さくら咲くまで
ウツユリン
第一章. さくら咲く頃に
21世紀から22世紀にかけ、ワタシたちは日本中を旅した。
ちょうど100年にわたった旅は、目的があってもツテはない、賭けのような逃亡記でもあったものの、それはまた別の
これは100年の旅のうちの、たった1年の
第一章. さくら咲く頃に
「―――やはりマイカントリーの桜は、うつくしい」
鳥居に枝を垂らす樹木を見あげ、ワタシは素直におもったことを口にする。
ワタシの鼻は利かない。だから、バラ科でもとりわけ香りがうすい桃色の芳香を嗅ぐことは不可能だ。
ワタシは耳も遠い。そのために、本州より少し肌寒い、しっとりした八重の花びらをはらはらと落とす北風の声を聞くことも困難だ。
「ことしも来ましたよ。みえていますか……マイ"サン"」
黄色いワンピースの腹のふくらみを
顔を横に向けたワタシは、社殿へ続く"花道"に目を細めた。
参道の脇にはいまも昔も変わらない紅白のちょうちんが低い背丈のソメイヨシノの細枝でふらふらと揺れている。昔とちがうのは、ちょうちんにはもはや、天然だろうが加工品だろうがロウソクなどという発火性の高い非効率な照明は使われておらず、ナノインクと電子ペーパーで造られた紙ふうせんが、位置測定システムによって割り出された現在地に基づき、日没とともに"発光"し、夜桜見物に訪れた参拝客の頭上を照らすことくらいだ。
もっとも、『護国神社桜祭り』の開催は次の週末で、
つい今も、きょうふたり目の花見客が来た、と拳を握り締めた矢先、米俵のようなタンクを両肩に担いで軽快に参道の階段を上ってきた人影は、桜とワタシたちには脇目も振らず、社殿の手前にしつらえてある御神水用の蛇口に持ってきたタンクを接続した。
数秒とかからないうちに半透明の容器が一杯になり、50リットルはあるタンクを片手で易々と持ち上げると、もう一つのタンクをその人影は付け替えた。
「ヒューマノイドに水汲み、ですか」
満杯のタンクを肩に担ぎ上げたまま、次の容れ物を見下ろす、おそろしく微動だにしないスラッとした立ち姿。おおよそそれほど腕力があるようにみえない不自然な痩せた体躯は、そのはず、呼吸をしていない。体から放射される熱は人間の体温よりもかなり低く、水タンク越しに集められた日光が灼く腕は、光沢が輝いている。
「この場合、〈なにがし〉にもご利益はあるんでしょうか……"飲んだ"としてですが」
近ごろのヒューマノイドには、"人間らしく"あるよう、液体を飲める機能が付いているものも多い。盃を交わすのは結構なことだが、飲んだところで酔わないヒューマノイドを「人間味がない」と揶揄する
二つめの御神水タンクを担ぎ、ヒューマノイドが社殿へ一礼している。
アスリートばりの足力で参道を戻ってきた端正な顔立ちの〈なにがし〉が、特別なその水を
「こんにちは。いい、お天気ですね」
参道のほぼ中ごろに一基だけある、露天のテーブルに陣取ったワタシたちの前を通り過ぎかけ、〈なにがし〉はくるりとこちらを振り向いた。律儀に礼をする腕の"力こぶ"がいかにもアンバランスである。
「どうもぅ。おばんでしたぁ」
ワタシの右隣で返すしゃがれた声にすかさず、反対側から「まだ正午前です、
「こげなこまいこと言わんでくれます?……ロボットのお手伝いさん」
打って変わってトゲのあるどころか、文字通りつっけんどんに言葉を返したのは、手押し車椅子に乗った老婦人だ。ご婦人はワタシの横で、石の椅子の上に車椅子ごと載っている。
「失礼しました、マスター」
手伝いを申し出たワタシを丁重に断り、軽々と、そして丁寧にご婦人と車椅子を抱え上げたのが、御神水の〈なにがし〉によく似た
「……おばんです」
ご婦人とケアノイドをそれぞれ見やり、タンクを担いだ〈なにがし〉が方言のあいさつを返した。
ケアノイドの指摘通り『こんばんは』には早すぎる、太陽が真上にある時間。それでも〈なにがし〉は、正確性よりも相手に合わせるほうを選んだということだ。ヒューマノイドには珍しい開口一拍の空きは、人間でいうところの"迷い"かもしれなかった。
「たいした足だねぇー。ちーと前にゃ、あたしもこげな走りしとったわぁ」
〈なにがし〉が来た道を一目散に駆けていく。けっして、『このご老人は会話が長くなりそう』だからと足を速めたのではないとおもいたい。
「マム。出逢ったときから、貴方はすでに
「ほやぁ? そうやったかいなー」
首が隠れるほどの厚着のうえでご婦人が頭をかしげた。ひゅー、と吹いた風にケアノイドがさっとご婦人の襟元を整える。礼を述べる
そうですよマム、と言いつつ、ワタシは砂利に
「ワタシたち、花見だけの関係が続いてことしでもう、11年。毎年、ここの桜と貴方にお会いするのがワタシの楽しみです」
「そういや、おまえさんも長いねぇ。ずいぶん子だくさんになっとるはずじゃが……何人目かね?」
見えているのかいないのか、すっかり"伸長した皮膚"に埋もれたご婦人の目がワタシの腹を見下ろす。ご婦人はもはや、毎日の朝食が365日"トースト"であると思い込むようになって久しいが、時々、鋭い発言が飛び出す。この15年は毎朝ご飯だった、と指摘する
「ワタシは肥満体なんです」と真剣にうなずいてみせたら、
「年寄りにうそつくもんじゃない」と速攻で叱られた。
「いいかいお嬢さん」
ご婦人がワタシの手を取る。厚い
「おまえさんがだれかは、知らん。どこさで子さ、こしらえようと知ったこっちゃない。名前も聞いてないしねぇ……うんにゃ。いまさら名乗らんでもええよ。あたしはおまえさんがちゃぁんと、子らの世話をしとるか。それだけ気になるんよ」
ポンポンとワタシの手をたたくご婦人が
「その点でしたらご心配なく」
うなずくと同時にご婦人の手を握り返した。片手なのが心苦しいが、両手ともふさぐわけにはいかない。
「マイサンは健康です。四六時中いっしょにいるワタシが保証します。狙ってくる輩が多いものですから、親バカといわれても仕方ないですが。そのうち嫌われそうで心配になります……夢見がちな子ですが、寝る子は育つといいますし、ワタシの
「……脳波、ですか」
意外にも、尻すぼみなワタシの言葉をさえぎったのはケアノイドだった。微々たりとも変わらない表情には明らかな驚きと戸惑いがうかんでいる。
「どげしましたロボットのお手伝いさん?」
ワタシは
「……」
ケアノイドの人工水晶体がマスターと
「とかく、マイサンの世話はしっかり、やっています。ワタシは子ども好きなんです。子どもに冷たい輩を見ると首をへし折ってやりたくなりますよ」
「ほぉうかい。ならよしじゃねぇ」
ワタシの回答にご婦人は満足してくれたようで、頬のシワが一段と深まった。ゆさゆさとご婦人に手を揺らされるまま、ケアノイドをチラリとみると、困ったような目を向けてきた。そんな
開きかけた口を閉じた
「ではマム。そろそろワタシは行くことにします。チマキ用の笹を取りにいかないと……」
「おまえさん、旅はするかい?」
「ややっ?!」
ご婦人の至極穏やかな声にワタシの全回路が粟立った。
「なぜワタシの逃避行を知っているっ!? 貴方はまさか……マイサンを狙って10年かけワタシを懐柔し、いまここでついに本性をっ?!」
「……トレバー様、ご自分でポロリしていますが」
かのカンフーマスター、
「ほっほっほ。おまえさん、あちこちの話をしてくれたろう? なまらおもしろかったわぁ。宮古の島の話のときんは、美ら海の潮の香りがしたわい」
「二年前です。トレバー様はそのとき、沖縄の岩塩を炙っていらっしゃいました。宮司さんにお説教されて……」
「ええ、ええ。あれだけ怒られたのは、上国さまにお弁当を届けおくれたとき以来です。桜子さまが顔を真っ赤にしてそれはもう」
構えを解いてウィッグを拾うワタシはさぞ、投げやりにみえたに違いない。バサッと振った
「沖縄にはひさしく足を運んでいませんでしたね。願わくば、近く完成する首里城の荘厳さを、お伝えしたいものです」
ロングヘアの
「おまえさん、いくのかい?」
「はいマム。上ノ國の桜は、ことしもキレイでした」
振り返るとケアノイドが車椅子を石のベンチから下ろすところだった。細身のケアノイドが軽々とアームレストを持って抱え上げる。
ちょうどそのとき、花風がご婦人をつつんだ。
「失礼、マム」
手出し無用と釘を刺されているワタシはみているだけだが、白髪の前髪に居座った桜をなんとなく説教したくなってつい、手を伸ばす。
「もみじや」
片膝をついて、あたかも頭を撫でるような格好のワタシに、ご婦人がぼそっと溢した言葉。それが樹木の名称であることは知っている。
しかし、ただ秋に色づく木の葉を、まるで失った大切な人のように呼ぶだろうか。ご婦人の目元はワタシの手で隠れみえないが、声と同じくらい、ゆれているのだと無根拠に確信した。
「……さくら、ですよマム」
つまんだ花片をみせようと、顔の前に手を掲げる。
それをさえぎるようにご婦人の顔を茶色の冊子が隠した。
「トレバー様。マスターからのお願いです。こちらのアルバムに
「……モミジというと、カエデ科の落葉ですか?」
厳密には異なります、とケアノイドが首を小さく振る。マスターの顔を分厚いアルバムでさえぎった
「マスターは広義の
百科事典ばりの大判に目の前をふさがれているにもかかわらず、ご婦人は一言も発しない。ケアノイドの"気づかい"を汲んだワタシは、失礼とおもいながらもタイトル欄が空白の差し出された冊子を開く。
「貼りつけるタイプですか。なつかしいですね」
当たり前だが、アルバムの中身は真っさらだった。
厚めの白い紙がざっと、25ページほどで、台紙は両面が貼れるようになっている。粘着面を保護するフィルムに気泡はないものの、フィルムの角が浮いたページもあった。剥がしかけて戻したのだろうか。絵本をめくっているような感覚をおもい起こし、つい、
裏表紙を閉じたワタシが口を開くより早く、しゃがれ声が割って入った。いまにも消え入りそうなか細さだった。
「無理せんでよい……老いぼれのたのみなど、聞きながしとくれや」
「いいえ。そうはいきません」
ふくらみが皆無な胸にアルバムを抱え、弱々しい声を断ち切る。あえて強めに言ったワタシの声に驚いたのか、ご婦人が顔を上げた。かすかに覗いたその目はたしかにワタシをみている。
月日を経て肌に埋もれてしまった目は悲しみと悔いに半ば、白濁しつつあった。
しかしそこに諦めというものはなく、すがりつく支えを手放さまいとする意思に満ちていた。
「『子いわく、老人は
「論語・公冶長第五の一節。現代訳は『老人からは安心して頼られ、友からは信用され、若者からはなつかれるように』。古代中国の哲学者、孔子の言葉です」と、ケアノイドの的確な解説が続く。
ですから、とご婦人の前に片膝をついたワタシは、叙任を賜る騎士のように頭を垂れた。
「貴方の足となり目となり、各地の紅葉を集めてまいりましょう。次に桜が咲くときまで……名もしらぬ
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