみれば、来週には定期テストが控えていた。強豪サッカー部も、テスト前には休みがもらえるらしい。
「……で、何の用ですか?」
下靴を片付けながら尋ねる。拓海は一瞬複雑な表情をしたが、すぐに穏やかな表情に戻って言った。
「お礼だよ。この前は有益な助言をもらったからね──ありがとう」
予想外の言葉に思わず動きを止める。
「そんなことを言いに来たんですか。わざわざ」
つい、思ったままが口をついて出てしまった。
一応、おおまかにではあるが事の顛末については耳にしている。拓海はうまくやってのけたのだ。もちろん、祐輝はそれを期待して拓海をけしかけたのだが。
「お礼言われるほどのことじゃないです。それだけなら失礼します」
早々に踵を返そうとしたが、拓海はそう簡単には解放してくれなかった。
「そう言わずに、ちょっと付き合ってよ」
なんだか嫌な予感がする。きっと「ちょっと」では済まないのではないだろうか。
「……これ、僕に選択の余地ってあります?」
無駄な問いだと思いつつ言ってみる。すると拓海は驚いたように眉を引き上げた。
「もちろんあるよ。……君が『ない』と思うのは自由だけどね」
やっぱり、食えない奴だ──お互いにそう思っている可能性はあるが。祐輝は諦めて拓海に従うことにした。
拓海に連れられてたどり着いたのは、あの日二人で話した空き教室だった。が、始業前だからか扉には鍵がかかっているようだ。
拓海はドアが開かないのを見て取ると、窓の方に移動しカタカタと窓を揺らし始めた。どうやら鍵のタイプが古いのと、きちんと奥までかけられていないのとで、うまくゆすれば開いてしまうらしい。
「そんなことしていいんですか」
半ば呆れながらつぶやくと、拓海は「うーん、まあ」と曖昧な返事をした。と、鍵が開いたようだ。カラカラと音を立てて窓を開けると、拓海はひらりと窓枠を乗り越えた。
「別に、盗まれるような備品もないし、大丈夫でしょ」
教室の内側に降り立った拓海はそう言って、祐輝を誘う。仕方がない。念のため周りを見渡し、近くに人がいないのを確認してから、祐輝は教室へと足を踏み入れた。
「──で、本当の用は何ですか」
拓海が口を開く前に先手を打つ。別にそれで何かが有利になるわけでもないのだが、この後何が待ち構えているにしろ、さっさと終わらせてしまいたいという気持ちが勝るのだ。
「……お礼が伝えたかったっていうのは本当だよ。って言っても君は納得しないか」
拓海は今日も適当に選んだ机に腰かけた。
「一番の目的は……そうだね。君ともう一度話したかったってとこかな」
そう言ってこちらに向かって意味ありげな笑みを浮かべる。
「……聞きたいことがあるなら、どうぞ」
祐輝は立ったままで尋ねた。つい癖で腕を組みそうになるが、さすがに先輩の前なのでやめておく。
拓海はふっと息を吐き出し表情を和らげた。
「君の助言のおかげで、俺は──少なくとも表面的には、玲奈を助けられたと思う。改めて、あの時は本当にありがとう」
拓海はまっすぐな目で言った。ここまで誠実さを見せられるとなんだか居心地が悪い──いや、何もやましいことはないのだが。
「大したことはしてませんよ」
祐輝は窓の外に視線を移しながら答えた。本当に、それほどのことはしていない。中途半端にヒントを与え、唆したのは事実だ。だがそれを受けてどうするか──そもそも何か行動を起こすかどうかも含めて、全て拓海次第だった。
「君がどこまで知ってるかは知らないけど……写ってるのは俺だって宣言してきた」
拓海の言葉にうなずく。おそらく、それが一番確実だ。
もちろんそれは嘘なわけだが、嘘であることを証明できる人間はいない──写っている本人、あるいはあの一件を企てた人間でさえも、自らの所業を明かさずに拓海の嘘を暴くのは困難だろう。
拓海の説明によると、玲奈は自分の教室の前に群がる野次馬たちに一人で対峙していたという。その度胸はさすがと言うべきかもしれない。目立つことを極力避けてはいたものの、やはり生徒会長は伊達ではないようだ。
「まあ、五百万には驚いたけど」
「五百万?」
聞けば、玲奈は「希望者」にそんな金額を提示したのだと。確かに、引き受けたくない仕事でも断ってはいけない、高い料金を提示して相手に依頼を取り下げさせろというのはビジネス界の常識かもしれない。
だがそのせいで、それならあの写真の男はその金額を払ったのか、と詰め寄られたらしい。
「まあ、そのおかげですんなり割り込めたんだけどね」
なるほど、そこで「写ってるの、俺だから」となったというわけか。詰めの甘さが結果としては身を救ったのだから物事はわからない、と祐輝は思う。
「それで、園田くん……聞きたいことは聞いていい、って言ったよね」
なんとなく声のトーンが変わったような気がして向き直ると、拓海はまたまっすぐにこちらを見ていた。
「なんですか」
その表情からは、何を考えているのかまでは読み取れない。拓海は一瞬目を伏せ、それから真剣な眼差しを祐輝に向けた。
「あの日、あの場に──掲示板の前にいたのに、玲奈を助けなかったのはどうして?」
「……!」
思わず言葉に詰まってしまった。昇降口にいた祐輝の姿が拓海に見えたとは思えないが──。
「……どういう、意味ですか?」
慎重に聞き返す。
「そのままの意味だよ。君はあの時、あそこにいたんだよね」
この言い方なら、拓海は直接祐輝の姿を目にしたわけではないのだろう。だが確信はあるようだ。
「あの日、君は俺に『今度は』助ける気があるかと聞いてきた。それって、俺が助けなかったことを知っていてこその発言でしょ」
なるほどな、と祐輝は内心舌を巻く。そんな言い回しを手掛かりに、あの場──正確には、掲示板の前ではないのだが──にいたことを言い当てられるとは思っていなかった。
「……僕ならあなたよりも上手く助けられたと、そう言いたいんですか?」
今ひとつ拓海の質問の意図が読めない。
「そうとは言ってないよ。それは俺にはわからない」
拓海は静かに言った。では何が言いたいのか──そんな疑問を飲み込む。
「……できなくはなかったと思います」
祐輝は言葉を選びながら答えた。
「たとえば、あの『浮気現場』には、本人と浮気相手、それからあの写真を撮った人物、の最低三人がいたことになります。そんなこと、あれ自体が『作られた』状況でない限りあり得ない。でも」
いったん言葉を切り、拓海の様子を確認する。口を挟む気はないらしい。
「人は、自分の信じたいものを信じたいようにしか信じない生き物でしょう」
片方の眉が軽く吊り上がるのが見えた。
「あの告発の不自然さを指摘しても、無駄だったと?」
正直、「無駄」で済むならまだいいほうだと思う。現実はおそらくもっと悲惨だ。
「退屈な毎日の繰り返しの中で刺激に飢えている──なんて陳腐な言い回しですが、実際そうなんですよ」
日常の中の刺激だの、人生の充実だの、そんなものは本来自力で見つけるべきものだ。だがそれを理解している高校生なんてごく稀だろう。
だからみんな簡単に何の気なしに「何かおもしろいことないかなあ」なんて口にする。
「いわれのない罪で糾弾されているところに颯爽と現れる救世主──ドラマの中なら面白いかもしれませんが」
現実にそんなことをしたら。三人とも、刺激に飢えた群衆の恰好の餌食になるほかなかっただろう。ややこしくなるどころの話ではない。
「……本当の意味でけりをつけられるのは、渦中の二人だけです。それに」
意図的に一呼吸おく。
「……彼女は、『あなた』に助けられたかったんじゃないですか? 僕じゃなく」
「──!」
予想外の言葉を浴びせられたせいだろう。拓海は大きく目を見開いた。
「そんなことは……」
そう言いかけ、唇を噛む。
「彼女は──玲奈は、きっと自分で何とかしたと思う。強い……人だから。あの時だって──」
おそらく、その廊下での一件を言っているのだろう。たしかに、玲奈はああ見えておとなしいわけでもないし、憶病なわけでもない。不必要に目立つことを厭うだけで、その中にはきちんと芯が通っているのだ。
「……君は知らないだろうけど、玲奈は俺を好きなわけじゃない」
拓海はそう言って、かすかに顔をゆがめた。
「そんなことないと思いますけどね」
熱を込めるでもなく淡々と答える。拓海がどう思うかは別として、祐輝には慰めのつもりはなかった。
「好きじゃなかったら付き合わないでしょう、普通」
あえて月並みな表現を投げかけてみる。相談というほどではないものの、本当は玲奈から迷いを打ち明けられていた。告白されてしまったがどうすればいいのか、と。もちろんそれを張本人である拓海に伝えたりはしないが。
「いや……」
拓海の表情は晴れない。祐輝は内心ため息をついた。当事者というのは案外わからないものなのかもしれない。最初の最初──きっと拓海に告白されたその瞬間から、玲奈は少しずつ拓海に惹かれていっているのに。
告白されたくらいであんなに迷い悩んでいたのは、決して恋愛経験の不足だけが理由じゃない。それなりに好意があったからこそ、可能な限り誠実に答えなければと気負っていたのだ。
好きになれない相手なら初めからそんな気持ちは生まれない。その場合に生じる悩みがあるとするならば、いかに波風を立てずに断るかというところだろう。
「こんなこと、ライバルに打ち明けるなんてどうかしてると自分でも思うけど」
拓海はどこか力なく笑った。
「だから……違いますって」
その発想は一体どこから生まれたのだろう。祐輝にとって、あくまで玲奈は「玲奈」でしかないない。恋愛感情を抱く対象ではないのだ。
「いずれは君も気づくときがくるかもね──玲奈の魅力に」
拓海はそう言って立ち上がった。言いたいことを言い、気が済んだのだろうか。
「……ちなみにその魅力、って何なんですか?」
祐輝の言葉に、拓海は意外そうな顔で振り返る。
「なんだと思う?」
問い返されたところでわかるはずがない。祐輝が短く「顔」とだけ答えると、拓海は吹き出した。
「ちょっとは当てようって気、見せてよ」
言いながら可笑しそうに笑っている。拓海は気付いているのだろうか──「違う」とは言わずに、違うと表明していることに。
「じゃあ、その話もいずれ……ね」
拓海のそんな言葉に、「いや結構です」という声がのどまで出かかった。
「……」
口を開かなかったのは、ほんの一瞬だが、拓海の遠い、そしてどこか陰のある目を見てしまったからだ。
「俺に守れるか……?」
拓海は囁くようにつぶやいた。玲奈を守り切れるかどうか──それは拓海次第だろう。何か言うべきか決めかねていると予鈴が鳴った。まるで見計らったかのようなタイミングだ。
「それじゃ、行きますか」
大きく伸びをしながら拓海が言う。そしてちらりとこちらを振り返ると、また身軽に窓枠を乗り越えた。
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