赤ずきんと狼

小林 梟鸚

1.

第1話

 針葉樹の黒い森を、赤ずきんはかれこれ一時間近くも歩いていた。彼女は狩人だった。森は昼間でも薄く、枝葉は直射日光を遮ってくれるが、それでも長時間の歩行のせいで彼女は全身に汗をかいているのを感じていた。起伏の激しい森のけもの道は、慣れている者にとっても決して楽なものではなかった。地面に出た木の根や大きな石が、しばしば赤ずきんの足元を覚束なくさせた。また、木の枝や蜘蛛の巣の存在も、森の道を一層歩きづらいものにした。しかし彼女は、こういった道こそ、ペースを一定に保ち淡々と歩く事が大事なのを知っていた。彼女は、そのあだ名の通りに赤い頭巾を被り、左手には小ぶりの弓を携え、たった一人で森を進んでいった。一日一回、森の中に仕掛けたトラバサミの罠を見回るのは、彼女の日課だった。罠は広大な範囲に複数個仕掛けられているので、それらを一つ一つ確認するのは重労働だ。しかし、それでもいつも獲物がかかっているとは限らない。狩りは経験や知識も重要だが、最後には運がものを言うのだ。

 仕掛けてあった六個の罠のうち、三つは既に確認済みだった。いずれも獲物はかかっていなかった。一つは罠が作動した形跡はあったが、結局は獲物に逃げられたようだった。落ちていた毛や周囲の足跡から察するに、かかっていた獲物は鹿だった。もしも首尾よく鹿を捕まえていられれば大金星だったのだが。しかしながら、獲物に逃げられるというのはよくある話だ。赤ずきんは、逃した獲物の事は諦めて、四個目の罠を仕掛けた所に向かっていた。歩いた時間を考えると、そろそろ目的の場所にたどり着くはずだった。逃げられた鹿の事を考えると、どうしても今度こそはという期待を抱きたくなるものだ。しかし、赤ずきんはなるべく自身のそういった感情を意識しないように、静かな森の道を歩く事に集中しようとした。罠を使った狩りは地味で忍耐のいる作業だ。その日その日の成果で一喜一憂せず、ただひたすら目の前の仕事に集中する事がこの労働を続ける上で重要だという事を、彼女は知っていた。長時間の歩行で彼女は足の裏に鈍痛を感じていたが、その事は却って彼女の集中力を高めた。

 額にかいた汗を右腕で拭って、赤ずきんは歩いた。その時彼女は、微かに獣の鳴き声を聞いた。赤ずきんは立ち止まり、周囲を見回した。無意識的に、弓を持つ左手に力が入った。見える範囲には鳴き声の主の姿は確認できなかった。赤ずきんは、息を凝らしてもう一度鳴き声が聞こえないかと待った。三十秒ほどもそうしていると、もう一度獣の鳴き声が聞こえた。はっきりと聞こえた訳ではないが、どうやら狼の声のようだった。しかも、声は赤ずきんが罠を仕掛けていた方角から聞こえていた。これはもしや、と、赤ずきんは微かに期待した。狼は、肉はともかくその毛皮は高く売れる。もし狼を捕らえる事が出来れば儲けものだった。

 それに、狼は赤ずきんにとって、因縁の相手でもあった。

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