リモートワーク・クライシス
「リモートワーク中、絶対に部屋を覗いてはなりません」
毎朝必ず、夫はわたしにそう告げて自室へこもる。
そして定時をいくらか過ぎると憔悴しきった顔でリビングへと現れ、わたしと食事をともにする。そんな夫はしがないプログラマー。子供はまだない。
基本、自室にこもった夫が出てくることはない。トイレのときだけはさすがに出てくるが、用を済ますとまたすぐに部屋へ戻ってしまう。
リモートでの勤務がはじまった初日だけは、お昼ごはんを食べないかと声を掛けたのだが、自分のペースが乱れてしまうからという理由で断られて以降はそれもしていない。
部屋の前を通りかかると、カタカタカタとキーボードを叩く音が聞こえてくる。根を詰めすぎて倒れてやしないかと不安になるぐらい、いつまでも打鍵音がやむことはなかった。
不思議なことに、何日かに一回、仕事を終えた夫はノートパソコンを開いて画面をわたしに見せるのだった。そこにはいつも、シンプルで美しいソースコードがある。
「ああ、うん。美しいんじゃない? パッと見だけど」
わたしがそう言うと、夫は安堵の表情を浮かべ、嬉しそうにビールを飲むのだ。
ある日のことだった。
わたしがスーパーから帰宅すると、夫の自室のドアがわずかに開いていた。きっとトイレから戻る際に閉めかたが甘かったのだろう。
その日も当然「覗いてはならない」と言われていたわたしは、ひとまず見て見ぬふりをしてドアの前を通り過ぎてはみたものの、やはりどうしても気になってしまって、いけないとは思いつつも忍び足でドアの隙間へと近づいていった。
何故に夫は覗かれるのを嫌がるのか。もちろんそれは確かめてみたかったけれど、それよりなにより、久しぶりに真剣に仕事に取り組んでいる彼の顔を拝みたかったのだ。わたしはその目が好きになって一緒になったのだから。
息を殺し、片目をつぶって、隙間のむこうを覗き見る。
するとそこにいたのは、夫ではなく、一羽のTwitterバードだった。
「ひっ!」
暗がりの中に液晶画面の光で、人間サイズのTwitterバードが浮かび上がっているのを見たわたしは、思わず声を上げてしまった。
バードが一瞬びくりと反応したような気もしたが、それを確かめるよりも早く身をひるがえし、ドア脇の壁に背を貼り付けた。
不気味に静まり返った家の中に、外で鳴いたカラスの声が響いている。
冷や汗をかきながらジッとしていると、やがてカチンとドアのラッチが掛かる音が聞こえた。ドアは完全に閉められたようだ。
ひとまずオオゴトにはならなかったが、気づかれてしまっただろうか。いや、気づかれていたのなら何か言ってくるのではないか。いや待て、夫の性格上、まずは仕事を優先しているだけなのでは。
しばらく様々な疑念を頭の中でグルグルと追いかけっこさせていたのだが、いつまでもこうしていて夕飯ができていなかったりしたら返って怪しまれると思い、とにかく準備に取り掛かることにした。きっと時間になればいつもの夫が帰ってくると信じて。
七時を過ぎ、食卓に料理を並べ終えた頃だった。廊下の向うからドアノブを回す音がして、だんだんと気配がリビングへと近づいてくるのを感じた。
「お仕事ごくろうさま」わたしは精一杯の笑顔を作り、キッチンからそちらを振り向く。
Twitterバードだった。
Twitterバードがそこに浮いていた。
わたしは平静を装って続ける。
「ちょうどご飯できたところ。さ、食べましょ」
しかし、Twitterバードは夫の声で低くつぶやく。
「@嫁ちゃん 覗いてはならないとガッツリ申し上げてるのに、おもくそ覗かれるとかwww」
メンション飛んできた。やばい、色々やばい。正面から見るTwitterバードはバードに見えない。
「@嫁ちゃん なぜ覗くしwwwwww」
絶対コイツ笑ってない。とにかく、全力で誤魔化さなくては。
「あ、ほら、話すと長くなっちゃうから、先食べよ? ね?」
「@嫁ちゃん 140字以内で説明よろ」
こいつホントに夫なのか? こんな喋り方したことないぞ?
そのとき突然、わたしの中で一つの答えが浮かび上がった。なぜTwitterバードなのか。
「ねえ、まさかと思うけど、勤務時間中にTwitterやってんじゃない?」
思った通り。すぐには返信が返ってこない。「裏垢でそのキャラなん?」
「@嫁ちゃん は? 仕事はちゃんとこなしてんだからカンケーねーし」
なんだそれは。こっちは毎日一生懸命仕事して疲れてるもんだと思ってせっせと献立考えてたっつーのに。
わたしの脳内は一気にヒートアップしていく。
おいおい。だってそれやってっから毎日疲れた顔してんでしょ。TL覗いてつぶやいてる時間の分、本業圧迫されてんだろうがよ。てか、そろそろ子供作ろうって話してんの聞いてたか? おい。鳥あたま。毎晩さっさと寝ちまいやがって。だからこっちは毎日必死になって栄養バランス整えてやってよ、元気になってもらおうと一生懸命あれこれやって。なんだったんだよ。無意味か、ぜんぶ無意味か!
「あなたにとって、わたしは何なの!」思わず叫んでいた。
また少しタイムラグがあって、Twitterバードが答えた。
「@嫁ちゃん 仲のいい相互フォロワーさん」
ミュートするべきか、ブロックしてフォロー解除するべきか。
それが問題だ。
「通知:旦那@美しすぎるプログラマーさんがあなたのツイートをいいねしました あなたにとって、わたしは何なの!」
すぐ弁護士に報告した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます