hair/目をつむるのが怖い

紫 李鳥

第1話

 


 設楽沙知絵したらさちえの自慢は、髪。トリートメントを欠かさない濡れ羽色の豊かな髪を、肩甲骨の辺りまで伸ばしていた。しっとりサラサラの髪を武器に、男たちの視線を独り占めにしていた。


「……沙知絵はいいな、髪が多くて。私の3倍はあるわね」


 同僚の松井千華まついちかが、一本に束ねて、鏡越しに見た。


「千華はシャギーしてるからよ。私だってシャギーすれば、……それでもやっぱり、私のほうが多いか」


「でしょう? 少し分けてよ」


「いいよ。その代わり、千華のオッパイ少し分けてよ。私、ペチャだから」


「いいわよ。じゃ、物々交換しよう。はい」


 千華が自分のバストを両手で掴むと、その手を沙知絵のバストに当てた。


「あははは……。じゃあ、私もね」


 沙知絵は、自分の髪を握って抜く真似をすると、その手を千華の頭に付けた。


「あっはは……。げっ、多くなってる」


 鏡を見て、千華が驚いてみせた。


「あら、ホントだ。見て、私のバストもこんな」


 沙知絵がブラウスの胸元を摘まんで引っ張った。


「げっ、ホントだ。AカップがDカップになってんじゃん」


「Cぐらいでいいよ」


「おう、C、C、ダブルシー」


「あははは。ここがトイレだからWC?」


「そう」


「も、笑わせるんだから。私のhairヘアもこの部屋に合う?」


 沙知絵もダジャレで返した。


「あっはは。ええ、合うわよ。だってトイレはレストルームとも言うじゃない。つまり、部屋(ヘア)が付くじゃん」


「うまいっ! スゴい、博学」


「ちょっと、そこの二人、いつまで油売ってんの?」


 そこに現れたのは、経理課のお局、畑中璃子はたなかりこだった。


「はーい」


「今、出るとこでーす」


 千華が鏡越しに舌を出した。――



「ね、ね、沙知絵。知ってる? お局のこと」


 並んで歩いていた千華が小声で言った。


「え? 何、何」


「カ・ツ・ラだって噂」


「えー? あのボブ、カツラなの?」


「そう。だから、風の強い時は帽子被ってくるじゃん。ゴムかなんかで耳に固定してるのかしら? 吹き飛ばされないように。きっとハゲてんだよ。珍しい女ハゲかも。帽子脱ぐのもトイレだし」


「うむ……。そう言えばそうだね」


「ねー? だから、沙知絵の豊かなヘアに嫉妬してるかもよ。常日頃から」


「ヤだぁ。なんか気味悪い」


 沙知絵は鼻に皺を寄せた。――



 そんな時、〈仕事の鬼〉という別名もあるくらいの皆勤賞モノの璃子が会社を休んだ。それも、一週間以上も無断欠勤だった。


 当人と連絡が取れないということで、裏では警察が動いていたのだろうが、社内では、「殺されたのでは」という無責任な噂が立っていた。


 だが、噂通りの結果になった。璃子の焼死体が山中から発見されたのだ。


 遺書が無かったことから、自殺・他殺の両面から捜査された。


 璃子が無断欠勤していた頃、沙知絵に恋人ができた。


 相手は、一年先輩の池田卓哉いけだたくやだった。


 忘年会の帰り、通り道ということで、泥酔した沙知絵をタクシーで送ったのがきっかけだった。


「……さみし……ぃ」


 ベッドの上で、寝言のように呟いた沙知絵の唇を、卓哉が強引に奪った。――



 卓哉と交際してから、沙知絵の身の回りで不思議なことが起き始めた。


 それは、髪を洗っている時だった。人の気配を感じてシャワーカーテンを開けると、閉めたはずのドアが少し開いていた。


 駅でもそうだ。プラットフォームで電車を待っていると、後ろに誰も居ないのに、髪を引っ張られたような気がしたり……。


 それからは、玄関のドアチェーンをして、シャンプーの時は、目をつむるのが怖いので、シャンプーハットを付けて、目を開けたままで洗った。


 顔を洗う時も、目の周りだけ残して、後はメイク落としで片方ずつ拭き取っていた。


 寝る時も、照明を点け、ラジオをタイマーにした。


 なぜだか、卓哉にも千華にも、そのことを話せなかった。


 精神障害者の類いとか、神経質な人間に見られたくなかったからだ。



 そんな日々が一ヶ月ほど続いた時だった。会社の近くにある喫茶店で卓哉とお茶をした。


「少し痩せたか?」


 卓哉が心配そうに聞いた。


「そう? 自分ではよく分からないけど」


 そう返事して、直ぐに目を伏せた。痩せてきたのは沙知絵自身、気付いていた。寝不足に、食欲不振……。


「ちゃんと食べてるか? 外食ばかりじゃ駄目だぞ」


「何よ、お父さんみたいな言い方して。ちゃんと自炊してるわよ」


「ね、今度、手料理ごちそうして」


「……いいけど、何がいいの?」


「そりゃあ、君の十八番さ」


「おあいにくさま。私、セブンティーン止まり。十八番はないの」


「……つまり、手料理はごちそうしたくないってことか?」


「そうじゃないけど、自信ないから……」


「味付けのほうは、君の愛情でチャラにしてあげる」


「……分かったわ」



 二日後の休日、卓哉が遊びに来た。料理本を見ながら作ったぶりの照り焼きを、卓哉は美味しそうに食べていた。


 泊まっていくと言う卓哉は、風呂から上がるとテレビを観ていた。沙知絵もシャワーを浴びることにした。


 卓哉が居る安心感から、普通に顔を洗っている時だった。人の気配を感じて、振り向いた。すると、閉めたはずのドアが少し開いていた。


 ……ヤだ、卓哉が覗いてたのかしら。沙知絵はそう思いながら、目にしみた洗顔フォームをシャワーで流した。



 沙知絵が浴室から出ると、卓哉はベッドに入っていた。さっきのことで不快な思いをした沙知絵は、求めてきた卓哉を拒んでしまった。


 それ以来、卓哉との関係がちぐはぐし出した。沙知絵の性欲が減退したのだ。それはつまり、卓哉との別離を暗示していた。


 そんな時、卓哉が璃子と付き合っていたという話を、千華から聞かされた。それと、璃子にお金を借りていたことも……。つまり、卓哉の犯人説だ。

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