第32話 不審者

 翌日、玲奈は宣言通り朝から休まずに登校した。興味本位の視線にさらされることはなかったし、どうやら敷かれた箝口令はきちんと機能しているらしい。

 祐輝や洋介にしても、その時一緒にいて事情を知っている他の一年生たちにしても、言われた通りに口をつぐんでくれているようだ。玲奈は人知れずほっとする。

 一方、坂出先生が欠くことはできないと言った「注意喚起」もちゃんと行われた。


 曰く、昨日の放課後、駐輪場で女子生徒が見知らぬ男に腕を掴まれる事案が発生したとのことだ。男は私服姿で、卒業生や父兄など学校に関係のある人物なのか、全く無関係な人間なのかもわからない。在校生が目くらましのために着替えていた可能性だってある。

 登下校時は校門が解放されており、人目を盗んで外部の人間が校内に侵入することも考えられるから特に注意するように、とのお達しだ。教員も校内のパトロールを強化するなどできることはするが、完璧な警備は実質不可能なので各自でも警戒しなさいということらしい。

(ダミーってわけね)

 玲奈は担任である清水先生の話を聞きながらこっそり感心する。詳細を伏せて曖昧な注意喚起をするくらいなら、別の、ありもしない事案をでっち上げてしまえばいいのだ。大して興味のないような物事でも、隠されると無性に知りたくなるのが人間というものなのだから。


「──校内で不審者とかほんとやめてほしいよね」

 彩佳が不快感を隠さずに言う。

「それ。手掴まれた子が抵抗したら逃げたんでしょ? 最低」

 そう言って、琴音も思い切り顔をしかめた。軽く周囲に聞き耳を立ててみると、やはり何人かの生徒がこの件を話題にしている。特に女子生徒はそれなりの衝撃を受けたようだ。

「え、でもその子が無事でよかったと思うんだけど」

 玲奈はぼろが出ないよう、慎重に口を開く。すると琴音は頬杖をついてうーん、と唸った。

「いや、もちろんそれはそうなんだけど、犯人が汚すぎるっていうか」

 琴音はそう言って眉間にしわを寄せる。玲奈と彩佳は黙って続きを待った。

「ほら、その子がどんな抵抗の仕方したのかはわかんないけどさ、女子高生がとっさにできる反応なんて知れてるじゃん。その程度の抵抗で逃げたってことは、犯人は抵抗されること想定してなかったんだよ絶対」

 なるほどそういう見方もあるのか、と玲奈は思わず感心する。

 いや、でも案外犯罪というのはそういう側面を持っているのかもしれない。通り魔やひったくりの被害に遭うのだって、大抵は女性やお年寄りだ。屈強な男性が襲われたなんていう話はほとんど聞かない。

「あー、それは最低だわ」

 彩佳はそう言って首を振る。それを見た琴音が「それか」と言葉を継いだ。

「その子が実は全国常連の空手部員だったとかいうオチ?」

 詳しく知っているわけではないけれど、うちの空手部はそう強いわけではない。琴音の口ぶりからも、それが真実だと確信しているわけではないのがわかる。玲奈と彩佳は声を上げて笑った。

「むしろそうであってほしいかも……か弱い女子高生襲ったつもりが黒帯女子でボコボコに返り討ちにされるとか痛快って感じじゃない?」

 玲奈の発言に三人で笑ったところで、一時間目のベルが鳴った。「それじゃ」と玲奈は自分の席に戻り教科書類を準備する。

 琴音も彩佳も、きっとそれなりに不安を感じているのだろう。それでも二人が「私たちも気をつけようね」と言わなかったことが、玲奈には言いようもなく嬉しかった。

 これはたとえば「誰々さん、風邪でお休みだって。私たちも気をつけなきゃね」などと言い合うのとは根本的に違うのだ。

 きっと二人は無意識なのだろう。けれど責めるべき相手を見誤ることのなかった彼女たちと友だちで本当に良かったと、玲奈はしみじみ思うのだった。

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