夜行
とても長い雨
夜行
宵。自宅の玄関扉の前で目が覚める。
日はとっくに落ちている。座ったまま眠っていたらしい。
私はすくと立ち上がり、テープを横切り、敷地を抜けた。また今日も、暮れ切った空の下を散歩する。
✭
何を照らすでもない無意味な電灯は、オレンジ色をした鉄の蝉の羽音を、誰に聞かせるでもなくジージーと鳴らすばかりである。
沈んだ空気で十分に冷えたコンクリートは、この世界で
この世界で
月の無い、実に気鬱な闇である。果て無く暗い空に一際大きな星が一つ、他の星達と肩を並べて浮かんでいる。彼らは、断続的に伸びた濃い雲に、見えては隠れを繰り返している。ザリザリと、舗装路上の小石を靴で擦りながら、私は一人歩く。恵まれた境遇の星達を、恨み羨み沢山に、目だけで睨んでみせる。
不意に、氷の風が横切った。思わず目を結ぶ。
闇で煮詰められた風の
全ての生き物の息が途絶えた世界は、さながら一平方センチメートルの部屋に閉じ込められた冷たい冷たい宇宙であった。部屋中に飾られたあの電灯は
この紫黒の時間が唯自分だけのものだと思うと、
✭
一人歩く人間を怪訝そうに横目で流す蛾などは、櫛の触覚と羽の目玉を大いに広げ、悠々とスポットライトで電子の蜜を吸っている。眠れない憐れな生き物に、私は、自分を見るのに似た、可哀想な目を浴びせて、また歩く。
大通りは決して歩かない。そこは、時間を習わなかった人間が走らせるガソリン車や、口内を光らせて客を待つコンビニの群れが
✭
潮時だ。この真黒な世界も終演だ。四時半。次の曲がり角を右に。次に曲がる予定もまた、右。何度も繰り返した道。人々が光を思い出す前に、私が闇を忘れる前に。
✭
暗室を囲む分厚い雨雲は時間と共に更に肥えると、私に隠れて頭上に現れ、音を立てずに、コンクリートに広く染みを作り始めた。
風に乗った大量の黒い粒は、やがて集まり凶暴になる。地面で弾けた雨粒は、道端の排水溝に向かって一斉に走り出す。たまに嗚咽を漏らし、また呷る。雨粒は、遮二無二に窓を叩き、外壁を殴り、電線を小突いた。外に干された服は貶され、花壇は水槽になり花は溺れた。変に暖かに濡れた空気だけが、頭を撫でる。自然と人工が溶け合った騒音だけが、鼓膜で囁く。まだ、歩く。
私の帰宅を妨げたい風は、私の顔に向かって無理に息を吹き続けた。古くなった道端のライトは、バチチッと弾け、消えて、また我に返る。耳の傍で、反響した風がボーボーと唸る。それを振り切り、難なく前進する。
電灯が照らす先に、蛾が一匹浸って死んでいた。羽に残る二つの目玉だけが、唯一彼が先刻まで生きていた面影であった。風に少しずつ押され、私とは反対の方へ向かって、濃紺のコンクリートを泳いでいる。つくづく可哀想な生き物だと思った。抵抗も出来ない、非力で柔らか過ぎる可哀想な生き物だと。永久的な闇に喰われた蛾は、いかにも静かで、平和だった。彼はもう(そこが存在すれば、だが)、幸せの保証された浄土の地へ到着している頃だろう。羨望の眼差しは、もう居ない彼には届かない。何故私は羨んだのだろうか。また歩く。
最低な思考が身体中に巡る前に、私はどんどん道を進む。
散々私の行く手を阻もうとした風は、ようやく吹くのを止めたようで、後に残ったのは、ひたすら靴の下の地面に落ちる、地面に垂直に注ぐ雨であった。ビチビチと、石と石を擦る音に似た声が、閑静な空に響いた。水溜まりを
角を曲がった。家までは、もうそう遠くない所まで来た。湿っぽいのをたっぷり吸った空気が、妙に癇に障る。雨も段々と細くなり、もう
ああ、終わる。私だけの陰湿で暖かい時間が終わる。闇は、口に含んだ私をやがて吐き出すのだ。何度も見た、唯の夢にしてしまうのだ。いっそ、不安も安寧も知らないままのあの蛾の如く、黒に身を委ねて消化されたあの蛾の如く、何もかも忘れて、私も。実にシニックな妄想である。どこまで行っても私は最低な人間なのである。陰どころか
煩わしい上着を脱ぎ抱え、冷えた身体を晒す。もうじき辿り着く。
✭
家の屋根が見えた。が、まだ当分着きそうに無い。空は私の焦りを写したようで、薄明かりは早々に肉厚な雲の膜を破り、その輝きをより顕にした。私はとうとう闇を忘れた。五時である。
頭上、薄い壁のアパートで、誰かの時計のアラームが篭った音で鳴り響く。足音、女性の声、子供の声、部屋のカーテンを払う金具の音、窓を開ける音。そこを見る。顔を出した、寝起きの住人と目が合った。寝起きは、私を認めた事など忘れたように目を逸らし、その場から去る。私も視線を直し、また歩く。分かっていた。
電灯のオレンジ色はいつの間にか消えて、濁色をした外殻だけが残っている。薄墨のコンクリートは、深い水溜まりだけを残して、既に所々乾いていた。短い髪の毛が、
長身の男が一人、向こうから駆けて来る。フ、フ、と短く息をしながら、新しい汗の匂いをさせて私のすぐ横を過ぎ去る。私の後ろに居た女は、燃えるごみの大袋を下ろし、彼女の家の方向へ歩いていく。背後に人が居る。顔から血液が抜ける感覚。
✭
オリーブ色に落ち着いた雲居の空は、あっという間に明るんで、水で溶かした
人々が待ち焦がれた、この瞬間である。
散歩が終わる。今日も一日が始まる。
すっかり
扉の前。抱えていた上着のポケットから、家の鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。だが手応えが無い。もう開いているらしかった。
仕方無く鍵を抜き、適当にズボンのポケットに突っ込む。扉に手を掛け、開ける。変わらない家の匂い。芳香剤はまだ切れていないようだ。
突然だった。扉の向こうへ足を伸ばした時だった。
自分のものと重なって聞こえる、少し低い誰かの息遣い。
もう遅かった。振り向こうとしたその首は、あっという間に誰かに固定される。藻掻く暇も無かった。首が後ろに向かって、クンと引っ張られる。我が家の廊下が遠のく。
そうだ。そうだった。まただ。
…
END
宵。自宅の玄関扉の前で目が覚める。
日はとっくに落ちている。座ったまま眠っていたらしい。
私はすくと立ち上がり、テープを横切り、敷地を抜けた。また今日も、暮れ切った空の下を散歩する。
✭
何を照らすでもない無意味な電灯は、オレンジ色をした鉄の蝉の羽音を、誰に聞かせるでもなくジージーと鳴らすばかりである。
沈んだ空気で十分に冷えたコンクリートは、この世界で
✭
もう何度繰り返したか覚えていない。分かっていたのだ、何故無意味な散歩を続けるのか、何故あの蛾を羨んだのか。
元より私は、日没後の方が好きであった。散歩は、そんな私の至高の日課であった。あの日も同様に、一人で深更を味わうべく、散歩をしたのだ。軽率だった。大好きだった時間に閉じ込められる苦痛など、知る予定では無かったのだ。
目が覚める時は決まって日が暮れた後である。
太陽の光を思い出せない私の唯一の居場所は、大小の星達がちらついている
私の居場所は、太陽が見えると直ぐに終わる。私は、世界が漆黒にとっぷり包まれた後に目覚める。そしてまた、散歩をする。
暗晦が私を抱く限り、この夜行は永遠に続く。
END
夜行 とても長い雨 @totemonagaiame
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