述べる人

逢雲千生

述べる人


 あの日はとても暑い日だった。

 当時の私は大学生で、アルバイトを二つも三つも掛け持ちしているほど貧乏だった。

 

 いつもは金銭的な余裕などなかったが、あの日は久しぶりに臨時収入を得た日だった。

 五千円くらいの臨時収入で、おそらく千円札で渡されていたはずだ。

 

 アルバイト先で残業が続き、毎日遅くまで働いてくれたからと、店長が特別にくれたボーナスだったはずだ。

 最初は貯金に回そうかと思ったが、あの頃は夏の盛り。

 お盆も間近の暑い日だ。

 

 あの年はアルバイトが重なってしまい、里帰りが出来ない事もあって、お盆休み用に取っておいたお金が丸々余ってしまっていたのだろう。

 少しばかり贅沢をしようと考えるくらいには、その月はかなり余裕があったはずだ。

 

 豪勢な食事や買いそびれていた家電、趣味や大学で必要な物など、買いたいものはたくさんあったが、あの日の私が選んだ贅沢は別のものだった。

 

 夕方から家庭教師のアルバイトが入っていたので、贅沢を決めたのは午後三時。

 休憩にはちょうど良い時間帯という事もあり、アルバイトまでの数時間を涼しいところで過ごそうと、大学から少し離れた喫茶店へと足を踏み入れたのは、午後三時半を回った頃だった。

 

 そこはアルバイト先の一つが近くにあり、仕事で通い慣れた裏路地でいつも見かけていた店だった。

 昔ながらの古びた木の看板と、控え目に作られた煉瓦レンガ造りの花壇かだんが印象的なその店は、昼だけ営業している典型的な喫茶店だった。

 

 テーブルが照明の光を反射し、ニスが塗られた艶のある椅子が眩しく光っていて、入った途端に足を止めた。

 高級店に迷い込んだような気がしたが、よく見ると、店内の備品は全て古い物ばかりだった。

 

 一度店を出ようと思ったが、よく見ると、店内のあちこちにある物が時代を感じさせている。

 とりあえず冒険でもしてみようと、下げかけた足を前へ出した。

 

 どこに座ろうかと店内を見回し、カウンター席に座る事に決めた。

 カウンター席は、背もたれ付きの丸椅子だ。

 

 どの椅子も同じ作りをしているが、席の真ん中あたりに人が集中しているため、隣同士のぶつかり合いから逃げ出すように、端にある空いた席に腰掛けた。

 

「すみません、今日のおすすめは何ですか?」

 

 メニューが豊富過ぎて決められず、運よく前を横切った店の人に聞いてみた。

 ずいぶん若い人に見えたけれど、私よりずっと年上のようだった。

 

「いらっしゃいませ。本日は良い豆が入りましたので、エスプレッソがお勧めになっております」

 

 優しい笑顔の男性店員に勧められた通り、エスプレッソを注文してみた。

すると、彼は手際よくエスプレッソマシーンを動かし、あっという間にエスプレッソを入れてくれた。

 

「カップの底に砂糖が沈んでおりますが、そのまま二口か三口で飲みきってください」

 

 小さめのカップに入れられたエスプレッソの香りは素晴らしく、それほどコーヒーに詳しくない私でも美味いとわかる気がした。

 言われた通り三口で飲みきると、苦味の後で甘味を感じたが、溶けきらない砂糖が口の中に残った。

 

 熱い液体を三口で飲むなんて、初めての経験だった。

 舌を火傷しかけたが、口に残る濃い香りが鼻を抜け、少しだけ贅沢な気分にさせてくれた。

 このまま別のコーヒーも頼もうとメニューを見ると、端の方になる軽食が目に入って驚いた。

 

(あれ? ここって軽食も置いてるんだ)

 驚いたままメニューを見ていると、背中を向けていた隣の席に誰かが座る気配がした。

 

「すみません。モカをください」

「かしこまりました」

 

 振り返ると、隣の席に若い男性が一人座っていた。

 シャツとスラックスというシンプルな出で立ちだが、その顔立ちは横顔からでも秀麗だとわかる。

 

 サラリーマンにしては清潔感があり過ぎるし、どこかの社長にしては服装が安っぽすぎる。

 自分と同じ大学生にも見えなくない彼は、慣れた様子で持ちこんだ本を広げた。

 

 少し目を動かしただけでも本の内容が見えるほど近いが、彼は気にすることなく大判の本を読んでいる。

 文字が細かすぎて頭が痛くなったが、端的に中身を読んでみると、どうやらミステリー小説のようだった。

 

 有名作家の作品かどうかまではわからないが、横目で見ただけでもかなり面白そうな内容だ。

 警視庁のへっぽこ刑事が、民間の自称探偵と共に事件を解決し、お互いに友情を深めていくという今時らしい話だが、文章が読みやすく、改行が多いため内容も頭に入りやすい。

 

 今まで読んだ小説の数は少ないが、こんな小説ならば読んでみたい、そう思わせてくれるような作品だ。

 失礼だと思いながらも本を覗きこんでいると、モカを入れ終えた店員が近づいて来た。

 

「お待たせいたしました」

「ありがとうございます」

 

 店員にお礼を言った隣の男性は、栞を挟んで本を閉じた。

 ゆっくりと、熱いモカに口を付ける。

 

 一口含んでカップを離すと、その口元には小さな笑みが浮かんだ。

 綺麗だ。

 思ったのは、そんな一言だった。

 

 女性に対しての意味ではなく、その所作に対しての純粋な感想だった。

 食べる姿を見ていると、どんな風に育ったとか、どんな風に生きてきたのかという事が何となくわかるという。

 

 半信半疑で様々な食べる姿を見てきたが、彼ほど美しい所作は見た事がなかった。

 一口だけでカップを置いた男性は、静かに息を吐いて店員に声をかけた。

 

「確かに良い豆ですね」

「ありがとうございます」

 

 照れくさそうに笑った店員は、新しいカップを出しながら別のコーヒーを入れ始める。

 素人目にも入れ方が上手いと思うが、落ち着いて周りに目をやってみても、彼以外に店員らしき人は誰もいない。

 

 軽食があるのだから、おそらく厨房に一人はいるのだろうけど、人が増えて満席になったのに、ホールの作業を一人でやるのは大変だろう。

 それでも優しい笑みを崩さない店員に、心の中で拍手を送ったのは、全てのオーダーをさばき切った後の事だった。




 二杯目のコーヒーを飲み終えると、隣の男性はすっかり読書に夢中になっていた。

 手持ち無沙汰になり、何となく居心地が悪くなってくると、ついつい人と話したくなってしまう。

 誰かいないかと目を配らせると、またも店員が私の前に現れた。

 

「おかわりはいかがですか?」

 

 どうやら私が二杯目として頼んだブレンドは、この店ではおかわりが自由らしく、彼はすぐに温かいブレンドをカップに注いでくれた。

 カップで揺らめく艶のある黒が美しく見え、再び私の感覚を支配していく。

 

 こんな素人ですら素直に美味しいと言えるコーヒーなのに、どうしてあの店員は、こんな寂れた喫茶店で働いているのだろうか。

 それほど年がいっているわけでもないし、コーヒーを提供する店なんて、それこそピンからキリまであるだろう。

 わざわざ人通りが少なく、表通りからもだいぶ離れた場所で、しかもかなり年季の入った古い喫茶店で、こんなにも素晴らしいコーヒーを提供し続ける意味がわからない。

 

 半分ほど減ったカップの中身を覗きこみながら、膝に両手を置いて考える。

 前のめりの体勢でじっとしていると、隣の男性が小さく笑った。

 

「君、面白いね」

 

 横を向いて彼の顔を見ると、いかにも楽しいですと言わんばかりに笑っていて、先ほどまでの静かな雰囲気が綺麗に無くなっていた。

 

「面白い、ですか?」

 

 とっさにそう尋ねると、彼は軽く謝りながら体をこちらに向けた。

 

「だって君、考えてる事が顔に出るんだもの。見たくなくても、つい見ちゃうくらい分かりやすくね」

「え、そうなんですか?」

 

 顔に手を当ててみてもさっぱり分からない。

 何度か輪郭をなぞるように触っていると、また彼が噴き出した。

 

「もう別の事を考えているから、僕にだってもう分からないよ。それに、顔を触るよりも、鏡を見た方が早いと思うけどね」

 

 そう言って小さく笑う彼は、本を畳んで僕を見た。

 上から下まで見られると、今度はニッコリ笑ってカウンターに片腕を置いた。

 

「君、大学生でしょ? 今日はもう講義はないけれど、この後何か用事があるんじゃないかな? まあ、用事っていっても、誰かと遊んだり飲み会があるとかじゃなくて、たぶんアルバイトでしょ?」

「え?」

「ああ、アルバイトっていっても、お店とかで働くんじゃなくて、塾とかの先生、いや、家庭教師でもやっているのかな? それも高校生相手に」

「な、なんで」

「理数系なんて大変だろうね。それに、同じ大学なら尚更でしょ? 一番嫌なパターンだよね。もし相手が落ちたりしたら、相手の親に何言われるか分からないからね」

「なんで、分かるんですか……」

 

 一気に自分の事を言い当てられて、ようやく出たのは情けない問い掛けだった。

 彼に聞こえていたのかも怪しいほどか細いもので、自分でも、よく言葉になったなと感心するほどの小ささだ。

 そんな声での問い掛けに、彼は満面の笑みを浮かべ、冷めたモカを口にした。

 

「君を見てれば分かるよ」

 

 モカを飲みきった彼は、カウンターに置いたままの本に片手を置くと、静かに人差し指でその表紙を叩く。

 小さな音と共に口を開いた彼は、自分を見つめる俺から、静かに視線を下に移した。

 

「君の服装を見る限り、会社員というわけではないだろうね。今は私服の会社もあるけれど、訪れる時間帯をみれば不自然だ。かといってフリーターというわけではないだろう。もし君がフリーターなら、そんな着古した服なんて着たりはしないだろうからね」

「ですが、フリーターだってお金に余裕はないと思いますよ? アルバイトを掛け持ちするだけなら、生活費や家賃だけでも精一杯になりますし」

「なるほど。君はアルバイトをいくつも掛け持ちしているんだ。すごいね」

「それは……ありがとうございます……」

 

 突然優しく微笑まれて、思わずお礼を言ってしまった。

 すると彼は、もう一度表紙を人差し指で叩いた。

 

「昨今のフリーターは、何もアルバイトを掛け持ちしている人ばかりじゃないよ。フリーターっていうのは、大ざっぱにいえば定職に就かない人。つまり、会社員だとか公務員だとか、福利厚生が整った環境下にいないような人の事を差すんだ。だから広くとってしまえば、アルバイターだけじゃなくて、株で儲けている人とか、家事手伝いだとか、ニートだってフリーターに含まれる事もあるんだよ」

 

 そこでまた表紙を指で叩く。

 

「それを含めて考えてみると、君は楽して儲けているわけではないだろうし、かといってフラフラしているわけでもない。君が持っている鞄は……残念ながら開いていないけれど、その厚みと輪郭を見ると、中身は本だろうね。肩に掛けられる鞄だけど、そこまで目一杯本を詰め込む人なんて、よほどの本好きか学生しかいないだろうから、君はそのどちらかだ。でも、君は本が好きじゃない」

「……どうしてそう思うんですか?」

 

 また表紙を叩く。

 

「簡単な事だよ。君は僕が来てから、一度も鞄に触っていないからさ」

 

 彼は空いている方の手で鞄を指差すと、ようやく私と視線を合わせた。

 その目は答えが当たって喜んでいるのか、とても生き生きと輝いている。

 

「本好きなら、読むにしても読まないにしても、一度や二度は手を伸ばしてしまうものなんだ。なのに君は鞄に目もくれず、暇を持て余しだすと誰かと話したそうにしていた。もし君が本好きであるならば、まず本を読んで暇を潰そうと考えるはずだよ。だからその鞄の中身は、特に読みたいわけではないけれど、持ち運ばなくてはならないものになる。そんな本なんて、君くらいの年齢なら、教科書か参考書くらいしかないからね」

「そ、それなら、私が高校生だって事にもなるんじゃないですか? 私服の学校だってありますし、鞄だって自由指定しているところも今はあります」

「それはないよ。だって、夕方にアルバイトを入れている高校生なんて、このあたりじゃいないからね」

 

 言葉に詰まって彼を見つめる。

 その瞳は嬉しそうに笑っているが、私は断言された事に驚きを隠せなかった。

 

 どうして彼は断定できるのか。

 その理由を考えていると、彼は表紙を指で叩いて後ろを振り向いた。

 

「あそこのテーブル席にいる学生達、みんな制服が違うよね?」

「え、ええ……」

「彼らは多分、ここら辺の学生達だと思うよ。制服は男女ともそれぞれ違うけれど、私服の子は誰もいない。しかも全員勉強しているから、夏休みの補習でも受けてきたんだろうね」

 

 彼が指さした人達は、全員制服が違うのに全員が勉強している。

 進学校の生徒らしい彼らの様子を見ていると、彼は私を振り返った。

 

「喫茶店でもファミリーレストランでも、勉強する人は学校から真っ直ぐ来るものだ。だから彼らは学校が終わって来たんだろうけど、午後四時半を回った今、わざわざ家に帰って私服に着替えて、カウンター席で勉強しようなんて高校生がいると思う?」

 

 尋ねられ、首を横に振った。

 

「そう。そんな手間のかかる面倒な事、大人だってやらないよ。あれだけ勉強熱心な学校が揃っている地区だと、私服の学校は嫌でも目立つから、そういう学校は離れている場合が多い。東京みたいに密集しているならまだしも、土地も場所も充分にあるここら辺で私服の学校を設立するなら、それくらいはやるだろうからね」

「……ですよね」

 

 また表紙を指で叩く。

 

「鞄だってそうだよ。君が使っているタイプは学生でも使いそうなものだけれど、それにしては使い込まれている。普通なら持ち手の部分が擦り切れたり、底の部分がほころびたりする程度だけど、君のは全体がボロボロだ。つまり、学校だけでなく、日常でも使っているって事だろうね。高校生でも、日常で学校の鞄を持ち歩く事はあるだろうけど、勉強するわけでもなく、コーヒーを飲むためだけに持ち歩くのは不自然だ。買い替える余裕もないし、もう一つ用意する気もないということだろうね」

「……その通りです」

「つまり、金銭的な余裕はないし、ある程度時間の都合はつくけれど、アルバイトをしなければいけない立場の人で、しかも保護者の庇護下ひごかにない人。つまり、今時の大学生って事になるんだよ」

 

「わかった?」と聞かれて頷くと、彼は満足そうに笑った。

 彼は普通に言ってのけたが、言われた事全てが当たっているのだ。

 

 隣の席に座ってから一時間も経っていないのに、どうして彼はそこまで分かったのだろうか。

 あまりにも不可解な出来事で混乱し、カウンターに肘をついて頭を抱えてしまった。

 すると、男性は満足したようにニッコリ笑い、店員にモカのお代わりを頼んだ。

 

「そんなに考え込まなくても、たいていは見れば分かるよ」

「見て分かるものじゃないから悩んでるんです。だいたい、どうしてそんなにあっさりと私の事がわかったんですか? 話だってほとんどしていないというのに」

「だから、見れば分かるんだよ」

 

 男性は小さく微笑むと、お代わりの熱いモカをすすった。

 

「話を聞かなくても、外見とか雰囲気とか、外側から見るだけでも分かるよ。この人は教師をしているなとか、この人はサラリーマンをしているなとか、私服姿だって分かる時は分かるんだ。完璧にってわけじゃないけれど、慣れれば楽しいものだよ」

 

 楽しい。

 

 何となくその言葉が引っ掛かった。

 モカを啜る男性の横顔は楽しげだが、私は彼に違和感を覚えた。

 

 自分の事を言い当てられたからではなく、彼の態度というのだろうか、私が大学生で苦労している事を言い当てた時の感覚が、どういうわけか不快に感じたのだ。

 彼に悪気はないのだろうが、ここまであっさりと自分の情報を勝手に知られるのは気分が悪かった。

 

 口直しにお代わりを頼むと、今度は砂糖とミルクを入れてカフェオレ風にする。

 胸のつかえごと飲み込むと、息を吐いて気持ちを落ち着けた。

 

 彼は何者なのだろう。

 もう彼を見る気も失せてしまい、そんな疑問を抱えながらメニュー表を見る。

 

 時間は五時を回り、そろそろアルバイトの時間を考慮しなければならない。

 小腹も空いたが、今から頼んでいては間に合わないだろう。

 途中で何か買って行こうと予定を組むと、さっさと店を出ようと鞄を取った。

 

「ごちそう様でした」

 

 代金を払って外に出ると、生温かい空気が肌を撫でる。

 同時に、湿気を含んだ熱が足元から体を包み、あれほど涼しかった店内とは裏腹に、外は汗が噴き出すほど暑いままだった。

 

 もう少しいれば良かったと後悔しかけたが、彼と同じ空間にいるのは居心地が悪い。

 アルバイトまでは時間があるため、しばらくコンビニで時間を潰そう。

 そう考えて街中に向けて歩き出すと、汗が止まる事はなかった。

 

 ついでに制汗剤も買って、汗臭さをどうにかしようと考えていると、表通りの方から一人の男性がやって来た。

 年の頃は自分と変わらないようだが、落ち着いた雰囲気のある人だ。

 

 近づくほどに身長も分かり、自分よりも十センチ近く高い。

 こんな高身長の人と出会う機会が滅多にないためか、つい凝視してしまった。

 

「何だ?」

 

 目が合い、話し掛けられた。

 間近で見た彼の容姿は男らしい精悍せいかんさがあり、思わず気圧けおされてしまった。

 

「え、えっと……す、すみませんでした」

 

 謝ると、彼は溜め息を吐いた。

 

「人の顔を見るなら、もう少しばれないようにしろ。下手すれば厄介なことになるからな」

 

 気を付けろとさとされたようで、彼は怒ることなく行ってしまった。

 先ほど店で会った男性とは違い、頼りがいを感じる人だ。 

 あんな人が先輩だったり上司だったりしたらいいなと思うが、コミュニケーションが難しそうだ。

 

 太陽が差し込む道端でジッとしていたせいか、さらに汗が噴き出して不愉快な気分になった。

 裏通りの奥に消えた彼が戻ってくることはなく、私はそのままコンビニへと向かい、必要な買い物を済ませた。

 コンビニを出る頃には六時近くになっていて、大急ぎでアルバイト先へと向かった。




 時間にはギリギリで間に合った。

 玄関先で制汗剤を使わせてもらい、匂い対策だけ済ませると、すぐに教え子が待つ部屋へと入った。

 

 二階にある彼の部屋はそれなりに広いが、高校生男子にしては綺麗な方だ。

 今時の男子らしい雑誌や書籍もあるが、受験生らしく、参考書のたぐいが多い。

 

 夏休みだけの契約で行う家庭教師だが、何度も来ているからか慣れてきた。

 すでに準備万端の彼の隣に座ると、今日のノルマを教え始めた。

 

 私が通う大学が第一志望だという彼は、この辺りでも有名な進学校に通っている。

 成績の良い優等生で、遊びと勉強の時間をきちんと分けているしっかり者だ。

 

 理数系が得意だという彼は、両親と同じ弁護士になるのが夢で、来年には法学部を受ける予定だという。

 同じ理数系ではあるが、自分とは大違いの頭の良さに最初は泣きたくなっていたものの、受験勉強を教える事は何とかできた。

 

 学部が違う事もあって、さすがに全てを教えられるわけではないが、彼の両親からも教えられる範囲だけで良いと言われているので、良い家庭に当たったと嬉しくなったものだ。

 ほとんどが今まで習った事の復習なので、私も勉強をし直す事が出来て一石二鳥でもある。

 

 一時間かけて前回の復習を終えると、休憩を入れて小テストの準備をする私に、彼がこんな話をしてきた。

 

「先生は、昨日起こった殺人事件を知ってる?」

 

 いきなり物騒な事を言われて驚いたが、その事件が何なのかはすぐに分かった。

 

 昨日の朝早く、私の通う大学の近くで主婦が殺された。

 死因は後頭部を強打した事による頭蓋骨骨折と、それによる急性くも膜下出血による脳内の圧迫が原因で、かなりの痛みをともなったらしい。 

 部屋は荒らされ、亡くなった主婦の表情は苦痛に満ちたものだったという。

 

 くも膜下というと、突然起こるのが普通だが、前兆として、突然強い頭痛が起こる。

 それが続くと、くも膜下の疑いがあるとして病院で検査を受ける事になるのだが、倒れて救急車で運ばれる人の多くは、片頭痛やただの酷い頭痛と勘違いしてしまうらしいのだ。

 

 早期発見ならば治す事も可能だが、一度くも膜下出血が起こってしまえば、再発する可能性も高くなり、強い頭痛が治まったからといって安心してはいけないのだ。

 半身不随や麻痺を残す事もある病気で、重症の場合は、病院に着く前に亡くなってしまう事もある怖い病気だ。

 

 原因はいくつかあるが、基本的には脳内の血管が一部膨張し、血液が溜まってこぶとなった部分が破裂して起こる事が多い。

 この場合は早期発見も可能なのだが、一度破裂してしまえば、場所によっては血腫けっしゅとして血の塊が残り、それが麻痺の原因になってしまうのだ。

 

 今回は運悪く頭部を強打した事で、強制的にくも膜下出血が起こり、救急車を呼ぶ余裕もないまま亡くなってしまったらしい。

 相当な苦痛を感じたまま彼女は倒れ、苦しみながら息を止めたのだろう。

 

 遺体の発見者は彼女の夫で、仕事から帰って来てすぐに発見したという。

 最初は泥棒とはち合わせして殺されたと思ったらしいが、到着した警察の鑑識によって主婦自身が荒らした事が分かったらしい。

 

 今朝の朝刊にも小さく載っていたが、詳細な説明はなかった。

 大学の図書館で読んだのだが、どうやら彼の方が詳しく知っているようで、知った情報を次々と話してくれた。

 

「昨日は、警察でも殺人だって分からなかったらしいんだけど、今日になって、急に殺人事件に切り替えて捜査し始めたんだって。殺された人は近所付き合いも良くて友人も多かったらしいし、旦那さんとも仲が良かったから、誰も恨みによる殺人だなんて思わなかったらしいよ。足を滑らせた事故で終わるはずだったっていうしね」

「へえ、詳しいんだね」

「俺の友達に情報通っていうか、噂好きな奴がいてさ、そいつが仕入れてきた話だよ。でも、今回の話はけっこう面白かったんだ」

 

 私が小テストを作りながら話を聞くと、彼は嬉しそうに話を続けた。

 

「それがさ、この事件を事故から殺人に変えたのが、若い一般人なんだって。突然現場に来て、刑事に殺人だって直接言ったらしいよ。近所の話だと、言われた刑事は怒ったらしいけど、その人の話を聞くうちに本気になって、事故から殺人事件に変えたっていうから、どんな話をしてたのか気になるんだよなあ」

「若い一般の人? 男性だったの? それとも女性?」

「男の人。友達の話だと、大学生くらいの若い人で、けっこう顔が良い人だったらしいよ」

「それってかっこよかったって事?」

「そこまでは分かんない。近所の人もじっくり見たわけじゃないって言ってたらしいから、たぶん、何となくそんな気がしたんじゃないかな?」

 

 どうやら噂好きの友人も、その人の詳しい情報は手に入らなかったらしい。

 ひどく残念がっていたと彼が言ったところで、ようやく小テストが完成した。

 

 休憩を止めて小テストをさせている間、私は彼の話を思い出した。

 今朝の段階までしか情報を知っていないが、今朝の朝刊では、事故による死亡だと書かれていた。

 

 なんらかのストレスを感じて暴れたところ、自宅のリビングで足を滑らせ、運悪く机の角に頭を強打した事による急性くも膜下出血の疑いがある、とだけ書かれていて、それだけの情報でも納得できていた。 

 それが突然殺人に変わったとなると、どうもに落ちない。

 

 小テストの採点をしている間も、彼の口から新しい事件の情報を聞かされたが、あまりにも早く事件が解決してしまい、友人も詳しい経緯は知らないのだという。

 ただ、亡くなった女性の次男が犯人で、言い争いの末、思わず突き飛ばしてしまったという事だけだ。

 

 その後、どういう風に行方不明の次男を見つけ、半日も経たずに逮捕にこぎ着けたのか、そしてなぜ殺人だとわかったのか、そこまでは誰も分からないのだという。

 彼の友人の話だと、突然現れた謎の一般人男性が助言をしたらしいが、その男性が何者なのかも分からなかったらしい。

 

 アルバイトが終わる時間まで彼の話を聞いたが、結局、全て警察が解決したという事で話がついたのではないか、と彼は結論づけた。

 そうなると、謎の一般人男性の事は伏せられ、明日の朝刊に事件の事が載るかもしれないのだが、男性の存在は公表されず、このまま静かに事件が終わらせられるのだろう。

 

 アルバイトが終わってからも事件の事を考えてみたが、モヤモヤした何かが胸につかえるだけだ。

 気分を変えようと、アルバイト前に寄ったコンビニにもう一度寄ると、夕飯を手にレジに並んだ。

 

「ねえねえ。昨日の主婦の事件、犯人捕まったらしいよ」

「あれって事故じゃなかったの?」

 

 前に並んだ女子高生の話が耳に入り、顔を上げる。

 制服姿の二人は、飲み物を手に例の事件の話をしていたようだ。

 

「それがね、事故みたいな感じだったらしいけど、なんか急に殺人事件になったんだって。それで警察が頑張ったみたいで、スピード逮捕になったらしいよ」

 

 噂が広まるのは早いようで、レジのおじさんも話に混ざって来た。

 どうやらネットで事件の情報が流れたらしく、近くで商品を見ていた人はスマホで確認しているようだ。

 

 近場で起こったからなのか、私が思っていた以上に人々の関心が高かったようで、店内にいる全員が例の事件の話で盛り上がってしまった。

 ようやく会計を済ませて店から出ると、すでに九時を回っていた。

 

 飲み会の帰りらしいサラリーマンやOLおーえるの姿もあり、街は昼間とは打って変わって騒がしいものになっている。

 コンビニは表通りにあるビルの一階にあるのだけれど、塾帰りの学生も寄るからか、防犯意識も高いものだ。

 

 横目に防犯カメラを見て、人の多い方へと歩き出すと、さらに夜特有の騒がしさが実感できる。

 酔っぱらいとぶつからないように歩きつつ、ずっと忘れていた自分の携帯を開いた。

 

 スマホに変えろと友人に言われるが、携帯料金を支払うのが精一杯な私には無理な注文だ。

 メールと着信を確認して閉じると、いつの間にか自宅のアパート前に来ていた。

 

 風呂なしでトイレは別のアパートだが、数年前に建て替えられているので、外装も内装も新しい。

 以前より家賃は高くなってしまったが、駅も近くアルバイト先も探しやすいため、これはこれで便利な場所だと気に入り、大学に入学してから住み続けているのだ。

 

 二階に上がってすぐ隣は空き部屋で、そこから三つほど部屋があり、どれも社会人が住んでいる。

 一番奥にあるのが私の部屋なのだが、玄関の扉はどの部屋も同じなので、夜は間違えやすいのが難点だ。

 

 大家さんの計らいで、廊下に最新の電灯が取り付けられたが、電気代削減のためにとLED電球が使われているため、夜でも明るくてしょうがない。

 防犯には役立っているようだが、夜遅くに帰って来ると昼間のような気がして落ち着かなかった。

 

 部屋に入ってすぐにパソコンを開く。

 大学で必要だからと無理して買った物だが、今では中古で売られているのをよく見かける機種だ。 

 まだまだ現役だと言いたいが、ソフトウェアの最新版が出た事もあり、中古の最新型を買おうか悩んでいるところだ。

 

 電源を入れて立ち上げると、すぐに地方版のニュースを開いた。

 ネット社会と言われる現在では、全国だけでなく、各都道府県の各地域のみを取材した専用のニュースサイトがある。

 

 ほとんどの友人は全国版を見るが、私は全てのサイトを見るため、それなりにニュースには詳しくなっていた。

 たまに友人が地方の情報を欲しがる事もあり、無駄な知識と言われながらも、それなりに役に立つ日課でもあるのだ。

 

 殺された主婦が住んでいた家は私と同じ地域にあり、その記事を見つけるのは容易かった。

 今朝は見るのを忘れていたが、記事の見出しにも『事故から一転、殺人へ』と書かれている。

 

 それなりに詳しく書かれた記事には、被害者の次男が犯人で、仕事から帰ると口論になり、勢いで突き飛ばしてしまった事が原因だとある。

 故意か事故かは別にしても、彼が母親を殺してしまった事は明らかだろう。

 

 口論の原因は就職問題で、加害者の次男は就職したものの長続きせず、これまで五回は仕事を変えていたらしい。

 なかなか定職に就かない次男に文句を言った母親に激怒し、カッとなってやってしまったと、逮捕後の供述で語ったのだという。

 

 突き飛ばした後、次男は一度救急車を呼ぼうとしたらしいが、母親が出て行け、もう二度と戻ってくるなと怒鳴ったため、渋々家を出たらしい。

 母親の死はネットニュースで知り、自首するかどうか悩んでいる時に警察に捕まったとまで書かれていた。

 

 どのサイトを見ても同じような内容しか書かれておらず、家庭教師先の生徒が教えてくれた一般男性の話はかすりもしなかった。

 一時間ほどサイトを巡り、そろそろ風呂に入ろうとパソコンを閉じると、玄関の方から声が聞こえてきた。

 

 隣のサラリーマンが酔っぱらって帰って来たらしく、同棲中の彼女が怒る声まで聞こえてくる。

 悪い人ではないのだが、どうも酒癖が悪いらしく、飲み会の帰りはいつもこの調子だ。

 今出て行くのは気まずいからと、少し時間を置いて部屋を出た。




 徒歩五分で行ける銭湯は、深夜0時まで営業している。

 あと少しで二十三時になるので人は少ないが、九時前には子供連れの家族が来るため、うるさいほど賑やかになる場所だ。

 

 人がいなくなるこれからの一時間は、ほとんどが若い男性ばかりになってしまう。

 理由などは特にないが、銭湯で働く人の話だと、ここら辺は深夜営業の店が多いため、出勤前に寄る人や、仕事終わりに寄る人が多いのだという。

 

 そういった人は二十二時前後に集中し、私のように二十三時を過ぎてから訪れるような客の多くは、単純にお風呂の時間が遅くなっているだけらしい。

 まさにその理由でお風呂に入りに来た私は、初めての顔触れに緊張しながらも、早く湯につかろうと体を洗い始めた、


 自分でも気付かないほど汗をかいていたのか、いつも以上に洗った身体が気持ちいい。

 頭も洗えば爽やかな気持ちになり、ようやく入れたお湯の温かさに幸せを噛み締めた。

 

 明日は朝からバイト一色だ。

 来年には奨学金が貰えるのだが、どうもウチの大学は金銭面が厳しくてしょうがない。

  

 特待生であっても、授業料はよくて半分、最悪なら貰えないこともあり、どんなに交渉しても全額を支給してはもらえなかった。

 ここ十数年の不景気が関係しているのだろうが、私立なのだから、もう少し融通ゆうずうしてもらいたいものだ。

 

 来年度の奨学金申請が通った時は嬉しかったが、それでも半額しか支給してもらえないことに不満を抱くのは仕方ないだろう。

 私以外にも苦学生は大勢いるし、私立であっても、充実した授業の魅力に勝てず入学した人も少なくはないだろう。 

 学生の半分は金銭的な余裕があるが、もう半分は授業料を工面するどころか、日々の暮らしも精一杯な人が多いのだ。

 

 私立らしい一面なのだろうが、かたや親の金で遊び、まともに授業を受けてすらいないのにコネで就職が決まる。

 かたや金銭的な余裕がなく、親に頭を下げて進学させてもらったのに、就職難で奨学金を返す当てもないとなれば、裕福と謳われた日本の現状を垣間見ているような気になってしまう。

 

 肩までつかって天井を見上げると、先日再会した高校時代の友人を思い出した。

 

 将来弁護士になりたいと言っていたのに、授業料が払えず大学を中退した彼は、実家を継いで老舗の漬け物屋をやっていた。

 進学してから悪い事が重なり、店を切り盛りしていた祖母が倒れて入院し、働きに出ていた母親が急遽きゅうきょお店に立ったらしいが、にわか仕込みの素人にどうこう出来るわけがなかった。

 

 友人には兄が二人いたが、一人は海外で仕事に就き、もう一人は高校を卒業後、大手企業の工場で主任になったという。

 どちらもすぐに会社を辞められるわけがなく、そこで実家通いの友人に白羽の矢が立ってしまったというわけだ。

 

 本人も最初は暴れたらしいが、百年以上も続く老舗を潰すわけにもいかず、しぶしぶ後を継ぐことにしたらしい。

 もともと商才があったのか、半年ほどで店の事を理解し、今では父親と共に漬け物屋を盛り上げていけるようになったと言っていた。

 

 久しぶりに会った彼は大人びていて、社会人の顔をしていた。

 まだまだ学生で、就職どころか大学進学も危うい自分の金銭面も辛いが、昨今の不景気は老舗の自営業者にも影響を与えているらしい。

 

 あれほど明るかった彼がくたびれた顔をしていたのには驚いたが、それでも楽しそうに笑っていた。

 満たされていると言わんばかりの表情に、心配する言葉を呑み込んだのは記憶に新しい。

 

 夢を諦めたというのに、今の彼は新しい夢に向かって進んでいた。

 何とも言えない敗北感に落ち込みかけたが自分も、忙しい事に変わりはない。

 毎日アルバイトに明け暮れ続け、大学の単位取得に奔走し、日々の暮らしと将来の夢を確実なものにするための日々に、いつしか自分の未来を深く考えるようになっていた。

 

 私の実家は遠くにあり、おいそれと帰れる距離ではない。

 実家の近くにも大学はあったが、希望の学科がなかった。

 大学進学を決めた時点で一人暮らしは決まっていたので、どうせ家を出るなら、自分の望む大学で勉強したいとわがままを言ったのだ。

 

 試験は問題なかったが、入学金と前期の授業料は親が何とか払ってくれた。

 実家は裕福というわけではなく、下に三人も育ち盛りがいるため、私のわがままで迷惑はかけられないとアルバイトを始めたのだ。

 

 それからはなるべく自分で生活費を稼ぎ、余った分はコツコツと貯金に回している。

 一番稼げるのは塾の講師だが、時間に厳しい塾で働くとなると、どうしても夜が遅くなってしまう。 

 いろいろと考えて選んだのが、受験生の家庭教師になる事だった。

 

 先輩の伝手で紹介された家庭教師のアルバイトは、それなりに良い稼ぎになった。

 今では今日教えた生徒の他に、十人くらいを掛け持ちしていて、中には中学生もいる。

 

 未来の大学生、高校生になる彼らは素直で頭も良く、真面目な良い子達ばかりだ。

 他のアルバイト仲間は生意気だと愚痴る事もあるが、私はそれほど苦労した事はないのだから恵まれているのだろう。

 テストの点数が上がったと聞いた日には、これが教師の気持ちなのかと嬉しくなったくらいだ。

 

 今教えている子達は全員受験生で、有名どころを受ける予定だ。

 夏休みだけでも冬休みまででも、期間に違いはあれど、教える以上は責任がある。

 どこまでやれるかは分からないが、少しでも点数を上げてやれるように頑張ってみようと思っている。

 

 お湯の中に頭まで沈んで浮き上がると、すでに人の気配はない。

 お風呂場に備え付けられた時計は二十三時半を回っていて、あと少しで銭湯が閉まる時間だ。

 

 急いで上がると脱衣所は空っぽで、番台に座った店主が急かすように時計を指差した。

 大急ぎで着替えて外に出る頃には静かなもので、銭湯近くのお店も全て閉まっていた。

 

 夜風に当たりながら道路の隅を歩きつつ、ふと夕方の事を思い出した。

 そういえば、あの二人は何者なのだろう。

 そんな疑問が頭をよぎる。

 

 あんな風に突然話しかけられたり、道端で思いがけず出会う人は少なくない。

 後で思い出す人もいるが、今日出会った二人ほど、強烈に鮮明に思い出す人はこれまでいなかった。

 

 例の主婦殺人事件だが、何となく彼らが関わっている気がする。

 あくまで私の勘だが、あの二人と出会った時、私は何か不思議なものを感じたのだ。

 

 第六感だとか、スピリチュアルだとかオカルトだとか、はっきりしないものを信じているわけではないが、否定するわけでもない。

 たまに勘が当たる事もあるし、何となくやった事が良い方向に向いた事だってあった。

 

 この勘が正しいのかどうか、それともただの気のせいなのか。

 再びじんわりと湿り気を帯びてきた肌に風を感じながら、静かに家に入る。

 

 隣人は仲直りしたのか、家を出る前とは打って変わって静かなものだ。

 明日は三限目から講義が入っているが、少しだけ早起きして例のカフェにもう一度行ってみよう。

 布団に入りながら明日の予定を立て、もう一度だけ二人の顔を思い出す。

 

 また会えるといいな。

 そんな事を思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。





「何を笑っているんだ」

 

 三杯目になるモカを啜っていると、隣に座った男が不機嫌そうに尋ねてきた。

 いつも通り眉間に寄ったしわが深くなっているが、それとは逆に、僕は楽しくてしょうがないと笑みを浮かべている。

 そんな僕を見て、ますますしわを増やした男は、カフェオレを口にした。

 

「別に。少しだけ、面白い事があっただけだよ」

「どうせまた、誰かをからかっただけだろう」

 

 さすがだと笑えば、彼は不機嫌そうに腕を組み、背もたれに体を預ける。

 

「お前の才能は認めているが、そんな事ばかりやっていると、いつか痛い目に遭うぞ」

「それくらい分かってるよ。でも、本当に面白い人に会ったんだってば」

 

さっきまで隣にいた男とは逆の席に座った男に、僕はいかにも楽しいと言いたげな表情で説明を始めた。

 

「それがね、その人にあれこれ分かった事を教えたらさ、すごい驚いてたんだよね。僕も驚いたけどさ。あれくらいで済んだ人、君以外では初めてだよ」

「だからなんだ」

「まあまあ、そうピリピリしないでよ。でね、その人はすぐに店を出てっちゃったんだけど、なんか、また会える気がするんだよね」

 

 人が少なくなった店内で、男二人が近い距離で語り合う。

 正確には僕の一方的なお喋りなのだけれど、見る人が見れば、難しい相談をしているように見えるだろう。

 

 わざとではないけれど、彼も今さら距離をとる気はないのか、それとも面倒なのか。

確実に後者なんだろうけど、黙って僕の話を聞いてくれた。

 

「ずいぶん、変わった男がいるもんだな」

 

 最後の一口を飲んだ彼は、コップを置きながら感心した。

 今までは怖がられたり、気味悪がられたり、あるいは気持ち悪がられたりして、もっと悪い時は殴られた事だってある。

 

 隣でお代わりを頼む彼と出会うまで、とうてい才能とは呼べない自分の頭脳を持て余していたのに、今になって面白い人に出会うなんて、今日はなんて良い日なんだろう。

 特別な力というわけではなく、ましてや超能力でもないこの頭脳を、最近になってようやくコントロールできたばかりなのにね。

 

 その矢先に出会った人とはいえ、自分でもやり過ぎたと反省はしている。

 それなのに嫌悪の表情など見せず、ただ純粋に驚くだけだった彼を思い出して、僕はまた嬉しそうに笑った。

 

「何か良い事でもありましたか?」

 

 シフトが変わり、さっきまで居た若い店員が帰ると、さらに若いアルバイトの男性が僕に声をかけてきた。

 真面目そうな雰囲気だが、どこか自信にあふれた彼は、興味深そうに僕を見ている。

 

「あったよ。すごく良い事なんだ」 

 満面の笑みで答えると、彼は「良かったですね」と笑った。

 

 二杯目のカフェオレを飲み始めた隣の彼にならい、自分もお代わりを頼もうと店員を呼ぶ。

 今は香り高い苦さよりも、滑らかな甘さが欲しかった。

 

「彼と同じものをお願いします」

 隣に座る彼と同じカフェオレを注文すると、彼は横目に僕を睨んだ。

 

「そんな怖い顔しないでよ。いいじゃん、同じのを飲んだって」

「お前、甘いのは好きじゃないだろ」

「今は甘いものが飲みたい気分なんだよ」

 うんざりする彼を横目に、入れたてのコーヒーにミルクが注がれるのを見る。

 

 白と黒。

 甘いのと苦いの。

 隣に座る彼と自分。

 目の前に置かれたままのカップは白だけど、中身は空っぽだ。

 

 空のカップの縁をなぞり、少し前まで人が座っていた隣の席を見る。

 ぽっかりと空いたその席は、どこか暖かい空気が残っている気がした。

 

 彼はどんな人になるんだろう。

 どんな風になって、どんな風に生きていくんだろう。

 

 作ってもらったカフェオレの代わりに、空のカップが下げられる。

 冷房で冷えた身体を温めてくれるカフェオレは、どこか優しい味がするのに、それほど甘くなかった。

 

「ねえ、これから夕食食べに行こうよ」

「一人で行け」

「おごるからさ」

「一人で食べろ」

 

 いつも通りのやり取りをこなし、二人揃ってカフェオレを飲み切る。

 空のカップを置いて店を出ると、どちらからともなく、表通りを目指して歩き出す。

 

「今日はラーメンにしようか」

「パスタの気分だ」

「えー? じゃあ、ファミレスに行く?」

「ふざけるな。男二人でいけるか」

「じゃあ、パスタにしよっか。さっきネットで美味しい店見つけたから、そこに行こうよ」

 

 見た目も印象も、性格だって違う僕らは人の視線を集めるが、気にすることなく店までの道を確認する。 

「あっちだね」

 僕の案内で店まで来ると、再び視線を集めた。

 

 仕事帰りの人やカップルが賑わう表通りで、白と黒の二人は隣り合う。

 どちらからともなく店の扉に手をかけると、同時に扉を開けた。




 彼と再会するのは、もう少し先の話。




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述べる人 逢雲千生 @houn_itsuki

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