13 辣腕マネージャーは打診する1
中野の所属する声優事務所「アイアムプロモーション」は、赤坂にあった。
「あった」とか言うと日本語的には過去形のニュアンスが出てしまうが、俺の場合は「拉致られた結果、数時間遅れて自分がいる場所を知った」というイレギュラーな形での「あった」なことに注意してほしい。
日本語的にもイレギュラーなことを体験している、それが今日の俺だ。
事務所のより正確な所在地を述べると、地下鉄赤坂駅を出て、六本木につながる坂をのぼり、一番高いところから少しくだったあたりの場所。
この辺りは駅前に比べてオフィスビルが少ない一方、雰囲気のいい飲食店が道路にそって並んでいる。脇道に入っていけば旅館を模したような不思議な外観の洋食屋や、政治家も入っていきそうな古めかしい料亭、さらには値段が書いていない看板を軒先に置いてある蕎麦屋などもあり、新しさと伝統が混在した感じの場所だ。
そんな、高校生には縁のなさげな一帯にある一軒の喫茶店で、俺と美祐子氏は向かい合って座っていた。
アンティークを貴重とした内装で、ジャズのレコードがかかっている。だが、この手の店にしては珍しく禁煙のようで、窓際に置かれた花のニオイがただよっており、意外にも落ち着ける感じだ。
「悪くないだろう、この店」
「ですね。まあ店のチョイス悪いとか言ったら、蹴られそうなんで思ってても言わないですけど」
「事務所御用達ってやつだな。ひよりともよく来るんだ」
そう言うと、美祐子氏はブラックコーヒーをごくごくと飲む。アイスコーヒーを口の中に含んでみると、苦さのなかに豆の旨みが出た味わいを感じ、思わずおっと軽く声が出た。ちょっとびっくりするくらいの美味しさだ。
「ひよりはタバコが嫌いでな。ここらではこの店くらいしかないんだよ、禁煙の喫茶店は。大変だよ、プロ意識の高い声優は」
そう言うと、嬉しそうに笑う。文句を言いつつ中野のことが好きで仕方がないようだ。
苦みを残した口のなかに、ガトーショコラを放り込みながら、俺は尋ねた。
「中野以外にもたくさん担当してるんですよね? こんなとこで油売ってて平気なんですかね?」
「さっきも話したとおり、声優のマネージャーは少し特殊でな。俳優とかと違って、常に仕事先に帯同してるわけではないんだよ」
「へー」
「もちろん初めての収録現場やイベントは行くけどな。でも、慣れた場所なら、声優は基本、個人移動だ」
「芸能人だからと言って、運転手付きの車でとかじゃないんですね」
「テレビ中心のタレントとは違うからな。まあ、だからこうやってお茶する時間も作れるというわけだ」
「なるほど」
「それに、べつに油売ってるつもりもないしな。話したのは今日が初めてでも、ひよりのクラスメートだ、もてなすさ」
「……あの、そういうのもういいんで」
その瞬間、美祐子氏の目が光った。
「俺、オヤジと結構連絡取ってるんですけど、やっぱ社会人って忙しいらしいんですよ。なのに、なんの目的もなく俺とこうやってコーヒー飲むとかないですよね?」
すると、美祐子氏は含み笑いを見せる。
「なるほど、お見通しか」
「まあ、脇腹蹴られた仲ですしね」
俺は蹴られた場所をさすってみせる。今でも若干痛んでいるような気がして明日が怖い。
「君は頭がいいだけじゃなく、勘もいいんだな」
「お世辞、賞賛、褒め言葉は大歓迎ですけど、今はいいです。あ、でも後で一括受け取りも可能です」
「ほう、意外と欲しがりなんだな。だが時間も時間だし、手短に話そう」
美祐子氏はくすっと笑ったのち、真面目な顔で俺のほうを見た。
その後の生活を大きく変えることになったその言葉を、忘れることはないだろう。
「ひよりの、勉強のサポートをしてやってくれないか」
「……はい?」
○○○
翌日、午前8時20分。
1限目が始まる10分前に俺は学校にやって来た。いつもより少し遅い時間だ。昨日色々ありすぎたせいで、いつもより眠く、あくびが出てしまう。
靴箱から取り出した上履きに履き替えていると、そこからすぐ近くの場所にある生活指導室から野方先生が出てきた。
「あ、野方先生」
俺が声をかけると、野方先生はその場で硬直。
「あはははは……」
と引きつった笑顔を見せると、くるっと回れ右して生活指導室に入っていった。生活指導の教師に鉢合わせて生徒が回れ右するのはわかるけど、逆はダメでしょ。てか、何のために出てきたんだよ。用事あったんじゃないのか……?
昨日、俺の後頭部をモデルガンらしきもので殴って気絶させ、赤坂の事務所まで拉致った人と同一人物とは思えない態度である。
○○○
教室に入ると、すでに中野は登校していた。
俺が入り口付近で立ち止まっていると、ちらっとこちらを見たが、すぐに目を伏せた。机の上には、教科書とノートが開かれている。昨日あれだけ話したのに、今日は知らんぷりなんだな……まあ、俺たちになにがあったかは当然秘密だし、そりゃそうだけど。
でも、話しかけないだけじゃなく、目を合わせるつもりもないらしい。
顔を覆い隠すような黒縁眼鏡をかけ、髪を三つ編みにした中野(教室ver.)の真横を通って、俺はその隣の自分の席に座った。横から見る中野は、本当にどこにでもいる地味な女子高生といった感じで、昨日見せたオーラは皆無である。
ざわざわした教室の中で、中野の周囲だけは静寂であり、少しばかりのさみしさを、あわせ持っているように見えた。
と。
そんなことを考えていると、前方のドアから男子生徒が連れだって入ってきた。
俺から見て向こう側の、中野の横を彼らが通ると、机の横にかけたカバンにあたって、中に入っていた教科書やノートがこぼれ落ちる。
だが、カバンをあてた男子生徒は話に夢中なのか気づかず、そのまま去って行ってしまう。周囲の生徒も気づかず、結果的に中野は注意したりしないまま、ひとりで散らばったノートや教科書を拾い始めた。
「……」
こういう時、俺はいわゆる「見なかったフリ」をできない人間だ。電車でお年寄りが乗って来るのが少しでも見えると、自分が座っているのが悪いような気がして、優先席でなくても立ってしまう、みたいな。
お人好しなのではなく、罪悪感が自分を動かすという感じで、ゆえ自己中心的という見方もできるだろう。
……きっと、母親の面倒をずっとみてきたせいで、人より細かいところに気づいてしまうんだろうな。そんでもって、そういうのはもはや変えられない資質なんだ。
俺は席を立つと、彼女の側に歩み寄って、黙って床に落ちたノートを拾い始めた。
「……」
並んで床に落ちたノートを拾い始めるという俺の行動を見て、中野の瞳が大きく見開いたのを感じる。
一瞬、なにか言ってくるかと思ったが、すぐにその目は元通りの大きさに戻り、黙って俺と同じように散らばったノート・教科書に手を伸ばし始めた。俺との交流を昨日拒んだ彼女だが、ここで拒絶するのも周囲に不用意に気付かれるだけ……と判断したのかもしれない。
なので、俺は行動を続行。持っていたハンカチを丸めて、表紙についた汚れをこすっていった。
教室の床は想像以上に汚い。竣工から軽く半世紀以上経っているので床は汚れだらけだし、上履きと言いつつ、みんな普通に中庭とか行くしな。だから、白いノートを落としたときは、こうやって汚れを取るのは大事なのだ。
その作業に不満はなかったのか、中野はなにも言わずにカバンからティッシュを取り出すと、俺を真似るように汚れた部分をぬぐい始めた。
「……」
そんなふうにノートを触っていると、あることに気づいて俺の手が止まる。中野のノートは、白紙の部分がやけに多かったのだ。
そう聞くと、「え、ノートって白いじゃん」と思う人が多いかもしれない。だが、ここで言う白紙はもちろんそういう意味ではなく、不自然な部分で板書が止まって空白になっている、みたいなところが多いということだ。
たとえば問題が左のページに書いていると、解答・解説が書かれるはずの右ページが空白のままで、その次のページから板書がまた始まっている……と言えばイメージしやすいだろうか?
次の授業である数学のノートを見ると、一番新しい板書は2回前の授業のものだった。つまり、前回の授業の範囲がまるまる抜け落ちている、ということになる。
……と、その瞬間、視界からノートが消える。
顔をあげると、中野が「勝手に見るな!」という目でこっちを睨みつけていた。
「……」
「……」
刺すような視線に、思わず背筋がゾクッとする。冷ややかな瞳の向こう側に、静かな怒りの炎がゆらめいている気すらした。赤い炎が派手にごうごうと燃え上がっているというより、青い炎が静かに燃えており、だからこそ熱い、みたいな。同級生の女の子とは思えない迫力を有しており、思わず、俺は体が硬直するのを感じる。
一体、この子は今まで何人のクラスメートにこの視線を向けてきたのだろうか。
「……」
中野の手元を見ると、ノートはすべてカバンの中に入れ直されていた。
「……ごめん」
小さな声でつぶやくと、俺は立ち上がって自分の席に戻った。
それを見て、中野も自分の席に座り直し、再び教科書を開いて自習を再開する。
そして、俺によって一旦崩れた神聖さが再び取り戻され、同時に静けさが彼女の周りを包んだのだった。
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