第2話 大改造計画

(なんであんな意味不明な誘い文句に乗ったんだろう……)

 そんな後悔にさいなまれながらも、玲奈は件の一年生について廊下を歩いていた。

 どこに連れていかれるのかはわからないものの、目的地は少なくとも校内らしい。もう一度上履きに履き替えさせられたからだ。

 百八十センチ近くありそうな彼とじゃ歩幅もかなり違うだろうに、玲奈は難なくついていけている。ということは、こう見えてこちらを気遣ってくれているのかもしれない。


 と、彼はある教室の前で立ち止まった。

(ここって……)

 よく見知った場所だった──それも、とても。

「開けてよ」

 彼が入口のドアを指して言う。玲奈がこの部屋の鍵を管理していることを知っているらしい。

「いや、あなた部外者じゃない」

 玲奈が呆れて言うと、彼は無邪気に首を傾げた。

「じゃあ入るよ──生徒会」

「はい?」

 そう、彼が玲奈を連れてきたのは、他でもない生徒会室だった。


 玲奈は観念して鍵を取り出した。さっきまで意味の分からない生意気なだけの一年生だった子が、今では入部希望者なのだから仕方ない。

 ドアを開けると、彼は玲奈が何か言う前にさっさと部屋の中に入ってしまった。

(遠慮とか、躊躇とか、なんかそういうのはないの……?)

 ため息を飲み込んで電気をつける。やや薄暗かった部屋がパッと明るくなった。

「──はい、じゃあ早速。クラスと名前は?」

 振り返って問うが、彼にこちらを見る気配はない。自分の鞄から何やらごそごそと取り出しては机に並べている。

(あ、ほらまた勝手に……)

 呆れながら近づくと、彼はいったん手を止めてこちらを見た。

「一年A組。園田祐輝」

 それだけ言うと、また鞄を探り始める。

(へえ、A組なのね……)

 思わず感心してしまう。学力伸長クラスと位置づけられるA組からD組の四クラスの中でも、A組はトップクラスの成績を誇る生徒が集められるクラスだ。

 一年生の場合、A組には入試の成績順に上位四十人が振り分けられている。かくいう玲奈も一年の時からA組なわけだけれど。


「──はい、じゃあ早速」

 たぶん意図的にだろう、祐輝は玲奈と同じ言い回しで手前の椅子を指した。座れということらしい。

「あの、いったい何を……」

 玲奈がためらっていると、祐輝は玲奈の肩にさっと手を回しそのまますとんと座らせた。そして自分はその向かいに腰を下ろす。

(いやいやいやいや、何これ、何のつもりなの……)

 表面的には平静を保ちながらも、頭の中はほとんどパニックだった。すぐ目の前に祐輝の顔がある──身を乗り出してこちらをのぞき込んでいるのだ。

(いや、ちょっと何、この状況……)

 間違いなく苦手なタイプではあるけれど、こんな間近で男の子と見つめあっていてどぎまぎせずにいられるほど玲奈は社交的なタイプではない。かといって今更目を逸らすこともできず、目の前の祐輝の顔を見つめる。

 ニキビ一つない肌は滑らかで、毛穴もひげも見当たらない。わりとくっきりした二重まぶたのわりに目元は涼し気で、何より顔全体のバランスが整っていた。端正な顔立ちというのはこういうのを言うのだろうと思わせる顔だ。

「……よし。オッケー」

 祐輝はそう言うと玲奈から目を離し、机の上に出してあったペンケースのようなものを探り出した。

「はい、目つぶって」

 なんとなく有無を言わせぬ雰囲気を感じ取って、玲奈は言われた通りに目を閉じる。祐輝が手に取ったのが何だったのかを確認する間もなかった。

 と、まぶたにひやりと冷たいものが押しあてられる。

「え、ちょ、何!?」

 玲奈は慌てて声を上げたが、祐輝に手を止めるつもりはないようだった。どうやらまぶたには何か液体が塗られているらしい。臭いからして化粧品だろう。

(いや、校則違反!)

 とっさにやめさせようと手を伸ばすが──何か入るのが怖くて目は開けられなかった──祐輝にあっさりと流されてしまう。

「はい、いいからしばらくじっとしてて」

 祐輝は半ば呆れたように言うと、再び作業に戻った。

 玲奈ももう抵抗は諦める。今ではまぶたの違和感よりも、心臓の暴れ方の方が深刻だった。

(私……何やってるんだろう)

 好きでもない──むしろはっきりと苦手意識を覚えるような──男子相手にもこんなに緊張してしまうのがいやだった。そしてたぶん、この「慣れていない」感じは、祐輝にも伝わっている気がする。

 とにかく早く終わってくれと祈るしかなかった。


 しばらくして、祐輝が口を開いた。

「……よし。じゃあ、ゆっくり目開けて」

 玲奈は目元にいろいろと違和感を覚えながらも言われた通りにする。と、目を開けたすぐそこに祐輝の手が見えて、反射的に目をつぶってしまった。

「あ、だめだめ開けて。そう、そのまま」

 すぐに叱られ、言われた通りもう一度目を開ける。すると、祐輝の手は目元から離れていった。

「はい、これ。見てみて」

 何かと思えば、渡されたのはシンプルな折りたたみ式の手鏡だった。目元が気になって仕方ないのですぐにのぞき込んでみる。

「……うわ」

 思わず変な声が出てしまった。けれど無理もない──左目が、右目とは完全に別物になっているのだから。

「え、何これ怖い」

 鏡を見つめたまま、玲奈はつぶやく。そして説明を求めるように、祐輝へと視線を移した。

「見違えるでしょ──ふたえ効果」

 祐輝の言う通り、玲奈の左目はくっきりとふたえになっていた。完全なひとえまぶたの右目に比べて、左目は不自然なくらいに大きく見える。それに、黒目もなんだか黒々して見えるような……。

 玲奈は再び鏡をのぞき込んでいたが、祐輝に取り上げられてしまった。

「こっち側もやるから、貸して」

 祐輝は鏡を机に置き、さきほどと同じ作業を今度は玲奈の右目側で始めた。二度目になり勝手がわかっているので、玲奈もおとなしくしている。左目の時よりもかなりスムーズだった。


「……いや、誰?って感じじゃない?」

 再び渡された手鏡には、見慣れない顔が映し出されていた。明らかに自分なのだけれど、自分ではない──顔の印象は、本当に目で決まるのだと思い知らされる。

「その方がかわいいって。絶対」

(か、かわいいって……!)

 心臓がドクンと大きく鳴り、顔が熱くなる。けれど祐輝はくるくるとペンのようなものを指で回し続けているだけで、自分の発言の威力には無関心だ。

 玲奈は改めて鏡をのぞき込む。確かに、祐輝の言う通りなのだろう。目はぱっちりして、より「女の子」らしい顔つきになっている気がする──けれど。

「……あの、化粧は禁止、なんだけど」

 入学したての一年生だし、まだその辺りの指導が行き届いていないのかもしれない。が、玲奈の言葉に祐輝は思いっきり顔をしかめた。

「こんなの化粧じゃない──まあちょこっとラインは引いたけど」

 そう言って祐輝は立ち上がった。玲奈はその動きを目で追いながら尋ねる。

「『化粧じゃない』?」

 また鞄をごそごそやり始めていた祐輝は手を止めてこちらを見た。

「そう、化粧じゃない。少なくとも、学校側から禁止されてる『化粧』じゃない」

 その言葉に、玲奈は思わず首を傾げる。

「禁止されてるのは、IとかJとかの女子がやってるみたいなやつってこと。……あの『目の周り黒くしときゃいいだろ』みたいな落書き擬きを化粧と呼びたくはないけど」

 IとかJというのは、四年大進学ではなく短大や専門学校、就職を目指す生徒たちが集められるクラスだ。うちの学校では、実質「やんちゃ系」集団という扱いになっている。たしかに、I・Jに属する女子は半数くらいがいわゆるギャルだ。

「まあ、個人的には『身だしなみ』系の校則なんて大した意味もないと思うけど、生徒会長的にはそうもいかないだろうし」

 祐輝は何かこまごまとしたものをいくつか取り出し、再び玲奈の正面に腰かけた。そして、手の平の上に広げて見せる。

「どれがいい?」

 つられて見てみると、祐輝が持っているのはすべて色味の違うリップクリームだった。

「……色付きリップ?」

 顔を上げて玲奈が尋ねると、祐輝はうなずく。

「そ。厳密には、どれが一番自分に似合うと思う?」

(どれが一番似合うかって……)

 わからない。緑や青を塗るわけではないし、それほど似合う似合わないもない気がする。けれどそんなことを言ったらまた呆れられそうだ。玲奈は一本選んでみることにする。

 祐輝の手に載っていたのは四本のリップクリーム──さくらんぼみたいな少し深い赤、マゼンタっぽい少し紫がかったピンク、桃みたいな薄いピンク、そして、みかんみたいなオレンジの四色──だった。正直に言うなら、全部可愛いと思う。

「……似合うかは知らないけど、好きなのはこれ」

 玲奈はそのうちの一本を指さす。すると祐輝はへえ、という顔でその一本をつまみ上げ、玲奈に差し出した。

「案外良いセンスしてんじゃん。生徒会長」

 そう言ってニッと笑う。ということは、少なくとも不正解ではなかったのだろうか。戸惑いながらも玲奈は受け取る。

「でも、これ……」

 一体どうしろと言うのだろう。そんな意味を込めて目で問うと、残りのリップクリームを片付けながら祐輝がこちらを見た。

「塗ってみたら? あげるから、それ」

「え。そういうわけには……」

 薄いビニールの被膜が張られたままだし、新品だろう。いや、開封済みのものを渡されてもそれはそれで困るけれど。

「あー、いいのいいの。余ってるやつだから」

 祐輝は空いている方の手をひらひらさせた。

(余ってる、って? 自分用に買ったんじゃないだろうし……。あ、家がお店とかでその在庫なのかな?)

 事情はよくわからないけれど、せっかくなので頂戴することにする。

「ありがとう……」

 ぺりぺりとビニールをはがしキャップをとると、リップはかなりくっきりしたオレンジ色だった。玲奈は若干の不安を覚えながらも、先ほどの手鏡で確認しながら唇に塗ってみる。

「これ……いい色」

 思わずそんな言葉が漏れた。元の唇の色とリップの黄味がうまく中和し、健康的で活発な印象を醸し出している。そばにいる祐輝を見上げると、彼は満足げにうなずいた。

「それがつまり『似合う』ってこと。ちょっとその鏡、もっと離して顔全体見てよ」

 玲奈はうなずき、引き気味で自分の顔を確認する。

(これは……確かに見違えるってレベルかもしれない……)

 まず、顔全体がキラキラしているというか、生き生きして見える。その最大の要因はやっぱり目で、はっきりと光が映り込んでいるのだ。まぶたが持ち上がったことで、今まで陰になっていた瞳に光が当たっているようだ。そして唇には自然な色とつやがある。

(これが、化粧の力……)

 玲奈は言い知れない感動に包まれていた。ひとつ、新たな扉が開かれてしまったことは間違いない。

 祐輝は「こんなの化粧じゃない」と言ったけれど、それはたぶん「こんなの化粧には入らない」という意味なのだろう。

「俺の『生徒会長大改造計画』、乗る?」

 背中越しに振り返りながら祐輝が言う。なんだか断られないことをわかっている表情に見えて少し癪だと思いながらも、玲奈は立ち上がった。そして祐輝の正面に回りこぶしを突き出す。

「乗る」

 その一言にどこか不敵な笑みで答え、祐輝はこぶしを突き合わせてきた。

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