夜行

とても長い雨

夜行

宵。自宅の玄関扉の前で目が覚める。

日はとっくに落ちている。座ったまま眠っていたらしい。

私はすくと立ち上がり、テープを横切り、敷地を抜けた。また今日も、暮れ切った空の下を散歩する。





何を照らすでもない無意味な電灯は、オレンジ色をした鉄の蝉の羽音を、誰に聞かせるでもなくジージーと鳴らすばかりである。


沈んだ空気で十分に冷えたコンクリートは、この世界でただ一人の人間が、自らを踏み付け歩を進めるのを黙認する様子で、そいつの靴底を、脚を、背中を、胴を、顔を、一気に、または局地的に、直ぐそこから、または遥か遠くから、ひたすらに見つめ続けている。


この世界でただ一人となった私は、この季節に似つかわしくない厚着で、この季節に似つかわしくない寒い悲しいこの時を、また一人で迎えることになった。


月の無い、実に気鬱な闇である。果て無く暗い空に一際大きな星が一つ、他の星達と肩を並べて浮かんでいる。彼らは、断続的に伸びた濃い雲に、見えては隠れを繰り返している。ザリザリと、舗装路上の小石を靴で擦りながら、私は一人歩く。恵まれた境遇の星達を、恨み羨み沢山に、目だけで睨んでみせる。


不意に、氷の風が横切った。思わず目を結ぶ。


闇で煮詰められた風の柔爪やわづめは、厚手の服から僅かに飛び出た私の肌を、絶えずぎゅっとつまんで弾く。暗晦あんかいが私を抱く限り、この散歩は永遠に続く。私が散歩を続ける限り、痕にならない痛みは永遠に付き纏う。五感が、懐かしさに叫ぶ。心地好い痺れに身を任せ、また歩く、歩く。


全ての生き物の息が途絶えた世界は、さながら一平方センチメートルの部屋に閉じ込められた冷たい冷たい宇宙であった。部屋中に飾られたあの電灯は最早もはや私だけを照らすスポットライトに、部屋中に伸びた舗装路は最早私だけを乗せる特別回廊と化したのだ。私の首に巻かれた常闇の指達はライトに溶け、私の足裏に巣食った底無しの宇宙の口吻こうふんは回廊の下に敷かれ、世界中の全ての生き物と同様動かなくなった。異常な程息苦しく、あの時を思い出すように窮屈で、裸のような解放感である。


この紫黒の時間が唯自分だけのものだと思うと、気狂きちがいを真似て号哭し踊り出したくなる優越感。それを抑え、淡々と堂々と、なんにも知らない顔をして、墨色のコンクリートを進んで行くのもまた一興である。





一人歩く人間を怪訝そうに横目で流す蛾などは、櫛の触覚と羽の目玉を大いに広げ、悠々とスポットライトで電子の蜜を吸っている。眠れない憐れな生き物に、私は、自分を見るのに似た、可哀想な目を浴びせて、また歩く。


大通りは決して歩かない。そこは、時間を習わなかった人間が走らせるガソリン車や、口内を光らせて客を待つコンビニの群れが蔓延はびこる危地である。この刻限のみ有効の、冷酷な暗黙の秩序を容易く無視する、文明と英智と社会の暴力である。太陽を忘れた東半球に、人間の知恵や喧騒は要らない。自分を忘れる程無限な空間に、身を置く場所も無い程閉塞的な空間に、確かな自分が一人存在する、唯それだけの秩序が誕生していれば良いのである。闇の霧中で涙を飲む不安が、三分の一しか無いつかの間の安寧が、この短い世界の存在意義なのである。





潮時だ。この真黒な世界も終演だ。四時半。次の曲がり角を右に。次に曲がる予定もまた、右。何度も繰り返した道。人々が光を思い出す前に、私が闇を忘れる前に。





暗室を囲む分厚い雨雲は時間と共に更に肥えると、私に隠れて頭上に現れ、音を立てずに、コンクリートに広く染みを作り始めた。俄雨にわかあめでは無い事が分かったのは、二つ目の角に向かって、長い長い蛇の道を歩いていた時だった。


風に乗った大量の黒い粒は、やがて集まり凶暴になる。地面で弾けた雨粒は、道端の排水溝に向かって一斉に走り出す。たまに嗚咽を漏らし、また呷る。雨粒は、遮二無二に窓を叩き、外壁を殴り、電線を小突いた。外に干された服は貶され、花壇は水槽になり花は溺れた。変に暖かに濡れた空気だけが、頭を撫でる。自然と人工が溶け合った騒音だけが、鼓膜で囁く。まだ、歩く。


私の帰宅を妨げたい風は、私の顔に向かって無理に息を吹き続けた。古くなった道端のライトは、バチチッと弾け、消えて、また我に返る。耳の傍で、反響した風がボーボーと唸る。それを振り切り、難なく前進する。闇中あんちゅうでの醜い争いである。


電灯が照らす先に、蛾が一匹浸って死んでいた。羽に残る二つの目玉だけが、唯一彼が先刻まで生きていた面影であった。風に少しずつ押され、私とは反対の方へ向かって、濃紺のコンクリートを泳いでいる。つくづく可哀想な生き物だと思った。抵抗も出来ない、非力で柔らか過ぎる可哀想な生き物だと。永久的な闇に喰われた蛾は、いかにも静かで、平和だった。彼はもう(そこが存在すれば、だが)、幸せの保証された浄土の地へ到着している頃だろう。羨望の眼差しは、もう居ない彼には届かない。何故私は羨んだのだろうか。また歩く。


最低な思考が身体中に巡る前に、私はどんどん道を進む。


散々私の行く手を阻もうとした風は、ようやく吹くのを止めたようで、後に残ったのは、ひたすら靴の下の地面に落ちる、地面に垂直に注ぐ雨であった。ビチビチと、石と石を擦る音に似た声が、閑静な空に響いた。水溜まりをしかと踏みしめ、乾いた靴をそこから引き抜く。路上のそれは、最早沼になりかけていた。遠くで牛蛙が鳴いている。


角を曲がった。家までは、もうそう遠くない所まで来た。湿っぽいのをたっぷり吸った空気が、妙に癇に障る。雨も段々と細くなり、もうほとんど失せた。長い雨に打たれた所為で疲弊した干物は、もやのように明るくなった辺りを、伸びた脚を引き摺り歩きながら、ゆらりゆらりと見渡している。汚い雨雲は、何時ぞやの星達をすっかり隠していた。ざまを見ろ。


ああ、終わる。私だけの陰湿で暖かい時間が終わる。闇は、口に含んだ私をやがて吐き出すのだ。何度も見た、唯の夢にしてしまうのだ。いっそ、不安も安寧も知らないままのあの蛾の如く、黒に身を委ねて消化されたあの蛾の如く、何もかも忘れて、私も。実にシニックな妄想である。どこまで行っても私は最低な人間なのである。陰どころか闇黒あんこくに堕ちた、あの蛾のように(どの蛾?)、憐れな存在なのである。いや、もう知っていた事だろう。どうでもいい。


煩わしい上着を脱ぎ抱え、冷えた身体を晒す。もうじき辿り着く。





家の屋根が見えた。が、まだ当分着きそうに無い。空は私の焦りを写したようで、薄明かりは早々に肉厚な雲の膜を破り、その輝きをより顕にした。私はとうとう闇を忘れた。五時である。


頭上、薄い壁のアパートで、誰かの時計のアラームが篭った音で鳴り響く。足音、女性の声、子供の声、部屋のカーテンを払う金具の音、窓を開ける音。そこを見る。顔を出した、寝起きの住人と目が合った。寝起きは、私を認めた事など忘れたように目を逸らし、その場から去る。私も視線を直し、また歩く。分かっていた。


電灯のオレンジ色はいつの間にか消えて、濁色をした外殻だけが残っている。薄墨のコンクリートは、深い水溜まりだけを残して、既に所々乾いていた。短い髪の毛が、ぬるま風のくしかされる。辺りは僅かな陽の光で、ほのかに温まった。


長身の男が一人、向こうから駆けて来る。フ、フ、と短く息をしながら、新しい汗の匂いをさせて私のすぐ横を過ぎ去る。私の後ろに居た女は、燃えるごみの大袋を下ろし、彼女の家の方向へ歩いていく。背後に人が居る。顔から血液が抜ける感覚。何時いつかも覚えたこの罪悪感を抱えながら、足早に歩く。雀達は、路上をくちばしでひたすら突いていたが、私が近付くと一斉に飛び去り、直ぐそこの電線に留まり直した。チチチ、チチチと軽快不快な口笛が、人々に時間を取り戻させた。




オリーブ色に落ち着いた雲居の空は、あっという間に明るんで、水で溶かした真朱まそおの太陽は、徐々にその滲みを広げて大きくなる。


人々が待ち焦がれた、この瞬間である。


散歩が終わる。今日も一日が始まる。


すっかり干乾ひからびたコンクリートを抜け、ポリエチレンテープを横切り、敷地へ踏み入る。庭は暫く手入れをしていない。前まで可愛らしかった花達は、先刻の雨と青草に食い尽くされ、すっかり無様に、茶色くただれている。私は敷かれた石畳に従って、玄関へと歩く。


扉の前。抱えていた上着のポケットから、家の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。だが手応えが無い。もう開いているらしかった。

仕方無く鍵を抜き、適当にズボンのポケットに突っ込む。扉に手を掛け、開ける。変わらない家の匂い。芳香剤はまだ切れていないようだ。


















突然だった。扉の向こうへ足を伸ばした時だった。

自分のものと重なって聞こえる、少し低い誰かの息遣い。うなじの産毛に僅かに感じた、生温い、人間の体温。


もう遅かった。振り向こうとしたその首は、あっという間に誰かに固定される。藻掻く暇も無かった。首が後ろに向かって、クンと引っ張られる。我が家の廊下が遠のく。


そうだ。そうだった。まただ。





END




















宵。自宅の玄関扉の前で目が覚める。

日はとっくに落ちている。座ったまま眠っていたらしい。

私はすくと立ち上がり、テープを横切り、敷地を抜けた。また今日も、暮れ切った空の下を散歩する。





何を照らすでもない無意味な電灯は、オレンジ色をした鉄の蝉の羽音を、誰に聞かせるでもなくジージーと鳴らすばかりである。


沈んだ空気で十分に冷えたコンクリートは、この世界でただ一人の人間が、自らを踏み付け歩を進めるのを黙認する様子で、そいつの靴底を、脚を、背中を、胴を、顔を、一気に、または局地的に、直ぐそこから、または遥か遠くから、ひたすらに見つめ続けている。





もう何度繰り返したか覚えていない。分かっていたのだ、何故無意味な散歩を続けるのか、何故あの蛾を羨んだのか。


元より私は、日没後の方が好きであった。散歩は、そんな私の至高の日課であった。あの日も同様に、一人で深更を味わうべく、散歩をしたのだ。軽率だった。大好きだった時間に閉じ込められる苦痛など、知る予定では無かったのだ。


目が覚める時は決まって日が暮れた後である。

太陽の光を思い出せない私の唯一の居場所は、大小の星達がちらついている鉄紺てつこんの空と、廃番の電灯と、再舗装前のコンクリート路と、最近新設したアパートと、顔の知らない近所の住人達が彩る、今昔混淆こんじゃくこんこうの、滅茶苦茶なこの世界だけなのである。


私の居場所は、太陽が見えると直ぐに終わる。私は、世界が漆黒にとっぷり包まれた後に目覚める。そしてまた、散歩をする。


暗晦が私を抱く限り、この夜行は永遠に続く。



END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜行 とても長い雨 @totemonagaiame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ